97.恋をしている
「国に戻られるのですね。殿下」
「ああ、今度こそ本当に戻るのだよ」
エルメトスさんからのお願いが片付き、領地に平穏な日々が戻った。慌ただしく苦しい日々を乗り越えた先の平穏は、私たちにとって何にも代えがたいものだった。
殿下やレイナ姫も、その一助となってくれた。本来ここにいる人間ではなく、無関係であるはずの他国の王子と姫様が、私たちの願いを叶えるために尽力してくれた。
元は私の我儘で、退屈そうにしていた殿下を国から連れ出し、私たちの仕事に関わってもらっていたけど、彼がいなければ乗り越えられない窮地も多くあった。
いろいろな気持ちがあるけど、彼に伝えたいことは一言にまとめられる。
「ありがとうございました。殿下」
ただ一言の感謝に、私の想いを全て込めた。
すると殿下は笑う。
「礼を言うべきなのはこちらなのだよ」
「え?」
「お前の……いや、お前たちのおかげで退屈が紛れた。一分一秒を争う状況というのは、存外大変なものなのだな」
「……そうですね」
殿下の満足気な表情を見て、なんだか私も嬉しくなる。あの街で出会い、退屈そうにしている殿下を見て、私は放っておけなくなった。
おせっかいだと自覚しながらも、声をかけずにはいられなかった。やりたいことが見つからず、無色透明な日々を送る彼の姿は……少しだけ、昔の私に似ていた。
与えられた仕事をこなす日々。考えていたのは、少しでも早く終わらせて休む時間がほしいということだけ。そこに希望や自身の願いを入れ込む隙はない。
経緯は違うけど、私にも心から取り組める目標がなかった。今ならわかる。私たち人は、目標があってこそ人生を謳歌できるのだと。
だからこそ、心残りはある。国に戻った殿下は、また退屈な日々に身を投じることになる。そうなれば同じことの繰り返しだ。
「殿下、またいつでもいらしてください」
「ふっ、悪いがそうそう何度も顔を見せられないのだよ」
「そう……ですよね。場所は隣でも、来るのはとっても大変な場所ですから」
「そこは今さらなのだよ。もっと別の理由だ」
「別の?」
殿下は私と視線を合わせる。どこか先を見据えているような、穏やかだけど力強い視線で。
「俺にもやりたいことができたのだよ」
「やりたいこと? 本当ですか?」
「ああ。俺は国王を目指すことにしたのだよ」
彼はハッキリと宣言した。王子ではなく、国を治める王になると。ミゲルさんの話では、殿下には王位継承権がある。国王になる資格を持っている。
「世間は、兄上たちのどちらかが王になると思っている。俺も今まではそのつもりだった。俺は兄上たちの保険に過ぎないと……仮に今、国王を決める時が訪れたのなら、確実に俺は選ばれないのだよ」
否定的なセリフだけど、話している殿下の瞳は希望に満ちていた。むしろワクワクして、今すぐ動き出したいと言っているように見える。
「誰もできないと思っている。だからこそ、俺が挑む価値がある。不可能に近い目標ほど、達成した時の喜びは大きい。お前たちが教えてくれたことだ。感謝しているのだよ」
「殿下……」
喜びで胸がいっぱいになりそうだ。この感動を、早くトーマ君にも伝えたい。きっと彼も、心の底から喜んでくれるはずだ。
「――故にこそ、同じ悲劇は繰り返さない」
「悲劇?」
唐突に殿下の表情に険しさが現れる。殿下は続けて言う。
「兄上たちは完璧主義者だ。今の、うやむやになっている国同士の関係性をよしと思っていないのだよ。もし兄上たちが王になれば、勝敗を決めるために戦争を起こす」
「せ……」
戦争?
国同士の争いが、三百年前と同じことを起こそうとしている?
驚きと同時に胸が締め付けられる。この地の人々は、三百年前の戦争の影響で変わってしまった土地に残り、苦しみながらも今日まで生きてきた。
また戦争が起これば、この地は……。
「戦場になってしまうのだよ。どちらにとっても、そこまで重要な土地ではないからな。戦う地としてこれほど都合のいい場所もないのだよ」
「そんな……」
「俺が、そんなことにはさせないのだよ」
「殿下」
決意を示すように、力強くまっすぐな視線は、この領地を見据えていた。
「この話は誰にも言わないでほしいのだよ。トーマにも伝えていない」
「そんな話をどうして私に?」
「……誓いなのだよ」
口にした言葉を実現するという誓い。もしも達成できなければ、この地は再び戦火の中で悲劇な未来を迎える。そうはさせないと、殿下の心は叫んでいた。
「私にできることがあったら言ってください!」
「そうだな。本当に困った時は相談するかもしれないのだよ。いや、俺が困るなど考えられないか。俺にできないことはない」
「そうですね。殿下ならなれると思います。素敵な国王様に」
私だけじゃない。きっと多くの人たちが、そんな未来を望んでいるはずだ。
「ふっ、しかしお前も損な選択をしたのだよ」
「え?」
「俺の誘いを断ったことなのだよ。俺はいずれ国王になる男だ。国王の元で直々に働ける錬金術師は他にいないのだよ」
「そうかもしれませんね。でも私は――」
続きを話そうとした私を遮るように、殿下は言う。
「もう一度チャンスをくれてやるのだよ。俺の元に来ないか? 今なら、俺の将来の妻として迎えてやってもいいのだよ」
「つ、妻……?」
とんでもないお誘いに目を丸くする。殿下の表情は普段通りで、真剣でもなく、ふざけているわけでもない。
殿下はよくわからないお人だ。今の言葉がどこまで本気で、どこからが冗談なのか。出会って一月未満の私にはわからない。
いいや、意図は関係ない。本気でも、冗談でも、私の答えは決まっているのだから。
「素敵なお誘いですが、ごめんなさい。私は、トーマ君のことが好きなんです。だからここに残ります。この先もずっと」
私は答えた。まっすぐに笑顔で、殿下の顔を見つめながら。名前まで出す必要はなかったかもしれないけど、殿下は私に秘密を話してくれた。
だったら私も、本心を伝えたいと思ったんだ。殿下ほど強くて壮大な……誓いとすら呼べない小さな決意だけど。
「……ふっ、そんなこと知っているのだよ」
殿下は微笑む。その笑顔は、これまで見てきたどんな笑顔よりも、子供っぽくて悲し気だった。






