86.殿下の妹
隣国と辺境領地の国境。
わずかな差で環境は大きく変わり、その地に一歩踏みしめれば誰もが帰りたくなる。街の周辺の環境は改善されつつある。
しかし領地全体で見れば、未だ厳しい環境であることは変わらない。居住区だけは、ギリギリ人が暮らせる状態になった。それでも一歩外に出てしまえば、降り積もる雪で道は消え、降り続ける嵐のような吹雪で視界は遮られ、呼吸すら冷たさに憚られる。
そんな道なき道を、純白の絨毯を、馬車を改造したソリが進む。
「さ、寒いわね……本当にいらっしゃるの?」
「はい。殿下は今、フランロード様のお屋敷に滞在されております」
ソリには一人の女性が乗っていた。どこか誰かに似た雰囲気を放つ彼女は、トーマの屋敷を目指している。
「お兄様ったら、一体どんな風の吹き回しかしら。長期滞在なんて初めてね。けど、おかげで会いに行く口実ができたのは嬉しいわ。トーマ様」
彼女の名はレイナ・アルディオン。エドワードの妹であり、アルザード王国の王女である。
◇◇◇
「本当に帰っちゃうんですか?」
「そのつもりなのだよ。もう俺がやることは終わった。あとはお前たちさえいれば、今の季節を乗り越えるなど容易いだろう」
「それはそうですが……せっかく来てくれたのに」
仕事だけ終えてあっさり帰ってしまうのは、少し寂しかった。殿下の言う通り、冬の問題はおおむね解決して、人々の生活も落ち着いている。
殿下と一緒に作り上げた暖房施設も正常に機能していた。私たちが殿下にお願いしたのは、一緒に領地の問題に取り組んでもらうことで、それは無事に達成された。
だから本国へ帰還する、というのは当然なのだけど……。
「もう少しゆっくりしていったらどうだ?」
「意外だな。お前からはいつも、早く帰れと言われていたはずだが?」
「茶化しに来たなら帰ってもらうさ。けど今は、この領地に貢献してくれた客人だ。恩には恩で、礼には礼で返すのが普通だろ?」
「ふっ、礼というなら、アメリアをうちで雇ってもいいのか?」
「それはダメだ」
「知っているのだよ」
殿下は子供みたいに笑った。断られているのに、怒りではなく安心したような笑顔だった。
「ならば礼など必要ないのだよ。俺も、いい退屈しのぎにはなった。中々に充実した数日間だったのだよ。それに獄煉石の活用法を持ち帰ることもできた。公私ともに、有意義な時間だったと認めてやろう」
「相変わらず偉そうな言い方だな」
「偉そうではない。偉いのだと何度も言っているぞ? まぁ、ここにいれば退屈しないのは確かだ。また気が向いたら足を運んでやるのだよ」
そう言って彼は屋敷の玄関へと向かい、出ていこうとした。名残惜しさはあるけど、彼も隣国の王子という立場がある。
いつまでも他国の、この地に長居はできないはずだ。
またいつか、今度はもう少しゆっくりお話しできればいい。そう思って見送ろうとした。その時、彼が扉に手を触れるより早く、がしゃりと開く。
「む?」
「――こんばんは、お兄様!」
扉の向こう側から姿を見せたのは、水色の髪が特徴的で綺麗な女性だった。見た目からして年齢は私と変わらないくらいだろうか。
とてもおしとやかで、いかにも王国のお姫様とい雰囲気が漂っている。さっき殿下のことをお兄様と呼んでいたのが聞こえた。
「レイナ? どうしてお前がここにいるのだよ」
「お兄様に会いに来たんです」
「俺にか?」
「はい。お渡ししたい物が、それから――」
彼女はその瑠璃色の瞳で一瞬だけ私を見た。そのまま通り過ぎて、隣にいるトーマ君と視線を合わせる。途端、にこやかな笑みを浮かべて。
「トーマ様!」
彼に抱き着いた。
「え……?」
「おっ、いきなり飛びつかないでくれ、レイナ姫」
「だってずっとお会いしたかったんですもの」
彼女はトーマ君にベタベタと身体をくっつけている。モヤっとした感情が膨れ上がって、自分でもよくわからないほど心がざわつく。
「トーマ君?」
「ほら、アメリアが困ってるだろ?」
「アメリア? そういえば、初めましての方がいらっしゃいますね。これはお恥ずかしいところを見せてしまいました」
そう言って彼女はトーマ君からすっと離れた。それを見てホッとする自分の胸に手を当てる。どうして今、私はホッとしたのだろう。
自問自答が完了するより先に、彼女は私の前に歩み寄ってきた。
「初めまして。私はアルザード王国の王女、レイナ・アルディオンです」
「は、はい! 私はアメリアです。この領地の錬金術師をしています」
「錬金術師……そう、あなたがトーマ様の言っていた方なのね」
トーマ君は彼女にも私のことを話していたのか。彼女の瞳に見つめられると、まるで自分の心を見透かされているような気持になる。






