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試練(3)

律儀に数えて2つ目の踊り場まで、ロシュは例の"恐怖"に襲われることなく昇って来た。

一切の考えごとを無理矢理に断ち切り、1歩また1歩と、足元にだけ集中して確実に進んだ。

いつまでも恐れていても仕方ないと思ったのだ。

どこかで自分の様子をご笑覧の魔導王に、無心で仕事をこなすこともできるところを見て頂きたかった。


蝸牛かぎゅうの歩みにも等しい緩慢な動きだった。

途中で心が折れかけて、足から腕を中心とした動きに切り替えた。

冷たい床に膝をつき、這いつくばったのである。

獣のような真似まねせと義兄に叱られ続けた、四つ這いの姿勢。

だが……エーミールの怜悧な視線がロシュを叱ることは、この場では、ない。


慣れた動きは彼に思いがけない前進をもたらした。

誰に遠慮することもなく、存分に這い回る事ができたのだ。

ほんの少しの──この試練でそれを得られるなどとは欠片も思っていなかったから不思議なのだが──充足感と共に、『結界鋲』を設置して休息する。


やがて、幻想に満ち、妄想が形を得て襲い来る試練の場が、またも弱き者に不可思議な現象をもたらした。


どこまでも冷静に観察し、冷徹に否定し続けた義兄の凛とした姿形が、鏡のような構造の壁に映画のように映し出された。

ずっと彼の事を考えていたからに違いない。

ロシュは大切な人の忠告を守れもしない自分に苦笑しながら、ハンサムな顔に話しかける。


「エーミール義兄さん。ぼくは、義兄さんの嫌いな弟のままです。でも、いい加減に許してください。あなたのように。いつも背骨を伸ばしてきびきびと歩くことが、ぼくにはできないのです。どうしてもできないのです。あなたが周囲の人間にもできて当然だと思っている行動ができないし、感覚も理解できない。でもそれは、あなたも同じなのです……小作人の心を上手に掴んでいるあなたが労働で肉体を傷つけてしまうことはまずないでしょう、ぼくの感覚は決して理解できない。理解できた時にはもう、それ以前の身体に戻ることはできないのです」


鏡面のような壁に映る義兄の顔が、向き合っている時には決してなかったことだが──おお、見よ、怒りに歪んでいるではないか。

気まぐれで餌だけ与えていた野良犬にいきなり手を噛まれたような、そんな種類の怒りの表情だった。


これほどに離れて、対面しない場所で、初めて義兄の感情の発露を目撃する。

歪み切った漫画みたいな滑稽な状況が、ロシュの舌をごく滑らかに動かす。


「初めて怒ってくれましたね、義兄さん。そうするまでもない人間だと思われていたことでしょうね。──そうですとも。あなたは常に正しいことを仰っていたのです。ぼくがその助言と慈悲じひを受け入れられなかっただけ、自分を変える事ができなかっただけ、怠けていただけなのです。涙を流して感謝し、受け入れて、他人の何倍もの努力をするべきでした……でも、でも、どうしてもできなかったのです。あなたにとって、ぼくは見慣れない怪物も同じだったはずです」


義兄の姿を見つめる。

もとの冷静さを取り戻したハンサムな顔から目線は決して外さないまま、ローブの前を結んでいた数本のひもを緩め、中に着た丈夫な服と下着も鋏で切り裂き、生白い胸をはだけた。


幻影として現れた義兄の姿が、やたらと現実味のある動きをした。

護身用のナイフを取り出して、構える。

エーミールも今、悪夢を見ている事だろう。

彼の身の回りに居ない、居てはならない魔物との対決の夢──その魔物は緑の燐光にうっすらと覆われて、彼の前に立ち、ひたすら訳の分からないことをしゃべっているだけだ。

だが、魔物は彼の夢の中で、今確実に、彼を追い込んでいるに違いなかった。


()()()()()()()()義兄さん。あなたも、ぼくと同じ悪意を抱えていたはずだ。邪魔な弱者が消えれば重荷がひとつ減る、と。さすがは義兄さん、決して実行しようとはしなかったけれど」


冷静な表情のまま、エーミールがナイフを投げた。

これで彼も楽になれるといい、と、ロシュは思った。

2022/12/19更新。

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