3.令嬢は男爵令嬢の事を考えます
イザベラ・ユースティリアは本日、ユースティリア家の領地へ従者のライと二人で馬車に揺られ赴いていた。母は侯爵夫人のお茶会に、父は王宮で仕事という中で何故彼女だけがと言えば、領地に住まう祖父から会いたいという便りが来たからに他ならない。久方ぶりに祖父に会うのも良いのではないかと言う言葉にイザベラは従者を連れて馬車でのんびり一時間の道を楽しんでいた。
「ライ、私は今から考え事をするので放っておいてね」
「畏まりました、お嬢様」
それなりの広さのある馬車の中、向かい合わせで座っていたライへそう告げるとイザベラは一人考え出す。それは、いつか訪れるであろうメルリア・ダンカー男爵令嬢との遭遇の事だ。彼女はいつでもイザベラの前に立ち塞がり、婚約者を華麗にかっさらって行った。家同士の事とは言え、何度も顔を合わせ慕う気持ちはもちろんあった。家の為だという言葉を信じ、生涯を連れ添う事になる相手の事を好きになろうとし、思いを寄せる様になって相手からもその思いが返ってき始めた頃、彼女は現れるのだ。そして婚約者はいつの間にかあの令嬢へ心を移してイザベラを捨てる。一番ひどかったのはアルザスの時ではないだろうか。メルリアには秘密に彼の実験の為の屋敷の中に捉えられ思い出す事もおぞましいほどの人体実験をさせられた。まだ、リディックの時の方がましだ。あの時だけ唯一生き残った。女だらけの厳しい修道院へ送られる事は公爵家に生まれたものとしては絶望で結婚する事など出来ないけれども命はあった。一度は想いを返してくれたはずの女への対応としては誰もが酷いとしか言いようがなかった。
現段階で婚約者のいないイザベラは現在9歳。今までで一番男性と関わり合いのない生活をしているかもしれない。このまま婚約者がいない状況で学園に行けばメルリアに関わり合いのない学園生活が出来るのではないかと思ってしまう。彼女はイザベラの婚約者に近付いて奪うのだから、婚約者さえいなければ関わり合いになる事も無いのだ。
殆ど興味のない令嬢で、ただ自分の婚約者を奪おうとすることと、貴族にしてはあまりにも礼節のなっていない言動に厳しい言葉を掛けた事はあるので少しだけ噂などを聞いたことがあった事を思い出した。元々は彼女の父親である男爵がメイドに産ませた子供で、男爵の本妻が生んだ令嬢が病気で亡くなった為に引き取った事。それまで庶民の生活をしていた事。貴族社会の礼儀や常識を全く知らないこと。何よりも、それらを恥だと思わず寧ろ己が正しいという言動をしたせいで多くの上流層の夫人を敵に回したこと。権力者の親を持つ子供と付き合う事でそれらの言葉を封殺していた事を思い出し頭が痛くなる。
関与しなければその方がいい。イザベラ自身、もう懲りている。
あの男爵令嬢は己が世界の中心のようにふるまうのだから、その中心から離れたところにいればいいだけだ。彼女を茶会に招く事もなければこれから先に待ち受けている社交界で遭遇する事もない。近寄らなければいい、ただそれだけの話だ。
「よし、ライ、考え事は終わったわ」
「随分早かったですね」
「ええ。だってそうたいして重要なことじゃないし」
そう、重要じゃない。あの令嬢に関わらない方法を考えるだけなのだから、そこまで難しい事はないし、婚約の話がくればそれを断るだけ。これから会う祖父に頼めばどうにでもなるだろう。
「おじい様と早く会いたいわ」
「ディバン様もお嬢様に早くお会いしたかったのでしょうね」
「え?」
「お出迎えになられてますよ」
普段から微笑を浮かべているライが思わずと言った様子で笑うので思わず外を覗くと先の方に馬に乗った祖父がいたのを見てイザベラは満面の笑みを浮かべる。先代公爵である祖父はまだまだ現役なのに父と母が結婚するや否や公爵位を譲って領地に籠っているものの、積極的に動き回るところに変わりはないようだ。馬車は祖父のいる手前で停まり、祖父の乗っていた馬へライが乗り、馬車の中に祖父が入ってくる。後少しで屋敷だというのに、きっと屋敷では従者たちが呆れ半分笑い半分で送り出したのだろう。
「おじい様、お会いしたかったです」
「可愛いイザベラ、よく来た」
「後少しで着きましたのに……お迎えありがとうございます」
「少しでも多くの時間を一緒に過ごしたいと思っただけだ」
二人しかいないのだからとぎゅっと祖父に抱き付けば、祖父は優しくイザベラの頭を撫でる。まだまだ甘えたい年頃なのだなと祖父は思っているのだろうが、イザベラはあと数年で亡くなってしまう祖父と少しでも話がしたくて仕方がなかった。今はこうして元気だが、イザベラが16歳の冬に流行り病で亡くなってしまう。ならばこうして会える時に会うべきだと今回ライと来たのだから。
「イザベラももう9歳か。月日が経つのは早いな。そろそろ婚約者でも見つけなければならないものだが」
「おじい様。私、婚約をするなら、おじい様のようにとても強い方がいいわ。お顔とお家が良いだけの方よりも、私を守ってくれる方がいいの」
「ふむ。しかし、お前の父が決める縁談には従わねばならないよ」
「ええ……お父様なら、王太子様や騎士団長のご子息など選びそうですけれど、私は国の為にしっかりとした領地で支えられるようなお婿さんが欲しいわ」
そうだ、国の為なら婿でもいいではないか。今の所女が領主になるのは殆どない。自分でなろうという選択肢ももちろん考えていたが、結婚という事にどうしてもなるのであれば優秀な婿を取りさっさと領地に引き籠れば問題ない話。素晴らしい考えだと目を輝かせたイザベラはおねだりをするように祖父を見る。
祖父とて孫娘が可愛いのか、うんうんと頷きながら、婿を取ればいいと言ってくれる。
領地で過ごす時間は心地よく、王都にすぐに戻る必要もないので自然に囲まれた環境の中でイザベラはライと共に領地内を見回る。まだ幼い貴族の少女を時折厄介者としてみる者もいたが、古くよりこの領地にて生活している人々は概ね歓迎してくれているように思える。しかしやはり、少し離れてしまえば貧富の差をまざまざと突きつけられる。農作物は天候によって豊かになる時と実りのない時が出てくる。農民の生活は必ずしも豊かになるわけではない。見せかけで誤魔化せるようなものではない。
「ライ、私は大人になったらこの領地の領民の誰もが豊かで幸せだって思えるような場所にしたいわ」
「……お嬢様なら出来ますよ」
「ライ、その時は絶対に私を助けてね」
「もちろんです」
他の誰もが裏切ったとしても、ライだけは自分の側にいてくれるだろう。支えてくれるだろう。夫になる人が出来たとしても、それに勝る信頼を与え続けるのだろうなと思いながらイザベラは空を見上げた。
***
「うぅうう……辛いですわ」
夜になり部屋の一室に一人になったところで、イザベラはこれから先訪れるだろう婚約者と男爵令嬢について整理しようと、紙にメモを取り出した。
「レオルド様の時は死罪でしたわ……斬首は酷くありませんこと? 大斧はもう見たくありませんわ」
少々顔を青褪めさせる。王太子のレオルドの時は酷かった。とにかく何がどうしてそうなったのか、意味の分からない罪が山盛りになり、気付けば王族への不敬やら反逆やらなんやらで死刑となった。王太子としてあるがままを見定め、先を見極める立場の人にしてはあまりにも盲目的に己が恋した相手にのめり込み過ぎじゃないかと思ったものだが、それにしても酷い。弱さを見せる事すらお前は許さなかったなと言われたが、当たり前ではないだろうか。結婚した後ならばいざ知らず、婚約者でしかない立場で弱さを見せられても困る。王になる人間ならばそれを隠し通す必要があるのでは。それも乗り越えていく力のない者に果たして王となる気概があるのか。暴君となれとは言わないが、女に弱さを見せて救ってもらおうなどそもそも軟弱ものの考えすぎではないか。
「シェラード様の時は国外追放で道中に野盗に襲われて殺されましたわね……」
隣国の第二王子のシェラードはレオルドと友人関係になったからか知らないが、他国に口を出して国外追放を言い渡してきた。彼は己の国の事をメルリアに零していたそうだが、情報漏洩ではないのだろうかと疑問に思わないでもなかった。彼の母親の位が低い事で悩んでいたそうだが言われなければ分からないのに、令嬢はわかってイザベラは分からなかったと言い出した時には呆れかえってしまった。何のために人間には言葉が存在するというのか。言われなければ理解するも何もないだろう。わざわざ公爵令嬢が相手の家の事にまで首を突っ込んであれこれ聞くなどはしたなくて出来ないことくらいそれこそ察してほしい。
「リディック様はまだ優しかったですわね……修道院に行けただけましですわ。だって生きてましたもの!なんで今こうしているのか分からないですけれども!」
騎士団長の子息のリディックはストイックな性格で、他人に厳しい以上に己に厳しい人だった。いつかは王族を守るのだという誇りを胸に常に前を向いていたはずなのだが、いつの間にか肩の力を抜くようになった。それも全て、男爵令嬢のおかげだとか言っていたが、これもまた呆れ果ててしまった。あれほどまでに他者にも己にも厳しかったのに女一人の言葉にそれらを揺らがせるなど、騎士としてどうなのか。ここら辺からイザベラはある意味どうでもよくなっていた。
「アルザス様は思い出したくないですわ……無理、あれは多分死んだはずです……」
人体実験で精神的にも肉体的にも追い詰められたのだから、生きていたとしても廃人間違いないだろう。人間として最後の理性を放棄したような実験を受けたあの恐怖は思い出すだけで震えてしまう。しかも、人知れず監禁されたのだ。両親がどうなったかなど分からない。令嬢の為になんて言いながら歪んだ思想をぶつけてきた男がとてもではないが大魔導士になるなんて思いたくもない。
「オスカー様は外道でしたわ。私を奴隷にして海の向こうの国の送ろうとしたんですもの。途中で遭難して死んで良かったのかもしれませんわ」
父親の圧倒的な命令の下で生きてきて逆らう事すら出来なかったという事は哀れに思うが、それがどうした。貴族社会に生まれた女は政治的な理由の為だけに好きでもない男と結婚させられることはざらにあるし、女は政治に口を出す事は許されない。女として生まれただけで子供を産む道具のような扱いは当然だし、逆らう事など当たり前だが出来る筈はない。それをあれこれ言われても、よりにもよって公爵家に生まれただけで当然のように誰かの婚約者にさせられた女に言うべき言葉ではないだろう。
思い出したら本当にろくでもない男達だった。それでも、少しは期待したのだ。愛のない婚約はしたが、幼い頃から少しでも気に入ってもらおうと頑張ったのに誰もが裏切った。一人を除いて死んでしまう結末。一体自分がどうしてこんな目にと思っても仕方ないだろうし、期待する事の虚しさだってまざまざと突きつけられてきた。
「メルリア嬢は、立場のある方ばかりを選ばれていたのだからそこに関わらなければいいだけの話です」
紙を畳み、小さな手持ちの鞄にしまう。この中に入っているものはライであろうとも見る事は出来ない。こんなメモが見られてしまえば大問題になってしまうが、己の決意の為には書いておかなければいけない。忘れてしまいそうになるから。
「さて、寝ましょう」
そそくさとベッドに入ってゆらゆらと寄せてくる眠気に瞼を閉じる。まだまだ体は子供で、少し動き回っただけであっという間に眠れてしまうものだ。
(どうせ結婚するなら、ライが良いわ。駄目よね、お父様が許してくれるはずがないわ)
ふわふわとした思考のまま不意に思いついたのは名案にも思えたが、すとんと眠りに落ちた少女はその名案に思えた事を翌朝になるとすっかり忘れてしまっていた。