24:Hoc coactus sum.
やや行きすぎた主従関係注意報。百合とか薔薇とかな。
「……!ソフィア!」
「遅かったわね、ライル坊や」
情報が届いてすぐに駆けて来たのだろう。息を切らしている少年の髪は軽く寝癖も付いている。ラハイアはその惨状を目に、悔し気に壁に拳を打ち付けた。
「……くそっ、また……」
「別にあんたのせいじゃないわよ。今回ばかりは私のミス」
ロセッタにもその自覚はある。
カルノッフェル。あの男には幻覚作用の数術弾を食らわせた。刑死者用に使う人格矯正数式、その簡易版。
マリアという名に連なる女。それすべてがあの男にとって最愛の人に見えるようになる。
吐かせたいことがあったから一気に殺す弾は使わなかった。ここで死んでいる少女の居場所まで案内させるはずだったのに。
(あのカーネフェリーのせいで、面倒臭いことになったもんだわ)
国にも帰らずこんなところでぶらぶらと殺人鬼に仕えているなんて、一体何を考えて居るんだか。シャトランジアには跡継ぎ問題だってあるというのに。
シャトランジア王だって高齢だ。たった1人の愛娘もタロックに渡ったせいで処刑され、その子供はこんなところで殺人鬼なんかやっている。あのお姫王子じゃシャトランジアは継げない。純血じゃないから。教会が混血の神子を掲げたこともある。教会と対立している国王派が混血の王子なんかを跡取りとして認めるはずもない。おまけにあれは名の知れた犯罪者。他の親族連中なんかに王位を取られたら、あの国は今以上に二分する。そうなれば混血迫害、タロック人迫害が平和と平等を謳うシャトランジアで表面化。そんなことになれば大くの血が流れる。その事の重大さ、あの男は理解していない。アスカと呼ばれているあの青年は、王族としての自覚があまりに足りない。
(はぁ……)
これじゃ任務を終えて帰れるのは何時になるのやら。問題は片付かずに増えていく一方。
とりあえずは目先のことから片付けていかなければ。そうだ。問題はカルノッフェルというあの男。
あの男は後天性混血。自力で数式から逃れることはまず不可能。そのはずだったのだが……
(元は盲目。視覚数術への抵抗は常人より強かったってことかしら)
失態の原因を考えるロセッタ、その横で今回の犠牲者を真っ直ぐに見つめるラハイア。間に合わなかったことを悔いているのか。目を逸らさずに向かい合う姿は先程までここにいたあの殺人鬼に少し似ている。
「…………ソフィア」
「何?」
「今回は犯人は名を残すことを忘れたように見える」
「そうね。それどころじゃなかったみたい。こっちが精神的に追い詰めてるってのは確か」
しかし相手は普通の人間ではない。追い詰めた結果何をしでかすか解らない。それを防ぐための数術も破られている。現状は最悪だ。
連れ歩ける数術使いがいないというのは痛手だ。那由多王子にはお抱えのハイレベルの数術使いがいると聞いていたが、それとの連絡経路も絶たれている。その数術使いと同等レベルの者からの妨害が入っていると見て間違いないだろう。此方の動きも気付かれれば、ロセッタの情報入出経路まで絶たれてしまう可能性もある。
(どうしろってのよ……)
最初からここまで面倒臭いことが起こるとは思わなかった。流石はキングの不運は並じゃない。彼が持って生まれた不幸が強力すぎて、与えられた高幸福値ですら通常運をカバーできていないのだ。
普通は上手くことが全て裏目に出る。そこにいるだけで足を引っ張られている気分。戦闘でもお荷物みたいなものなのに。
(あんなのと仕事しろって……?神子様も酷なことを)
確かに少し誤解していたところがあったのは認める。それでも彼がお荷物だということには変わりない。
「ソフィア、俺はこれはやはりSuitの仕業ではないと思う」
「奴は確かに人殺しの犯罪者だが、完全な悪ではない。あいつと何度も対話をし……一本通った筋があるように俺は思った」
「ましてや死者の名を借りて更なる罪を犯させて汚名を着せるなど、あってはならないことだ」
絶対に犯人を捕まえてやると荒ぶる少年。
少女だったものの成れの果て。それはこの正義漢も焚き付ける結果となったよう。
ロセッタはそれを何処か離れた場所から、一種の疑念のような気持ちで見つめる。
あの殺人鬼とこの兵士。犠牲者と顔見知りということであの殺人鬼は精神的に深いダメージを負った。この兵士は顔見知りではなくとも、これだけ惨い死骸を見せられれば焚き付けられないはずがない。これは驚くほどに正義を人を愛している。自分じゃ逆さになっても真似できないくらい、お綺麗な脳味噌をしているのだろう。
こういうタイプは嫌悪を抱く。そのはずだ。それなのにそこまで彼には苛立たない。この偽善者が、と罵る気分にはなれない。それが少し不思議だ。ラハイアは人殺しではないからなのだろうか?そこまでの嫌悪感はない。
あの殺人鬼。あれはめそめそと女々しくて本当に苛々する。人殺しの癖に、汚らわしい人間の癖に、言葉だけは立派なものだ。その身に似合わず清廉潔白な言葉を吐くから苛ついて、この銃口を向けてしまいそうになる。
「俺は俺に出来る限りのことをする。これ以上の犠牲、断じて認めてなるものか!」
「ライル、あんたって…………」
ロセッタはあり得ないものを見るように、ラハイアを見つめる。
少年の瞳には怒りの炎。それでもそこに憎しみの色はない。彼は唯、悲しみの余り怒り狂っているだけなのだ。
(本気で、怒ってんのね……他人のために)
見ず知らずの人間。自分と関係ない人間。その死でここまで憤ることが出来る。その死を悼み悔やみ、救えなかったという自分の失態。それを心の底から怒り狂う。
所詮は1。間引かれたとしてもたかだか1だ。それしきのこと。大多数の幸福のために多少の犠牲はやむを得ない。運命の輪は世界のためにこそ回る。必ずしも常時正義ではない。時にはどんなに素晴らしい人間も、罪など犯さなない立派な人間をも……見捨てることを容認する。最悪、殺す。それが大多数の幸福、世界平和のためならば。
そんな汚れた暗い立ち位置に居る自分からは、怒る彼はあまりに眩しい。真っ直ぐな言葉と態度。それは嫌悪感を忘れてしまうような、惹き付けられる輝きだ。
(…………でも、なんだろう。すごく……嫌な感じ)
まんまと乗せられてしまっているような。そんな不気味な感覚。
それがこれを見たらどんな反応をするか。それを解った上でこの少女が犠牲にさせられたように思えて仕方がなかった。これはまるで何かの計算式。何者かに仕組まれているような、そんな気さえする。
(…………神子様)
必要最低限の犠牲。それを肯定するのが運命の輪。わかりきったこと。それなのに、今更のようにそれが重たくのし掛かってくるような気がした。
(カードは、一枚しか生き残れない)
神子は肯定している。それに従う自分自身も肯定している。容認している。それ以外のカード全てが死に絶えること。その犠牲を認めているのだ。
わかりきったこと。それを改めて繰り返す。するとそれがこれまでとは違う響きを持って語りかけてくる。何度も、何度も同じ言葉を繰り返し、問いかけるように。
*
(どうすりゃいいんだ……)
アスカは溜息。もしも溜息の度に溜息税なんかが取られるのだとしたら、自分の全財産はもうとうに消えていることだろう。そんなものがなくて良かった。それでもそれを支払うことで現状打破の力をくれるなら、そんな税幾らでも支払ってやるのだが。金ならやるから誰か教えてはくれないものか。
こういう時。所謂俗に言う「自分の主が友人兼ちょっと気になっていた女の子が見るも無惨な姿になって物言わぬ者に成り下がってしまっていたのを目撃して主がすっかり落ち込んで無言になってしまった」ような時。俗に言わないかもしれないが。そんなに日常茶飯事のようにこんな物事転がってはいないはずだから。
あの聖十字兵と話をするため残ったロセッタに、先に戻っていると告げ、置物のようにだんまりとしている主の腕を引いて適当な道まで歩いてきたが、その間ずっと主は無言。頑として置物。腕を引けば歩いてくれるだけまだマシな置物。
金さえあればと謳われたセネトレアだって買えないものはある。取り戻せないものはある。
だからそういう所に面した相手に何を言えばいいのか。どれも気休め。本当に救える言葉なんかありはしない。
言葉は剣というが、それは本当だと思う。人を切り裂くのには長けているのに、そんな鋭い刃物で人の涙を拭うことなんか出来やしない。拭うつもりでその頬を切り裂いてしまう可能性もある。
言葉で人を救えないのなら、消去法で行くと行動だ。だがこれも難しい。その人のためを思ってしたことが、余計なことだということが俗にある。何もしない方がマシということも十分あり得るのがこの世の常だ。
それでも何もせずにはいられない。それはその人のためではなく、自分のためでしかないということなのだろう。こんな傷ついた顔をしているその人を自分がこれ以上見ていたくないだけなのだ。
(エゴ丸出しだな……俺って)
自己分析が進むほど、自分が如何にあざとく汚らしい人間かがよくわかる。そうしてアスカはまた溜息。それを最後に、振り返る。
何も言えない。リフルはとても暗い目をしている。まるで2年前に戻ったかのよう。この世に人に絶望していた瑠璃椿に戻ったようだ。
それでも違う。それは酷く虚ろなのに、ゆらゆらと底に蠢く色がある。それは怒り。大きすぎる憎しみだ。
(やべっ……)
直視してしまった。見てしまった。ここに第三者が居ないのが幸いだった。もしここにロセッタがいたなら、今俺は彼女に斬りかかっていただろう。それに頭の片隅で安堵。
意識を全力で違うことに集中させる。不謹慎だがリアの最後の姿を思い出す。あれは強烈だからまだすぐに思い出せた。胸中から湧き上がる嫌悪感。そして怒り。それに意識を集中。ちょっとでも揺らいだら邪眼にすべてを持って行かれてしまう。
手を伸ばしてしまう。今掴んでいる腕を引き寄せて、もっと触れたいと思ってしまう。そんなことは駄目だ。それは何よりこいつを傷付ける。
縛られたように逸らせない視線。紫色の瞳がぼんやり光る。赤紫色のそれ。
暗いところで彼の邪眼を見たのは初めて?いや、以前も見た。蒼薔薇に襲われた時なんか夜中に奇襲されていたから当然灯りなど無かった。
あの時はこんな風ではなかった。
(邪眼が、変化している……?)
また、強まったのか?もう駄目かも知れない。そう思った。
いつもの色も綺麗だけれど、今の色合いもとても綺麗。見惚れてしまうような宝石みたいなその双眸。そんな目をした人が、涙を浮かべて俺を見ている。もうどうにでもなればいいんじゃないか?今までこの眼に抗ってきた理由ももはや思い出せない。悲しみに震えているその身体を抱き締めたいと………
(……あれ?)
腕を引こうとした身体。だけど動けない。指一本、自分の意思では動かせない。口を開くことも出来ない。目を閉じることも出来ない。出来るのは鼻孔から空気を取り入れることくらい。
これは何だ?今までの邪眼とは、何かが違う。
自分の全てが支配されてしまっているよう。彼の意思無く何をすることも許されない傀儡。邪眼に魅せられた人間にとっては物凄い……拷問。
もう理性もぶっ飛ぶくらい魅了されているのに何も出来ない。突っ立っているだけ。心情的には物凄いフェロモン全開の美女がすぐそこでストリップでも始めて、それを見てるこっちは両手両足拘束の上貞操帯まで付けられて放置されてる感じ。俺はMっ気はねぇから完全に拷問だ。我々の業界では拷問です。
……とかなんとか動けないから下らない現状説明をしてみたところで、掴んでいた腕がすり抜ける。ああ、こいつは動けるのか。そうだよな。術者だもんな。
すり抜けた後どうするのかと思ったら、何も見えない。辛うじて見えるのは、自分の顎の下。そこに微かに映る銀色の髪。
視線がさっきの所に固定されているからそれしか見えないが、背中と腹が何かに触れていることを俺に教える。どうやら抱き付かれているようだ。
さっきの状況に処刑器具が加わった。首筋までギロチンの歯が落ちてきている。なんという据え膳。こっちは指一本視線一つ動かせないというのに。え、何これ?待てを命令された犬がそのまま放置されてるようなものだよな。俺は石像じゃねぇぞ。
邪眼に魅了されているせいで、思考回路にバグが生じて変な方向でしか物を考えられないのは認めるが、これだけ脳内でいろいろ考えることが出来るのに、指先一つ指令を下せない脳ってのはどういうもんだ?
「…………アスカ」
震えた声色。それ一つに動揺する自分は深く毒されている。名前を呼ばれただけなのに、ぞくぞくする。
続けて彼が何かを言おうとした刹那、頬を何かが掠める。そして落下。何が落ちたのかはわからない。それでもそれを投げた人物は解る。彼女は混血にしては長身。固定された視界に現れた長い鶸色の髪。闇の中に浮かび上がる赤い瞳は秋頃の紅葉そのものだ。
情報請負組織TORAが裏幹部。トーラの腹心中の腹心。暗殺者の鶸紅葉。真っ直ぐと伸びた背中、凛と佇む着物姿には風情がある。
「取り込み中……失礼する」
おいおいおいおいおいおいちょっと待て!失礼したって言ってるが、全く顔には書いていない。彼女の言葉はいつものように淡々としているも、瞳は鋭く細められていた。
「だが、すぐに終わらせてやろう。姫様のために」
取組中。終わらせる?実力行使?前後の文章とで脈絡がなさ過ぎる。
鶸紅葉の得物が此方に向いている。終わらせるつもりだ。主に俺を。トーラのために。
へぇ、あの鉤爪飛ばせるようになったんだ。凄ぇな。あれなら接近戦以外でも余裕余裕。唯でさえ後天性混血で身体能力馬鹿高いってのに武器まで強化されたら俺勝てなくね?っていうか死ぬんじゃね?
「……鶸、紅葉?」
ようやく第三者の存在に気付いてくれたリフル。振り返る。鶸紅葉は動けるようだ。混血への邪眼のかかりは純血ほど強くない。
(いや……違う)
冷静な鶸紅葉が先程のように取り乱した言動を取るのは珍しい。あれは邪眼に掛かっていたと見る方が自然。
(目を合わせていないのに……?)
それはどこかで聞いたことがある。そうだ。それは2年前、レフトバウアー。リフルの邪眼が暴走したときの話だ。空気感染のように人が狂気に呑まれていった。今のこれもそれに似ている。
そこまで考え、身体がよろめく。試しに指……動く。足、歩ける。リフルの視線が彼女を向いたことと関係あるのか無いのかわからないが、ようやく邪眼の呪縛から解放。
「無事だったか瑠……リフル」
「はい……」
「姫様が連絡が取れないと心配していた」
「すみません」
しかし2人は普通に会話をしている。邪眼が収まったのか?
恐る恐る近寄るが、鶸紅葉はもう武器を投げては来ない。それにほっと息を吐く。
「にしても突然ご挨拶だな」
「この大変な時にあんなものを見せられれば誰でも怒って当然だ」
「返す言葉もねぇよ。……で?大変ってことはそっちにも何かあったんだろ?」
落ち着いたとはいえ、鶸紅葉はまだ怒っている。全てが邪眼のせいでもなかったらしい。冷静な彼女がここまで苛立ちを顕わにする、それだけのことが起きているのだ、今。
「お前達と姫様との情報経路を絶っている者がいる。無論それは数術使いだろう」
「トーラの数術を妨害……?」
リフルは見せかけだけでも取り直してくれたらしい。リフルはこんなんでも暗殺請負組織の頭。他の身内連中のいるところで弱った顔を見せられない。暴走したとはいえその位には考えられる頭が回っていたのだろう。
(…………無茶しやがって)
さっきのあれ。……あれは頼ってくれたということなんだろうか?少なくとも弱ったところを寄り掛かりたいと思われる程度には。
そう思った途端、邪眼の煩悩と葛藤していたもとい屈服しかけていたさっきまでの自分の思考が悔やまれる。
もうどうしていいかわからない。そんな時に気の利いた言葉の一つも言えずに、理性と格闘していただけだなんて。邪眼に魅了されたとはいえ言い訳だ。
邪眼なんかなかったら。もっと普通に寄り掛かってくれるんだろうに。邪眼の魅了を知っていて、それでも寄り掛からずには居られない程今のあいつは弱っているのに。毒のこととか魅了のこととか。その後先考えられないくらい弱っていて、縋らずには居られなかったんだろう。抱き付かれたところ……泣きついてきた人の涙で服が僅かに濡れている。
今だって本当は泣きたいはずなのに、強がって無理をしている。混乱していてそれに気付いてやれなかった自分が呪わしい。
いつも通りを装った淡々としたその声が、夜に冷たく響いていた。
「それは……つまりトーラと同等レベルの数術使いということですか?」
「ああ。そしてそれが敵対勢力に属する人間だというのも確か。でなければそうする意味がない」
「……で、結局そっちには何があったんだ?」
鶸紅葉からもたらされた情報は、とても良い物だとは言えない。それでも知らないよりは遙かにマシだ。これ以上今のリフルに聞かせて大丈夫だろうか。慎重に探りを入れていく方が賢明か?
「…………フォースという少年とアルムというあの混血の少女の行方は知れた。其方は姫様に任せて問題はない。唯、混血狩りという組織も動いていることがわかった。今は其方に探りを入れるために彼らの協力を借りている」
「それってフォースと、アルムもか?あいつら」
子供連中に何かあったらこいつはもっと暴走しかねない。思わず視線を向けたその先で、リフルは酷く落ち着いた様子。何処までが演技かよくわからない。完全にいつも通り。その完璧さが引っかかる。
「フォースは大丈夫だ」
「けどよ……」
「フォースは私達が思っているほど、子供じゃない。だから私は彼を子供扱いするのは止めることにした」
本当に、いつも通り。逆に不気味なくらい、落ち着いた声。
「唯、アルム……彼女は数術の才能はあるが、彼女のような年端もいかない子供まで危ない場所に置くのは賛成できない。余力があれば彼女の救出を願えないだろうか?」
鶸紅葉相手にも敬語が抜けた。瑠璃椿の癖からリフルに戻ってきた。……違う、これはわざとだ。こいつが普段敬語を使うような相手にこんな口調で物を言うのは、意識してのこと。
鶸紅葉はトーラの配下であってリフルの手下ではない。トーラがリフルに協力しているから鶸紅葉もそれを受け入れているだけ。瑠璃椿の頃はむしろ立場は逆。トーラからの命令を下す鶸紅葉に瑠璃椿が従っていたようなもの。だからこそ敬語癖があったのだ。
だが身内の危険を知ってそれを敵陣の中に放置しておけるほどこいつは薄情でも冷淡でもない。だから明確な立ち位置を示すため、無理に権力を誇示する。そのための……命令だ。これは要求でもお願いでもなく、命令だった。
トーラはリフルの言いなり。請負組織TORAに被害が出ないラインまでは。鶸紅葉はそれを彼女に聞かずとも察する。だからそれがトーラの守るべき物と競合しない限り、鶸紅葉はそれを断れない。
「…………一つ、聞かせてくれ」
鶸紅葉はそれを認めた上で、別の言葉を口にした。
「お前は……姫様をどう思っているんだ?」
「トーラを……?」
駄目だ。それは今のリフルにとっては何よりの地雷。止めようとするも、鶸紅葉は言葉を止めない。
「お前が姫様を愛しているのかいないのか!そこをはっきりして欲しいのだ!!」
「……っ!?」
その言葉にリフルは絶句。おいでませ二番底。女の嗅覚ってのは馬鹿に出来ない。ピンポイントで急所を狙ってくるもんだ。
今何より考えたくないことを鶸紅葉に責められる。
「私は姫様を守るためなら何だってする。姫様の守りたい物のためならば私もそれを守ろう。しかし、それには姫様の願いが……幸福があってこそ。姫様はお前の願いのために無茶をしてらっしゃる。私はそれを見ているのが辛いのだ!!」
鶸紅葉の赤い瞳に涙が浮かぶ。
(……あ)
それにアスカも絶句。鶸紅葉の言葉が、他人事に思えなかった。
(鶸紅葉にとってのトーラとは、俺にとってのこいつなんだ)
止めろと言えない。何よりも大事な主が苦しんでいると解っても、足が手が……動かない。鶸紅葉には邪眼なんてないのに、その言葉に牽制されて動けない。
苦しげに吐かれた言葉が、痛いほどよく分かるのだ。
もしこいつに心底惚れた相手がいたとして、それがこいつにとってのマイナスでしかなくて……どんなにこいつが尽くしてもその先にこいつの幸福がなく、唯全てを一方的に貪られていくだけの関係なのだとしたら。俺はその相手を殺してしまうかもしれない。
だから鶸紅葉は言っている。トーラが大切だから、だからリフルに問い正しているのだ。お前の歩く道の果てに、ちゃんと彼女はいるのか?使い捨てで見捨てられるのか?ちゃんと守ってやれるのか?ちゃんと彼女は幸せになれるのか?
「そこまで姫様が尽くしても……姫様の幸福がそこにないなら、私はお前達の話は聞けない」
トーラは鶸紅葉もカードだと2年前に言っていた。そして審判が始まった今……鶸紅葉も恐れているのだ。トーラ自身の死の予言。
トーラを死なせないために嬉々としてその手先として働いてきた鶸紅葉。そうやって駆けつけた先で、俺なんかに縋る……弱ったリフルの姿。
彼女の怒った理由が分かる。目に映る全てが気に入らなかったのだろう。俺だってきっとそうなる。
例えばリアが、他の男に女と抱き合っていたならば。あいつが心を傾けた相手が他の方向を向いていたなら、俺はそれを許せない。鶸紅葉も同じだろう。
「姫様は気丈に振る舞っておられるが……姫様も1人の女だ。先の見えない今、姫様は常に恐れていらっしゃる。そんな時に……何故姫様を支えてくれない!?」
「鶸紅葉……」
「お前も男だろう!?何故姫様を守ってやらないのだ!?いつもいつもいつもいつも!姫様の力を頼ってばかり!その力を求めながら、姫様の想いには答えてやらんお前は鬼畜だ!ド外道だ!!」
「お、落ち着けよ鶸紅葉っ……こいつだって」
今のリフルにこれ以上鶸紅葉の言葉を聞かせるわけにはいかない。そんな思いで動いた殻で背中に庇った。それにすら鶸紅葉は怒りを増すのだ。つり上げられた赤の視線をアスカは一身に浴びせられる。
女を守るべき男が男に守られていてどうする。お前がそうやって甘やかすからそいつは女々しくて弱いのだと、その目に責められる。
「“瑠璃椿”」
意図的に、鶸紅葉はリフルをその名で呼んだ。
「お前はそうやって守られて生きるのか?」
「私は……違う。私だって……守りたいものがある!守ろうとしたんだ!!」
追い詰められて、心の断崖絶壁。リフルも後がない。だから吠える。その声の悲痛なこと。まるで悲鳴だ。
そうだ。守ろうとは足掻いた。必死に、懸命に。彼女を大切に思っているのは伝わった。それでも、取りこぼしてしまった。それを悔やんでいるのは誰よりもこいつなんだ。
「お前は守ったつもりになっているだけだ。多くを手にして、大事な者が増えて、守りたいと思いながら……それが身に余るとも知らない!自分1人で守れないものまで抱え込んでいる!!だからお前は弱いんだ!!だから姫様に負担を掛ける!!姫様はそれを優しさなどと言うかも知れないが、私はそんなモノを優しさとは呼ばない!」
それでも鶸紅葉は認めない。自分の弱さを知るからこそ、トーラを頼った。力を求めた。でもそれはトーラへの負担。鶸紅葉も気に入らないだろう。
リフルへの協力。他の者を守るために万が一、トーラに何かがあったら。トーラが死んでしまったら。彼女は何もかもを許せなくなる。トーラにお願いしたリフルも、トーラの命令に従った自分自身も。
「弱さを知れ!身の程を知れ!!物を語るのはそれからだ!!あれもこれも大切だと?笑わせる。お前は誰も愛せないだけではないか!!だから全てを愛そうとしているだけだ」
言葉は本当に鋭く磨がれて、俺をすり抜けこいつを貫いていく。止めてくれ。もう十分だろう?化けの皮を剥がすように責め立てなくても良いだろう?こいつだって考え無しじゃない。ちゃんと思い悩んで生きている。トーラとのことだって、もし毒なんて物がなければ受け入れてやっていただろう。ちゃんと彼女に感謝している。心から。それでも足りない?
愛には見返りが要る。無償の愛などあり得ない。鶸紅葉の目が語る。
トーラだって、辛いのだ。愛した男と絶対に結ばれることがない恋を続けていくのは彼女の不幸だ。だけど他の人間を好きになれない。余所見なんか出来ないほどに好きなのだ。縛り付けられている。邪眼の愛で。
そんな彼女が自分は幸せだよと、そんな風に自分自身を騙すように微笑むのを見ているのが辛いのだと鶸紅葉。何よりも大事な相手がそんな犠牲に身を捧げているのを見ていられない。どんなに彼女が大事でも、自分を見てさえくれない。それなら、リフル自身に見返りを支払わせるしかない。本当にトーラが幸せになれるように見返りを求める。それを求められない彼女に代わって。
「まだ2年前のお前の方が余程マシだった!!お前は弱い!!味方が増えれば増えるほど、お前は弱くなる!!あの頃のお前は1人だった!!それでもお前は1人で立って、1人で戦える程には強かっただろう!?そうしてお前は、多くを守ってきただろう!?それが何故っ……今になって女1人守れない!?」
「……まさか、お前」
その言葉。鶸紅葉はリアの死まで情報として知っている。だからこそ不安に駆られている。リアを死なせてしまったリフルがトーラを守り抜けるのかと。リフルは完全に沈黙。言葉を無くしてそこに佇む。
「お前達を頼ろうと思った私が間違いだった!姫様はお前になど任せられん……トーラ様は私が守る!」
追い打ちのように畳みかけられる言葉。それは何か含みを帯びた言葉。引っかかりを覚えて立ち去ろうとした彼女を追った。
「トーラを……?おい、あいつに何かあったのか?」
アスカの問いにも答えず鶸紅葉は大地を蹴って飛び上がる。
「私は姫様の命令には従う。それでもそれが姫様のためにならないならば、例え姫様の命令であっても私は逆らうだろう。肝に銘じておけ」
それだけ言い残して彼女は壁から壁、塀から塀、屋根から屋根へと飛んで行く。もう見えない。
もたらされたのは嫌な情報と胸を抉る爪痕。唇を噛み締めて涙を堪えているその人の、頭に触れる。そのまま今度はこっちから抱き寄せた。
「お前は頑張ったぜ。俺はちゃんと見てたから……気にすんな」
「アスカ……」
「吐いちまえよ。呑み込んだって抱えたって良いことないから」
さっきの暴走。そこから考えた。こいつが何を求めているか。その結果の言葉。
たぶんこいつが俺に求めているのはそういうものだ。普通に接すること。人間らしい優しさだ。俺が狂っちゃいけない。俺が人間らしく、それらしい言葉を言うことが、こいつにとって何よりの薬になるはず。こいつに出会った頃の……それこそ2年前の俺が口にしそうなことをイメージして、言葉に変える。
「お前は確かにうちの組織の頭だけどな。俺の前くらいではそんな顔しなくてもいいんじゃねぇか?」
他の誰が邪眼の魅了に狂っても、俺だけは絶対に狂ってはいけないんだ。それを強く感じた。たぶん俺がそうなることが、何よりこいつを傷付ける要因に変わるから。
魅了の力は俺が惹かれている気持ちをねじ曲げて一点に結びつけようと迫る。それでも頑としてそれを拒み続けなければならない。俺はこれ以上踏み外してはいけない。こいつが安心して、傍にいたいと思ってくれたのはそういう俺ではないのだ。俺はこいつを誰よりも人間として見てやらなければ。道具を奴隷を否定したのは俺だろう?人として認めたんだ。人として大切に、接してやらなければならない。
「私だって……私だってっ!!出来るものなら……」
ようやく絞り出された後悔の言葉。それは途中で途切れたけれど、続く言葉はちゃんとわかった。“もっと力があったなら。こんな目がなかったら。もっと強かったなら。こんな毒がなかったなら”……そう思っているんだろうな。
「リフル、リアを殺したのはカルノッフェルだ。リアを死なせたのは俺とお前だ」
驚いたように顔を上げるリフル。否定を口にするために開かれた口から言葉が出る前に、先に此方が言ってやる。もう一度。
「いいか、それはお前だけじゃない。俺とお前だ。あの子を守れなかったのは俺の責任でもある。……お前は別に弱くていいんだよ。俺はお前の剣だろ?俺の力がお前の力だ」
「でも……」
「俺が半分背負ってやっから。あんま気負うな」
「アスカ……」
告げられた言葉にリフルは息を呑む。泣きそうな顔が、違う意味で泣きそうになる。その表情に少しは励ますことが出来ているのだと実感して何だかこそばゆい。
しかし流れに乗った。あとは押しが肝心だ。それっぽいことをまくし立てればこいつは浮上する。
「お前は誰かに否定されたら自分の全てを否定するのか?違うだろ?否定されても罵られてもお前はお前だ。お前の信じている理想とか、そんなものまで否定しちまうのか?」
「お前の理想に付いていこうとしてる人間もいるってことを忘れんなよ。トーラは確かにお前に惚れてはいるが、お前の理想に魅せられてる部分もあるんだ。鶸紅葉の言葉はその側面を無視した言葉なんだ」
勿論彼女の言ったこともまた、トーラの抱える一つの側面だとは思う。人間なんてそんなモノ。賽子みたいなものだ。転がして見なければどの面が出るか解らない。そんな顔が出てくるかわかったもんじゃない。人によってその面の数に違いがあるのだとしても、顔が一つだけの人間なんてそうそういるものか。
リフルももう数年来の付き合いの、鶸紅葉のあんな熱い側面を今まで知らなかったのだろう。だから狼狽えた。そんな相手にあんな言葉を吐かれるなんて思わなかったのだろう。
(邪眼……にも、あんな例外もあるんだな)
意中の相手が居る人間には掛かりにくい。それは聞かされたことがある。しかし、多少の好意は引き出せる。だから良好な人間関係くらいは作れる。蒼薔薇とリフルが親しくなったのも、元はと言えば邪眼の力。その魅了がかかり、それでも彼はトーラに惚れていたから魅了が屈折、親しみを芽生えさえ友情らしき物を発生させるに至った。鶸紅葉は……どうなんだろう。それは一括りで呼ぶことは出来ないが、いろんな意味で彼女がトーラを愛しているのは真実だ。先の一件で、本当に大切なんだとわかった。
トーラが好きすぎる余り、邪眼が効かない。それどころか邪眼に掛かっているトーラを見てリフルへの憎しみを募らせる。
誰かに好意を寄せられると言うことは、それだけで誰かに怨まれ憎まれること。これはそういう力なのか。
理不尽に愛されて、理不尽に憎まれる。誰も幸せにしない力。誰かと誰かの幸せを壊す力。
こいつの幸せは何処にあるんだろう。唯そこにいるだけで、こいつも誰かも悲しむだけだ。
鶸紅葉がトーラの幸福を願うように、俺だって願っているのだ。こいつの幸福を、心の底から。
いっそのこと何もかもを投げ捨てて、このまま逃げ出してしまえれば。誰かが居るから混乱が生まれる。そう。3以上の数字。それが揃うと邪眼は真価を発揮する。
それならずっと2人で居ればいいんじゃないか?昔みたいに、地下室で本を読み聞かせていたあの頃みたいに。
そうすれば、こいつはもうこんな風に悲しんだり泣いたりしないんだ。マリー様の願ったこいつの幸福。それを守るために、他の数字は邪魔なのだ。
セネトレアもタロックも神の審判も知ったことか。勝手に殺し合えばいいんだ死にたい奴らから。俺たちはどこかの山奥で適当に食って暮らす。それで命を狙いに来た奴が居たら返り討ちに遭わせてやればいい。
そうだ。簡単なことだ俺にとっては。優先順位は決めている。何時だって見捨てる覚悟も割り切る覚悟も出来ている。
(それでもこいつは俺とは違う……)
そんな風に割り切ることが出来ないから、見捨てることが出来ないから多くを拾って抱え込み……身動きが取れなくなりながら、それでも守りたいと願うのだ。最初から、見限るつもりで捨てられた物を拾う奴があるか。そんな者はいない。守りたいから救うんだ。
ひとしきり泣いたら、また続けるんだろう。全てを終わらせるために。
(下らねぇな……)
本当に、下らない。自分の得にもならないことで、時間を人生を……命を費やしている。俺もこいつも。そうしたところで結局誰も報われない。幸せになんかなれないのに。
自分の全てを犠牲にし、多くを救ったところで誰もこいつに感謝はしない。待っているのは罪の精算。
そんな罰のために罪を犯して生きる。報われることも省みられることもない。本当に、下らない生き方だ。そうだ、下らない。だから誰もそんな風には生きない。
だからこいつがそうすることには意味がある。だって誰もしないんだ。鶸紅葉はトーラの兼に関してのみこいつを罵ることは許される。それでもそれ以外は絶対に許されない。抱えてるものの重さが違うんだ。あの女は1人のためにしか生きられない。負け犬の遠吠えさ。あいつは1人しか愛せないし守れない。こいつはもっと多くを愛しているんだ。本当に、大切に思っているんだ。そんなこいつを罵ることが出来るのは、こいつ以上に多くを想っている奴だけだ。
「アスカ……」
「……ん?」
見上げてくるその目。それが少し腫れている。今日は泣き過ぎたせいだ。彼は何かを言いかけたようだが、それは治しながらでも聞けるだろう。
「目、腫れてんぞ。治してやっからじっとしてろ」
「わかった……」
そっと閉じられる瞼。銀色の長い睫に付着した涙が光ってとても綺麗。それに少し見惚れながら両目を覆うように手で触れ祈る。
(……え?)
いつもと何かが違う。見えるはずのない物が……視界を掠めたような気がした。キラキラと光り輝く世界。視覚している。見えている。数字の群れ。凄い。これが数術使いが見ている世界?
その光景に目を奪われていた俺を正気に返らせる、女の声。
「うわ、あんたら何やってんの?きもっ、寒っ……これから私の半径3メートル以内に近寄らないでくれる?」
そしてどうしてどいつもこいつもこういうタイミングで現れるのか。
心底気持ちが悪いと言わんばかりの刺々しい言葉。誤解されているのは承知しているが、教会側の人間である彼女にとって、確かにそういうのは嫌悪すべきものなのだろう。いやそれでも俺はノーマルだけどな。本当に誤解なんだ。
何かを待つように目を閉じて待機している彼奴と、それ(正確には数値群)を凝視している俺。確かに勘違いされても仕方がない。何その絵面。我に返って2人揃って目を逸らす。それが逆に胡散臭いと言わんばかりのロセッタ。
「やけに仲が良いと思ったら、やっぱそういうのだったんだ。へぇ、そうなんだ。なるほど。だから帰りたがらないわけ?闇の住人にはそっち系多いし?別に何とも思ってないから。ただし私の半径5メートル以内に二度と近づかないでくれる?」
「ろ、ロセッタ?」
「気安く名前呼ばないでよ、馴れ馴れしい」
「私は唯……アスカに回復数術をかけてもらっていただけで」
「私に言い訳される理由が皆無だし、それにもう少しマシな嘘吐いたら?」
せっかく治してやったのに、ロセッタの言葉にリフルはまた泣きそうな顔になっている。心が参っている時に、にこれだけ敵意を向けられれば仕方ない。
しかしこいつの傍に、性格の柔らかい女ってのは居ないんだろうか?皆気が強いか言葉がきついか何かしら棘がある。こいつ自身がそんな感じだから均衡が取れていると言えばいるのかもしれないけれど、お淑やかな女ってのはもう絶滅危惧種なんだろうか。
「うん、とりあえず今は何も言わないでやってくれ。これ以上こいつ泣かせてやるな」