第1章3 突然のさよなら
ザァァと。少女の握るシャワーヘッドから温水が流れる。白い湯気でシャワー室が曇っていく。流れるお湯の先で少女は何をするでもなく茫然と立っていた。シャワーヘッドから勢い良く出たお湯が少女の頭からつま先まで濡らしていく。
少女は戸惑っていた。同年代かと思われる少年の台詞に。初めて投げかけられたその言葉に。
少女に兄弟姉妹はいない。一人っ子だ。妹や弟が欲しくないわけではないがそれほど渇望していたわけでもない。謂わばいればいいな、程度だ。だから「お姉さん」という言葉とは無縁だった。
その上少女は身長が低い。同い年の子と比べても差は大きい。これから年齢を重ねるにつれその差は大きくなっていくだろう。だから両親のお客さんや親戚と顔を合わせた時もその台詞を言われた記憶は少女の中にない。何度か話す機会はあったのに。それほどこの少女に「お姉さん」は似合わないのだ。しかしその反面、「かわいい」という台詞を少女はよく耳にした。
子供を褒めるときに「大人っぽい」とか「良い大人になる」とかと並んで「可愛らしい」がある。少女はそれを選ばれることが多かった。子供をあやすような猫なで声で、触りの良い言葉で撫でられた。初めは内心喜んでいたけれど、社交辞令という文化があることを知ってからは愛想笑いをするしかなくなったことを少女は覚えている。
少女はシャワーヘッドを曇った鏡へと向け、お湯をかける。濡れた鏡は曇を流して辺りを反射させる。少女は鏡に映る自身の姿をまじまじと見つめる。お湯に濡れても形の変わらない髪も、「かわいい」と言われたばかりの顔も、肢体も。隅から隅へと凝視するけれどわからない。少女には自身の魅力が理解できない。
少女は思いつく限りの御託を並べてみるけれど、少年の言葉が魚の骨のように喉に引っ掛かって流れない。ありふれた言葉なのは理解しているけれどなかなか飲み込めない。それくらい少年の台詞は衝撃が大きかったのだ。
今少女になぜそんなにも気になるのか問い質しても碌な答えは返ってこないだろう。社交辞令という文化を知らなそうだからか、同年代の子だからか。将又全く別の理由か。それは少女にさえわからない。
「あああ――」
身体の中にある悪い物を吐き出すように少女は小さく声を出す。わからないことを考えるのは止そう。時間の無駄だから。そう思い少女は流しっ放しにしていたシャワーを止め、髪を洗い始める。血に濡れて固まり、何年も洗っていないような状態の髪をシャンプーで強引に解していく。
洗って流して再び洗ってを繰り返していると全く泡立たなかったシャンプーが少しづつだがましになる。何度も何十分もかけて洗う。洗い過ぎで髪の毛が傷つきそうだけれど、そんなのお構いなしに。親の仇かのように。
少しして。少女が我を忘れて腕を動かし続けたおかげか少女の髪が艶を持ち始め、元々の綺麗な状態へと近付いていた。そんな頃。少女の身体に現界が訪れ始めていた。腕を酷使しながら温水を長時間浴びる。そんなことをしていると突然、少女の視界がぐにゃりと歪む。そして棒立ちしているだけの足が覚束なくなりその場に座り込んでしまう。
「のぼせた………」
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シャワー室から出た少女。先程まで着ていた生暖かい衣服に身を包んでいる。今は少女の両親の部屋を漁ってお金を探しているところだ。
料理が絶望的にできないことがわかった少女にとって、料理せずとも食べられる食材というのは入手不可欠なものだ。いち早く買わないと再びゲテモノを食べるか餓死するしか選択肢がなくなる。そんな地獄の選択はしたくないのだ。
幸いお店の立ち並ぶ商店街はそれほど遠くない。かと言って近くもないが少女の体力でも休憩を挟めば歩いて行けるくらいだ。そこへ行き料理の必要がない加工品などを探そうと少女は考えている。
ガサゴソと両親の部屋を漁る。少女の両親の部屋は思っていたより質素だ。しかし違和感がある。全体的には質素なのだがベットや机など両親が日常的に使っていた物や道具は豪華な材料が使われている。日常使いするものは良いものをと言えばそれまでなのたが、そんな言葉じゃ説明できない違和感あった。少女がそのことに気づいているのかは怪しいけれど。
机の中や棚も見る。ヘソクリを期待してクローゼットを探してみたりもする。お金を見つけるのに時間が掛かり、少女の心に苛立ちが募る。落ち着かせるために一度深呼吸する。同時に少女は滅茶苦茶になった部屋を見回し泥棒にでもなったみたいだと感想を零した。
「あった……!」
ようやくの思いで見つけた財布をキラキラした目で抱き上げる。少女はにぱぁとした笑顔になる。少女は財布を開けて硬貨と紙幣の数を数える。慣れない実物を使った金勘定で時間が掛かってしまう。
少女は伊達に勉強してきた訳では無い。計算は勿論のことそれ以外のこともやってきたつもりでいる。でも如何せん外出することが少ないので金銭感覚が全く養われていない。金額の計算は出来てもそれが多いのか少ないのかわからない。
少女は時間を掛けてやっていた金勘定を残り半分を切ったくらいで止める。金銭感覚がなければ数えても無意味なことに気づいたからだ。少女は普段使いしているであろう財布に非常識な金額は入っていないであろうと推測する。少し重いように思わなくはないけれど、多くて困ることはないと考える。
財布を適当なバッグに入れて玄関へと向かう。少年と別れたあの扉。両親が外出するときに玄関付近から鍵を取っていたことを思いだし、少女は鍵が掛けられているであろう所を見上げる。
予想通りそこには鍵が掛けられていたのだが背の低い少女には届かない。つま先立ちしても、ジャンプしてみても届かない。指先が鍵の端と触れ合うだけだ。ぷくぅと頬を膨らます。椅子など足場になるものを持ってくれば良いだけだ。けれど少女はそれを面倒くさがってまぁいいかと結論付ける。
ただでさえお金を探すのに時間を取られたと言うのにまだ時間を浪費するのは勿体ない。それに平和な国だから大丈夫だろうと殺人事件は頭にない様子で少女は高を括る。
急いで行って帰ってこなければ。夕焼けの空をベランダから見れなくなるかもしれない。少女は両手で扉を押し、外界へと飛び出した。
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パタリ、と。少年の眼の前の扉が閉まる。自らの意識で言ったことだけれど言葉にすると恥ずかしさがあまりにも大きい。少年は耳まで真っ赤にしている。先程少女から受け取ったばかりのボールを大切そうに抱えながら少年は友達の元へと歩く。
「はぁぁ……」
その道中、少年は可憐な少女のことを想像して熱を持ったため息を何度もつく。もう少し会話できたらな、だとか名前くらい聞いておけばよかった、だとか。少年の脳内は後悔で埋め尽くされていた。
少年は学び舎のクラスメイトの顔を次々と思い出す。友達から全く関わったことのない人たちまで。学び舎の男女比は7:3くらいで男子が多い。これが逆だったらなんと良かったことか。
一通り思い返してみたけれどあの少女くらいの顔はいないと少年は結論付ける。それに声も少年の好みだったので余計にもっと会話しなかったことが悔やまれる。
少年は不服に思いながらも高揚とした表情で友達の元に辿り着く。友達にボールを渡すと「遅いぞ」と茶化すような声色と笑顔が飛んできた。
面倒な役が回ってきたと感じていたけれどこんなことがあるなら悪くないなと少年は考えを改める。二人には悪いけれど自分だけ美味しい思いをしようと考える。次会うことがあったら色々質問しよう。少年は聞きたいことリストを脳内で作成しながらボール遊びに勤しむ。もう一度あの家へ飛んで行かないかな……なんて考えながら。
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「ばいばーい」
少年は友達と別れる。ボールは少年のものではないので手ぶらだ。あの後一度も変な方向へボールが飛んで行かなかったかとを残念に思いながら自宅へ向けて歩く。今はお昼時よりも少し早いくらい。少年は空腹感を覚えていた。
横目に豪邸を眺める。こんな家に生まれられたらなんて思う。少年にはお金持ちがどんな生活をしているのか知らないけれど、少なくとも少年の生活よりも良いものなのは想像に容易い。
毎食豪華で、華美な服を身に纏って、楽しい遊びをして。少年は妄想に耽る。あの少女が着ていた服に華美さなんてなかったのだが少年は理想だけを見つめる。
大きな家に綺麗な室内。美味しい食事。実情なんて気にせず幻想を懐く。お金持ちを羨望する。少年の心の中には「あの少女の弟ポジション」という下心があるのかもしれない。
しかし少年は知らない。子供だから。大人たちの殆どにあるお金持ちへの。と言うより元貴族への偏見と妬みを。どれだけの不評を買っているのかを。
少年が豪邸の角を曲がると、無数の人影が豪邸を取り囲んでいた。我先にと近くの者を押し退け、首を伸ばして覗き込む。老若男女問わず沢山の人がただ一方を向いて立っている。それがなんだか少年の目には恐ろしく映った。
ある者は声を荒らげていた。興奮のあまり滑舌が悪く聞き取れないが良い言葉を言っているようには見えなかった。
ある者は哀しそうな表情をしていた。涙をながすような悲しさでわなく喪失感に近い表情。だけどそれが全てではない。表面はコーティングされているけれど、どこか少年にはプラスの感情を混じっているように思えて仕方がなかった。
ある者は困惑していた。訳がわからないけれど騒がしいか、寄って来ただけの野次馬。なりふり構わず事情を聞いていくその様子に、少年は目を背けたくなった。
ガヤガヤガヤとした煩い音が耳に届く。なんとか言葉の断片から推測しようとするけれど、わからない。知っている単語のはずなのに、いつも使っている言語のはずなのに、形にならない。
それはただただ煩いからなのか。耳に入る情報が多すぎて聞き分けられないからか。それとも別の要因があるのか。少年には理解できない。したくもない。
そう思っていた筈なのに、少年は人混みの中で自分の母親を見つけてしまう。少しくらいなら聞いてもいいかななんて考えてしまう。
少年は怖いもの見たさで母親に近づいていく。知らない方が良いと本能が訴えかけてくるのに。ただの好奇心で。
母親に駆け寄る。あまりスピードは出ないけれど。少年の母親も少年に気づきゆっくりと歩いて向かってくる。二人が衝突しそうなくらい近付く。少年は乱れる息を鬱陶しく思いながら食い気味に聞く。禁忌の、質問を。
「何が……あったの……?」
「ああ、私もあまりよく知らないんだけどね。このお屋敷で誰か殺されたらしいのよ」
あーあ、聞いちゃった。
聞かないほうがいいって、知らないほうがいいって、わかっていたのに。少年は酷く混乱する。人殺しの事件なんて滅多に聞かないのに、運悪くこの家が?
ボールを取りに行った時、あの家は少女一人だった。その家で殺人事件。誰が死んだのかわからない。何人死んだのかわからない。けれど、少年にはあの少女が殺されたとしか思えない。考えても、どれだけ考えてもその結果しか思い浮かばない。むしろ考えるほど少年の中でその線が濃厚になっていく。
死という言葉が頭を過る度、少年の絶望は度合いを増していく。先程までは騒がしいと思っていた音も今では何も感じない。あるのは負の感情だけ。少年の耳には母親の声もその他大勢の声も聞こえない。
少年には今自身がどんな状態なのかすらわからない。泣いているのか、叫んでいるのか、将又無なのか。ただ分かることがあるとすれば、少年はただ悲しかった。たったの一瞬だけだとは言え関わった人が亡くなったのが。
「私もあんまり好きじゃなかったけど、殺すのはねぇ」
ふと、少年の耳にそんな言葉が入ってきた。途中は抜け落ちたけれど、最後だけ聞き取れたそんな母親の台詞。
少年はただ怖かった。こんなに身近で殺人事件が起こったことが。恐ろしかった。平和だと思っていた生活に突然突き刺さった槍が。そして何より。どんなことよりも。身近に、人が死んだというのにこんな淡白なことを言う人間がいることが。
少年には、おぞましく感じられた。
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ルンルンと、鼻歌混じりに歩く。欲しい、要らないに関わらず商品を見て回るのは殊の外楽しい。ましてや外出の少ない者ならば顕著だろう。少女は少し買いすぎたかな、なんて思いながらバッグの中を見る。
「まぁいいか」
当初の予定通り料理の必要がない食材がたくさん入っている。おまけと言ってつけられた物や思わず買ってしまった物もあってバッグが殊の外重くなってしまっている。これを毎日のように繰り返すのは少女には苦しい。偶にあるくらいならばと思い少女は何とか堪える。
少女は自宅を目指して歩く。バッグが重くなったせいで生きるよりも遅い。
「……ん?」
バッグを抱えて歩く少女の視界に人混みが入る。自宅の前に屯する野次馬たちだ。少女は歩を進めるのを止め、思考の世界へと入る。
落ち着きのない人たち。距離があって聞こえないはずのザワザワとした音が視界から耳に入る。焦りとも喜びとも違う奇妙な感情がそこにあった。
何か良いことがあった雰囲気では無さそうだ。かと言って悪いことであるようにも思えない。少女は困惑するが、ほぼ確定であろう考察が彼女の中にはあった。
死骸に気付かれた可能性だ。それ以外考えられない。家には肉塊があってその家の前に人溜まりが出来ている。その状況下でどうして別の考えに行けるものか。
だからこそ少女は困惑する。何故人々の様子が絶望ではないのか。悲しみではないのか。興味がないと言われればそれまでだ。関わりがないと言われればそれまでだ。だけどそれならば何故集まるのか。何故あのような雰囲気を纏うことができるのか。
少女は、自身には理解できない闇に触れた気がした。