80.エルメトス
殿下が先に結界の中へと入る。私たちもそれに続き、エルメトスさんが作ってくれた入り口から中へと入った。
私たちが全員結界内に入ると、開いていた穴が塞がる。すると一気に外の世界との変化を肌で感じることができた。
「中はもっと暖かいんだね」
「まるで春の陽気なのだよ」
「こんな魔法があるんだな。炎系統の魔法か? 俺には無理だけどシュンなら……いや、技術的に師匠じゃないと無理か」
「ともかく中に入るのだよ。俺も、聞きたいことができたのでな」
「あ、おい!」
トーマ君より先に、殿下が家の扉に手をかける。そして無造作に、自分の家に入るかのように躊躇なく扉を開ける。
「邪魔をするのだよ」
「勝手に入るな。ちゃんとノックくらいしろ」
「必要ないのだよ。ノックは自身の存在を相手に伝え、中に入っていいか尋ねる行為だ。だが今は、すでに俺たちの存在を認識し、結界を開いた。ならばノックなどする必要があるか?」
「ふふっ、その通りだよ、トーマ」
「師匠……」
エルメトスさんはにこりと微笑む。春に初めて会った日のことを思い出す。あの時と同じように、エルメトスさんは私たちを出迎えてくれた。
相変わらず不思議な雰囲気の人だ。目の前にいるのに、現実味を感じなくて、手を伸ばしたら消えてしまいそうな……。
「こんにちは、アメリアさん。初めてこの地にやってきたとき以来だね」
「はい。ご無沙汰しています」
私は簡単な挨拶を交わす。エルメトスさんは私をじっと見つめて、とても嬉しそうな笑顔を見せて頷く。
「うんうん、実にいい目をするようになったね。この地での経験は君にとってよい物が多かったようで安心したよ」
「はい。ここにきてから、毎日がとても楽しいです」
「そう思えるのは君の強さだ。本当に、トーマはいい子を見つけてきたね。大事にしなさい」
「今でもしてますよ」
エルメトスさんは微笑む。
「今まで以上に、という意味さ。君は昔から抜けているところがあるからね。もう少し、自分の気持ちと向き合ったほうがいい」
「……? はい」
エルメトスさんの助言にトーマ君は首を傾げる。私にもその助言の意味はよくわからなかった。トーマ君は私のことを今も大切にしてくれている。そう感じているし、満足していた。
するとエルメトスさんは小さな声で、今はそれでいいよ、と呟いた。この人には一体何が見えているのだろう。何を考えているのだろう。
エルメトスさんは殿下に視線を向ける。
「君とは初めまして、だね? 隣国の若き王子エドワード君」
「お前がトーマの師か」
「そうだよ。僕がエルメトスだ。よろしくね」
「……ふむ、なるほどな。評判以上に――気持ち悪いやつだな」
思わず発言に私とトーマ君は背筋がぞっとした。トーマ君が慌てて殿下の肩を掴む。
「おいエドワード! 師匠に向かってなんてこと言うんだお前!」
「む? 俺はただ素直な感想を口にしたまでなのだよ」
「失礼にもほどがあるだろうが!」
「どこがだ? 俺は王子だ。下々の者に何を言おうと構わないだろう?」
「隣の国の、だろ! ここはお前の国じゃないんだ!」
いつも冷静なトーマ君が取り乱す姿、何度見ても不思議な感じがする。私の前では決してこんな表情は見せない。きっと殿下の前だけだ。
なんだか少し、モヤっとするのはどうしてだろうか。
「はっはっはっはっ! 聞いていた以上に面白い人だね」
「笑い事じゃないですよ、師匠」
「いいんだよ、トーマ。僕は気にしていない。でも、気持ち悪い……か。そこまでストレートに言われたのは初めてだね」
「そうだったか? 傷つけたのなら謝罪するのだよ」
殿下の言葉にエルメトスさんは少しだけ驚いて、すぐに穏やかな表情に戻った。ひどい感想を言った殿下の口から、謝罪という単語が出てきたことが意外だったのかもしれない。
殿下には悪意はない。ただ思ったことを口にしている。だから自分が悪いと思ったら謝罪だってする。殿下が横暴な人ではないことを、私はすでに知っていた。
だから私は不思議には思わない。
「驚いただけだよ。気にしなくていい」
「そうか。ならばいい」
「よくない。お前……師匠が優しいからよかったが、普通はただじゃ済まないぞ。気持ち悪いなんて、初めて会った相手に言うことか?」
「そう感じたのだから仕方がないだろう。俺でなくとも同様の感覚はあるはずだ。この男の気配、雰囲気……何もかも現実味がない。まるで植物と会話しているようだ」
奇しくも同じ感覚を私は知っていた。植物と会話しているよう……殿下のたとえはまさにその通りだと私も納得してしまう。
そう、人間と話している感じがしない。物言わぬ植物と対面しているような感覚がある。エルメトスさんはにこやかに微笑む。
その笑顔さえも、どこか虚ろで……気持ちが悪い。
「いいんだよ。自覚はしている。今の僕を見て普通だと感じる者がいたら、それは正常とは言わない。ただの人間が僕を見たら、君と同じ感想を抱く」
「自覚している、か。お前は何者なのだ?」
「僕は魔法使いだよ」
「問答がしたいわけではないのだよ」
エルメトスさんと殿下が向かい合う。殿下の問いに、エルメトスさんは表情を変えずに沈黙を続けている。
「答える気はないか。まぁいい。ならば別の問いに変えよう。表の結界、あれはお前が作ったものだな?」
「そうだよ。僕の魔法、それを元にして作った魔導具の結界だ」
「どういう仕組みなんですか?」
私は、おそらく殿下が次にするつもりだったであろう質問を先に口にした。ずっと気になっていて、思わず声に出てしまったのだ。
殿下の話に割り込んでしまって怒られるかと思ったけど、殿下は特に何も言わなかった。エルメトスさんの回答に集中している。
エルメトスさんが答える。
「簡単な仕組みだよ。あの結界は熱を発生させる。外の冷気は結界に阻まれ、温かな風となって結界内に吹き抜ける。だからこの中は暖かいし、結界の周囲も雪が溶ける」
「師匠! その魔法を俺たちに教えてもらうことはできませんか?」
「できるけど、君たちの中に使える者はいないよ? 仕組みは簡単だけど、魔法としてはそれなりに高度だからね」
「ならばその魔導具の製造法を教えてもらおう。俺の国にも魔導具を作れる者はいる。作り方さえわかれば量産も可能だ」
そうなれば、冬に抱えるこの領地の問題は解決する。私が何かするまでもなく。少し悔しいけど、みんなが幸せになるならいいことだ。
だけど、エルメトスさんは協力を拒否する。
「教えられないな」
「なぜだ?」
「領地のことは領主の仕事だからね。僕はただの見物人だよ」
それは、私が初めて彼と会った時にも聞いたセリフだった。どうして協力してくれないのか。困っている人が大勢いるのに。
あの時の私は少しだけ怒っていた。そう、ちょうど今の殿下のような表情をしていたに違いない。






