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1:Qualis rex, talis grex.

 どんな恨み言を言われるだろう?

 それでも自分はそれを甘んじて受けなければいけない。間に合わなかったこと。救えなかったこと。それは確かに自分の罪だ。その元凶を殺めたところで少年の魂は戻らない。帰らない。それどころか肉体までも失われた。二度、殺したようなもの。

 殺される覚悟は決めていた。

 けれどどんなに探しても少女は現れない。恨み言を口にはしない。

 少女は既に死んでいた。皆がそれを事故だと言う。口を揃えて。

 その言葉の中に、再び私は私の罪を知ったんだ。

 あの子が恨み言を言えないのなら、恨み言の雨を降らせるしかない。この胸の中を何度でも、何度でもその雨で焼いていこう。そうする他に、どう彼女に贖う術がある?

 例えこの命を絶つことが許されたとしても、もうあの子は帰らないのに。


 *


「……リフル?どうかしたのか?」


 アスカが視線を感じて何か用かと問いかければ、傍に腰を下ろした彼が本へと視線をこっそり戻す。その証拠に銀色の髪が微かに揺れている。


「いや、別に」


 主である彼から返されたのは素っ気ない返事。ここしばらくでこのやり取りを何度繰り返しただろう。


(別にってなぁ……)


 何をするでもなく、気がつくと彼が傍にいる。今と立場が逆だった頃のように。

 商人組合のところの請負組織とやり合ったときの怪我でしばらく置きあがれなかった彼のために、見張りをしていたのはアスカの方だったが、起き上がることが出来るようになった後も、彼はなかなか自分の側から離れない。

 それが煩わしいと感じる心は自分の中にはなかったが、違和感がないかと言えばそうでもない。


(理由を尋ねても絶対に答えてくれないしな……)


 最近彼とはよく口論になる。機嫌を損ねてしまうことが多い。口を聞いてくれなくなることもある。それでも彼は側から離れない。何を考えているのかさっぱりだ。

 どうしたものかと考えながら、椅子から腰を上げれば彼もそれに習って立ち上がる。


「ど、何処か行くのか?」


 狼狽えたようなその声。それが単なる心細さならまだ可愛いものだが、それは寂しさの欠片も感じられない、不安一色の声。


「いや、ちょっと外の様子でも見てこようかと思ってな。この迷い鳥って所は俺もまだよく知らねぇし」

「わ、私も行く!私が案内を……」

「はいストップ!」


 切羽詰まったようなリフルの言葉を明るい調子で遮ったのは明るい金髪、それに虎目石の瞳の混血少女。リフルよりも幼く見えるが、アスカと同じ年で、おまけにセネトレア王都西裏町の支配者である情報請負組織TORAの頭だと言うのだから本当に外見詐欺だ。


「トーラ?!」

「リーちゃん、やっと身体も本調子に戻ったんだもん。僕との約束覚えてるよね?」


 目を見開いたリフルの手を手袋越しに掴んでぐいぐいと扉の外へと連れ出していく。


「君の無茶はいろいろ聞いてあげたからねぇ。ちゃんと払って貰わないと。ってことでこれから僕とデートに行こうそうしよう!」

「と、トーラ……その、アスカも一緒に……」

「保護者同伴のデートなんか御免だよ。それじゃどっちのデートだかわかったもんじゃない」


 騒がしい子供(外見詐欺)二人が消えて、アスカ一人取り残された部屋に第三者の声が届いた。それはこの部屋の奥からだ。振り向けばいつの間にか現れたのか三人の人間。


「くそっ、リフルの奴……マスターと、デートだと?くっ、酷いですマスター……僕というものがありながら」

「まぁそう言うな蒼。姫様には姫様の考えがあってのことだろう。それから姫様は私の姫様だからそこだけは訂正してもらおうか」

「……で、お前らはそこで何やってんだ?」


 扉の影から悔しげに歯噛みしている少年と、それを宥めつつ牽制する少女。

 少年は青い瞳に深い緑の髪、少女は赤い瞳に鶸色の髪。そのどちらの髪色も純血のそれとは異なる。トーラ治める情報請負組織TORAの幹部にして裏組織の暗殺者。後天性混血児である二人は生まれは純血だったため、目の色はカーネフェル人、タロック人のそれをそのまま宿した色だ。大分会っていないにもかかわらず、前と見た目が変わらないのは彼らも同じ。混血特有の症状だ。


「そういうアスカこそ。何そんな気持ち悪ぃ顔してんだ?」


 そこにいる中で唯一の純血。黒髪黒目のタロック人の少年が失礼極まりない言葉をアスカに投げかける。


「お前は相変わらず俺には容赦がないな、フォース……少しは年を重ねて礼儀とか身につけてもいいんじゃないか?」

「だって俺アスカには別に恩とか借りとかないし。リフルさんにはあるけど」


 外見だけは立派になって。背なんか随分伸びた。それでも減らず口は変わらない。変わったと言えば、脇に差している刀もか?以前はそんな物を所持していなかった。何処にでもいるような農民の子供だったフォースも、こんな所に居座るくらいだ。離れている間にいろいろあったのだろう。子供には似合わないはずの凶器が彼に違和感なく融け込んで見える程度には。


「まぁ、粗方あれじゃない?瑠璃椿の頃みたいにべったりされて悪い気してないんだろ?この純血野郎は」


 蒼薔薇(あおそうび)ことハルシオンという名の少年混血も、フォース同様肩をすくめてアスカを笑う。

 瑠璃椿(るりつばき)。かつてリフルが名乗っていた奴隷としての名前だ。そんな彼に今の名前を贈ったのはアスカ自身だ。


「まぁ……ただ懐かれるくらいなら幾らでも歓迎するんだが。そういう風には見えなかったな」

「え、アスカが何かしたんじゃないのか?」


 アスカの呟きに、フォースが灰色の瞳を丸くする。


「どういう意味だ?」

「最近リフルさんおかしいじゃん。それを聞くにも本人が傍にいたんじゃ聞き難いだろ?」

「ああ、そういうわけであの虎娘使って引き離したのか」


「ああ。役得だって喜んでたけど」

「そ、それは心優しいマスターの社交辞令だ!」


 フォースの言葉に食ってかかるハルシオン。この青目の少年はあの虎娘をとことん慕っているらしい。その相方である少女は顎に片手を添えながら物憂げな表情だ。


「……しかし君に心当たりがないとなると、彼は一体何のつもりなのやら」

「マスターが上手く聞き出してくれればいんだけど……」


 二人の混血の言葉の端々から、リフルに対する僅かな思いが感じられた。彼らもそれなりの付き合いだ。彼を心配してくれていたのだと気付くと、アスカの中に感謝の念も僅かに浮かぶ。


「……一時とはいえ、彼は君の奴隷だったのは事実だ。その認識はなかなか覆らないものなのかもしれないな」


 鶸紅葉が溜息を吐く。それにハルシオンも頷いて応える。


「そうそ。あいつ全然弱い癖に、あの頃みたいな目してる。あれ……危ない目だよ。あの頃みたいに何しでかすかわからない。幸いあんたにべったりなんだから、そうさせといてあんたが監視するくらいのつもりでいればいいんじゃない?」

「え……じゃあ解決策、今のところ……無し?」


 現状維持の案に、フォースは納得いかない様子だ。それだけあいつを心配しているのか。この二人の比ではない。ここの中じゃリフルに出会ったのは一番遅かった彼なのに。


「そうは言うけど、他に何か方法がある?ないだろ?」

「……う、……まぁ、そうなんだけど……」


 それでも青目の彼に強く言われれば引き下がるしかないようだ。フォース自身、他に解決策を見つけられなかったのだろう。

 それでも諦めきれずに、噛み付くようにアスカに一言投げかける。


「アスカ、……ほんとに何にも心当たりないのか?」

「んなもんねぇよ」


 そんなもの、こっちが聞きたいくらいだとアスカも重いため息を吐く他なかった。


 *


「リーちゃん、最近ちゃんと寝てる?疲れ取れてないんじゃない?」


 顔に浮かんだ僅かな疲労と、意識していてもおぼつかなくなるその足取りに、彼女はすぐにそれを見抜いた。

 そのまま仕事に行っても失敗しかねないとトーラが唇を尖らせる。

 そう言えば彼女の言うよう、菓子を奢るという話になっていた。約束をしていた。連れられてきた店はそれなりの人だかり。その騒がしさに頭痛が走る。

 それに気付いたトーラが片手を振るう。数字が走る。展開される。街中の喧噪が一瞬にして静まりかえる。聞こえるのは彼女の声だけ。数術だろう。


「疲れたときは甘いものに限るよやっぱり。ほらリーちゃんも食べて食べて」

「あ、ああ……」


 フォークを手に取ったのを見計らい、トーラが口を開く。此方が何に悩まされいるのか見透かしたまま。


「……リーちゃん、あれは仕方なかったんだよ」

「わかってる。わかっているんだ……。それでも私は……私を許せない。…………私は……アスカが生きていて良かったと、本当に、そう思った」


 こんな自分を庇って大怪我を負った彼。あの時は目の前が真っ暗になった。生きていてくれて良かった。目覚めて傍に彼を見つけて、本当に安堵したのだ。それなのに、その瞬間体中の血が凍り付くような衝撃を受けた。


「トーラ。あの少女は……リリーは事故死ではないんだろう?」

「……リーちゃん」


 名前を呼ばれる。それだけで答えがわかる。言葉に宿った戸惑い……それは全ての肯定だ。

 君は気付いていたの?そんな疑問と衝撃を抱えた虎目石の瞳が僅かに揺れる。


「私は怖い。アスカが怖い。私が目を離している内に、何処かで誰かを……罪のない人間に手をかけるのではないかと思うと……、私なんかのために……そう思うと、私は私が許せない。今すぐにでも消えてしまいたい。そう思うんだ」

「リーちゃん……」

「私さえいなければ。彼に出会わなければ。彼の人生の中に私さえいなければ、彼はここまで落ちてこなかった。人殺しになんかならずに済んだ」


 いつもは思うのに。この眼を閉じて、この眼が二度と開かなければいいのにと。早く、もっと深く……眠ってしまいたい。もっと遠くに沈んでいきたい。二度と浮かぶことがないように。

 それが今はおかしいんだ。どうしたことだろう。この眼を閉じたくない。閉じるのが怖い。恐ろしい。自分がそうしている間に、誰かが死ぬんじゃないか。彼が、また誰かを殺してしまうんじゃないかって。そう思うと、死にたいのに、まだ死ねない。まだ許されていないのだ。死んではいけないのだ。


 *


(……こんな状況で仕事なんかして大丈夫なのかな本当に)


 リフルの仕事を手伝うというアスカと彼を二人きりにするのはいろいろ心配で、フォースもそれに無理を言って加わった。

 仕事の内容も以前と変わった。以前はリフルが標的を殺し、聖十字に奴隷達を保護させる方法を採っていた。しかし聖十字が奴隷商とグルだと解った以上、もうその手は使えない。保護した人間達を安全な場所まで導かなければならないのだ。シャトランジアへの亡命という策が使えない以上彼らを受け入れる場所が必要。その場として復興させた旧ライトバウアー、現迷い鳥という街。仕事の度に彼らをそこまで連れて行かなければならないわけだ。

 それは大仕事。仕事の度に何十人という大勢の人間を数術で運ぶのはトーラ達数術使いにも負担が大きい分、それは使えない。精々追っ手を撒くための視覚数術あたりが限度だ。

 それだけの人間を運ぶには馬車も用意しないと行けないし、退路の確保も大事な仕事。

 これまでリフルが殺して、後は彼一人が逃げるだけで終わっていた仕事。それが今ではもう出来ない。彼一人にこれだけの仕事をさせるわけにも行かないし出来るわけもない。


「ほう……混血か。なかなかいい目をしている」

「ええ、そうでしょう。奴隷になりたて。今朝競り落としてきたばかりの新物です。身の程というものがまるで解っておりません。私どもも手を焼いておりまして……ですがお優しい侯爵様の話を耳にしまして、侯爵様ならばこれを上手く飼い慣らしてくださるのではないかと」

「はっはっは……気に入った!よしコレを私が買ってやろう!」

「ありがとうございます。今後とも何卒ご贔屓に……」


 リフルの情報を得るためだけに、しばらく奴隷商の下で働いていたアスカだ。標的相手に取り入る術にも長けている。自身が奴隷商になりすまし、奴隷に変装したリフルを口車匠に引き渡す。後は潜入したリフルが暗殺担当。自分たちは奴隷保護と退路確保を担当することになっていた。

 けれど、リフルと離れたアスカの様子がおかしい。落ち着きがないというかなんとういうか。今の今まで完璧に商人を演じきっていた彼が苛々とした気分を隠すことなく表に出している。


「アスカ、仕事仕事!」


 上手く取り入ったお陰で、貴族の屋敷に一晩の宿を借りるところまで成功。そこから屋敷を探索しつつ自分たちの仕事を始める手筈。


「大丈夫かあいつ……しかしほんとろくな人間いねぇなこの国。俺の主をあんな薄汚い目で舐め回しやがって……」


 視線一つで何を考えているのか察していたらしいアスカは苛々と歯噛みを続ける。


「そりゃリフルさんの邪眼ってそういうものだし、仕方ないって」


 元々彼の邪眼の力は魅了能力。人の欲を刺激して触れさせるための力。普通の人が持ってても本人の災難でしかない力。それでもそれが暗殺者として使えるのかというと、彼の身体が猛毒だらけの毒人間だからこそ。


「ぶっちゃけた話、俺があいつ引き渡す振りするときに近づいてそのまま斬り殺した方がよっぽど早いし効率的だと思うんだが」

「そういうわけにもいかないだろ。昼間は目立つし、あの人は標的以外の人間は殺したがらないし、使用人とかの被害は最小限に留めたいんだよ」

「はっ……こんなところで働くような人間だ。同じ穴の狢だ、どうせろくな人間じゃない。見て見ぬ振りして、それに胡座かいてるような人間も同罪だろ」

「アスカ、そういうことリフルさんの前で言うなよ。絶対あの人怒るから」


 主可愛さからか、アスカの発現は過激さを増す。それにフォースが覚える違和感。

 出会った頃のあの青年は、こんなことを言う奴だっただろうか?面倒臭そうに怠そうにはしていたが、何だかんだで面倒見の良い奴だった。フォースの持ち込んだ依頼を引き受けてくれたのも彼だった。


「なんか、アスカ……変わった?」

「俺がか?それはお前のことだろ」

「……いや、変わったよ。前のアスカは、確かに口も目つきも悪いけどそんな簡単に人の死を口にする奴じゃなかった気がする。そりゃあの頃だってリフルさんのためなら何しでかすかわからないような奴だったとは思うけど、ここまでじゃなかったと俺は思う」


 今のアスカは平然と死を語る。そこに何も感じていないかのように。その証拠にもう一つ……再開する前彼が居た場所。それはあの商人組合に属する商人の下だ。それは彼の心情に大きく背いている。


「だってアスカの請負組織は、人殺しと奴隷貿易には関わらないってやつだったじゃん」

「………まぁな。……そうだな。慣れちまったのかもしれないな。前まで卑怯な仕事はしてもやっちゃいけないってものの線は引いといて。その線越えた金であの人の情報買ってもあの人の誇りを汚すだけだと思ってて……それが綺麗事じゃ全然何も情報が手に入らない。この際どんなことをしてでも……俺は知りたかったんだ」


 トーラにリフルが頼んだのだと聞いた。アスカは邪眼に強く掛かっている。リフル自身がそう感じているから彼に会うことだけは本当に嫌がっていた。

 アスカは子供でも混血でもないから、邪眼の魅了にはばっちり掛かってしまう対象内の人間だ。リィナやディジットのように強く心を傾ける相手もいない。だから例外にもなれない。

 それにいくら会いたいからって、心配だからってここまで仕事を選ばない彼の行動力。そこに邪眼の力が働いていないと否定する方が難しい。それを彼が認めるか認めないかは別として。


「それで汚ぇ仕事に手ぇ出して、商人の護衛ってことで何人か斬った。意外と大したことなくて、ああこんなもんか。そんな風にさえ思った。俺は今まで一体何を恐れていたんだろうって自分を嗤ったくらいだ」


 慣れるという言葉に、狼狽える心があった。自分の中にも。

 アルタニアでの処刑人の仕事。自分は慣れてはいなかったか?そうだ。慣れてきていた。人はどんな環境にも状況にも、いつか慣れてしまうものなのだ。


「……そうだね。だからあの人は凄いんだと俺は思う」

「フォース?」

「リフルさんはさ、見た目も変わらないけど中身も変わっていないんだ。本質っていうんだっけ?そういう感じの」


 彼は自分を優しいと言ったけれど、優しいのは彼の方だ。彼は悪人の死に泣くことはないけれど、残された者のために心をいつも痛めている。


「あの人は俺よりももっと長い時間、多くの人を殺してきた。それなのに、まだ慣れてはいないんだ。酷いことをした奴には本気で怒る。殺すことを厭わない。その死を悲しむことはきっとない。それでも……それで本当に良かったとはあの人は言わないんだ」


 あの人はそれで気が晴れたとか、そんな顔をすることはない。もっと重いものを飲み込んでしまったように暗い顔になるんだ。


「アスカはさ、自分が殺した相手の繋がりを考えたことはある?」

「繋がり?」

「家族とか、兄弟とか恋人とか……友達とか」

「……お前は?」

「俺は考えたことはないよ。そんなの考えたら殺せなくなる。抱えきれない。俺が立っていられなくなる。だからそういうことはあんまり考えないように仕事をしてきた。唯、俺は俺を拾ってくれた人の役に立てるのが嬉しかった。その気持ちの方を優先したかった」


 おそらくアスカもそんな人間なんだろう。罪悪感よりも大事な感情がある。優先すべき何かがある。だから躊躇わない。厭わない。だけどそんな彼を見ている彼は、どんな気持ちなんだろう。殺さなきゃ止められないものもあるのは本当だけど、絶対に正しいっていう殺しは無いってあの人は考えているような気がする。


「リフルさんはさ、俺を全然頼ってくれない。剣なら俺の方がずっと強いし力だって俺が勝ってる。それでもまだ俺を子供扱いするんだ……それは俺が頼りないからだと思ってた。だけど違うみたいなんだ」


 彼は認めてくれている。それでも頼ってはくれない。そんなことはしなくて良いとあの人は笑うのだ。弟扱い、子供扱い。そうするのは、彼は自分にそうあって欲しいのだ。とうに汚れた子の手の俺に、それでも子供として生きていて欲しいのだと、あの目は微笑む。

 お前は何も悪くないと口にして、この手の罪をこっそりその手に奪い去り、俺を子供に帰そうとする。


「あの人はさ、俺に人殺しをさせたくないんだ。たぶんそれはアスカにもだ。勿論俺よりリフルさんよりアスカは強いけど。だから弱いあの人がアスカを守るには自分が頑張るしかないって……思っちゃってるんだろうな」


 そう言うときこそ、自分を頼って欲しいのに。彼がそうすることはない。


「どうすれば、あの人の役に立てるのか……俺、全然わかんねぇ……」


 アルタニア公は分かり易い人だった。命令を忠実に守ること。それが彼への信頼に繋がる。命令違反こそが裏切り。これまで唯命令通りに従ってくればそれで良かった。それでも今度はそうはいかない。


「ま、とりあえずは仕事すっか。あいつの足を引っ張るわけにはいかねぇからな」


 人が割と深刻な悩みを口にしたというのにこの男は。相変わらずいい加減な返事で先を促す。扉を開けてさっさと部屋の外へと歩き出したその背を追って、フォースも部屋を出る。

 その瞬間だけ、出会った頃に時が巻き戻ったような錯覚に襲われたが、携えた愛刀の鎖が鳴る音が、それは錯覚なのだと教えてくれた。

 そうだ、自分は変わった。戻れることはないし、もう変える場所だってない。だから今を今を……ひたすら進んでいくだけだ。


「ん、何だこの部屋……」


 鍵が掛かっていなかったその部屋は、あっさりと姿を現した。そして丁度良くそこに通りかかった使用人が歩み寄ってくる。


「あら、お客様……どうかなさいました?」

「いや、お借りした部屋にトイレがなかったもので。ちょいとそれを探しに」

「ああ、それでしたら此方に……ああ、驚かせてしまいました?主様ったらまた……」


 部屋の中を見た使用人が苦笑する。苦笑で済ませるのか。済ませて良いのか?アスカの言うよう、やっぱり使用人も使用人なのかもしれない。


「いや本当商人様には感謝してますよ。あんないい奴隷を持ってきてくださったんですもの。しばらく主様の機嫌が悪くなることはありませんわ。使用人達もみんなよろこんでますのよ。あの方は機嫌が悪くなると、使用人さえ手に掛けるお方ですから」


 斧に鋸、伐採用の道具が所狭しと並べられているその部屋。鍵が空けっぱなしで、床には散乱する道具達。誰かが大急ぎでここから何かを持ち出したような。崩した道具に目もくれず、もっと大切な何かの元へ向かったことがそこから知れる。


「今度の奴隷が駄目になったら、また良さそうなのを持ってきてくださいませね」


 ああ、この笑顔を自分は知っている。これは生け贄を捧げる言葉。アルタニアで何度も見た表情。罪のない罪人を番犬に引き渡す、金に魅せられた聖職者共と同じ笑み。

 そこから何か危険な臭いを察したのか、アスカが突然踵を返す。


「ちょっと、アスカ!!」

「そっちはお前がやれ!いいなっ!」

「やれって言われても……」

「どうなさったんですか彼……?」


 突然走り去るアスカに使用人も瞳を瞬かせる。尋ねられたフォースも似たようなものだ。

 間に合わなくなったんで外まで出かけたんじゃないですか?

 そう返すしかなかった。


 *


「ここは一体何なんだ?あの貴族は一体?」


 尋ねても子供達は震えるだけ。上手く言葉も発せられない様子。これでは埒があかないと、散々生意気な口をわざと聞くことで、あの貴族の関心を引いた。目立つことでわざと目に止まる。そうすることで他に飼われていた混血達を今日のあの変態の標的から外すことに成功した。

 檻の中から出されて連れて行かれた先。仰向けで診察台のような机の上に繋がれる。

 目に映るのは不快な景色。それを見る気もしなくて目を伏せていてしばらく。出かけていた男が息を切らして帰ってきた。


「ほぅ……こんな肝の据わった奴隷は初めてだ」


 凶器を片手に男が軽く目を見開いた。しかしそれもすぐに歪な笑みに塗り替えられる。


「だが、その顔が何時まで続くか。楽しみだよ実に!大いに!」


(……なるほど、こういう部類の変態か)


 王都からそれなりに離れた場所での仕事。情報不足が否めなかったが、行動に移したのは、その被害が尋常ではなかったからだ。地方の辺境でひっそりと悪事を企てるものもいる。危険に踏み込まなければ何も救えはしない。それが解った。だから情報が完全に揃う場所でなくとも向かわなければならない。急げば助かる命だって確かにあるのだ。

 混血一人の値段は数億から数十億という大金だ。それを一気に何人も購入したというこの貴族の話。それも一度や二度ではない。その資金がどこから来るのか。普通の貴族ならもう破産しているような人数だ。これはただ事ではない。それを察し、トーラに無理を言ってこの仕事へ挑んだ。

 男の手には大きな鋸。通された部屋には無惨な姿の剥製達が並んで飾られている。どの剥製にも両腕と両足がない。俗に言う達磨だ。そしてどの子も眠るように瞳を閉じている。

 鼻から香る不快な臭いに浮かんでくるのは恐怖などではなく、憤り。ああ、もっと早く来ていればここに飾られていたそれの数ももっと少なかった。もっともっともっともっと早く来ていれば、誰もまだ死んでいなかったかもしれない。


「何故、こんなことを?」


 じっと男を見つめる。目は逸らさない。邪眼にじっくりかけてやる。


「何故って決まっているだろう?その方がみんな良い声を上げる!みんな良い顔をするんだ。そしてそれを永遠に留める。この剥製が証拠。私とあの子達が愛し合った証だ。死は停滞。絶対に裏切ることのない永遠の愛。なんと美しく、素晴らしいことだろう?そうは思わないか?」

「……下らんな」


 人の心変わりを全て他人のせいにする下賤。繋ぎ止めるだけの何かが自分の内に果たしてあったのか。金で人の心まで従えることなど出来はしないのに。自分がない人間には、人の心がない人間には、奴隷だって従うものか。


「何だと!?口の減らない奴隷めっ!い、今に見ていろ!この私に許しを請うようになるんだからなお前は!ははははは!勿論止めてやったりは……」

「下らないものを下らないと言って何が悪い。許しを請う?この私がお前などに?嗤わせるな。そんなことは絶対にあり得ないよ。例えこの手足をもがれたとしても、私はお前を嗤い続ける。その程度の言葉で愛など語れるものか。痛みと恐怖で買える程永遠の愛とやらは安いモノなのか?それは初耳だ。これは驚いた」


 安い挑発。それに男は乗ってくる。もう眼を逸らせない。それを見計らって、指先に記して貰った数式を破壊。視覚数術を解除する。


「刻んでみるか?私の腕を、私の足を。この肌にその凶器を埋め込んで、引き裂いてみるか?その度に私はお前を罵るな。そして愛してなどいないと叫んでやろう」


 銀色の髪と紫の瞳。元の色を取り戻した姿から発せられる邪眼はこれまでの比ではない。


「哀れだな。人の手に拒絶されたか?足に逃げ出されたか?そうでもしなければ誰もお前を愛さないのか?試してやろうか?腕を、足を切る前と切った後。そのどちらの方が私が良い声で鳴くのか。どんな顔で笑うのか。見ては見たくはないか?比べてみたくはないか?」


 切り刻みたいという欲求を、邪眼をもって別のものへと変えさせる。この毒に触れたいという気持ちにすげ替える。何、突き詰めれば同じ事。あっさり男は此方へ傾く。その手から凶器が外れ、床へと落ちる。これで今日の仕事も終わったようなもの。そう思った。けれど忘れていた。基本的に……


(そうだ。私は運が悪かった)


 床へ落ちた凶器の音は大きすぎる悲鳴によって打ち消された。男は落とした凶器で自らの足を傷つけた。怒りは恐ろしい感情だ。他の全ての感情を一瞬にして吹き消して、それ一色に染め上げる。

 自分がこれまで他人にしてきたことも忘れて、男はその痛みに悶絶する。足の指を切ったのだ。男はその痛みより怒りに支配された。痛みから逃れるために、怒りをぶつける先を見つけた。

 乱暴に叩き付けられた凶器が皮膚に食い込む。元々鋸とは引くものだ。適当に下ろしただけで切断するには至らない。精々血を流すだけ。

 もう一度凶器を手にとってそれを思いきり振り上げようとした男。その身体が傾いで倒れる。絶命した重い身体が盛られ掛かって来てとても不快だ。


「無事か……リフル」


 耳に届いたのは他の仕事を任せていたはずの彼の声。遺体をさっさとどけて床へ落として、リフルを鎖の縛めから解き放つ。

 より濃くなった血の匂いが鼻孔を擽る。それに紛れて感じる毒の香り。嗚呼そうだ。彼の剣の一つには毒が塗ってあったはず。嫌、今用いたのがそれではなかったのだとしても転々見事な太刀筋だ。一撃で殺したのだとそれが解る。自分には真似できない。短剣を扱うのがやっとの自分では。こんな風に人を殺めることは出来ない。

 彼は本当によかったと言わんばかりに、息を吐く。無事を喜んでいてくれる。気持ち的にはそうだ。もし自分がここに来て、まだここの剥製の一人が無事だったなら同じ事を言ったかもしれない。安堵したかもしれない。彼のように。

 彼に助けられたのは事実だ。それでも、逃げ出す術も、戦う術も自分にはあった。唯、少しばかり運が悪かっただけ。それなのにこんな風にされるのは……自分が彼がいないと何も出来ない人間だと言われているようで気に入らない。彼は自分を守ることに満足しているのかもしれないけれど、そんなのは嫌なのだ。守られる側の気持ちを、彼は解っていない。

 守って死ねれば満足だなんて、そんなのは彼のエゴだ。レフトバウアーでリフルが味わった気持ちをアスカは理解していない。

 彼を死なせるくらいなら、守ってもらいたくなどない。これまで自分一人でしてきた暗殺という仕事の領分まで侵して、守りに来る彼。自分が傍にいなければ、守ってもらわなければ駄目なんだろと言い聞かせるように。


(違う、違う……そんなの違う)


 私は出来る。これまでだって出来ていた。


「……リフル?何処か怪我したのか?待ってろ俺が今……」

「大丈夫だ。大丈夫だから……私は、私は……」


 お前なんかいなくても。その言葉をそれ以上告げることは出来なかった。本当に心配そうに此方をじっと見据える緑の瞳を前にしては、もう何も言えない。

 その目を前にして……それでも「本当に、そういうのは止めてくれないか?」そう伝えられたらいいのに。

 どうしてそこまでこんな自分を優先させる?大事に大事にして、守ってくれるんだ?そんな価値は自分にはないのに。そこまで彼は、この眼に毒されてしまっているのか?

 本当は、彼の優しさを受け取るべき人間は他にいる。いたはずなのに。それをその可能性をこの眼が奪って潰しているのだ。


 彼が駆けてきた道。その目印のように横たわる人間達。この部屋の見張り達だ。何も殺さなくても良かったはずだ。他にもっと方法があったはず。

 心配してくれたのはわかる。それは嬉しい。それでも……だからって、こんな方法。そこまで何も見えなくなっているのか?

 彼は自分には変わらず優しいままだけれど、昔の彼はこうではなかったはずだ。もっと多くのものに優しく出来ていた人間ではなかったか?

 そんな彼だから。そんな彼だったからこそ、自分は彼を信じた。そんな優しい彼になら、奴隷として仕えるのも悪くないと、そう思ったこともあったのに。

 此方が涙を浮かべると、慌てだし心配し出すその表情は、全然変わらないというのに。


(やっぱり……会ってはいけなかったんだ)


 だから避けていたのに。どうして追ってきてしまったんだ。

 今の彼から逃げることは許されない。目を離したら、もっと彼が暴れ出す。何処の誰に手を掛けるかわからない。彼を止めることが出来るのは、自分だけだというのがリフルの見つけた答えだった。どうすれば、いいのかわからない。どうすれば元の彼に戻って貰えるのかわからない。唯、離れたら悪化するのは解る。それでも絶対に回復はしないのだ。それだけでは。



 *


 何時の間にそんなものを覚えたのか。馬を操るのはアスカだ。器用な男だ。割と何でも出来るのだなと心のどこかでぼんやりと感心する。

 アスカは嬉しそうだ。鼻歌でも吹きそうな勢いだ。本人的には危機一髪の所を颯爽と駆けつけて助け出したように認識されているのだ。確かに助けられたのは事実だから強く反発出来ないが、あそこでリアルラックの低さが出なければこんなことにはならなかった。

 だから俯いていた。俯いた先、視界の端に映る後方の空白。

 そこまで多くの生きた混血が捕らえられていた訳ではなかったから、馬車には幾分余裕があった。その余分が歯痒い思いを呼び起こす。この空白には重さが漂う。助けられたかも知れない命の空白だ。

 小さく吐いた溜息。それに彼が気付いたようで何やら言ってくる。


「そんな落ち込むなよ。失敗くらい誰にでもあるだろ」


 アスカの言葉。それは事実。それでもだからこそ腹が立った。慰めの言葉だって時には人の神経を逆撫でする時はある。


「今まで私一人でやっていた仕事だ!殺し自体に手助けは要らない。アスカ達には奴隷保護と退路確保を頼んでいたはずだ」


 助けられたことが不満なのではない。それだけならまだいい。問題は別の所にある。

 助けられてしまうことで、また自分は彼に人を殺させてしまったのだ。自分が許せないのは彼の行動ではなく、彼にそうさせてしまった自分の不甲斐なさを許せないのだ。

 そのはずだ。そのはずなのに、逆撫でされた神経は、苛立ちのまま乱暴な言葉を解き放つ。


「アスカ、お前の主は誰だ?お前が私を主としたのだろう?それなのにお前は仰ぐ者の命令一つ守れないのか?」

「……リフル?」

「私は……何を言っているんだろうな。すまない、忘れてくれ」


 一瞬でも自分が彼を手下扱い道具扱いしてしまった。恥ずかしいことだ。何を思い上がったことを口にしているんだ。彼は人だ。人間だ。命令なんかで縛って良い存在ではない。

 そのまま互いに一言も発さないまま馬車は進んだ。トーラに指示された場所まで人を運ぶ。

 トーラの所有するそこそこ拾い隠れ家の一つ。そこで待機していた彼女の部下に後を頼んだ。助け出した彼らを休ませる必要もあったし、それなりの距離もある。後は数術のエキスパート達に任せる方が安心出来る。

 邪眼以外の数術を持たない自分では、視覚を誤魔化すことなどトーラの力添えがなければ出来ない芸当。迷い鳥に移動させるのはまた今度になりそうだ。

 勿論あの屋敷もそのままになどはしない。悪徳商人を追ってきたという名目で、聖十字に化けた後方支援の者の手で、屋敷の側索、情報収集に当たらせた。そこで偶然にも得体の知れない殺人事件が起きていたなら、残された者達は正義の使者に縋り付きたくなるものだ。我が身可愛さからボロボロ情報を漏らしてくれるはず。

 辺鄙な場所である分、本物の聖十字がそれに気付くまで時間は掛かる。その前に消えてしまえば良いだけだ。初の大がかりの仕事としては上出来な方だ。そう、仕事自体は成功したと言って良い。それでもそれを手放しに喜べないのは、どうしてなのだろう。


 *


 あの仕事以来、大がかりな仕事でない……以前は一人でこなしていた程度のレベルの仕事でも、アスカとフォースは仕事について来たがった。

 フォースはまだいい。駄目だと言えば悲しそうな顔をするけれど、まだ素直に引き下がってくれる。ついて来いと言えば、言われたことをちゃんとこなしてくれるし、やりすぎると言うこともないから、彼の助けは有り難い。退路確保にも眠り毒を用いるくらいで、人を殺して止めたりしないから、こちらも安心して任せられる。

 しかし問題はアスカだ。基本的に彼は言うことを聞かない。


「五月蠅い。私のことは放っておいてくれ」


 そんな風に十何度目かの仕事の後だ。帰ってきて早々に……アスカにそう告げた言葉は、リフルに取って本心だった。


「そういうわけにはいかねぇだろ!」


 そうだ。此方としても、そういうわけにはいかない。離れたい。だけど彼を放っておけない。目を離せない。そうしたら……彼はまた、誰かを殺してしまう。


「ちょっと……アスカもリフルさんも、喧嘩止めてよ」

「リフル……お前最近無茶し過ぎだ。怪我ばっかじゃねぇか。手当てするから見せてみろ」

「私に触るなっ!」


 確かに多少、無茶はした。気負っていた。だから怪我をしてしまった。そんなことが最近増えた。でもそうしなければ、彼の暴走を止めることが出来ないのだから仕方がない。

 此方に手を伸ばす彼。毒を理由に逃げようとするが、もはや彼には通用しない。


「はいはい。そう暴れるなって。俺とフォースはお前の毒にやられたことがあるんだ。そこで生き延びた分抗体がある。お前の毒は絶対な分、一回そのお前自身に解毒された奴には即死までの効果はないはずだ」


 掴まれた腕が痛む。


「っ……」

「リフル……?」


 一瞬、苦痛に顔を歪めてしまったのに気付かれてしまった?きっとバレた。彼は自分をよく見ているから。


「……これは、毒のために切った奴だよな。昔より、浅いな。あの頃は、もっとざっくり切ってたよなお前……痛くもかゆくないってくらいに」

「…………」

「痛覚、戻ってきてるのか?」


 毒の副作用だと思っていた。切っても斬られても痛みを感じないのは、毒がそれを誤魔化してくれているからなのだと思っていた。だけど、それは違ったのだ。

 トーラが、洛叉が神と呼ぶ者。この世を統べる、数値を操るその存在。世界は仕組まれている。この自分の身体のことまで、奴らはそう……仕組んでいたのだ。

 痛覚がなくなっていたころは、どのくらい刺せば死ぬのかわからなかった。だから何度やっても失敗したんだ。何度死のうとしても死ねなかった。だけど……今なら?

 痛みが分かる。何処までの痛みなら、死ぬことが出来るのか。それが解るということなのだ。


(私は……ようやく解放されるのか?)


 近づいている。その時が。死ねる身体にようやくなれる。それは歓喜だ。救いだ。贖いだ。この眼を閉じて、そしてお終い。それが二度と開くことはなくなるのだ。

 そう思うと、唇が自然と笑みの形を作り出す。それにアスカは眉をひそめる。


「……アスカ、痛い」

「あ、……わ、悪ぃ」


 その笑みで……無意識に腕に力を入れた彼に抗議をすると、手を離す。


「……今日は迷い鳥まで帰る時間がないな。近場でもあるし……ディジットの所を借りることにしよう」


 二人に背を向けて歩き出す。すぐにそれに足音が続いた。それはすぐに追いついて……追い越して、振り返るのは彼らの方。

 背丈も変わった二人。足の長さが違うのだ。時の止まった自分だけが置いて行かれている感覚。こんな些細なことでさえ、世界はそれを私に突きつけるのだ。


(そうだ。私はもう……止まっている人間なんだ)

 

 この身は屍。生きるべきは成長し、老いていく彼ら。それが未来のあるべき姿。そこに……私はいてはいけない人間なのだと自覚している。

 もうすぐ、きっと鐘が鳴る。全ての終わりを知らせる鐘が。

 ようやく終わる。もう何も悩むことはない。本当に、終わるんだ。


 *


「最近あいつ、前にも増してツレねぇな……」

「それは半分アスカ君のせいだと思うよ」


 カウンター席でふて腐れたように独りごちる自分の横に、腰を下ろす混血少女。金色の髪に虎目石の瞳の情報屋。そういう彼女の方も、大分ふて腐れているようだった。

 これが好意を寄せている肝心の相手が、なんというか……様子がおかしいのだ。そりゃあこいつもそうなるだろう。

 仕事を終えた自分たちが本拠地まで戻らないことを察して先回りで出迎えるというこの少女にしては献身的な行動だったが、それにも彼はつれない様子だ。今日はもう休むと言って借りた部屋へと消えていった。


「ディジットさん!僕にはこの季節のフルーツもっさりジューシーカクテルで!」

「それ結局もっさりしてんのかジューシーなのかよくわかんねぇ商品名だな。新商品か?しばらく見ない内にいろいろ増えたな」

「アスカ君は何飲んでるの?」

「え、水」

「うわっ!しけてるねぇ……仕方ない。僕が奢ってあげるとするか。ディジットさん!アスカ君にも同じ奴お願いー!……ってあれ?ディジットさん?」

「え、あ……ああ!ご、ごめんなさいね!ええと……何だったかしら?」


 西裏町の店。店主の少女も浮かない顔だ。その横で手伝いをしている混血のアルムも似たような顔。


(やっぱ、すぐにいつも通りってわけにはいかねぇよな……)


 店から人の数が減っているのだ。アルムの片割れであるエルムの安否は知れないままだし、ロイルとリィナも商人組合の方に置いてきてしまった。あの二人なら逃げようと思えば逃げ出せるだろうが、そうしないところに何か理由があるのだろう。リィナの兄が、あの組織の長だったということもそこに起因しているのかもしれない。

 昔なじみが三人も減った酒場は、アスカにも違和感を届けて止まない。ロイル達とは腐れ縁というか……一回仕事で敵対してた時に勝負に卑怯な手で負かしたのが切っ掛けで、それからロイルに何度も決闘を申し込まれていた。それを多少は煩わしいと感じていたが、楽しくもあったのだと気付く。あの五月蠅いのがいないと、この酒場も静かなものだ。

 エルムはそう目立つ子供ではなかったけれど、皮肉なものだ。いればいたで誰も気にも留めないが、いなくなったらこんなにディジット達が沈むんだ。いなくなるまで誰も彼の存在の重要性に気付かない。彼は可哀想な子供だ。

 それでも何も悪いことだけではない。自分にとっては。テーブルに置かれた酒を呷れば、少しは気も軽くなる。そうだ。良いことはあったじゃないか。


(リフル……)


 ずっと探してた。一年半も自分は彼を見失っていたのだ。あの九年間に比べれば、瞬きの一瞬のような短い時間だったけれど、二度も彼を失うのはとても辛いことだった。

 毒と、混血特有の呪いのせいで……成長の止まった彼は、見失ったときと変わらぬ姿で俺の前に現れた。唯一変わっていた所は、髪の長さだろうか。腰まで届くようなあの長くて綺麗な銀色の髪。それを彼はばっさり肩まで切ってしまっていた。邪眼の暴走を抑えるのに多少の効果があるとして。


「……言うべきかどうか迷ってたんだけど、いい加減言わせて貰うね」


 以前リフルを連れ出した時に知ったのだろう、最近の彼の行動の原因をトーラが口にする。


「アスカ君。やっぱどうせバレちゃうんだから、最初から嘘なんか吐かなきゃ良かったんだよ」


 全てを見透かすように、重いため息を吐く。彼女は責めているのだ。アスカがリリーという混血の少女を殺したこと。それがリフルの心を傷付けたことを。


「……もうすぐあれから半年だろ?あいつまだそんなこと引き摺ってるのかよ」


 怪我が治って起き上がれるようになるまで二ヶ月。病み上がりの彼を手伝うために仕事に加わるようになってもうすぐ四ヶ月。此方としてはもう遠い記憶の彼方のような話をされてもいまいち実感が湧かない。

 それでも口にすることで思い出す。銀の瞳に水色の髪の混血少女のこと。あの少女は逆恨みでリフルを殺そうとした。あのまま追い返して見逃しても絶対に諦めない。何度も同じ事をするのが目に見えていた。だから終わらせた。ただそれだけだ。


「そりゃ、リーちゃんだもん」

「あれは正当防衛だ。あの女殺してなきゃ、死んでたのはあいつの方だ」

「僕はリーちゃんに死んで欲しくないけどさ、リーちゃんは今でも死にたがっているんだよ」

「だからって……お前があの時あそこにいても、俺と同じ事をしただろう?」

「まぁ、そうなんだけどさ。嗅覚数術を破るってなると、リーちゃん……相変わらず邪眼以外の数術使えないけど、五感で見破る方の力は強くなってるみたい。この僕の誤魔化しを破るって相当だよ?」

「……見破る、か」

「例えそれが逆恨みでも、その始まりが自分の邪眼にある。そして、いかれ数術使いに乗っ取られてもう取り戻せなかったとしても……あの少年の身体を殺したのは確かにリーちゃんだ。彼はあの少女になら殺されても仕方がないと思っていたんだよ。彼がさ、最近君にべったりなのは……君にもうそんなことをさせたくないからなんじゃないかな。そして彼が無茶するのも同じ理由だと僕は思うな」


 だったら、どうすりゃいいんだ。頭の中をその言葉だけが駆けめぐる。どんな情報でも知っているというこの情報屋の少女だって、それを知りはしないのだ。それがどうして自分に解るだろう。

 逆恨みでリフルの命を狙いに来た少女。それを見逃すことが主の思いを尊重すること。それでもアスカは主の命を守ることを選んでしまった。

 死なせたくない。そう思うことが、彼の心を追い詰めてしまうのだとしても……もうあんな思いは御免だ。


「あれ?アスカ君ももう寝るの?」

「いや、まぁな」


 立ち上がった自分にトーラが振り返る。それに適当に言葉を返しながら階段を上る。

 自分がしたことを謝るつもりはない。それでも彼を苦しめたことくらいは詫びを入れておこう。そう思っただけだ。


「…………リフル?」


 ノックするが返事はない。無視される程愛想を尽かされたのだろうか?いや、あいつはそんなふて腐れ方はしない。いるのにいないふりなんて意地汚いことはしない。扉を開ければそこに……


「っていねぇしっ!」


 誰もいなかった。

 疲れたから休むんじゃなかったのか。平然と嘘を言ってのけるようになった彼に、出会った頃とを重ねてしまう。

 道具として、奴隷として役に立とうと無茶ばかり。それでもいつも自分の後をついてきた。それが今では一人でどこかへ走って行ってしまう。置いて行かれたような、取り残されたような感覚がそこに芽生える。昔を懐かしむって事は自分も年を取ったのだろうか。彼が変わらないのは見た目だけ。中身はあの頃とはもう違う。彼の行動一つ一つが、それを無慈悲に教えてくるような気がした。


「……ったく、謝罪くらいちゃんと聞いてくれよ」

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