25:Dulcius ex asperis.
「ディジット……」
「あら、アルム。まだ起きてたの?」
「……うん」
こっそり部屋から抜け出したこと。きっと2人は気付いていない。2人の話が終わって寝静まった頃には……すっかり目が冴えてしまっていた。2人の話が始まった頃、まだアルムは起きていたのだ。盗み聞きなんてするつもりではなかったけれど、口を挟むことが出来そうにもなくて結果としてそうなった。2人の話は難しい。それでも自分が責められているような気持ちになった。
(エルムちゃん……)
「…………」
涙を浮かべた私の顔を見ただけで、ディジットは全てを理解してくれる。厨房からおいでと手招き。珈琲や紅茶は眠気が飛んでしまうからと、ホットミルクをコップに入れて此方に渡す。
「……嫌な夢でも見たの?」
2人でテーブルに着いた後、ディジットはそう切り出した。私は頷く。
「あのね……ディジット……」
「うん、何?」
言おうと思った。だけど言えなかった。ディジットは明日大事なことを控えているのだ。余計な心配なんて掛けられない。
「ディジット……大丈夫かなって……」
口から出た嘘。勿論そういう気持ちもないわけじゃない。だけど眠れないほど心配ではない。だってディジットは頑張っている。負けるはずがない。私はそれは信じられる。
「もう、あんたが心配する事じゃないでしょ?」
そう言いながらディジットは嬉しそうに微笑んでくれる。私を子供だと思っているのだ。私が嘘なんか吐かない人間だと信じてくれている。それが申し訳なく思えた。
(ごめんね、ディジット……)
私はディジットが思っていてくれる程、無邪気でも純粋でもないし子供でもないのだ。以前は嘘を吐けるほどの頭がなかっただけなのだ。私は無意識に数術を使うことで脳の大半を使用されていていたから、そんな風に見えていただけなのだ。
私はトーラに数術の使い方を教えられた。それは、これまで常に発動していたそれを切るスイッチを手に入れたということ。そうして私は自分の頭で考える面積を手に入れた。
見えていたはずが見えていない。解ったつもりで解らなかった。そしてその逆。私は知らないはずのことを知っていて、知っていたことを知らなかった。
「下ごしらえも終わったし、私もそろそろ寝ようと思ってたんだけど、ちょっと味見してみる?」
「え……?」
「腹が減っては目が冴える。よく言うでしょ?」
言うんだろうか?初めて聞いた。それでも確かにお腹は空いている。いくら食べても食べても全然足りない。胃袋が底なしになったみたい。胸の真ん中にぽっかり大きな穴が開いている。それを埋めるために一生懸命口に入れてもそこからぽろぽろこぼれ落ちて行くようで、お腹いっぱいには程遠い。
でも私の真ん中にそんな穴が開いていること、気付かれたならディジットに余計な心配をかけさせてしまう。ディジットは強い人だけど、弱い人。しっかりした精神状態なら何があってもどっしり構えていられるけれど、私とか身近な人に何かがあればそんな風には出来ないから。私は今は何も言えない。
「これは朝ご飯用にって試しに作った奴なんだけど、朝には冷えちゃうし暖め治すのも勿体ないって思ってたから丁度いいわ」
ディジットは出来たてを誰かの口に入れられるなら料理も嬉しいだろうと皿に装った。
立ち上る湯気と香り。それだけでもう美味しそう。実際口に入れてみれば実に美味。本当に美味しい、でも何故か悲しい。
「あ、アルム……?」
突然泣き出した私にディジットは狼狽える。味に問題でもあったのかと不安そうな彼女にそうじゃないよと私は言った。
「あ、あの……ね、エルムちゃんにも……食べさせてあげたいなって……」
「アルム……」
ディジットは少し辛そうに眉を寄せた後、ふっと優しく微笑んだ。
「そうね。そのためにも私ももっと頑張らなきゃ。あの子が帰ってきたときに私の料理の腕が落ちてたら怒られちゃうもの」
そうして私の頭を撫でてくれるけど、それはきっと私へのことではないのだろう。私を通じて彼を見ているのだろうな。今だけは。
そんなディジットに、やはりごめんなさいと思うのだ。もし私が彼とそっくりだったなら少しはディジットも救われただろう。だけど私と彼は目の色も髪の色も違う。全然似ていない双子なのだ。
「…………あら」
私の頭を撫でていたディジットが突然不思議そうな声を発した。
「何?」
「あんたちょっと熱あるんじゃない?頭から水被ったって言うしそのせいね」
ディジットはその手を私の額へと移し、もう片方を自身のそれに触れさせる。そして強く頷いた。
「早く暖かくして寝ないと悪くなるわよ」
歯磨き当該をさせられた後、ディジットに手を引かれ私は寝室へと戻る。
優しい彼女に手を引かれ、私が胸の中で繰り返すのは……ずっと同じ言葉だった。ごめんなさいと、言えない言葉を繰り返す。
私は知っている。これは風邪ではないことを。
*
トーラは深々と椅子に腰掛け、目を閉じる。それだけでも休息にはなる。それでも完全には眠れない。仮眠では数術代償を支払うことは出来ないけれど、数術に用いる集中力とか体力を補うことは出来るはず。
「マスター……少しは休まれてはどうですか?」
そんな無茶を心配し、声を掛けてきたのは蒼薔薇。ここしばらくちゃんと眠っていないのに気付いて、護衛のために彼は傍に残ってくれた。TORA本部に鶸紅葉を配置、そして彼がここにいるということは迷い鳥の警備が僅かに心配。向こうにもそれなりの人材は配置しているけれど、カードが一枚もないというのは不安ではある。だから向こうに戻ってと言ってはみたが、頑として彼は聞かない。ゲームが始まったことを知っている以上、此方の身を案ずる気持ちがあるのだろう。顔のない人間に殺される死の未来が今日か明日かもわからない。彼の心配は純粋に嬉しいけれど、そうも言っていられない。守るべきものが私にも沢山あるのだから。
「ありがとう蒼ちゃん。だけどそういうわけにもいかないんだ」
「その間の護衛は僕が行います。命に代えてもお守りします」
僕が信頼できませんかと彼の青い瞳が問いかける。それは違うよと私は首を振った。
「……ハルちゃん。僕は君を信頼している。君が僕を殺すなんて思っていないよ。だから君が休んでくれないかな。いざという時、後天性混血の君の力は必要だ」
その力が必要な時に倒れられては困るのだ。そう告げれば彼は押し黙り、一礼。扉の向こうへと下がる。
お休みと彼に微笑んで、トーラはそっと息を吐く。そうだ。これがベストだきっと。迷い鳥の存在はまだ外へは漏れていない。ウィルという少年を装いスパイとして潜り込んでいた腐れ研究者は情報を漏らす前にリフルが殺害した。それは洛叉から裏を取っている。あの闇医者もすっかりリフルに骨抜きになってしまった以上、そこで嘘を吐くことはないだろう。実際数術で探ってみたがそれは確かだ。
ライトバウアーの復興が東にバレていないのなら、そこに真っ先に攻め込んで来るはずもない。ならば戦力を前線に持って来ていても問題はないはず。
(東にもいくつか大きなカードの気配がするからなぁ……油断は出来ない)
それを探ろうとしても上手くいかない。相手方の数術使いの力もそれなりのものだ。それでもそこまでして隠そうとすると言うことは、それなりの札があるはずなのだ。
(僕なら見れば解る。誰がカードかくらいなら……)
ディジットとフォース。その上空に監視数術をまず一つ。それから2人には視覚情報の共有数術をかけておいたから、2人の目から情報を読み取ることが出来る。その数式は式が見えないよう何重にも数式を施してある。此方の手を極力明かさずに、情報を得るにはこれが最適。
(なんだけど、流石にちょっと眠くはあるなぁ……ははは)
トーラの数術代償は睡眠時間。それでも前借りが出来るのがこの代償の良いところ。大量に消費した後、長時間眠ることになるけれど、身体に鞭打てば何日か眠らずに数術を使うことも出来る。これから何があるか解らないから眠った方が良いのは解る。それでも代償を支払っている間は何があっても目覚めることが出来ない。先が見えないからこそ迂闊には眠られないのだ。
ディジット達の安全を見守る必要もある。彼女が必死で頑張った下ごしらえをなかったことにされては堪らない。
(そうだ。彼女の力は大きい)
戦わずに誰も殺さずに何かを変えることが出来るかもしれない。混血狩りという危険因子。それを片っ端から殺すのでは奴らと同じだ。彼女の料理の魅了によって、血を流さずに混血狩りという組織を内側から綻ばせること。それがトーラの策だ。
一般人とカードとは比べものにならない幸福値の差がある。そしてディジットはそれに甘えることはない。ちゃんと努力をしている。そんな彼女ならきっと、カードを上手く使いこなせるはずだ。
(いや、策とも違うな)
これは絶対ではない。それでもそうなるだろうと信じている。策にはそんな甘えた計算を含んではならない。もっと非情であるべきで、常に最低を予想してその対処に備えなければならないのだ。それでもトーラは信じている。かつて教えられたこと。
2年前のあの日に、疑念よりも信頼の方が強い力を生み出すことを教えられた。
(アスカ君とリーちゃんがそんな感じかな……)
戦力的にはトーラや後天性混血2人の足元にも及ばないあの2人が、頭で言葉でそれを退けた。それは配下2人を道具として利用していた自分より、リフルの方が部下の使い方が上手かったのだ。
(人を数字としか見られなくなったら人間お終いってことだよね)
小さく頷き微笑むトーラの耳に、届いたのは何かを置く音。
目を開ければ机の上にコップが一つ置いてある。眠気覚ましのために淹れてくれたのだろう紅茶だ。
「ありがとう洛叉さん。よく僕の好きな葉がわかったね」
眠気覚ましだけでなく、気持ちも落ち着く。良い香りだ。
「でも砂糖の数まで把握されてるっていうのは侮れないな。何だかんだ言って洛叉さんってば僕も許容範囲なんじゃない?」
「いや、それはない」
「うわ、失礼だね」
「そんなことをすればあの後天性混血の2人どころかリフル様にも叱られるのでな」
「そ、そうかな……。そんなことないんじゃない?」
何気なく吐かれた言葉の気恥ずかしさを誤魔化すため、トーラはずずずと音を立てて茶を啜る。それに小さく鼻で笑われた気がする。
「大体洛叉さんもリーちゃんのこと好きなんでしょ?敵に塩を送ったりしていいわけ?これは砂糖だけど」
「無論問題ない。見目麗しく愛らしい混血の絡みならば目の保養だ」
「アスカ君もだけどさ、洛叉さんも大概許容範囲広いよね、変なところで」
例えるならそれが好きな女の子でも他の可愛い女の子との百合にはそれだけで萌える。あわよくばそこから3Pに持って行けたら何も文句はないとか下らない戯れ言を聞かせられている気分だ。ご飯とおかずは別物です。或いはそうとも言うのかも。
しかし彼の部下には変態か歪んだ愛情の持ち主しかいないのだろうか。そう思うと別の意味で頭が痛くなってきた。しかしトーラの言葉にこの闇医者は不満気だ。
「失敬な。あの鳥頭と一緒にはしないでいただきたい。……しかし偏狭なあの男の何処が広いと?」
「アスカ君はあれだよ。NTR属性。愛しのあの子がどこぞの馬の骨にあんなこととかそんなこをされちゃうシチュエーションにはぁはぁするようなあれだよ。なんでも奪われることで俺の恋人は他人も羨むような美貌だって証明になるわ、それを助けることでヒーロー気分味わえるわ、取り戻した後に嫉妬で愛が燃え上がるとか言ってたよ」
「まるで変態だな」
「貴方だけには言われたくないとは思うけどそれは僕も否定しないよ。彼、普通に童話とか騎士道文学の三角関係とか浮気物でも行間でそんな妄想出来るみたいだし」
トーラがそうアスカを低く語れば、くくくと洛叉は愉快気に笑う。
本当にこの人彼をボロクソに言われるのが好きみたいだ。
笑う姿を見られていることに気がついたのか、闇医者は小さく咳払い。
「……礼なら彼に言ってくれ」
「そうだね、そうするよ」
これを持ってきてくれたのは蒼薔薇だったのか。本部から影の遊技者までのお使いを頼んだ時に本部から持ち出してくれていたのだろう。
(僕は本当に、幸せ者だな)
出会いに、周りの人間に恵まれている。それを強く自覚した。そうするとずずずと啜っていたお茶も勿体なくてゆっくりそれに口付ける。身体だけでなく心まで温まって来る気がした。
「……少々よろしいか?」
「うん、何?」
不意に洛叉がそう切り出した。トーラも洛叉の様子がおかしいとは思っていた。買い物から帰ってきてから彼は何かを悩んでいるような数値の気配。それより何より報酬を求める言葉さえ口にしないというのはあまりに彼らしくない。
「俺の見間違いではなければなのだが……アルムはこの件が終わったらすぐに……いや本当ならは今すぐでも身を潜めるべきかと」
「どういう……こと?」
混血狩りが始まれば確かに彼女は危ないが、彼女も必要な人材だとトーラは視野に入れている。今日彼女を見つけてそれを確信していた。幼いが、彼女も重要な戦力なのだ。本格的に目覚めれば……此方側の大きな戦力になる。その素質がある。その開花のためにも多少の危険はやむを得ない。だからこそあそこに置いている。傍にはそこそこ実戦経験のあるフォースも付けているしそのバックアップのために自分たちもすぐ傍に潜入しているのだ。
「ここ数ヶ月彼女を診ていなかったから詳しくは本格的に診なければわからない。しかしこれは医者としての俺の勘だ」
「……勘?彼女は何か病でも患っているの?」
「いや、正確には病ではない」
洛叉は複雑そうな顔で首を振る。
「その勘が当たっているなら、彼女の身柄が教会や東に渡れば起こりえるのは最悪だけだ。そして身柄が渡らなくとも彼女のそれが知られれば、各種方面から魔の手が迫る」
「…………まさか」
思い当たる節はある。一つだけ。額に嫌な汗が浮かぶのが解る。そうだ、それが確かなら……なんということだ。此方はとんでもない爆弾を抱えたことになる。
それを奪われても行けない。しかしそれを抱えていたら敵は次々湧いてきてしまう。
混血を大勢保護している以上、いつかは起こりえること。それでもこのタイミングで?正に悪夢だ。混血は皆幼い子供ばかりと油断していた。
「最近の若い子は……って言いたくなるよ。僕より年下の子がもうそんな話なの?」
何一つ問題が解決していないのに、次から次へと問題ばかりが訪れる。本格的に頭が痛い。
「でも洛叉さん、彼女の身体への危険はどうなの?僕も彼女を本格的に調べたのは半年前が最後だ。見たところそこまで大きな数値の変化は見られない。それに彼女は成長期なわけでしょ?多少の変化は成長の内だと思っていたけど……」
「あくまで勘だ。実際診てみなければ何とも……。しかし危険には変わりない。事実、それが確かなら……俺も好奇心が全くないと言えば嘘になる」
「洛叉さん……まさか知ってて黙ってたなんてないよね?」
「…………」
それが本当なら一発くらい殴ってやろうか。そう思ったが、トーラは自分に言い聞かせる。こんなのでもリーちゃんの仲間だ。こんなのでもリーちゃんが大切にしているんだ。僕も信じないといけない。いけない。いけないいけない。
しばらくの無言の後、やっと闇医者は口を開いた。
「混血は俺にも未知数だ。あり得ないことを平気で引き起こす。少なくとも前に診察した時にはおかしなことは見られなかった」
僅かにそうなれば面白いな的な予感はあったのだろうが、そんな風には見えなかったのだろう。どちらかと言えば闇医者はここにくるまで自分の診察に誤りがあったことが解らなかったことに驚いているようだ。
「知識がないはずの彼女が、怠さや吐き気を訴えることもなく、いつも通りの姿を見せていた。彼女を見慣れている俺の前で、俺に気付かれないほど平気な顔で精巧な嘘を吐けるようになったのだとしたら、なかなか末恐ろしい子ではある」
洛叉もあの双子とはそれなりに長い付き合いだ。その顔見知りを欺せたというのは確かに恐ろしい成長。あんな無邪気な顔をして、なかなかの狸だったのか。
「それで、前ってのはいつ頃?」
「四ヶ月ほど前が最後だ」
そうだ。ディジットとアルム。2人が店の方に戻ったのはそのくらいだった。リフルが目覚めて、リハビリを始めた頃だ。
そしてその間この闇医者は迷い鳥で運び込まれ来る人間達の治療に当たっていた。
「精神的に落ち込んでても……いろいろあったからって風に思っちゃって気付けなかったって可能性は、あるよね」
「……………それで、どうするべきか?」
「ほんとは今すぐ彼女を本部か迷い鳥に匿って僕が調べて洛叉さんに診て貰うのが一番だとは思うんだけど……今ここでドタバタするのは不味い。一度に三人も空間転移を使うのも危ない。情報量の多さで情報漏洩の危険があるよ」
相手方に数術使いが居る以上、迂闊に感づかれるようなことは出来ない。
「西まで彼女を連れて行ってそこから飛ぶのが一番安全。不可視数術くらいなら問題ないと思うんだ。だけど……」
「……ディジットのことか」
「うん」
彼女のムラには闇医者も気付いていたようだ。
「彼女は精神的に波があるんだ。リーちゃんタイプって言うのかな。ちょっと彼に似ているよ」
「彼女と、あの人が……?」
闇医者は顔をしかめる。点と点が結びつかないと言った表情。そんな彼にトーラは自分の意見を口にする。
「じゃなきゃ僕もここまで彼女に好感抱かないよ」
純血の彼女がやることを、トーラが素直に認めて評価できるのは、彼女の人柄に寄るところが大きい。人種も性別も違う。見た目も性格も全然似ていないけれど、2人の信じる理想は重なる部分があるのだ。
「それにそうじゃなきゃアスカ君だって彼女に惹かれたりはしなかっただろうよ」
そこで「貴方もね」と、付け加えないで置いたのはトーラなりの優しさでもあり厳しさでもある。この闇医師だって彼女に好感は抱いているのだ。唯それ以上に邪眼と過去の思い出で彼にぞっこん過ぎるだけで。それにこの男が気付けないならまぁそれも仕方のないことだろう。
「周りに守る人がいれば強いけど、それを失うと揺らいでしまう。だからアルムちゃんの傍に配置しているのが一番なんだ。今彼女を傍から奪ったら、明日の勝負……まず勝てない」
「……では?」
「洛叉さんは明日は何時でも援護に行けるように備えてて。剣技とリーチの長さならフォース君より全然上でしょ?それに洛叉さんにはおまけも付いてきたんだし」
本当は早く使いたくてうずうずしているのだろう。この知的好奇心の塊は。
トーラの言葉に闇医者は、口の端をつり上げ笑う。最初からあの少女を強行突破で保護しようなどと考えてはいなかったのだ。
(それでも一応、心配はしているんだな)
そうでなければその勘を、トーラに告げることもなかっただろうから。
とりあえず明日の勝負が終わるまで、何とか彼女のバックアップに努めよう。詳しいことはそれが終わってから。彼女が奪われることがあってはならない。その情報をくれたことにはこの闇医者にも感謝をしておこう。
(出来れば彼の杞憂であって欲しいんだけど)
また問題が増えたとなれば、いつも困ったような顔をしている彼がもっともっと困ってしまう。
(リーちゃんのためにも、まずは明日を……いや今日を何とか乗り切らないと)
彼の捜索は鶸紅葉ら部下を信じよう。彼見つければすぐに彼女は情報を持ってきてくれる。
(そうだ、信じるんだ。僕は……)
僕はセネトレア王女。信じなければ誰も僕には付いてきてくれない。それを彼から教えられたんだ。だから僕は、信じなきゃ。
*
「懐かしいわね……」
ディジットはアルムの寝顔を優しい気持ちで見守り微笑む。
ぎゅっと此方に抱きついて眠っているアルムはこうしてみるとまだまだ子供のよう。最近はしっかりしてきて少し大人びてきたと思ったけれど、まだまだ人恋しさは捨てられない。
両親は傍になく、その分依存しきっていた片割れのエルムも傍には居ない。心細い気持ちはあるはずだ。
「あのねアルム……私も昔は凄く寂しがり屋だったのよ」
アスカが宿に居候をするようになったころはまだまだよく泣く子供だった。今にして思えば随分あの男には恥ずかしい姿を見られてしまっていたような気もする。まぁあれは自分にとっての兄か弟かそんなようなものだから、別に今更何とも思わないけれど。
彼が拾われてきてから、父はすぐに私と彼を比べるようになった。女が如何に低俗で信頼に足らない生き物かと言うことをねちねちと言われ続けてきたのだ。私が何かをしたわけでもないのに。
アスカは行き倒れていた自分を助けてくれたあの男に感謝をしていたし、あの男もアスカのことは本当に我が子のように可愛がった。だけど、私を悪く言うところだけは好いていなかったらしく、よく私の肩を持ってくれた。
それでもあの日の私はそれが馬鹿にされているような気持ちになって、こいつには負けたくないと思ったものだ。そして私は泣けなくなった。
(それでも……泣かなくなったのは)
それは2人との出会いから。
「アルム……あんたとあの子のおかげだったの」
泣かなくなったのは2人のおかげ。2人が傍にいてくれたから、今の私がある。
そんな2人のために犠牲に出来る物があるならどうぞよろこんで。
「大丈夫よ。必ず、取り戻す。だからあんたは……ゆっくり眠っていて良いの」
私はこの子達の母で姉なのだ。守らなければならないのだ。もう一度エルムを探す。見つける。そのためにも東側に踏み込まなければ。そのためにも絶対に、負けるわけにはいかない。
(エルム……)
彼に謝りたいことはいくつでもある。私が彼を捨てたのだと怨まれてしても仕方がない。貴方を一番に選べなくてごめんなさい。アルムとエルムを平等に愛していたと言うために、貴方を選ぶことが出来なくてごめんなさい。
アルムの数術に掛かっていたのは私も同じ。同じように愛しているつもりでもアルムを贔屓していたのだろう。エルムはしっかりしているからとおざなりになっているところがあった。もしあの時私がたった1人を迫られて、アルムを選んでしまったら……エルムは本当にそう思ってしまったはず。私もそれを認めてしまうこと。
それを否定するためにエルムを選んだとしても、私はアルムのことを引き摺って、そのことがエルムを深く傷付けただろう。だからあの日の私は先生を選んでしまった。それがもっとも2人を傷付けない方法だという結論から。
それでもそれは違ったんだ。どれを選んだとしてもあの子を傷付けてしまうことには変わりなかったのだ。だって私はあの子のことをちゃんと解ってあげられていなかった。
赤い髪に桜色の瞳の可愛い弟。そう思ってきたあの子が最初で最後の涙を私に見せたのは、私が彼を弟だと認めた後だ。あの時あの子は死にたいと、そう言っていた。
いつも強く振る舞っていたあの子も、唯の小さな子供だったのだ。しっかりしていても甘えたがりで……それでも素直じゃなくて。アルムと同じ、それ以上に寂しがり屋だったのに。それにきちんと向き合わず、彼の気持ちから逃げていた。気付けなかったのは私の責任で私の罪だ。
(私はトーラみたいに数術の力もない。先の事なんてわからないけれど……)
もう一度彼を見つけたら、ゆっくり時間を掛けて話し合っていこう。どう変わるかわからないけれど、もう一度三人の形を見つめ直し考え直し、作り直していこう。
それが家族としての愛情でも、私はあの子が好きだった。だから否定してはならなかったのだ。あの子から与えられる、向けられる好意が家族のそれと違っても、ちゃんとそれと向き合っていかなければならなかった。そうすることで今度はアルムが傷つくのだとしても……ちゃんと向き合っていればこうはならなかったかもしれない。
人間が生きていく上で、誰も傷付けずに生きることは出来ないのだ。傷付けようと意図せずにもその影で必ず誰かを苦しめている。それが嫌なら……それを止めるしかない。
それが出来ないのなら、傷付けてしまうことではなく、そうしてしまった後のことを考える。
それをどうやって償うか。私が考えなければならないのはそのことだ。
(……嬉しかったな)
今日一日、沢山料理をして……彼のことを思い出したのだ。初めて彼に出会った日。こっそり部屋へと連れて帰って食べ物を運んだ。窓から家へと帰った気がする。
父が出かけた隙に部屋に料理を運んで。それまで一度も笑わなかった、……冷え切った表情をしていたあの子が初めて顔を綻ばせたこと。彼は1人の時の方が子供らしく笑うのだ。アルムが側に来てからは、あんな風には笑わなくなった。
あの笑顔は私にとって大切な記憶。それをいつの間にか随分と片隅へと追いやってしまっていた。
空気のように身近だったから、当たり前だったから。だからいつの間にか彼を思いやる気持ちを忘れてしまっていたのだ。知ったつもり、わかった気になって……勝手に彼を決めつけていた。彼がそれは違うよと言えるだけの自分を持っていないこともあり、彼は決めつけられた自分を抱えて生きていた。しっかりしたくてしっかり者だったんじゃない。そうならざるを得なかっただけ。泣かなくなった私とは違う。泣けなくなった頃の私と同じ。その辛さを知っていながら、彼の辛さに気付けなかった。同じ思いをさせてしまっていた。
片割れのアルムを見ていると、彼とは本当に違うなと思わせられる。あの子ならこんな時こんなことを言うんだろうな。その違いがありありと……。
もう一度彼に会えたら、その頭を撫でてあげたい。お帰りなさいと抱きしめたい。それも子供扱いとして映って彼には嫌がられるのだろうか?
これまでずっと弟として見てきたあの子をいきなり男として意識することなんか出来ない。基本的にアスカもそうだ。身近すぎて家族のような者だから意識できるほど他人とは思えない。それでもアスカの方は私より年上だし、大人みたいな顔をされると迂闊にも少し意識させられることはある。それでもそれも本気ではないのが解っているから相手になどしない。だからアスカは置いておいて。
エルムは子供だ。それでもアスカとは違う。本気で私を慕ってくれていた。今はそんな風に思えなくても何年か後。あの子の背が私をずっと追い越した後。それでもまだ同じ気持ちで居てくれたなら、私もあの子を意識してしまうことがあるのかも。
別に私に縛られなくていい。他に好きな子が出来たらそれはそれでいいのだ。少し寂しいけれど私はそれを心から祝福する。世界は広いから、あの店の中だけの世界を私はあの子に生きていて欲しくない。
私とあの子の関係が、どんなものになっても大切だと思うことには変わりない。その幸せを願う気持ちには嘘はないのだ。
そう。それに……彼を見つけることが出来ても、彼を裏切った私に、彼がもう一度笑ってくれる保証はない。それでもそんな日が来るまで私は毎日料理を作り続けるのだ。彼に言葉が届かないのなら、それまで私は何も言わない。思いを込めて作るだけ。
それを食べた人が嫌なことから少しでも解放されますように。幸せな気分になれますように。そして幸せになれますようにと祈るように拵える。
そのためにももっともっと腕を磨かなきゃ。私はここよ。ここにいる。噂がいつか彼の耳に届くようにと、誰もが満足するような料理を作るのだ。
例の双子の件をどうするか。裏本編は本当にあの二人に悩ませられる。
問題しかないのが問題。でもそれこそが裏本編の醍醐味。