10:Nemo nascitur artifex.
夢を見た。とても不思議な夢を。
昔のことを思い出していた。その夢の中で。
いつも寂しい時。傍にいてくれた奴らが居る。そいつらがいたから俺は立っていられたんだ。前を向いていられたんだ。例え、母さんに捨てられても。
そんな奴らを失って、俺はまた1人。
そして俺を助けてくれたのが、あの綺麗な人。俺なんかとは違う。強い意志の力を宿した、不思議な瞳のあの人だ。
あの人はとても凄い人なのに、俺なんかを必要としてくれる。そばにいても良いと言ってくれる。もう駄目だと思う度に、どこからともなく現れて……何時だって俺を助けてくれる人。
そんな人の背中が細く小さく頼りなく見えるようになった。
俺は成長して、あの人は成長できない。止まった時を生きている。
だからあの人を支えたい。力になりたい。守りたい。そんな風に思うようにもなった。助けられるだけじゃなくて、俺も何かがしたかったのだ。
やりたいことは多い。それでも出来ないことも多い。
それは俺に力がないから。俺が無力だから。弱いから。
(無力……)
それを今まで最も感じたのは何時?ああ、あの時だ。
長い金髪のあの男。盲目のあの男。カルノッフェル!!
後天性混血。その身体能力の前に、凡人の俺が敵うはずもなく……俺は負けたのだ。
俺を拾ってくれた。俺の父親代わりになってくれたあの二人を殺されて!その仇も取れずに俺はまだここにいる。まだ、仇も取れずにここにいる!!
(カルノッフェルっ!!)
無理だよリフルさん。俺には無理だよ。こんなものを見せられて、平気ではいられない。
怨まずに唯生きるなんて出来ないよ。だって、こんなにも憎いんだ。
あの男を殺すためだけに俺は生きている。そんな風にさえ思うんだ。こうして今この瞬間!あいつが生きて息をしていることが許せない!あの人達はもう息すら出来ないのに!!
俺が俺を怨む誰かにいつか殺されるのだとしても、それは後だ。俺がその前にカルノッフェルを殺す!その前に殺されるなんて、絶対に嫌だ!死んでも死にきれない!
記憶の中のあの人が言う。機嫌が良いときのあの人が珍しく穏やかに笑っていた。
「ニクス、お前の名は何という?」
此方のことをあの人から、尋ねられるなんて滅多になかったこと。だから嬉しいよりもまず先に恐れた。何かとんでもない失態をしでかしたのかと。
「フォース……です」
「力か。確かに似合わんな」
恐る恐る答えた言葉に、侯爵はふっと笑った。そんな大それた名前より、このアルタニアの雪のように真っ白なお前には雪の方が似合っていると笑ってくれた。
「苗字はないのか?」
「平民でしたので」
俯く俺にあの人はこう言った。
「……ならばお前に名をやろう。今回の働きも見事であった。褒美と思え」
「あ、ありがとうございます!アーヌルス様!!」
「お前の姓はアルタニア。この土地を名乗る良い、ニクス」
「アルタニア……」
その名を貰ってから俺は、あの場所に骨を埋める覚悟を決めた。あそこが俺の居場所。俺の故郷になった瞬間。
そうだ。俺はニクスという名を失った。それでもアルタニアの名は失ってはいない。
(俺は、フォース。フォース=アルタニア!)
力が欲しい。力になりたい。それは何のために?アルタニア!その名のために!
俺は番犬。アルタニア公の飼い犬。彼の番犬。仇を取らずにいられるものか!
犬死にだって、俺はそう生きるべき!処刑を処分を待ってはならない!復讐に身を置け!そのために俺はある!そうだろう!?
闇から聞こえる自分の声に背中を押され、手を伸ばす。
願いはある。幾らだってある。一つじゃ全然足りないくらい。
それでも一つを願うなら……
(俺は、力が欲しい!)
強くなりたい。強くさえなれば、きっとどんな願いも叶う。
それが至らなかったのは、きっと俺が弱いから。
俺が強くなれば……俺はもう……何も失わずに生きていける。全てを守れる。
*
「……あれ?」
目を開ければ、見慣れぬ天上。良い造りだ。新しくはないが風情がある。なんだか高価そうな……
「気がついた?」
傍で聞こえた声に飛び起きる。その声の人物が眼に入り……フォースは丸い瞳を見開いた。
「ぐぐぐぐぐぐぐっぐぐうっぐぐぐぐぐうぐぐぐぐぐぐぐグライドっ!?」
「とりあえず落ち着いてフォース……」
寝かせられていた寝台から転げ落ちる。受け身を取るのも忘れていて腰を強かに打った。
辺りを見回せば、そこそこ高そうな調度品。やはりこれにも優美な品がある。
そこに調和するように佇む少年の姿は、貴族の子供のような立派な姿。農民だった頃の面影は無い。むしろあの頃の格好の方が誤りで、こちらが彼の本当の姿だったのでは?そんな風に思うほど、彼はとてもよく似合っていた。この部屋に。
そんな彼の傍にいると黒ずくめの自分が本当に、みすぼらしく見える。もっとも同じ服を着たところで自分はこうはいかないだろう。こればっかりは。
「とは言うものの、僕も君と似たようなものだよ」
ポットから香る良い匂い。エリザベスの言ったようにやはり彼も紅茶派らしい。
差し出されたカップを受け取り、促されるままそれを啜った。
「とても驚いた。無事だったんだ」
無事だった、その言葉のニュアンスが……安堵と苛立ち。そんな隔たった二つを揃えて発せられたように聞こえる。
「……僕を、君は怨んでいる?」
「そ、そんなことない!俺が甘かっただけだ!お前の決意を甘く見てた。俺が悪いんだ……」
絞り出されたようなその言葉に、ぶんぶんと首を横に振るがグライド他人面のような貼り付けた微苦笑を浮かべるばかり。
「相変わらずフォースは優しいね……でもそれはこのセネトレアでは命取りだ」
「……俺だって相手は選んでる」
別に誰彼構わず優しくなんかしていない。そう言い返すも鼻で笑われてしまったよう。
「それで?何であんな所に倒れてたんだ?」
「倒れてた?俺が?」
「覚えてないのか?器用だな」
考え込むフォースにグライドが初めて笑う。吹き出したように本心で。
それに顔を上げれば、こほんと一つ咳払い。
「僕が通勤途中に本部までの道を歩いていると君が倒れていて……思わず人を呼んで家まで引き返したんだ」
「それじゃあここは……」
「ああ、僕の家だよ。……新しい、ね」
彼は拾われたと言っていた。没落した商人貴族の家へ。
「どうせあんまり良いものなんか食べてないんだろ?西なんかの裏町じゃ」
明らかに見下した、侮蔑の瞳。それはフォースにではなく西裏町という場所に。
「何が食べたい?うちのシェフに何でも作らせるよ」
そうやってにこりと微笑む様は優しげで、昔の彼を思い起こさせる。それなのに……あんな冷たい瞳で誰かを何かを彼は見るのだ。
「……え、えと」
「うん」
「わ、和食……」
「あはははは、わかるわかる。僕もタロックが恋しくなるときはあるよ、料理だけはね」
料理だけは。その言い方は完全に未練がないような……
グライドは両親をそこまで嫌っていただろうか?仲良くしていたように見えたけれど。彼らは彼を売るのを本当に惜しんでいて、もしお前が娘だったらと泣いていたようにさえ思う。そんな親を宥めて優しく笑う彼は恨み言一つ漏らさずに彼らの元を去った。
それは彼の優しさではなく……彼の、嘘だった?
今になってフォースは初めてそう思う。そうだ。彼も人間だ。何もかもを許し、何も怨まずに生きていられるはずがない。
「もう少し寝てなよ。疲れていたんだろ?食事が出来たら呼びに来るよ」
外から鍵を閉められた。逃がす気はないらしい。
まだ彼と肝心な話をしていないから、逃げるつもりは無いのだけれど、そんな風に思われていたのだろう。確かにこれまで逃げることは多かった。
「グライド……」
彼が変わったのではなくて、自分が彼をよく知らないままに決めつけていたのだろうか。彼の言葉に甘えて寝転がった寝台の上で、溢れる溜息。
しかし何時までも一つの感傷に浸ってはいられない。考えるべき事は他にある。
(……いくら徹夜とはいえこれくらいのことで俺が倒れるとは思えない)
何か、盛られたか?
口にしたのはカフェオレとサンドウィッチ。あの店にフォース達を連れて行ったのはエリザベス。
(いや、あいつじゃない。あいつはそんなことしない)
確信している。信じている。信じられる。彼女なら。
それなら残るはあのマスターという初老の男。
このセネトレアでいい人っぽい人が出てきた時点で疑わなければならなかった。それが大きな誤りだった。
悪い感じの人がいい人だったら儲け者だが、逆なら警戒しなければ。いくら知人の馴染みの店とはいえ、客がいないからとはいえぶっちゃけた話をしすぎた。盗聴防止の数式を扱えるトーラのような数術使いも居ないのに、混血だの混血狩りだの名前狩りだの……突っ込んだ話をしてしまった。
(……っ!?それじゃあ、二人が危ない!?)
マスターは言っていた。また今度来いと。それはつまり……また来ることになると知っていたから。そのために仕組んでいたから。
(なんて野郎だ……)
用意周到。それどころか此方の動きを完全に読んでいた。
睡眠薬を盛るにもそれが効くまでの時間と量。それを誤魔化す味付け。それを計算しなければならない、完全に。
彼はそれをやってのけたのだ。洞察力に長けている。そうでなければあんな事は出来ない。唯の人間には。
(くそっ……)
人質を取るからには、自分にも毒を持ったからには時間稼ぎ。あの場所から二人を移動させる程度のことはしただろう。今戻っても遅い。
人質にしたからには、すぐに殺すことはないだろう。
今は目先の仕事を優先させなければ。
(クソっ……!!)
マットレスを拳で殴るが何にもならない。正に今の状況のよう。
しかしそれを合図にしたように、背後に降り立つ一つの気配。
「はーい!フォース君っ!こんなところに居たの?」
「トーラっ!!」
にひひと不敵に笑うは情報請負組織TORAの頭にして暗殺組織SUITお抱え最強の数術使い様。耳のついた特徴的な赤い頭巾とマントとリボンの少女の姿。
「ああ、心配ご無用。純血レベルの数術使いじゃ僕の侵入には気付けないよ。防音盗聴結界もばっちし」
なんとなく手を差し出されたので答えればハイタッチさせられる。その一動作で触れた掌から多くの情報を探ったらしいトーラ。
「もー、フォース君ったらリーちゃんと秘密で企み事なんかして!それが僕とリーちゃんの婚約指輪の下見とかなら僕も文句は言わないんだけどね」
「ごめんなさい……」
「少しは僕を頼ってくれて良いんだよ?君は僕とリーちゃんの養子なんだから」
「ああ、あの話まだ続いてたんだ……」
「勿論さ!」
トーラが勢いよく頷く。しかし直後に上げた顔は困ったような表情だった。
「しかしまた厄介なことになったね。リーちゃんとアスカ君を呼びたい所なんだけど二人には名前狩りの仕事の方を頼んでいたしね。あの二人卑怯属性はあっても、一度に二つのことなんか出来ないような猪突猛進型だからこっちもあっちもってのは無理だね。ってなるとこっちは僕たちで解決したい。応援に呼べそうなのは……影の遊技者にいる洛叉さんとディジットさんくらいかな」
「ディジットも?」
「アルムちゃんが攫われたってなると黙っていてはくれないでしょ?変に暴走されるよりは良いと思うんだけど…………それにちょっと、思うところがあってね」
思うところ。そう言ってトーラは言葉を濁した。
「ディジットさんの家の家庭事情も結構複雑なんだよ。普通ならあんな若い女の子が一人で宿から酒場から切り盛りしていないって。ディジットさんはリーちゃんと同い年の女の子なんだよ?普通そんな子が手に職つけて働くより、もっと別のことをやりたがるものじゃない?」
確かにおかしい。フォースも頷く。
ディジットはリフルと同い年の18。そんな風に感じさせないのは、彼女が落ち着いてどっしりと構えているというか肝が据わっているから。あるいは娘らしさより母性を感じさせる様な雰囲気を持っているからか。
「ディジットさんがアルムちゃんとエルム君拾ったのって、彼女が今のあの子達と同じくらいの年。このセネトレアにフォース君が来たのと同い年の頃って言ったら信じられる?」
「マジで!?」
「まじまじ。僕のデータだとそうだね」
フォースがセネトレアに来たのは13の時。2年前のこと。
あの時に、既に混血の子供を助け……その母親代わりとして守り育てるだけの器量が自分にあっただろうか。いや、無い。あるわけがない。あまりのことに開いた口が塞がらない。
「これは僕がアスカ君について徹底的に調べたときに知ったことなんだけど……」
トーラはそう前置きをした。
「ディジットさんのお母さんとお父さんは年が離れていた。お金目当ての結婚だったんだろうね。若い女に騙されて、男はさっさと捨てられた。間に生まれた娘も押しつけられて金だけ盗んで逃げられたんだ。そのせいで親父さんはディジットさんを可愛がってあげられなかったんだ。成長するにつれてお母さんによく似ていったから」
いつも明るくみんなを支えてくれる彼女。確かに変だとは思った。それでも聞けずにいた。誰も聞かないからタブーなのだとは思った。
どうして彼女に両親が居ないのか。それなのにどうしてあんな大きな店を持っているのか。
「親父さんが行き倒れていたアスカ君を拾って宿の一室を貸し与えてあげたのはそこと深い関係がある」
アスカとディジット。二人が出会ったのはまだその親父がいた頃の話なのだとトーラは語る。
「親父さんは娘より息子が欲しかったんだよ。店を継ぐ男がね。それでアスカ君を随分可愛がったみたい。アスカ君はそれを申し訳なく思ったから……ディジットさんを大切にしていたんだろうね」
「…………そんなことが」
女に裏切られたから、女を娘を愛せない。
母は早くに逃げ、父は自分を愛してくれない。
自分の場合は逃げたのが父。母は愛してくれなくなったけれど、最初は愛してくれていた。自分より過酷な環境で、それでも捻くれず優しいまま育ったディジットは凄い。
「フォース君、違うと思うよ。彼女は頑張ることで親父さんに認めて貰いたかったんだよ。彼が死んでからは……それも叶わない。それでもそんな彼女を支えてくれる人達が居たから彼女はああしていられたんだと僕は思うな」
最初から強い人間はいない。身も心も。
人は須く弱い生き物だと、最強の数術使いはそう語る。「僕って最強」と言って憚らない彼女でも、弱さを抱えた時代があったのだとトーラの瞳が物語っているようだった。
1人で強い人間は居ない。トーラが自分は強いと言ってのけるのは、多くの人間を抱えているから。組織の長だから。守るべき人間が大勢いるから。彼らのためにも彼女は強くあらなければならない。口が裂けても自分が弱いなどとは言えない立場の人間なのだ。
その数は異なれど、ディジットの強さもまた同じ。守る相手がいたからこそ今の彼女があるのだ。
(守る……相手)
それは自分にもいる。トーラほどではないけれど、ちゃんといる。それが、本当の強さ?本当の……力?
「それはアルムちゃんでエルム君で、アスカ君で洛叉さんで……少しは僕らもそこにいられたのかもしれない。少なくとも僕にとっては彼女も君も……僕の一部だ」
ディジットの力の一部に。そしてトーラの一部にも。取るに足らないフォースという人間が組み込まれている。強さの欠片になれている?
(ああ、俺は……)
俺は馬鹿だ。昨晩願いに手を伸ばした。強さはそれじゃない。力はそうではなかったのだ。
自分の愚かさに膝をつく。泣き崩れる。
多くを見通すこの虎目石の数術使いは気付いているのだろう。
「トーラ……っ!俺……っ!どうしようっ!?」
「大丈夫。大丈夫だよ、フォース君」
全部解ってるから。そう言ってそっと背中を撫でてくれる優しい手。
「リーちゃんが守ってくれるよ。みんなを絶対に。彼は王様だもん。僕らじゃ守れないものも、たくさんあの手で守ってくれる。リーちゃんは優しい人だから」
彼の強さ。その内側に自分たちも居られるように、彼を励まし支えよう?それが本当の力。君の名前だよとトーラが微笑む。
それに力づけられ、フォースは鼻を啜りながら頷いた。何度も、何度も……頷いた。
「フォース君……あのね、ディジットさんに唯一存在しないメニューを知っている?」
グライドが持ってきた茶のお代わりを注ぎ、フォースに手渡しながらトーラがそう言う。フォースが落ち着いてきたのを見計らったようなタイミングで。
「それは珈琲全般!酒と紅茶と緑茶は出してもそれは絶対にメニューに並ばない!」
「……あっ!!」
「それは故意的に。彼女はそれを避けているんだ」
確かに、見たことがない。あの店で珈琲を頼んでいる客。飲んでいる客。
「ディジットさんの親父さんは、西裏町で一番……美味しい珈琲を淹れる店主だったんだ」
*
「うーん……暇ぁ」
リアは欠伸をしながら背を伸ばす。混血の少女に連れられ慌ただしく出かけたディジットから店番を頼まれた。
夜の方が客の来る店なのか、或いは単に今日がそういう日なのかはわからない。それでも客が来ないのは楽で良いが暇と言えば暇なのだ。
スケッチするにも人物画の方が好きだ。風景も悪くはないけれど、リアは生きていると思えるものを描くのが好きだった。
描き終えたときの、モデルの顔を見るのが好きだ。その時その人が笑ってくれれば……誰かの力になれたような気がしてとても嬉しい。
誰かと幸せな気分を共有できるのはとてもハッピーなこと。
お金稼ぎとも違う。
頑張って頑張って魂削って絵を描いても、それを誰か一人に所有されてしまう。その1人の満足のために多くの画家は絵を描いただろうか?
それはきっと違う。彼や彼女が何を思いそれを描いたか。それがまるきり伝わっていないのだ。絵はきっと、泣いている。
だからリアは泣かせたくない。生まれたからには、生み出したからには……自分の絵には笑って欲しい。
すぐに飽きられ捨てられるのだとしても、いつかゴミになるのだとしても……一時でも誰かを支えられるならそれは素晴らしいこと。永遠に人の心を縫い留められる力なんか絵にも人にもないのだから。
無論そんな絵を、一枚だけでも描いてみたいとは思う。それが生涯の夢。そしてその時感じた思いを完全に悟ってくれた人にその絵を贈りたい。
それでもまだ至らない自分には、そんなことは出来ない。だから絵を描く。もっと時間を短縮させて、凝縮させて……沢山の絵を描く。色塗りなんか気が向いた時だけで良い。必要なのは枚数だ。
沢山の絵を描けば沢山の人の手に渡る。そうすれば多くの人の力になれるような気がする。
その人のための絵を描きたい。多くの人と幸せな気分を共有したいのだ。それに至らない自分の実力が歯痒いけれど。
「あ、いらっしゃいませー!ご注文は?」
現れたのは長身の男。裏町なんかに相応しくない紳士みたいな人。綺麗な長い金髪で、一瞬女の人かと思ったけれど、顔を見れば普通に男性だ。穏やかな笑みを湛えたそこそこの美青年というか好青年というか優男というか、まぁそんな感じ。
青く透き通った眼が綺麗。思わずモデルにしたくなるくらいに綺麗。とても純粋な光を宿している。でもそれは何か危ないような気がする。そんな怪しい純粋さ。
(表通りか嗜好品通りから迷い込んだのかな?)
「ここに絵描きがいると聞いたのだけども、勘違いだったかな?」
「あ、それ私ですよ」
自分へのお客だったのか。リアは暇がなくなったと喜び笑う。そんな笑みをじっと観察するような青目の客。
しかしそれもすぐに人の良い笑みへと変わる。
「ああ!そうだったのかい?いやぁ、助かったよ!!場所を間違えたのかと思ってドキドキしてしまった」
「ごめんなさい、今日は店番も兼任してました」
エプロンを外しカウンターから外れる。そして客をテーブル席まで誘った。
「でもよくここだってわかりましたね」
裏町の人間ならまだしも、こんな場違いのような人間耳まで自分の話が伝わるとは思えない。リアが首を傾げると、青年は小さく笑う。
「噂を聞いてね……なんでも人の悩みを解決してくれる、不思議な絵描きが居るという……」
「そうですか!あはは、大げさだなぁ」
そう言われてしまえばそれ以上は追求できず、リアは笑った。
絵の中から浮かび上がる。彼の顔から答えは出てくる。それ以上の詮索は無用だ。
それにしても不思議な客だ。いつもは質問するのは此方側。相手は聞かれるがままそれに答える。
しかし彼は違う。此方の質問に答えはするけれど、彼も此方を聞いてくる。絵描きのことに興味を持つ人間なんてこれまでほとんどいなかったのに。自分はそこまで魅力的な女の子だとは思わない。だからこそリアは不思議に思う。
だからだろうか。いつもと違う状況で絵を描いている。だからだろうか。カリカリカリカリ……いくら鉛筆を動かしても答えが浮かび上がらない。この客は微笑んでこそ居るが、底が知れない。何を抱えているのか。仮面に手を掛けてもそれを引きはがせない。それがあまりに長く続いたもので、リアははじめてのことに次第に恐れを抱き始める。
彼の仮面を引きはがしたとき、彼はどんな顔で笑うのか。絵の中で。目の前で。それは本当に開けても良い箱なのだろうか?それの名前はもしかして、禁忌と言うのでは?
リアが己の思考と戦う内も、客は質問を投げかけてくる。
「まさか女の子だとは思わなかったな、女の子でリアって変わった名前だね」
「そ、そうですか?あはは」
「芸名かい?」
「まぁそんなところです」
「へぇ、そうなんだ。私はてっきり君が王なのかと思っていたよ」
「王……?」
「ある物語を知らないかい?1人の王のお話さ。彼は道化を連れていたね」
「そうなんですか?」
「でもそれは私の思い違いだった。道化は君だね絵描きさん?」
「私が、ですか?」
「人は無から有は作れない。つまり君のこの名前は君の一部なんだろう?……ねぇ、マリアさん?」
「………っ!?」
その名を口にされた瞬間、リアの頭に浮かんだのは二つの言葉。
「うわ!凄い!よくわかりましたね!!」と何食わぬ顔でそれを受け入れるか。或いは「どちら様ですか?」としらばっくれるか。
ここまでくれば解る。この客は底が知れない以前に危険だ。危険な香りがする。名前狩り。警笛のようにその単語が繰り返される。
答えられない。それも一つの選択肢。男はリアがそれを選んだのだと決めつけた。時間制限有りの問いだったのか。
(私、死んじゃうのかな……リフル)
まだ描きたい絵がある。死にたくないな。そう思う。それでもこの男はそれをきっと許してくれないのだろう。
それなら此方にも考えがある。
「ねぇお客さん。一つ聞いてみても良いかな?」
この状況で質問を質問で返せる余裕があるとは思っていなかったのだろう。僅かに客は驚いたよう。そして面白そうに口の端を歪ませ笑う。
「何かな?」
「私は絵描きでしょ?一つお願いがあるんだけど……」
13章ヒロインがピンチですがな。主人公は何やってるのよ……
いつも間が悪い。だって運が悪いもの。そんな主人公。