第1章1 殺人と死
ある日。世界を脅かす事件が多数発生した。これは全く別の場所で、被害者どうしの面識もなかった。そのため普通に考えれば完全に無関係の事件に思われるが凶悪犯罪など滅多におきない平和な国での事件ばかりであったため、事件をよく知る者たちは皆口を揃えてなにかしらの陰謀だと言った。
それら事件は悲惨なものだった。何人もの人が亡くなった。それもまともでない状態で。
被害は酷いところで町の全滅。たった一人による実行だと見られている。
そしてこの事件郡の中で最も恐ろしいことは、誰一人として犯人が捕まっていないことだ。
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「ハハッ……」
少女は見てはいけないものを見てしまった絶望と、形容できぬほどの恐怖に苛まれる。逃れられない運命を直に感じる。
瞬間、少女の視界はモノクロームとなった。
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青い空の下、少女は片付けをしている。使い終わった勉強道具をあるべき場所へと戻す。自室へと運び込まれた、勉強のお供には少し豪華すぎる昼食のお皿を持ち上げゆっくりとドアノブを捻る。
部屋着には不便そうな、けれどその地位を表すには丁度良いカラフルな服を身に纏い、少女はゆったりと歩く。少女は生まれつき身体が丈夫ではない上に小さい頃から運動をほとんどしてこなかったため、体力が絶望的に少ない。
彼女の両親はそのことを理解、考慮し比較的家の中心に部屋を設けているが、それでもこの広い屋敷の中では体力のなさは致命的だ。
それでも、仕方ないのだ。いくらお金持ちだとは言え、身分制度の解体により貴族でなくなった彼らには人を雇えるだけの余裕はない。ましてや一人の少女のためとなれば不可能に近い。少女はゆっくりと、肩を軽く上下させながらキッチンを目掛けて歩く。
もう少しでキッチンに辿り着くといった頃、彼女の耳は小さな音を感知した。その音は一つだけある、淡色の光を漏らす部屋からだった。その音はよく耳を澄まさなければ聞こえないほど小さな声だ。苦しそうで、辛そうで、もっと声を荒らげても良いのにそれを封じて、何かを隠すような、何かから隠すような声だった。
訝しげに思った少女は廊下にそっと音をたてないようお皿を廊下の端に置き、今までよりもずっとゆっくりと、足音をたてないよう慎重にその部屋へと歩を進める。
この声の意味は何なのか、声の主が誰なのか知りたい。少女に兄弟姉妹はいないので少女の知り得る限りではこの家には両親しかいないはずだ。けれど両親は元貴族故か、その温厚篤実な人柄故か、多くの客人が訪れる。少女の知らない人がそこに居ようと何ら不思議ではない。
不意にこんなことを思ってしまった。もし、見てはいけないものだったら。誰の声なのかも、何が起こっているのかもわからない。ただこれを大事にしないようにと声の主がしているのは確実だ。隠そうとしていることはわかる。それを何も知らない少女が暴いてしまっても良いのだろうか。
そもそも確認しなければいけない事柄でもない。それは理解している。少女がいけしゃあしゃあとでしゃばって良い場でもない。普段なら気にも止めなかったであろうこと。それなのに何故か気になって仕方がない。まるで決定事項のように。運命のように。
それ以上近付くなと、頭の中で声がする。聞いたことはないが、何だか落ち着く声だ。後ろ髪引かれるように、誰かに押し返されるように足が重くなる。きゅうぅっと心臓が、心が押しつぶされる。小さく小さく縮んでいく。
一歩、一歩とドアに近付く。体力だとか言い訳できないほど遅く、遅く。それにつれて耳に入る声が大きくなる。注意していなくても、騒然としている中でも振り向く人が出るくらいに。しかし、その苦しそうな声は少女に届き、行動を変えさせるに至らない。色褪せた世界で少女はドアノブを握る。ざわざわとして纏まりのなかった頭の中が怖いほど冷静になる。ぎゅっと握られたドアノブをゆっくりと捻り隙間から顔を覗かせる。
そこには倒れた両親と一人の女がいた。ぐしゃり、ぐしゃりと女の手が両親に叩きつけられる度刃物で肉を抉る音が鳴る。女はただただ無言で、感情のままに刃物を振るう。
「ハハッ……」
少女はこっそり覗いていたことを忘れドアノブから手が落ちる。支えを失ったドアはゆっくりと開いていく。
両親が、殺されている。眼の前で。先程まで声が出ていたとは思えないほどに傷つけられた両親の身体。全身を刺され、抉られ。所々には火傷のような跡がある。極力殺さないように、苦しめるように。これが拷問かと問われれば全員が首を縦に振ったであろう。
眼の前で両親の亡骸がズタズタにされるのを呆然と眺めている。今自分を取り巻いている感情がわからない。悲しいが涙は出ない。怒りはあるがそれに身を任せ、声を荒らげ飛び掛かることもできない。状況に感情が追い付いていないのだ。
そんな出来事に、脳がショートする。
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少女にとって親とは何かと問われれば、必要な存在であると答えるだろう。それでも少女と両親との関わりは少ない方だったと思う。
少女は幼い頃から、今も十二分に幼いが、勉学の道を歩んできた。一日中部屋に閉じ籠もり活字とにらめっこしてきた。勉強をする機会すら与えられずに大人になる人も少なくないので少しくらい自惚れても良いだろう。少女は賢い。
でも勉強中ふと外を眺めた時、少女と同じくらいの年齢の子がはしゃいで遊んでいるのを見ると羨ましく思うことがあった。もちろん自分の立場が恵まれていることを理解していたし運動が苦手だということもあって逃げ出そうと計画することはなかったけれど。
いつの日か、少女は母に「何故他の子たちは外で遊んでいるのに私はずっと勉強ばかりなの?」と尋ねたことがあった。他意のない、純粋な質問だった。母は少し悩む素振りを見せて
「……それはね。少女たちの願いからなの」
と話し始めた。
少女たちの家系はね。貴族だったの。あなたのおじいさんの代で貴族という身分はなくなっちゃったんだけどね。身分制度が無くなったのを良い機会に少女の母は父と婚約をしたの。けれどその頃は元貴族に対する当たりが強かった。もちろん、今までやってきたことを考えれば当然だし、国が一度ひっくり返ったんだから。
そのおかげで少女は、あまり良い暮らしができなかった。元貴族であるというだけでなく、元貴族と平民の間であったためか他の元貴族よりも顕著だったように思うわ。他の家と比べればお金はあったけれど、外に出れば冷たい目に晒されていた。同年代の友だちなんてできるわけもなくてずっと孤独な毎日だったの。
今のようになるまで頑張ったのよ。お父さんとも協力して。少しづつわかってもらえた。地域の活動には積極的に参加した。外に出るだけで冷やかな視線に晒されていたけれど少しづつましになっていったわ。
それからコミュニケーションもよく取ることにした。初めは無視なんて当たり前のようにされたけれど心を開いてくれる人も増えていった。まだ全員ではないけれどね。その時に聡明さが必要だって思ったの。考えなければならないことがあまりにも多かったから。数少ない生まれに感謝した出来事の一つかな。
だからあなたにも勉強をたくさんしてもらいたいなって思ったの。賢いって何処に行っても、どんな状況でも役に立つ武器になるから。あなたが生まれつき病気だったっていうのも決意した一つの理由かな。外に出して目を離すのか怖かったから。
穏やかな口調で話す。思い返しているのか母が遠くを眺めているのに気がついた少女はゆっくりとその部屋を後にした。
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ガタリッと大きな音が鳴り現実に引き戻される。どれくらいたったのだろうか。最早原型の残らない二つの亡骸と、ナイフをこちらに向け今にも斬りかかってきそうな女が目に入る。
頬が涙でかぴつく感覚がある。遅れてふつふつと怒りが湧き上がってきた。声を荒らげない冷静な怒り。頭の中は濃い霧がかかりまともに思考できなくなる。どろどろとした恐怖により足が、腕が震える。
「……殺して…やる」
ぽつりと、枯れた声を発したかと思うと女はくらくらと覚束ない足取りで切り掛かってくる。少女はそれを甘んじて受け入れる。……というより、避けられない。恐怖で震える足が動かないのだ。靄のかかった頭が動けと、避けろと命令を下さないのだ。まるで決定事項のように。運命のように。
ごめんなさい。そう言おうとしても口が動かない。極僅かにだけ開いた口から息の切れる音が鳴って、白黒の世界は暗闇に染まる。そして少女は身体にさよならを告げる。
……
…………
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かと思ったが、いつになっても首が地面にずり落ちない。逆にいつか聞いた苦しそうな声とぐぎぎと肉が捩れる音が聞こえる。不思議に思いゆっくりと目を開く。するとそこには何らかの力により空中で捩じ上げられている女がいた。
「……う、あ…」
声にならない声をあげ、曲がってはいけない方向に曲がる身体。魔法をこの目で見たことがない少女にとって、この状況にを瞬時に解析することができない。自分がやっているのか、それとも他の誰かによる仕業なのか。何もかもがわからないことだらけだが今がチャンスだと思った少女は女の手から落ちたナイフを取り、振り下ろす。滅多刺しにする。
ぐしゃり。ひと刺し。力のない少女では深く傷つけることができない。
ぐしゃり。ナイフが浅く刺さる。返り血に染まっていた彼女の身体は自身の血で穢されてゆく。
ぐしゃり。別の場所へ。両親を殺された怒りと恐怖に身を任せて。
ぐしゃり。深く刺さる。いつのまにか空中から落ちた身体に馬乗りになって。
ぐしゃり。眼球へ。口内へ。耳へ。局部へ。指へ。足へ。二つの亡骸がされたように。
ぐしゃり。心臓へ。もう生きているのか死んでいるのかすらわからないけれど、そんなのは関係ない。
ぐしゃり。全身を、満遍なく。綺麗だった洋服が見るも無惨なほどボロボロに、そして鮮血に染まる。
ぐしゃり、ぐしゃり、ぐしゃり。異常なほどに口角が上がり、歪む自身の顔に少女は気付かない。瞬きを忘れた目は真っ赤に充血ている。返り血を浴びた手で拭た顔は血の線が数本引かれている。
何度も、何十度も、何百度も。狂った顔で刺し続ける少女は、この時の少女は、紛れもない殺人鬼であった。