第1章2 初めてづくし
無我夢中でナイフを振るい続けてどれくらい経過しただろうか。初めのような勢いも失いはぁはぁと荒い息を吐く。
もともと少ない体力の限界が訪れても尚刺し続け、もともと強くない身体に追い打ちをかけ続けたのだ。全身に疲労が蓄積し、馬乗りの体制を維持することすら難しい。
少女の下にある死体はズタボロだ。これが誰なのかわからない。それどころか人間であったことすらも疑問視されそうなほど原型がなくなっている。
両親の亡骸を「拷問されたよう」と形容したが、形の有無どちらが良いのか少女には判断できない。
少女は人を殺した。それは紛れもない事実としてそこに存在している。けれど後悔はしていない。否、自分の行動に後悔するだけの余裕すらないと言った方が正しいか。
何故、こうなったのか。助けられなかったのか。自分の行動に後悔はなくとも両親が死んだことに対する後悔はある。ああすれば死ななかったのではないか。こうすればもっと幸せだったのではないか。
ぐるぐると、無意味な思考に支配される。無駄だと知ったからと言って、それが確実に実を結ぶとは限らないのだ。
疲れた、一眠りするとしよう。ばたりと力の完全に抜けた少女の身体が床に落ちる。全身が石のように重く指の一つも動かせない。ゆっくりと瞼を閉じ、真っ暗闇に入っていく。亡骸も、肉塊も、床も、壁も朱殷に染まる中、天井だけは綺麗だったな──。なんてどうでも良いことを考えながら。
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「んっ──」
少女は、耳元で虫が飛ぶ音で目を覚ます。悲しい夢でも見ていたのだろうか。乾いた涙で瞼が引っ付き、思うように目を開けられない。ごしごしと乾いた血のこびりつく手で目を擦る。
夢の内容は思い出せない。
硬い瞼を無理矢理引き剥がして開けるが、眩しい陽の光で何も見えない。急いで目を手で覆い隠し、明順応するのを待つ。少ししてから、少女はびくびくしながら慎重に目を開く。
──もしも夢だったら。
なんて考えたがそんな都合の良いことが起こるはずがない。昨日と同じ状況が広がっている。違うことといえば死骸に虫が集まっていることくらいだ。虫たちには少女が近くの死骸と同じに見えたのか腕に数匹乗っかっている。ゆっくりと立ち上がると虫たちは離れ、肉塊の元へと行く。
「んしょ」
邪魔なものを端へ追いやるように、少女は肉塊を掴み一箇所へ固めようとする。虫たちは自らの餌が奪われると思ったのか、威嚇するように少女の近くを激しく飛び回る。身体に引っ付こうとする虫だけを払い、ぐっと足に力を入れ肉塊を押す。
だが、びくともしない。少女には自分の身体よりも大きくて重い肉塊を動かすだけの力はない。少し残念そうに諦め、肉塊から手を離す。すると虫たちも安心したように死骸の貪りを再開した。
何故かその様子に苛立って、少女はぷくぅと頬を膨らませてみる。誰もそれを見てくれる人はいないのに。興醒めした様子の少女は頬を元に戻す。
顔の近くで手を左右に動かし邪魔な虫たちに牽制をしながら部屋を出る。虫たちが部屋から出てこないよう細心の注意を払いながら扉を閉める。
これからどうすれば良いのだろうか。年齢も年齢だ。両親に頼り切りな生活をしていた少女には方法がわからない。
そんなこんな考えているとぐぅぅとお腹が鳴り、少女は恥ずかしそうに急いでお腹を手で覆う。
「──何か食べるもの」
空腹を自覚するとよりお腹が空いて感じるものだ。少女は空腹でくらくらとする身体を壁にもたれ掛かって支える。そのままの体制で足を進める。
ゆっくり、ゆっくりと歩いていると途中でとガチャリとした音と何かを踏んづけた不快な感覚が足元を襲い、下を向く。そこには昨日少女が置いた夕食のお皿があった。
「あーあ」
なんて、悪びれる様子のカケラもない少女。拾い上げる気力も湧かずに無視だ。ぺちゃぺちゃとお嬢様から出てはいけない下品な足音を鳴らしながら。廊下の端には可愛らしい小さな足跡が不規則に並んでいる。
キッチンに着いた少女はおもむろに冷蔵庫を開ける。なにか作り置きしてくれている物がないかと手を伸ばす。けれど少女の低い背丈からは高い所が見えない。
パタリと一度冷蔵庫を閉め近くの椅子を引っ張ってくる。何処ぞの肉塊と違い、この椅子は大きさこそあるものの動かせないほどの重さはない。椅子を冷蔵庫の前まで持ってくるとその上に乗り漁る。椅子に乗れば一番奥まで見渡せるのだ。
冷蔵庫を開けると下からではあまり感じられなかった冷気を少女の身体全てで受け止める。
冷蔵庫の物を冷やす不思議な力も、あの女を捻り上げた不思議な力も、同じもの由来なんだと本能で感じる。少女が今まで強く意識していなかっただけで魔法は意外と身近にあるのだ。
少女が冷蔵庫を本格的に漁り始めるのはその涼しさを少しの間味わってから。けれどお目当ての物は何一つない。少女は起きる度に温かいご飯が並べられていたことを思い返す。少女の両親は作り置きをするタイプではなかった。出来立てのほうが美味しいからという簡単な理由で毎日料理をしていたのだ。少女はもう両親の作るご飯を食べられないことを理解して、悲しげな表情になる。
「料理くらい──」
少女のプライドがその表情を消す。そして無駄な意地を張って適当な食材を取り出す。もちろん少女は料理などしたことない。作っているところを見たのもずっと前のことだ。あまり美味しくなくとも食べられればいいやとセルフハンディキャップを課しながら、ひょこりと椅子から飛び降りる。椅子を元の場所に戻すことも忘れ、せっせと食材を運ぶ。
少女は取り出した食材を机に置き、古い記憶を引っ張り出してきて料理をする。このままだと机の上がよく見えないので再び近くの椅子を引っ張り出して来て乗る。初めての料理に少しづつテンションが上がるのを感じる。
何の料理を作ろうかと考える。凝った料理もシンプルな料理も、少女の頭の中に大量の完成品は思い浮かぶ。少女の両親の料理のレパートリーは多く、嫌いな料理もあったが全体的に見れば結構美味しかったことを覚えている。少女の好み且つ今手元にある食材で作れそうな料理を記憶の中で探る。
ニ、三個思い浮かんだのだか全て料理名も、作り方もわからない。はぁ、と諦めたようにため息を吐き出す。勉強ばかりしていたのだが少女の勉強の中に料理は何一つ入っていなかった。
少女は料理のやり方を少しくらい聞いていればと後悔する。そして両親の料理を再現すらできないと落胆する。けれどこうなってしまっては仕方がないので創作料理を生み出そう。取り敢えずは温かい料理が食べたい気分だ。
まずはまな板の上に持ってきた食材をぶちまける。生肉だとか、卵だとかは火の通りが不完全だとお腹を壊すことくらいは知っている。初めての料理でそんなリスキーな道を通るわけにはいかないので危なそうな物は避けておく。野菜や果物、加工品ばかりがまな板の上で転がっている。
次にナイフで食材を切り刻む。食材が大きいと火の通りが悪いからだ。ナイフを手に取るのはこれで二回目、きちんとした用途では初めてだ。少女は食材と人の切り易さの違いを知った。
どれくらい刻めば良いのかわからないが大きいと火が通りにくいのなら取り敢えず小さくすればいいだろうと、少女は安直に考える。小さすぎて困ることと言えば精々食べ難いくらいだ。
どの場所が食べられてどの場所が食べられないのかなんてわからない。けれど取り敢えず果物や野菜にある、硬くて切れないところをぽいと放っておいた。
次は火を通す作業だ。取っ手の付いたフライパンを機械の上に置き火を点ける。そしてまな板の上にある細かく刻まれ見栄えの悪い食材を流し込む。その際、フライパンの外へ飛び散るが少女は気にも止めない。
少女にはどれくらい火を通すのが適切なのかわからない。記憶も曖昧で時間なんて覚えていない。
調味料の置かれている場所も知らない少女。入れすぎはお腹を壊すと言うことでそもそも入れることを断念した。
普段は綺麗にされていたキッチンだが、今や乱雑に椅子が放置され食材やゴミがそこら中に落ちている。廊下から続いている少女の小さな足跡もある。
片付けをしなくてはならない。少女が憂鬱に思っていると料理から焦げ臭い香りが出ていることに気付いた。急いで火を止め、お皿に盛り付ける。所々黒く焦げ、その臭いが部屋中に充満する。けれど死んだ人間の臭いでおかしくなった少女の鼻はその臭いを感知できない。
少女は料理だとは言い難い料理を持って自室へと向かう。少女の初めての料理は失敗に終わった。何処で食べても問題はないのだが自室が少女にとって一番落ち着く場所が自室なのだ。
スプーンを手に取り自室の机で料理を口に運ぶ。少女はこの革新的な味を言葉にしようとするけれど、少女には語彙が足りなかった。
「──美味しくない」
少女はその言葉に多大な感情を込めて発する。黙々と温かいゲテモノを口に運んでお腹を満たしていると、ゴンっと何かがぶつかる音がして外からこんな声が聞こえてきた。
「おい、どうすんだよ。あの家じゃねぇか」
少女は朝っぱらから煩いなぁと思う。少女は一度食事の手を止めて部屋にある小窓から身体を乗り出す。朝っぱらと言ってもがどれくらい眠っていたのかわからないので何とも言えないけれど、そんなことは棚に上げて。
少女の視線の先には何時も遊んでいる三人組の男の子たちがいた。何か揉めているようだったが少女は途切れ途切れにしか言葉を拾うことができなかった。
「ご、ごめん。僕が取ってくるよ。」
そう言って三人組の中でも気の弱そうな身長の低い子が何処かへ走り去って行ってしまった。損な役回りをさせられる子だ。可哀そうだけれど声も聞こえなくなってしまったので少女は興味を失いカーテンを閉めて食事に戻る。何も考えずに料理を口に運ぶと少女は盛大に噎せる。ゲテモノなことを再確認した少女は覚悟を決めてからスプーンを口に運ぶ。
「やっぱり美味しくない……」
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「ご馳走さまでした。」
料理を胃に流し込み全くご馳走ではない食事を終える。お腹が満たされると少女は別のことが気になり始める。服装だ。べったりと朱殷が染み付いた服。血で服が固まって身体が動かし難いほどだ。少女は服を脱いで床に放り、下着姿でクローゼットを漁る。ハンガーにかけられた服やスカートを動かしお目当てのものを探す。
そして少女は見つけたそれを手に取る。暗めの色のフードが付いた服と動きやすさを意識したズボンだ。これから買い物に行くしせめて大人びた服を着ないと。子供だと思われて買い物に支障が出たら困る。
せっせと選んだ服に袖を通し下着姿から着替えていく。小さな手鏡に少女の小さな身体を映しておかしなところがないかチェックする。少女は服装を確認する途中もう一つ気になることが出てきた。それは肩までかかるくらいの長さの銀髪が固まった血でガビガビなことだ。変な体制で眠ったせいで、髪の毛が飛び散った状態で固まってしまっている。なんとか手で梳ろうとするも指が全く通らない。フードで髪の毛はある程度隠せるけれど、着替えたばかりでシャワーを浴びないといけないことに落胆する。少女は入浴の準備を着々と進めていると突然、ジリリリリと少女の部屋に呼び鈴が鳴った。
いったい誰だろうか。あり得る可能性をできるだけ多く探す。「全ての不可能を除外して最後に残ったものが如何に奇妙なことであってもそれが真実となる」の精神に基づき正解を探すのだ。玄関へと向かいながら考える。
まず一つ。両親のお客さんかもしれない。これは結構あり得る可能性なのではないだろうか。今のところ両親の死は以外誰も知らないのだ。予定が入っていれば訪れるのも何らおかしくない。
二つ。自警団の人かもしれない。両親の死を知っているのは少女だけだとはいってもあの女が何か外に伝える手段を持っていた可能性もある。
三つ。全く知らない人が全く知らない家へ全く知らずに訪れた。………これはないかな。そんなのがあり得てしまったらかの精神が作用しなくなってしまう。
少女は自衛のために死骸のある部屋に近付き、鍵を閉める。少しでも警戒するに超したことはないから。部屋の向こうから聞こえてくる羽音が気持ち悪い。少女は来訪者を待たせないように急いだので息が少し乱れている。少女は開いている手で髪フードの中へ隠し、息を落ち着かせる。
「はーい」
少女は警戒を怠らないようにしながら、できるだけの笑顔で扉を開ける。
「あの、ベランダに飛んでったボールを……取らせて欲しいんですけど……」
扉の先にはあの気の弱そうな男の子がいた。少女はさっきの音の正体がボールのせいだと考える。正解が三つ目の全く知らない人が全く知らない家へ全く知らずに訪れた、になるとは思わなかった少女は某探偵さんのことを信用しないことにした。
少女が首を傾げて考えている間、少年は気まずそうにもじもじしながら棒立ちしていた。それに気づき我に返った少女は
「うん、いいよ。おいで?」
と、笑顔を作り直して言う。少女は髪の毛を見られないように少年と並ぶこんで歩く。ここは少女の家だから少年の前を歩くのが当然だ。けれど少年は何かに見惚れるように考え事をしていて違和感を覚えない。
少女はこっちだよ。と優しく言って死骸のある部屋を遠ざけて歩く。ボールがあるであろうベランダに向けて。少女はいつもより急いで歩き、少年においていかれないようにしている。少年は少女の疲れていそうな動きに歩幅を合わせる。
「お父さんか、お母さんはいないの?」
少年が言う。余程気まずかったのか咄嗟に思い付いたような質問だ。少女は何と答えたら良いものかと少し考え込む。あまり芳しくない状況なのでボロを出さないように。
「うん、外出してて。今この家には私しかいないよ。」
「そ、そうなんだ……」
少年は何を思ったのか頬が赤くなる。少女はそれに気づくことなく歩き続ける。
階段に差し掛かった。階段を上がればすぐ近くにベランダがある。長めの階段で少女は自分の息が乱れるのを自覚する。けれどただでさえゆっくりなのにもっと待って貰うのは申し訳ないと思い隠す。二人はベランダへと続く部屋に入り、窓を開けて外へ出る。
少女は久しぶりに、少年は初めてベランダに立つ。少女はいつもの小窓から見る景色との差に感動する。柵に身体を乗り出して見下ろそうとするけれど、身長が足りずできない。少年は初めて高所に立つ感覚に酔いしれる。
少女はにぱぁとした笑顔で観られるだけの景色を全力で吸収する。綺麗な晴天だ。もし曇っていたらこんなにも綺麗な景色は見られなかっただろう。少女はまた夕方にも見に来ようと考える。夕焼けも綺麗だろうから。
少女がキョロキョロとしていると隣から声がする。少年の、戸惑っているような小さくて消え入りそうな声だ。
「ありがとう、ボールは見つかったよ。お姉……さん?」
少女はハッと振り返る。そしてできる限り冷静を装って言う。
「じゃ、戻ろっか。」
スタ、スタ。二人は玄関に向かって歩く。喋るネタがないのか会話の一つもない。少女は気まずさを何とかできないかと話題を探すけれど引き出しの中は空っぽだった。まだまだ聞きたいことがあるけれど少年は先程質問したときの間が気になって話しかけられずにいた。
少女はお姉さん、と呼ばれたことを思い返す。弟も妹もいなかった少女お姉さんという台詞とは無縁だった。呼ばれたいと思ったことはない。けれど少女よりも少し身長の高い同年代の少年に言われたことにむず痒さを感じていた。少女は初めての言葉の響きに口角が上がってしまう。
「ありがとうございました。」
「ううん、気にしないで。」
少年がドアを押して帰っていく。少女は最後まで見送るかどうか手を振りながら考えていると一度閉まりかけた扉がもう一度開く。そして忘れた物を取るように早口で
「一つ、忘れてた。お風呂に入って髪の毛洗ったほうが良いと思うよ。ほら、ぼ、僕もお風呂はあんまり得意じゃないけど、あの──お風呂に入ったらもっと可愛くなると思う、から。──それじゃ。」
そう言って走り去ってしまった。少女の顔がカァァっと赤くなる。同年代の子に言われたことのない言葉をかけられて。両親にも言われたことはそう多くないのに。
「フードで隠したつもりだったんだけどな」
フードの上から自らのカピカピになった髪を撫でる。少女は熱を持った息を零した。