16:Ad hominem.
「ここが……」
「随分と……まぁ男らしい部屋に住んでんだなあんた……」
言葉に困った主の代わりに、アスカがそれを代弁。同じ感想を持ったのだからどちらが言っても大差ないだろう。
赤髪の少女の後を追い、数十分。辿り着いた建物の一室。東側に宿を持っていたのか。確かに位置的には教会も東側と言えば東側。
「これは凄いな……」
「ああ、並大抵の数じゃない」
脅威の胸囲というかなんというか。そっちの数もだが、本の数の方もだ。少女の部屋とは呼びたくはない代物が部屋の彼方此方に散らばっている。
悩ましげなポーズを取った女の裸体が表紙の、本、本、本。正直こっちが目のやり場に困る。
「ここは私の同僚の部屋。あいつセネトレア任務多いから、教会以外に何部屋も持ってんのよ潜入先。ったく、……借りるかもしれないから片付けとけっつったのに」
「いや、これは埃が積もっていない。ごく最近、わざと配置したように見える」
「だな。寝台の下の段ボールが空だぜ。こっから取り出してばらまいたんだろう。同僚って奴の嫌がらせじゃねぇのか?しかも……」
一冊の本を手に取る。その表紙と少女を見比べる。これは絶望的だ。なんともなしに頷いた口から零れる溜息にギロリと赤く鋭い眼光が向けられる。
「しかも何よ?」
「いや、別に」
この部屋の持ち主も言い趣味してやがる。この女をからかうためだけに、こんなものを散乱させておいたのだろう。
少女は混血。何歳かは知らないが、背はそこまで高くない。成長の止まったリフルと同程度……或いはそれ以下。二人ともブーツで誤魔化しているので正確には不明。もしかしたら逆の可能性もある。
まぁ、つまりだ。背の成長も止まっていると胸囲的なあれも成長不足に陥るのだろう。それ以上は俺の口からは言えない。言おうものなら今度は銃口向けられる。
(ったく、聞いてねぇせ)
この赤髪少女は混血は混血でも後天性混血児なんだと。
ついついアルムを見慣れているせいで、赤い眼の混血は普通の混血だと思っていた。
アルムの赤は特殊な赤。例外中の例外だ。傍で見ればそれが唯の赤ではないことが知れる……スタールビーの瞳の混血児。
それでもこの少女は唯の赤。ありふれた赤。タロックの真純血達が持つ、あの血の色のような赤でもない。平凡なタロック人の赤。それを宿している彼女は後天性混血。
蒼薔薇や鶸紅葉と同じ……身体能力特化型。こっちは騙し討ちが成功しなければまず勝ち目はない。そしてこの少女を騙すには、もう少しこの少女を知る必要がある。
この少女は全く警戒心を解かない。常に殺気を保っている。刃のような鋭さを宿した瞳。迂闊に触れれば切られるのは此方の方だ。
「しかしこれはまた、……高尚な趣味だな」
主はテキパキと散らかった部屋を片付けながらそう呟く。
掃除の方は奴隷癖なのだろう。或いはこんな部屋では真面目な話も出来ないと思ったからなのか。主ばかりに働かせるわけにも行かずそれをアスカも手伝うが、物が物だ。なかなか捗らない。つい手が止まる。こればっかりは仕方がない。
「これだけあって、人妻物はねぇのかよ。これ1頁も載ってねぇ……」
「これなんかどうだ?」
「うーん……悪くはねぇが、これは老け顔なだけだな。もっと妖艶さがねぇと。あとこう……あんまり露出がありすぎても風情がねぇよな。此方の想像力に訴えかけるようなものがなきゃまるで意味がねぇだろ」
「それではこれなんかどうだ?」
「着エロか。悪くないな……むしろ良い。でもこれお前より年下みてぇな顔してるぞ。ちょっと俺はこういうのは無理だわ」
「これはなかなかだぞ」
「SM系か。確かにこれいいな。この出版社でもうちょい上の年齢層の発行してねぇか後で虎娘に調べて貰うか。でもやっぱこれもロリ顔巨乳かよ。俺とは趣味合わねぇなここの住人。あの闇医者とここの持ち主気が合うんじゃね?にしても邪道だな。ロリ顔巨乳とは頂けん。やっぱ妙齢の美女にこそこのバストは一番似合うだろ。合成写真みてぇで抜けるもんも抜けねぇって言うか。つかさっきから俺ばっかなんか暴露させられてねぇ?卑怯だぞ、お前も何か暴露しろ」
「いや、私は昔いろいろありすぎたし今更裸体写真ぐらいでは何とも思わんというか何というかむしろ好みの嗜好の本でもないのにそこまでたかだか本で興奮できるお前が羨ましいというか眩しいというか何というか何だろうなその」
「すみませんでした」
「いや、お前に謝られてもな。そうか、暴露か。この頁のこの縛りとか、ああこっちのこのプレイとかさせられたことがあったな。これは痛かったがこっちのはなかなか……この体位は……」
「止めてくれぇえええええええええええええ!嫌ぁあああああああああああああああ!俺に聞かせるなぁあああああああああ!俺のリフルがあぁあああああああああああああ」
「別に今の私はお前のではないのだが。瑠璃椿でもなくなったことだしな」
「あ……ぁあ、……()の中に主のと入れといてくれ」
「了解した」
「あ……そだ。物は試しに、後学のために聞いておきたいんだが、縛りはどれがお勧めなんだ?」
「見る側が愉しめるのはこれとかだが、される方は柔軟性がなければ手や足を痙ることがあるから注意した方が良い。そうだな、状況にもよるが……確かにこれは練習が必要だが、それを感じさせずに何食わぬ顔でこの縛り技を繰り出したなら個人的には高得点だな。しかしアスカ、お前は聖教的に婚前交渉はしない派なんだろう?いきなり初夜で嫁にこれを酷いと思うぞ。翌日には逃げられかねん。自重しろ」
「ああ、なるほどな」
「そうだな。初回ならこの本のこの頁なんかどうだ?あまり冒険心を出し過ぎるのもいけないが平凡すぎてもあれだろう。このくらいあれな感じだとわりかし良い印象を与えるのでは。後お前は無駄口が過ぎるから最中もそんな感じでは愛想尽かされるだろうからそこも自重した方が良い。的外れな言葉攻めほど痛々しい物はないからな、あれは二重の意味で拷問だぞ」
「あんたら後三秒以内にその猥談止めないと右の耳から左の耳まで私の弾で貫通させて聞こえやすくしてやるわよ」
「よし、もう一頑張りだぞアスカ!今度はこっちの段ボールを片付けよう!」
「ははは、そうだなリフル!!」
部屋掃除と言えば脱線。こんなもの黙々と片付けている方が余程不健康だ。不健全だ。それでも聖教会からの使いだというその少女の……ドスの利いた声と構えられた銃の迫力に負け、会話は方向転換。あとは黙々と作業を続ける。三十分ほどで全部片付いただろうか。
「……終わった?」
触るのも汚らわしいと言わんばかりの表情で、手伝う気もなく壁にもたれて貧乏揺すりをしていた少女。
「ああ、お陰様でな」
「それで、ソフィア」
心配そうなリフルの声。リアがカルノッフェルに攫われたというのは、ここに来るまでの道すがらに彼の口から教えられた。その原因がリフル自身が捕まったときのことだとも。
(しかし……数術の技術ってほんと底なしなんだな。まさか目を植え付けるなんて)
取れてすぐならまだわかる。それでも何年も両目を失って生きてきた男に、他人の目を与え……視神経を繋ぎ再び視力を回復させるなど、一度聞いただけでは信じられない。
自分が操っている回復数術に、同じ事をやれと言われても出来る自信がない。聞いてみようにも精霊なんか見えなければその声だって聞こえない。
(腕の良い数術使いか……そんなのがトーラ以外にもこのセネトレアにいるなんてな)
そこに何かが引っかかったように感じて、アスカは片付け作業の際に何度かトーラに呼びかけた。もしこちらを彼女が探っていればそれに応えてくれるはず。
(おい、虎娘!虎娘!至急応答せよ!……って駄目だな)
反応がない。それに舌打ちするとリフルが不思議そうな顔をする。何に対しての舌打ちなのだという顔だ。
「アスカ?」
ちょいちょいと手招きをすると主がぱたぱた寄ってくる。それに背をかがめて顔を近づけ、赤髪少女に気取られないよう小声で作戦会議。
あの少女は信用ならない。こっちのことも何処まで知られているかわかったものじゃない。これ以上情報を与えるのは得策ではない。彼女との話が始まる前に此方の話を済ませておく必要があった。
(リフル……、お前にはなんか連絡あったか?)
(いや……)
その一言で此方の言いたいことを粗方察したらしい主もそれを訝しむ。
(確かにおかしいな。いつもなら……連絡の一つや二つ、向こうの状況報告くらいは来ているはず。私が気を失っているときに連絡が来たのなら、私が返事をしないことに疑問を感じ何らかのアクションを起こすのがいつもの彼女だ。お前の所にも入ってないとなると……これは異常だな)
(そんだけ向こうで手一杯ってことか?でもあいつって複数人と一度に通信数術使えなかったっけ?)
(無理ではなかったと思うが、情報量との関係で離れている距離にもよるし、本人への負担が増すからあまりそんな風には使わなかったな)
数術に不可能はあまりない。理論的には全くない。それでも不可能はある。
術者本人が人間である以上、如何に数術に優れた混血であっても計算時の負担はある。トーラの数術代償は睡眠。いざ彼女の力が必要なときに眠っていられたら困る。それを本人も自覚しているからこそ、あまり大きな数術は使わないよう省エネしているのだ。
(仕事のは監視がメインで、私に異変があった時や追加情報や後方支援を行う時のみ通信数術を繋ぐ。それ以外は組織との連絡の受け取り中心に使っていたような感じだ)
(はるほど)
(それでも緊急事態は別だ。となると彼方は緊急事態ではないのだろう。それでも連絡が来ないと言うことは……それ以外の要因。その可能性がある)
「…………あんたらさっきから何なの、一体」
じーっと心底忌み嫌うような疑いの眼差しを向けてくる赤髪少女。
「私に隠れてこそこそと二人っきりで秘密のお話?本当に仲が良いのね、変態同士、お似合いよ」
「ちょっと待て。俺の主をまた侮辱する気か?」
「ああ。確かに女装している私は甘んじてその発言を受け入れても構わないが、アスカはちょっと……あれなだけで他は普通の人間だぞ」
「さっきの猥談聞いてたらどう考えてもどっちも変態でしょうが」
「それもそうか。確かにそうだ」
「納得すんな!!」
「で?何のお話だったわけ?」
「まぁ、気にしないでくれ」
「そうそう」
「実はここだけの話、こいつはすぐ隙を見つけては今みたいに迫って口説いてくるんだ。私も正直対処に困っている」
「そうそう……っておい!何でそうなる!!」
(そんな誤魔化し方があるか阿呆っ!)
(いや、効果的みたいだぞ。もう関わりたく無さそうな顔になっている)
(そういう問題でもねぇだろ!!……ったく)
思わずまた小声で会話をするはめに。勿論少女からの視線は氷のように冷たい。
「何話してんだか知らないけど、怪しすぎるし寒すぎるわよ。やるなら私の目に入らないところでやってくれない?二重の意味で」
この女……床に唾を吐き捨てやがった。とりあえずその同僚とやらに同情。
「まぁそんなことより、ソフィア……。そっちの件はどうなっているか教えて貰えないか?」
「そうね。…………こっちが仕入れた情報じゃ、まだあの娘は無事みたい。私の数術弾が効を成したのかもね。少なくとも名前狩りの被害は止まったはずよ。場所の特定もさせてるからもうしばらくすればもっと情報が届くと思うわ」
此方が掃除している時、話をしている時……少女は唯貧乏揺すりをしていたわけではない。トーラの使う通信数術と似たものを、仲間からキャッチしていたのだろう。それを集中して覚えようとしている横で猥談大会なんか始められたわけだから、まぁそりゃあキレるだろうな。
「ところでソフィア……ここは会話するに安全なのか?同僚の部屋だと君は言っていたが……」
「一応ね。部屋に各種数式彫ってあるし」
「同僚って言ったか。あのラハイアって奴か?」
アスカは路地で出会った少年を思い出しその名を出すが、赤髪少女は首を振る。
「あの坊やのわけないでしょ。彼が運命の輪のわけないじゃない。同僚っつったでしょ?あの子は唯の一般兵よ。階級は大分上がったけど、運命の輪なんかじゃないわ。第一誘ったところで……」
「……彼はならないだろうな」
頷くリフル。誰かを思い出すような小さな笑みをそこに宿して。
殺人鬼がそんな優しげに笑うなんて思わなかったのか、少女は少しだけ驚いたようだった。
「わかってんじゃない」
「…………まぁ、あいつとも2年の付き合いだからな」
その2年の意味が、うっかり違う意味に聞こえてしまったのは邪眼の魅了のせいだろう。そんな雑念を振り払うためにも、アスカは話に集中することにした。
「で?……運命の輪っつったか。あんたが本物だって証拠はあるのか?」
「アクシスの名前を知っていることは十分証拠じゃない。一般人はその名前を知らないんだから」
それはかつてアスカ自身が使った言い訳。その名に反応する者は、運命の輪関係者か教会深層部ないしは上層部関係者またはシャトランジアという国の重役であることはまぁ間違いない。またまたもしくは、その運命の輪と関わったことがある人間。それに助けられた者。或いは……敵対した者。その可能性も捨てきれない。
2年前、あのラハイアという少年がその可能性に気付かず、フォースをアスカに引き渡したのは彼が愚かだったからだ。それこそ二重の意味で。
この2年、殺人鬼Suitに弄ばれ続けたことが効を成したのか片方の愚かさは薄れてきたようではある。それでももう一つの愚かさは、今日見た彼の中にまだあった。人を信じる愚かさ。あればっかりは治しようがないのだろうか。
「まぁ……少なくとも一般人じゃねぇってのは認めてやるよ」
一般人が知らないような情報を、この少女は幾つも持っている。それを証明するように、少女が続けた言葉……
「それじゃあこの銃は?キャヴァロ卿のあんたなら知ってるんでしょ?」
(俺の正体まで知ってやがんのかよ……不味いな)
下手すりゃこっちが黙ってることまでリフルにバラされかねない。
あまり神経逆撫でするような発言は慎むべきか?或いは……
(バラされる前に……殺すか)
一瞬鋭くなったアスカの眼光。そこに宿った殺意に気付いて、少女はふっと小さく笑って首を振る。わかってるわとでも言いたげだ。
何も解っていないリフルの方は顎に手を当て首を傾げている。そんな動作も一々可愛いと思う俺は本当にブラコンだと思う。
「アスカの家と何か関係あるのか?」
そんな相手に聞かれたら、まぁ出来る範囲で答えてやるのが俺の役目だ。
「……俺の家は運命の輪とちょっとした関わりがあったんだよ。教会派の家っていうかな。それで代々運命の輪のメンバーを排出してた家なんだ。シャトランジアの汚れ役押しつけられてたってわけだ」
運命の輪は神子にとって信頼できる人間。裏切らない駒を集めた機関。諜報部にして暗殺機関にして、ある意味では親衛隊。だからこそ、熱心な教会派の家からそのメンバーが引き抜かれることは少なくない。勿論純粋に戦力になるかどうかというのも関係しているが……
「そうだったのか。しかし……それでは」
「まぁ、俺の親父は運命の輪に入らずにマリー様に仕えて国王派になった。家からはそん時勘当されたようなもんだったんだが、戦争で武勲を立ててようやく認められたってわけだ」
「アトファス=キャヴァロは教会派と国王派の諍いを治めるに一役買った男だったって話ね。国王も彼のお陰で大分丸くなったって神子様が言ってたわ」
「そりゃどうも」
「……凄いんだな、アスカの親父さんは」
「いや、どうだろうなー……」
褒められてもそこまで嬉しくはない。むしろ優秀な父親と比べられているようで自分が惨めになるだけだ。自分の経歴は父とは比べものにならない底辺だから。
苦笑するアスカと何も知らずに感心しているリフルを交互に見やり、少女は語る。驚愕を。
「マリー姫の王子と、その騎士の息子。国王派の最後の灯火とも言える貴方達がシャトランジアじゃなくてセネトレアなんかに居ることにまず驚いたわ。シャトランジアなら王位を継ぐことも不可能ではないのに」
主語を抜かした言葉。どちらが、とは敢えて少女は言わなかった。
そうだ。もし戻ってみろ。権力者に無理矢理袂を分けられ、戦わせられることになるのは俺とリフルの方なんだ。戻れるはずねぇだろと、肩をすくめる。ここへ来たばかりの頃はそこまで考えまわらなかったが、2年前リフルと再会した時に……俺の中からシャトランジアに帰るという選択肢は消えたのだ。
如何に高貴な血を宿していても、毒人間のこいつに子供は残せない。その弱みで権力争いで負けるのはこいつだ。こいつに惨めな思いをさせて、俺だけ王様生活なんか送れるか。
「で、あんたは神子にシャトランジア完全支配の独立体勢作るため、教会派として俺らをぶっ殺しにでも来たってか?」
「そうじゃないって言ってんでしょ。まぁ、言うより見て貰った方が早いわね」
少女は厚手の手袋を外し、自分の手の甲を此方へ向ける。
そこに刻まれたのは赤い紋章。今朝見たトーラのそれとも違う。これはハート……トーラが言うよう、それが関わりのある国や職業と関係する者なら、この少女はシャトランジア関係者、或いは聖職者。彼女が聖教会の一員だというのは、嘘ではないようだ。
「私は、カード。“神子イグニスの命令で殺人鬼Suit改め那由多王子の助力に参りました”……これでわかった?」
少女は手を裏返す。自分のナンバー……それを惜しげもなく晒す。私の心臓は、ここにあるわよと。
「私はⅧ。つまりそこのKさんには勝てないわけ。私が気にくわなくなったらそこで殺して貰えればいいわ」
「…………何故、それを」
少女のいきなりの行動にリフルは戸惑っている風。それはそうだ。敵か味方かもわからない相手がいきなりこんなことをしたならば……
それに対し、少女はワンクッションを置く。
「私を神子様の使いだと認めてくれるんなら話してやるわ」
「……アスカ」
主が俺に呼びかける。それは決定を委ねるのではなく、もう自分の心は決まったがお前はどうだと問いかける声。
「……解った。認めてやる」
そう頷けば主も頷く。それに少女は小さく、ほっと息を吐く。一応緊張はしていたのか。それもそうか。心臓丸出しにしたようなものなんだもんな。
ここでやっと、アスカにも少女が少女のように見えてきた。少女らしい顔を初めて見たように思えたからだ。しかしそれも仕事の話に戻れば、すぐに消えていく。
「神子様は、私に時が来るまで那由多王子を守れと命令なさったの。そのために私は来たくもないセネトレアに足を運んで、那由多王子を探すためあの坊やの仕事に協力した。そうすればすぐに会えるって神子様が言ってたから」
「だから私は命令通り、しばらくあんたらの目的の補佐を行うのが私の仕事。あんたらが名前狩りを解決したいならそれに協力するし東と戦うならその力になるわ」
「…………神子の目的は何なんだ?何の理由もなく私に協力してくれるとは思えない。私は仮にも犯罪者で、相手は神子だろう?」
「神子様は多くを見ている。あのライル坊やの影であんたが暗躍してたこともね」
「ならばっ……何故っ!!混血をっ!奴隷をっ!フォースを救ってくれなかったんだ!?教会の悪を!裏切りを!それを神子は見過ごしていたというのか!?気付いていながらっ!!」
凄まじい怒りと憎しみ。それが宿ったリフルの声。視界に映った彼の目は、妖しい光を宿している。
「リフルっ!!」
横目で見ても十分やばいのがわかる。今目を見たら、目を合わせたら完全にやばい。
咄嗟にアスカは後ろから、リフルのその両目を覆う。怒りは不味い。邪眼の暴走を引き起こす。視線が少女と合う前だったのか、掛かる前だったのか……なんとか間に合った。
目は塞いだというのに、それでも肌がぞくぞくと震える激しい殺気。その殺気に当てられたような気がして、妙に心が躍るような不思議な感覚。
邪眼が強まっている?目だけではない。そうだ。目を合わせずにも他の場所から邪眼の力が漏れ出している?
今、自分は目を合わさなかった。それなのに、邪眼に掛かってしまっているようだ。邪眼は触れたいと思う気持ちを喚起させる。そうだ。今、触れている。その目を覆った掌がある。触れている。指が、掌が、その皮膚が……気付いた途端に歓喜で震える。片手はカード隠しのためにした手袋。その一枚ごしとはいえ……触れている。変装の格好に合うように、夏場と言うことも配慮して怪しまれない程度の申し訳なさ。
(………これ、……やべぇ)
金の鵞鳥じゃあるまいし。お伽話じゃお姫様が笑ってくれれば解けるんだったか。いや、こいつに笑われたらそれこそお終いだ。今この状況でそんなことされたなら、完全に邪眼に屈する決定打になりかねない。となったらこの場にいる少女を殺してしまう。まだ話も聞いていないというのに。
現実的に考えて、触ったら離れないなんてそんなことがあるわけがない。あるわけがないのに、手が吸い付いたように離れない。離れたがらない。このままでは手の熱で汗毒が生まれて、死にかねないというのに。
それどころかこいつは泣きそうだ。手が温度の変化を伝えてくる。涙毒……それが浸透してきたら止めるどころじゃなく、此方が倒れてしまう。
(くそっ……)
2年前なら抗えたのに。今はこっちの意思じゃ、抗えない。そこまで自分が邪眼に染まっているのか、彼の力が強まったのか。
「リフル!……気持ちは解るがまず、落ち着けよ!」
頭はまだ動く。脳は俺の支配下だ。言葉を発し、リフルを説得するしかない。怒りが解ければ邪眼も弱まる。きっと、この手も剥がせるはずだ。
「神子だって人間だ。トーラと同じだ。何もかもが見えるし分かる訳じゃない。そうだろう?お前はそんなことで、誰かを憎んだりするような奴じゃ、ないだろう!?お前はトーラを憎まなかったじゃないか!!」
赤髪少女にトーラの名を知られるのは癪だったが、そうも言っていられない。回りくどい言葉で主の暴走を止められるとは思えない。二年間、共に仕事をしてきた彼女の名前。彼女が出来ること、出来ないこと……それは一番長く暗殺業の共犯関係にあったリフルが一番知っている。
アスカは神子とトーラは同じだと、そう言い聞かせることで何とか説得しようと試みる。
その言葉を荒い呼吸で聞いていた主も、次第に息が整い始める。
「……………っ、…………すまない。取り乱してしまった」
それでも此方からは放せないでいると、リフルがアスカの手を掴んで外させた。
触れている場所より触れられた場所に意識が移ったのだろう。その一瞬で、その手は外れる。その両方が、名残惜しげに感じているのに気付いて、どうしようもない気分になった。
自分が邪眼の魅了にこんなにやられてしまっているのかと思い知り、軽い絶望を味わう。
その絶望と引き替えに、落ち着きを取り戻した主は淡々としたいつもの声で、少女に自分の意見を伝えている。その切り替えの早さが羨ましく思いながら、絶望早く振り払おうとアスカもその声に集中することにした。
「私は基本的に教会を信用していない。神子の先読みもどの程度なのかというのも同じだ。……私が教会で信じているのはラハイアだけだ。他の者は信用など出来ない」
はっきりとした強い口調。そこに彼の意思がある。
それに僅かな感銘を受けながらアスカはそれを聞いている。
(リフル……)
リフルは自分を責めている。フォースが人殺しになったのが自分のせいだと今もそれを責めている。それでも同時に教会を深く憎んでいる。金の欲に染まり腐敗した正義を怨んでいる。
リフルは一度、教会に裏切られた。混血、奴隷虐待を続ける変態共を殺すことで彼らを解放、その救出をラハイアに託す。ラハイアはそれを教会へ保護。そして教会がシャトランジアへの移民として彼らを送る……それを裏切ったのは教会だ。保護された人間達は再び奴隷として売られ、金儲けにその人生を利用された。リフルが人を殺して、罪を重ねてでも守ろうとした者達……それが更なる深い絶望の底へと落とされたのだ。
腐っているのがセネトレアだけなのか、シャトランジアまで及んでいるのか。それが分からない内は手など組めない。
「それが今更、協力?はっきりって神子の言葉は怪しすぎる。なんの企みも下心もないとは思えない」
それは確かに。それにはアスカも同意する。
正義の聖教会、聖十字。その神子が殺人鬼に手を貸すなんて普通じゃない。胡散臭い。何かあると思って当然。
「…………確かに私は犯罪者だ。それは認めよう。教会が私を捕らえに来たというのなら然るべき時にはそれに応じよう。しかし私にも、守らなければならないものがある。それを脅かすというのなら、ロセッタ……君が相手でも容赦はしない」
しっかりとした口調の言葉の羅列。その中に、ぽつんと場違いの単語が混ざっていた。それに気付いたアスカはその名を脳内検索。思い出す。
「……ロセッタ?……おい、それって確かフォースの……」
それは2年前、フォースから頼まれた依頼。
少しずつ自分の言葉で語るようになったリフルがフォースの力になりたいと言い、それを拒めなかった自分が引き受けた仕事。
奴隷商の下でバラバラになった同郷4人。それを探す仕事。1人はすぐに見つかった。その子も亡命時にフォースと分けられどこかに売り飛ばされて今では再び行方不明。
あの時見つからなかった1人はあろうことか奴隷商側に付き、フォースを一度死の瀬戸際まで突き落とした。
そして残るもう一人……その少女の名前がロセッタ。四人の中で唯一の女。
タロック人の女は稀少。とびきりレアで高価な商品。タロック貴族への嫁として売り飛ばされる彼女。それが乗る船をトーラが掴み、助けに行く……はずだった。
アスカが知っているのはレフトバウアーでの大事件により、彼女は別の船へと移り、予定より早く出港してしまったこと。彼女を助けられなかったこと。その事件を引き起こしたのがリフルであるということだけだ。
「何だ、気付いてたの。澄ました顔してとんだ狸もいたものね」
ロセッタの言葉にリフルの顔が一瞬辛そうに歪められるが、自分の立場を思い出し、彼女の憎しみ籠もった瞳を迎え撃つ。
それに挑発されたよう、漆黒の教会兵器を向けるロセッタ。
「おいっ!」
アスカも柄に手を掛ける。刃は選べない。抜刀すればもう一度鞘に戻すまで剣を変えられない。撃たれたら弾く。その前にあいつを蹴飛ばして逃がすか。それでも後天性混血の反応速度に叶うのか?
即死刀なら最初の攻撃は返せるかもしれない。それでも即死刀は耐久力には欠ける。刀が折れて此方に飛ばされてくる可能性もある。それなら鋼鉄刃?駄目だ。これは硬いが重い。居合いで間に合うはずがない。
(となると……)
俺が盾になるしかない。その隙に逃がす。反撃の構えから捨て身の防御に回るとは思わないだろう。次手までの時間は稼げる。
「アスカ、大丈夫だ」
いつもの根拠のない言葉とは違う。死に向かう言葉でもない。私は死なないと小さくリフルが微笑んだ。その横顔にアスカははっとする。
(いや……違う。俺はⅨ。あの女はⅧ。そしてリフルはK)
大丈夫だ。負けるはずがない。例え撃たれても死なない。負けないはずだ。でなけれはこのゲームのルールが変わってしまう。
(そうだ……)
数字が切り札。見せたらもう半分負けている。つまりこの女は勝つ気はない。それを訳すならつまり、今は戦う気はない。そういうことだ。
「………………っち」
柄から手を離す。
「…………あんた、あの坊や以外の聖十字は信じないんじゃなかったの?」
「別に信じてはいない。唯、疑う理由がないだけだ」
「…………馬っ鹿じゃないの?」
それから数秒。彼女の方も手を下げる。ぷいと顔を背けるロセッタに、リフルが予想通りになったと言わんばかりに小さく笑う。その様子に馬鹿言えと言いたくなった。
(………まったくこれだからうちの主は)
疑う理由がない?本当にこの2年で言葉遊びと口説き文句だけは一丁前になったものだ。それはそうならないと信じている、そう言っているようなものなのに。
(こいつもなぁ……なんつーか、いい方向に進んでるのは確かなんだがむしろ一時期より無防備というか弱体化していねぇか?)
固く凍らせていた心を溶かし、他人を受け入れ、心を開くようになった。無論それはいいことなのだが、そうすればそうするほどに、こいつの弱みが増えていく。瑠璃椿は精神状態も不安定だったし、いつ暴走するかわからない危ない凶器だったが、あの頃のこいつは確かに今より強かった。同じ攻撃、同じ技しか使えないのに。
主一人のために生きる道具。それが奴隷。だから主のためなら死に物狂いで懸命になる。
今のこいつは民という不特定多数の人間のために生きる道具。その民という主のためならやはり死に物狂いになる。それでも主が一人ではなく無数にあるから、弱体化。主の弱みがこいつの弱み。
(気ぃ抜けねぇな……)
こっちがその分警戒して、しっかり守ってやらなければ。
そんな思いでアスカは気を引き締めるため、得物に触れる。随分手に馴染んできたものだ。この形見も。
やがてふて腐れたのか一言も発さなくなった少女に、リフルが独り言のように小さく言葉を零し始める。
「……私は私がされて嫌なことは人にはしたくないし同じ思いをさせたくない。それだけのこと。那由多という名を知っているなら解ってくれると思ったのだが」
彼女はタロック人。元タロック人。処刑された王子の話くらいは知っているだろう。その名のことも。そしてそれが殺人鬼Suitだと結びつけられているのは、神子とやらの入れ知恵か。
ロセッタは無罪の罪で殺された王子のことを知っている。それに気付いての言葉。
「少なくとも私は……この名前狩りを知ったときに良い気持ちにはならなかった。街で囁かれる人々の言葉に目眩すら覚えた」
自分がやってもいないことで疑われるのは辛いこと。それが未来の話であっても。これからするかもしれない。やるかもしれない。そんな理由で疑う相手として、ロセッタを見ることは出来ない。リフルが静かにそう告げる。
「私の民に害を成すなら容赦はしないが、君が私達に牙を剥くまで私は君を疑うつもりはない。君の話を聞かせてくれないか?神子のことを信用したわけではないが、話を聞くまでは信用も疑念も尚早だからな」
つい数分前取り乱した人間とは思えない落ち着きっぷり。割り切ったのか。教会は教会。この少女はこの少女と。
(…………リフル、お前は……後悔しているんだな)
ロセッタを助けられなかったこと。フォースの依頼を果たせなかったこと。
その結果彼女がどうなったのか、その頭の中で何通りも想像して居るんだろう?その全てが自分の責任に他ならないと。
もしあの銃口が、その復讐のために向いたなら……潔く目を閉じるつもりだったんだろう?
それでもそれを踏みとどまらせたのは、民。那由多の民、Suitの民……そしてリフルの民。その全てとの問題に片を付けるまで、死ねないと昨日そう約束した。
(俺との約束……覚えていてくれたのか)
それに胸を打たれる。しかしすぐに頭振り、何を言っているんだかと自問自答。たった一日で忘れたら馬鹿なんてものじゃない。昨日の今日で忘れたら一発くらい殴ってやっていた。
それでも嬉しいのには違いない。僅かでもあいつの判断材料に……踏みとどまるための楔になれたのだと思うと、言葉というのも無駄ではないのだなと思う。
それを積み重ねていけば届くかもしれない。どんなに小さな石だって積み重ねればいつか空の月まで至れるかもしれない。
(やっぱ、昨日の“俺”は間違ってたな)
あの夢の中のもう一つの声。仲間なんて要らない。俺さえあいつの傍にいればいい。それは間違い。1人で石を積み重ねればそれは何年かかる?その前にタイムリミット。お終いだ。あいつが他人との関わりを大切にすることで、石を拾い集めてくれる奴らが増える。
何もあいつに言葉を贈るのは、俺だけの権利じゃない。そういういろんな奴らからもらった言葉が、いつかあいつの未練に変わる。きっとそうだ。
願いに神なんか要らない。大切なのは人と人。その交わりがきっと、あいつを踏み留ませる。
リフルがカードを殺す気がないと口にしたのはおそらくそう言うこと。全てのカードがそんな風に自分と誰かと……多くの人々との繋がりを重んじたなら、勝者など必要ない。多くのカードが生き残れるはずだ。
あの詩は勝者1人の願いが叶えられるとは言っていたが、絶対に全員が殺し合わなければならないとも1人を残して死ななければならないとも言ってはいなかった。願いを求めるから諍い、争いが生まれる。それならば願わない。それが正解なのだろう。自分の欲を殺せるか?神はそれを問いている。
「…………確かに職務怠慢は軍人として失格。別にあんたらのためじゃないけど話してやるわ」
口では相変わらずだが、少女の表情にも多少の変化は見られるようになってきた。
こんなキツイ性格だから口説かれ慣れていないのか単に赤面性なのかはわからない。
(まぁ……確かに普段はあんなのだけど、こいつ顔はいいからな)
こんな見てくれで女装しているとは言え、一応リフルも男だ。それをこの少女は前情報として知っている。多少は邪眼作用が働いたのかもしれないが、相手はまぁ美形というか美少年だしそれが真顔であんな言葉を口にしたら、年頃の娘なら動揺くらいするだろう。動揺させてる本人にその自覚とその気があるのかは俺には不明。
しかし美形は本当得だ。何の補正掛かってるんだか知らないが、さっきまで此奴も猥談井戸端会議のメンバーだったことをこの少女はすっかり忘れてしまっているようで、何かそのことにアスカは弱冠の理不尽を感じていた。
「まずカードのことだけど、神子様は上と下の何枚かはもう知ってらっしゃるの。世界最高の先読みの神子だもの。ぽっと出のそこらの数術使いと一緒にして欲しくないわね」
神子から教えられ、リフルの数値を知ったのだとロセッタは言う。
「神子様にもそりゃ勿論計画はあるわ。そのために神子様はコートカードをいずれ集めたい。そのために有望そうなカードに恩を売っておきたいわけよ」
「なるほど。それで此奴に白羽の矢が当たったってわけか」
「那由多王子は、基本的に神子様が目指しているのと似たビジョンを持っているから。神子イグニス様も奴隷貿易のことはなんとかしたいと思っているのよ」
「おい、一つ良いか?」
「何?」
「さっきから眉唾も良いところだぜ。今の神子はそんな真名じゃねぇはずだ。外用の名前も違う」
「そう?次期神子様だから当然よ。来月には正式に神子になる方よ。先代はもう起き上がれないほど衰弱なさってるし、教会のことを取り仕切っているのはイグニス様。知ってる人はもう知っているわよ。あんたらん所の数術使いも底が知れてるわね」
「……私の身内を侮辱するのは止めてくれ。私なら一向に構わんが」
「へぇ、あんたってMなの?男の癖になよなよしてて気持ち悪いったらないわ」
口の悪さはこの少女の持ち味なのだろうか。何かにつけて俺の主の粗探しを始める。或いは単に素直に何かを褒めたくないという融通の利かない頑固な石頭の持ち主なのかもしれない。
それでも主への侮辱は俺への侮辱。アスカも黙ってはいられない。その程度には融通の利かない人間だという自覚もある。
「俺の主を侮辱する気か?大体言いがかりもいいところだぜ。こいつは臨機応変にSとMを使いこなせる万能両刀型だ!」
「アスカ、お前が私を貶めたいのか?侮辱はむしろお前の言葉だ。暫く黙っていてくれないか?」
まさかの冷たいリフルの声。最近……というわけでもないが、瑠璃椿から奴隷根性が薄れるにつれ、こういう側面が強まった。周りが俺を貶めるのが好きだから、それが形式美ということでこいつもそれを受け入れるようになってしまったのだ。
「お、俺はお前の名誉を思って……」
しかしまさかここでまでそんな風に言われるとは思わず、流石に凹んだ。それに気付いてふっと笑う主はしてやったりという笑みだ。
そしてもう一度、今度は穏やかに優しく……そえでも愉快そうに春風の暖かさと気まぐれのようにふわりと笑う。
「冗談だ。ありがとう。そこは感謝している」
やはりこれも瑠璃椿が脱奴隷根性を始めてから知ったことだが、こいつは結構悪戯好きで人をからかうのが好きというユーモアな側面も持ち合わせている。むしろからかわれる位になったら十分警戒を解かれている。こいつは親しい相手にしかその面を見せない。
むしろからかわれるほど愛されているようなものだ。からかうことこそこいつの愛情表現。毒人間という面倒臭い身体だから愛情表現まで回りくどい。それだけだ。
それが愛情表現だと気付いてからはからかわれるのもむしろ俺にとってはご褒美です。はい。
「……確かに使いこなしてるわね、臨機応変に」
俺はすっかり主に骨抜き状態。主の振る舞う飴鞭コンボを目撃していたロセッタは、至極どうでもよさそうな感じでこちらのやり取りを見ていた。あと二、三分放っておいたらその内足の爪を切ったり鼻をほじり出しそうなレベルの興味のなさ加減だ。
「で?話再開させて良いの?」
「ああ、気にせず続けてくれ」
「いや、普通に気になるんだけど。あんたそれ、大型犬飼ってる人じゃないんだから……そんなわしゃわしゃ髪をもふもふして、あご撫でても……それ人間でしょ?」
「え?ああ。それは知っているが、何か?アスカの髪は触り心地が結構良いんだ、サラサラなのにもふもふしてて癒されるぞ?触ってみるか?」
「結構よ」
人の話を聞く体勢としてそれはどうなのとじと目のロセッタ。何がいけないのかわからないと言いたげな俺の主。そして髪をもふもふと弄られている俺。
さっきの笑顔に屈した俺が、諦めの表情もとい服従をそこに表したのに気付いたのか、これまた悪戯好きの主がよしよしと俺を犬のように撫でてくる。俺がよくこいつの頭を撫でたり触ったりするからその仕返しなのかもしれない。
ごくごく最近、そんな仕返しの中で髪の皮膚に届かない位置なら素手で触れても問題ないと気がついたとかで、何かあると髪の端とか触っては……見ているこちらの方が和んでしまうような笑顔を浮かべる。勿論顎を撫でる方の手にはしっかり手袋をする抜け目なさはある。
他人との接触が限られてくる毒人間なだけあって、人恋しさはあるのだろう。幼い頃はこいつも辛い思いばかりをして育ったのだし。だからその顔に、文句は言えない。こんな冗談めかしたやりとりの中に、俺が求めていた俺の家族が、俺の弟の姿がそこに見える。毛先から毒が侵入してその内毛根だけ死んだらどうしようとか思ったが、主のためなら俺は死ねる。俺の毛根も同じ事。この笑顔が見られるならそれでいい。うん。
しかしこんなにわしゃわしゃされまくると、逆にこっちが相手の髪を触りたい衝動に駆られる。触り心地的には俺はあいつの髪の方が好きだ。もふもふというかどうかは知らないが、柔らかさはあるし色は言うまでもなく綺麗。ストレートな髪というわけでもないがそこまでくせっ毛でもない。髪を指に絡ませても絡まらずにすると指から離れる滑らかさ。これはこれで堪らない。
(今はウィッグなのが惜しいな……)
こっそりちょっと触れてみて、その違いに不満を覚える。
金髪青目は確かに好きだ。マリー様に似ているから。それでも、やっぱり違う。今日初めの内はそれを意識していたけれど……段々それもなくなった。やっぱりこいつはリフルなんだなとそんな風に思い始める。居なくなったリフルを探して街を駆けていた辺りから段々と。マリーとそう呼ぶ度に感じた違和感。そうじゃないと心が叫ぶ。
それもそうだ。やっぱり似ていても、こいつはリフル。マリー様じゃない。第一俺のマリー様は俺と猥談なんかするものか。いくら彼女に似ていても、こいつはマリー様ではない。
それがわかってからは、今の髪はそこまで触りたいとは思わない。やっぱりあの色が好きなんだ。幼い頃に、一目で精神を屈服させられた。一瞬にして魅せられた。淡く光るようなあの銀色の髪……そしてあの瞳。
狂王の赤とマリー様の青が混ざった証。紫色の瞳の混血児。存在の加害者にして被害者。
母さんが親父以外の男に犯されたという証。母さんが俺の母さんじゃなくなったという証。唯そこにいるだけで、許せないはずの存在であるはずなのに、唯そこにいてくれるだけでこんなに心安らぐ。不思議なものだ。
「ほら、そろそろいい加減に……」
「……!」
このまま髪弄られてても話が進まなそうなので、主の手を振り払い身をかわす。それじゃあ話の再開を……そう思ったのだが名残惜しそうな表情についつい負ける。というか副作用が今更やって来た。これはやばい。これを耐えると更なる奇行に走る。またあんな日記書いてみろ。今度こそこいつに失望されて見限られかねねぇ。
「……っ!?あ、アスカ?!」
それならまだこっちの方がマシだろう。
すうじかんとはいえまた行方不明になったんだ。物凄い心配した。二度あることは三度だってあるんだと、今度は何年?死ねる身体になったあいつが無事なのか?また生きて会えるのかと一通りの最悪の想像をしてそれを必死に否定し走った。
そしてあの邪眼。そりゃ副作用くらい出ても仕方がない。そうだ。これは仕方ない。
思わず俺があいつを抱きしめたのも不可抗力だ。仕方ない。……温かい。腕の中のその温度にやっと安堵する。大げさかも知れないが、不安だったのだ。生きてまた無事に会えて本当に良かった。
「こら、止めろ!また邪眼が効いたのか?」
唯不満があるとすればこれだ。すぐに暴れて離れようとする。放せばまたすぐどこかへ消えて、危険な目に遭ってしまうんだろう?
今日だって運が悪ければ、明日死体となって人目に晒されることになるのはこいつだったかもしれないのに。そう思うと精神だってグラつきもする。
こうしてこのまま俺の腕からこいつに俺の心配とか未練が流れ込めばいいのに。その未練に引かれるようにどこかへ消えてもまた無事に……ここに戻ってくればいい。それなら俺も文句は言わない。生きていてくれるなら、それで。
「いや、むしろ副作用。精神安定のためにしばらくこうさせてくれ」
今まで散々俺で遊んでいたんだ。だから今度は俺の番……そう囁けば納得しかけ、冷たい視線を注ぐ少女という第三者の存在にリフルが慌てふためいた。
「ちょっ……やめ、……放せ!人前だぞアスカ!!私は抱き枕ではないぞ!!」
「……あんたら、いい加減真面目に人の話聞く気あるの?ぶっ飛ばすわよ」
「俺は至って大真面目だ」
「…………いや、まぁこれも邪眼の……不可抗力だ。気にしないでくれ」
問答無用と言わんばかりに鳴り響く音。
「もう一度言うわよ。あと10秒だけ待ってあげる」
少女が掲げた手の漆黒から上がる煙、撃ち抜かれた天上。そこに開いた穴。
とりあえず上の階に住人が居ないことだけを、アスカは祈ってやることにした。
とりあえずあと9秒はこうしていられる保証は得たので。