恐怖(1)
恐怖の中でそれらしい結論をようやく見つけた途端に、ロシュの意識は突然に途切れた。
弱弱しく燃え光るランプの灯に、ふっと冷たい息を吹きかけたかのように。
「ぁ……」
次に気付いた時、ロシュは軽薄な骸骨戦士が使っている居住区(というより物置だ)には居なかった。
本能がそう感じ取った。
横たえていた半身を緩慢な動作で起こす。
霧がべったりと素肌にまとわりついて来る。手を触れると、怖気立つような感触がした。以前に自ら吐いたことのある血と同じ、どす黒く錆びついた色。
ひっ。
小さく息を吞んだ。
ようやく気付く。
何も身に着けていない。
こんなよく分からない、怖い場所で、晒している、すべてを。
誰も見ていないのに、ロシュは慌てて膝を閉じた。
どこに行っちゃったんだろう。ぼくの、服。
お気に入りのツーピース、実家で暮らしていた頃にアスカお姉ちゃんからもらった、異世界の衣装……。
クリーム色の長袖ブラウスと、同じ色のスカート。
ベルトがカラメルソースみたいな色で……甘々な感じが、好きだったのに。
グレーゴルが居ない間に、何かに襲われたのだろうか。
それとも、違うどこかに運ばれてしまったのだろうか。
ヴァレリア師匠が手作りしてくださった手袋も、ライヒェルト兄さんが出世払いで買ってくれたオーダーメイドの眼鏡も、なくしてしまったんだろうか。
ああ、こんなことなら、あの陽気な骸骨戦士に仕事を見てもらっていればよかった。
そもそも──守ってもらわなければ何の役にも立てない自分が、どうして実力を試す試験など受けようとしたのだろうか。
思考の迷宮に迷い込んでいるうちに、所在なく床に置いていた左手が、灼熱するような激痛を伝えてきた。
何かが居る。
いや……来たのだ。
何かが来て、自分を害そうとしている。
そう分かっても、ロシュにはどうすることもできなかった。
預かっていた武器防具や便利なアイテム類はごっそり消えてしまったし、それに、武器なんてまともに扱えたこともない。
噛まれた。
鋭い獣の牙がふくらはぎに食い込んで、血と絶叫とを絞り出す。
左脚、利き脚だ。これで動くこともままならなくなった。
ロシュは泣いた。
慰めてくれる人も、わがままを聞き届けてくれる人も。
助けてくれる人も、いないのに。
姿の見えない獣は、久々の獲物を楽しく弄ぶのだと言わんばかり。
右肩に噛みついて来る。肉をえぐり、鎖骨を砕く。
喉が枯れるほどの叫びを放つと、今度は左腕を噛んで来た。
熱く、どろりとして太い、酸性の唾液でぬめる、長く赤い舌。
鋼鉄の爪が膝を踏み砕いた。もう叫ぶことすらできなかった。
だらりと垂れる両足を器用に掴まれた。
ごく強引に、ドロドロする床に転がされた格好だ。
背中を引っ掻いてさんざんに傷つけられ、ころりと返して胸にも同じことをされる。
まだ意識があるのは、やはり、暗黒の魔力のせいだろう。
繋ぎ得ない命を繋ぎ止め、無尽蔵に魔物どもを生み出す力だ。
苦痛の時間を存分に引き延ばされたところで、何の不思議があるだろう。
どれほど痛くて苦しくても、きっと意識を手放してしまうことはできないのだ。
自らや、実力を得てからは対峙した相手すらも傷つかないよう戦略を練り立ち回って、楽しく冒険する冒険者(同年代どころか少し年下の少女たちだ)のおもしろい冒険記を読んだのに。
とても憧れて、自分もこうなりたいと思ったのに。
実際はどうだ。
いきなり難しい試練に飛び込んでおいて、勝手につまずいて、傷ついて、痛い思いをして。
自ら流させられた血の海の中で、壊された体の部品を見つめながら、ただ、泣いている。
それでもまだ生きていて。滅茶苦茶にされていて。守ってくれる人はいない。
ばかなロシュ。
誰かの声がする。
言いたいことも言えないままで、生き方を変えるしかなかった、ばかなロシュ。
壊れたブリキのおもちゃが擦れあうような不快な声だ。
お姉ちゃんの声だ、と分かった時、ロシュは本当に絶望してしまった。
どんな状態になっても生き続けるだろうと分かっていて、それでも。
目を固く閉じるしか、ロシュに出来ることなど有りはしないのだった。
2022/9/27更新。
2022/9/28更新。
2022/9/30更新。