4 目の前に彼がいたのです
放課後になる。衣代の気持ちは沈んだままである。
「やっぱり噂通りだったわ。人の好意も女だからって拒否するのよ。ありえない、最低よ!」
衣代の思いをなんだと思ってるんだ、と怒りをあらわにする紗絵に何も答えず箱をただぼんやりと眺めていた。
あのとき差し伸べられた手はなんだったのか。結弦の手は衣代よりもひと回り大きく、長い指で、微かに震えていた。
震えながらも差し出したのは何故。女である自分を助けたのは何故。
神崎結弦の二つの面を見たような、そんな気持ちだった。
「衣代、あんな奴忘れたほうがいいよ。ろくでなしに引きずられる必要はないの!」
紗絵の言葉はもっともかもしれない。それでも衣代は心の隅で引っかかるものが何か、どうしても気になった。
(裏庭で人格変わっちゃうとか?)
夕暮れ。そんなくだらないことを考えながら衣代はまた裏庭へ続く別館の通路を一人で渡っていた。
目を伏せ、眉をひそめ、顎に右こぶしを当て、足を小さく引きずりながら渡っていた。
背後から足音がする。
衣代は無表情になる。
彼女は振り返らなかった。誰かわかった気がしたからだ。
また昨日のように罵声を浴びるのだろうか。暴力を振るわれるのだろうか。
「あの時」のように虐められるのだろうか。
声をかけられた気がする。
衣代は駆け出した。
背後の足音も駆け出した。
心拍音が聞こえる。血の気が引いていくのがわかる。
空き教室に飛び込む。
隠れる場所がないか見渡したがこれといったものがなかった。
ドアが開く音がする。
衣代は振り返らなかった。
窓に駆け寄り、力任せに開ける。
よじ登り、外を見た。
神崎結弦と出会った裏庭が見えた。
怒鳴り声が迫ってくる。
恐怖に駆られた衣代は
二階から飛び降りた。
景色がゆっくり上に上がっていく。全てがスローモーションに見えた。
衣代はふと下を見た。
見覚えのある少年が衣代に向かって両腕を伸ばしていた。
力強いものに抱きとめられる感触を感じ
そのまま目の前が真っ暗になった。
結弦は機嫌が悪かった。
朝早いだろう想い人のためにさらに早く起きて作った弁当が無駄になったこと。女に腕を掴まれた挙句転ばされたこと。自分の噂を知っているうえで関わってきただろう理解不能な女生徒のこと。
全ては一人の人間によって起こされた。最悪の気分だった。
神崎結弦はペースを乱されることを嫌い、自分の境域に入られることを最も不愉快に感じた。
(女だから受け取ってもらえないのですか)
神崎結弦は同性を愛し、異性を嫌う。そんな情報が浸透しているその他大勢から見れば当たり前のことである。聞くまでもない、前提として彼を奇異の目で見るのだ。
しかし彼にとってその言葉は自らのプライドに大きく関わるものであった。
確かに彼は同性が好きだ。異性はできる限り遠ざけたい存在である。
だが神崎結弦は男女差別を好まない。
男だから助ける。女だから見捨てる。
そんな不平等、不条理なことは心底嫌いだった。
女に見られるのは不愉快だ。女は面倒だ。女は嫌いだ。
その口先だけの言葉は自分の身を守るための防衛行為だった。
母に姉、クラスメイトだった女の子との記憶、あるいはトラウマ。
それを思い出させてしまう「女性」という存在を遠ざけたい。
そんな心理からの行動だった。
紬衣代の好意を「女性」だからという理由で無視する。
それは明らかに男女差別に一致する行為だ。
神崎結弦はそうする自分を許せない。
だから答えることができなかった。
神崎結弦は機嫌が悪かった。
「どういたしまして」の一言が言えなかったこと。
噂を知っていただろう。そのうえで素直に気持ちを伝えようとしてくれた少女。
そんな彼女を拒絶してしまった自分が心底嫌いだった。
だから彼は駆け出した。
窓を力一杯開ける衣代を見たとき。何かに脅える少女から目が離せなかった。
「何してんの」
そう声をかけようと口を開いたとき彼女は飛び降りた。
自分の元へ迫ってくる少女。
結弦は無意識に腕を伸ばしていた。
自分の腕が少女を捉える。
細い体は重さに耐えきれず、少女を受けとめたまま地面に叩きつけられる。
体全身に衝撃が走り、草の濃い匂いに染まる。
「……何してんの、マジで」
刈られた草の山に突っ込んだ体勢のまま結弦は長い溜息をついた。