Heaven's Gate
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αテスト、βテストを経て、今年の夏あるゲームが正式配信を開始した。スマートフォンやタブレット向けのアプリゲームでジャンルはMMORPG。
プレイヤーは壮大で美麗な世界の中をソロで、あるいは仲間と共に駆け巡る。平原、森、山、寺院、遺跡など既にマップは数多いが、アップデートで更に世界は広がっていく。また素材を集めてアイテム合成や装備作成も出来る、自由度の高いゲームである。
花園結香は掲示板に雑に貼られた紙を見ながら、握った拳に力を入れた。体全体は小刻みに震えている。
「うう……うわぁぁぁぁーー!!」
いきなり大声で叫んだかと思うと、廊下をぐるぐると走り始めた。
……結香はとりあえず放置しておいて、話は少し前に遡る。
高校2年生の結香は、この学校に転校して来て1週間、内向的で変人のためまだ友達はいない。
彼女はいつも午後の授業が終わると、図書館に直行してその日の課題を片付ける。この日はいつもより時間がかかってしまった。
結香が図書館を出たとき校舎内に他の生徒の姿は見えず、結香が上履きで廊下を踏む音だけが異様に響いた。
下駄箱に辿り着いた結香が上履きを脱ごうとしたとき、視界の隅で人影が動いた。
気になった結香が下駄箱の端からそっと覗いてみると、階段横の掲示板前に不審な男がいた。いや、制服を着ていたのでこの学校の生徒ではあるのだろうが、行動が怪しかった。手には紙束を持ち、周囲を警戒するように見回している。結香のいるところからは影になって顔は見えなかったが、急にその視線が向いたような気がして結香は慌てて頭を引っ込めた。ガサゴソという物音が続いた後、足音は階段を上って行った。
結香は怪しい男がいなくなっているのを確認してから、掲示板の前にいった。変なものを貼っていたらゴミ箱に捨ててやろうと思っていた。でも……。
「うわぁー!! うわぁー!!」
走り疲れたのか、結香は今ぐるぐると円を描くように歩き回っている。
「うるさいよ!」
突然結香のすぐ側で鋭い声がした。結香は驚きのあまりのけ反り、そして後ろ向きに倒れた。咄嗟に抱き留めてくれる優しい腕は、なかった。
「いたたたた……」
打った後頭部をさすりながら、結香はよろよろと立ち上がった。結香を一喝で引っくり返した人物は、ため息をつきながら首を振っている。心配している様子は、微塵もない。
結香はその人物を見て硬直した。同じクラスの天門奏太だった。奏太は優等生として有名で近付きがたい雰囲気があり、結香はまだ話したことがなかった。どうしたらいいのか分からず、目を泳がせる。
「お前、見たな?」
切れそうなほど鋭い視線で結香を睨みながら奏太は言った。でも、結香は何のことか分からずに首を傾げる。
その時結香の目が奏太の手元を見た。
「あ! その紙、天門君が貼ってたの?」
結香の言葉を聞いて、奏太は目を見張った。
「え? え? 俺だって気付いたから叫んでたんじゃないのかよ!? 優等生の天門君が何でこんなオタクっぽい貼り紙を!? って思ったんじゃないのかよ!」
見る間に奏太の頬が赤く染まる。
「と、とにかく見たからにはこれ絶対来いよ!」
奏太は手に持っていた紙を一枚結香に押し付けると、凄まじい勢いで走り去ってしまった。
その紙は掲示板に貼られていたものと同じ、オンラインゲームのオフ会のお知らせだった。ただし掲示板に貼るときに本来必要なはずの生徒会の承認印はない。
「天門君って変な人……。そんなことよりわたしの大好きなゲーム!! うわぁぁぁぁぁーー!!」
結香はまた走り回った。
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オフ会のお知らせ
同じゲームを愛するもの同士、楽しい時間を過ごしませんか?
10月31日(土)13時より
喫茶Heaven's Gateにて
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空は気持ちよく晴れていた。紅葉にはまだ早いとはいえ、冷たくなった風が結香に吹き付ける。
10月31日、世間がハロウィンとかいう外国由来の祭で沸く中、結香はHeaven's Gateという名前の喫茶店に向かっていた。
事前にネットで調べてみると、その喫茶店は結香が暮らすマンションから徒歩3分の驚くべき近さにあった。
学校での結香は髪はボサボサですっぴんを晒しているが、今日は髪をきっちり整え、薄く化粧もしていた。服と靴は姉からの借り物だ。結香にはよく分からないが、最新のファッションらしい。
結香は喫茶店のドアが見えたところで一度立ち止まった。ドアの横に掛けられた黒板には≪本日貸し切り≫と可愛い字体で書かれている。しばらく様子を見ていたが、人の出入りはなかった。
『どうしよう……、入りづらい!』
結香が悶々としていると、突然声が聞こえた。
「ねーねー、君可愛いね、どっか遊びに行かない?」
あまりに芸のない誘い文句に呆然と声の主を見ると、見るからに軽そうな若い男がヘラヘラと笑いながら立っていた。
人生で初めて軟派されて結香は戦慄した。
「いえ……、あの……、用事が……」
動揺した結香がぶつぶつ言うのをじれったく感じたのか、軽い男は結香の腕を掴んだ。
「ほら、行くよ」
そのまま引っ張って行こうとする。男はポケットからキーを出し、近くに停めてあった車のロックを外した。
「!!!!」
最大級の危機を迎えた結香は力一杯男の腕を振り解き、ドアの中へ飛び込んだ。
天国の入り口へと……。
……いや、地獄の入り口の間違いだった。
「ヒィッ!」
声にならない悲鳴を上げて、結香は後退った。すぐに背中がドアに当たると、そのまま腰が抜けたようにズルズルとその場に座り込む。
とても暗かった。壁際にずらりと並べられた蝋燭と、宙に浮かぶふわふわと揺れる不思議な光が店内を薄ぼんやりと照らしている。ドア一枚隔てただけの明るい外界とは全くの別世界だ。
フローリングの床には血液のような液体が流れ、その先には無惨に切断された人間の腕が転がっていた。ぬらぬらとした切断面は濡れ、、糸のような神経までもが垂れ下がっている。
結香は純粋な恐怖で震え出した。逃げ出したくても足に力が入らない。
カタン……、ドン!
結香のすぐ近くで何かがぶつかるような物音がした。慌てた結香が立ち上がろうとしてもがき、近くにあった傘立てを倒して大きな音を立てる。
「ヒィィッ!」
パニック状態に陥った結香が必死にドアの取っ手に手を伸ばす。でも結香の手は届かず、逆に誰かに捕まれた。
次の瞬間、店内が明るい光で満たされる。
「やば、ごめんごめん! これ全部ハロウィン用の飾り付けだから!」
結香と同世代と思われる外国人の男が真剣な眼差しで結香を見つめていた。
結香の体は雷で打たれたように大きく跳ねた。体が小刻みに震え出す。
「ほんとに大丈夫だから。あの手は良く出来たジョークグッズだし、血みたいに見えるのはケチャップだし」
結香が恐怖で震えていると勘違いしたのか、男は優しい口調で説明した。そして座り込んだままの結香の手を引いて立ち上がらせる。
結香は震えが止まったものの、連続で受けた精神的ショックのためによろめいた。その体を優しい腕が抱き止め、た。緩く抱き締められた形になる。
「うわぁぁぁぁぁーー!!」
結香は我慢出来ずに叫んだ。そして一瞬後、意識を失った。
意識を取り戻した結香を待っていたのは、魔女と狼とヴァンパイアだった。つまり仮装した人間だ。
本来オフ会というものはあまり本名を名乗らないものだが、結香を気絶させてしまったことを重く受け止めて身を明かすためか、3人はそれぞれ自己紹介をした。
狼の着ぐるみを着ているのは結香のクラスメイトの天門奏太。美しい魔女は奏太の母でこの店の店長の天門瑠璃、ヴァンパイア衣装が妙に嵌まっているのはゲーム好きが高じて日本に来たという留学生のレイニエル・ルフィーク。奏太とレイニエルは以前大きなオフ会に参加したときに知り合い、それ以来リアルでも遊んだりする仲らしい。
今日のオフ会の発案者は瑠璃で、息子である奏太に学校の友達を誘えばどうかと話した。でも奏太が生徒会未承認の貼り紙という予想外の暴挙に出たため、翌日朝には全部剥がされてしまった。なのでこのオフ会に来る人間はいないだろうと見込んで、夜にこの場所で開かれるハロウィンパーティーのための飾り付けをしていたらしい。
「仕上がりを確認するのに照明を消したときに、運悪く結香ちゃんが入って来たのよ。本当にごめんなさいね」
瑠璃は立ち上がって深く頭を下げた。奏太とレイニエルも瑠璃に倣う。
「も、もう大丈夫ですから気にしないでくださいっ」
結香は慌てて言った。気絶した直接の原因はホラー体験ではなかったが、それを話すことは出来なかった。
3人の顔から緊張が抜ける。
「さて、それではオフ会を始めましょ」
瑠璃は仕切り直すように明るくいうと、店の奥に消えた。
「それにしても、花園が来てくれるとは思わなかった」
奏太が結香の顔をまじまじと見ながら言った。
「来いって言ったのは天門君でしょ?」
結香は軽く奏太を睨む。
「あ、呼ぶの奏太でいいから。……確かに言ったけど、あの状況で普通来ないだろ?」
奏太は呆れ気味に言った。
「だって同じゲームやってて、オフ会もやろうって思う人が近くにいるって知って嬉しかったから」
結香は素直に口にした。掲示板を見た時の感動を思い出して頬が上気する。
「さあみんな、まずは食事にしましょう」
瑠璃はワゴンで数往復して料理を運び、テーブルは大小様々な皿でいっぱいになった。どれも豪華な料理ばかりだ。
瑠璃の手作りだという料理を、結香は勧められるままに食べまくった。特に気に入ったのは、和牛のローストビーフだった。
「美味しいです! こんな美味しいローストビーフ、生まれて初めて食べました」
瞳を潤ませながら食べる結香に瑠璃は喜び、奏太は呆れ、レイニエルは無反応だった。
食事が終わると皿は綺麗に片付けられ、代わりにそれぞれが選んだドリンクが並んでいた。
「では、まあ色々あったけど本日のメインイベントを開催するわよ!」
瑠璃の言葉と同時に全員がテーブルの上にスマートフォンやタブレットを出し、すぐにアプリを起動させる。この集まりはあくまでオフ会だ。どんなご馳走だとしても食事は言わば前菜に過ぎない。
「結香ちゃん、キャラはどこにいる?」
瑠璃が訊ねる。
「寺院マップ2のゴブリンがいる直線廊下で……」
「もしかして、このピンクのツインテール?」
結香が言い終わらないうちにレイニエルが言葉を被せた。
「え? そ、そう。キャラ名はマリー」
画面の中ではマリーの周りをレイという金髪王子風キャラが走り回ったり、ジャンプしている。
「も、もしかしなくてもこれがレイニエルだよね?」
結香が画面から視線を上げると、レイニエルが軽く頷いた。
「レイニエルは長いから、このキャラと同じレイでいいよ」
「わ、分かった」
レイからマリーにフレンド申請とパーティーへの招待が届き、結香は両方承認する。
パーティーメンバーはマリーが加わって4人になっていた。
「分かると思うけど、ルーリーがあたし。ぷりんは奏太よ」
瑠璃の説明に何気なく結香が言う。
「ぷりん?」
それに対して答えたのは奏太ではなくレイニエルだった。
「奏太が世界で1番好きな食べ物がプリンだから」
結香はピクリと体を震わせた。
「そんなことどうでもいいだろ! それより着いたぞ」
結香が画面を確認すると、魔法でゴブリンの群れを大量虐殺していたマリーとレイニエルの近くにお辞儀をするルーリーと連続ジャンプするぷりんがいた。
プリン(食べ物の方)がジャンプ……。結香は想像して吹き出しそうになった。
「今日は顔合わせってことでこのままゴブ狩りでいいか? リアルで話しながら緩くやろうぜ」
奏太の言葉に全員が同意し、好きなように狩りを始めた。
古びて崩れかけた寺院の暗い廊下に、外からうっすらと光が差し込む。そこにスキルのエフェクトで様々な色や形が踊った。倒しても沸いて群がるゴブリンたち。
話し下手な結香も、ゲーマーという共通点が嬉しかったのかみんなとたくさん話をした。学校のこと、家族のこと、そしてもちろんゲームのこと。
「ゴブ狩りって単純作業だけど、みんなでやると楽しいのよね」
瑠璃は上機嫌で言う。
「みんなフレンドになったし、ボス戦とかもやりたいです」
結香はこうしてみんなでゲームをするのが嬉しくて仕方ないのか顔がにやけている。
「瑠璃さんは仕事があったら無理かもしれないけど、みんな近いしまたここに集まって遊ぼう」
レイニエルが爽やかな笑顔で言った。
結香のスマートフォン画面が突然フリーズし、数秒後暗転した。そしてすぐに再起動する。
「あ、ごめん、弾かれた!」
オンラインゲームはログイン中のプレイヤーが増えると、サーバーに負荷がかかり、プレイヤーがゲームから弾き出されることがある。
「あ、もうこんな時間」
瑠璃が壁の時計を見上げて言った。16時47分、遊んでいると時間が経つのが早い。
「ごめんね、夜パーティーがあるから、そろそろ準備しないといけないのよ」
瑠璃が申し訳なさそうにいって立ち上がる。
「あ、長居してすみません。今日はありがとうございました」
結香は大急ぎで荷物を片付けて外に出た。
「慌ただしくてごめんね。ほんとにつまらないものだけど、これプレゼントよ、帰ってから開けてね」
カボチャ模様のペーパーに包まれた手のひらサイズのプレゼントを結香は受け取った。
「? ありがとうございます」
結香は魔女と狼とヴァンパイアに見送られて帰路に就いた。
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夕日が街を赤く染め上げていた。ひんやりとした風が吹き抜け、結香は自分の体を抱いた。
ふわり、と結香の頭上に肌触りのいい柔らかいものが降ってきた。結香がくるりと振り返ると、ヴァンパイアレイニエルの微笑む顔があった。結香は飛び上がって数メートル離れる。
「そのスカーフ、意外と温かいから良かったら使って」
結香は肩に引っ掛かった状態の紺色のスカーフを手に取ると、きっちりと首に巻いた。
「あ、ありがとう」
レイニエルから視線を外さないまま、結香はゆっくりと自宅方向に後退った。充分距離が開いたところで体を反転させ、全力で走り出す。
『落ち着けわたし! マンションまでもうちょっと、頑張れわたし!』
マンションの正面玄関が見えてきた。結香は走りながらマンションのキーを操作してドアの中に走り込み、息を乱しながら背後を確認した。
「う……」
叫ぼうとした結香の口を、大きな手が塞いだ。
「瑠璃さんに頼まれて、さっきのプレゼントを回収しにきただけだから大声はやめてね。特にあのうわーって色気の欠片もないのは勘弁して」
にっこりと笑うレイニエルに、結香は全面降伏した。
ここは花園家のリビング。レイニエルはゆったりと足を組んでソファに座り、何故か結香はフローリングの床に正座している。
「今日の結香の態度がおかしかったのは、俺が初恋の男に瓜二つだったから。で、そいつにひどいことを言われたのがトラウマになってて俺にびくついてたと。そういうこと?」
結香はこくこくと頷いた。
「納得いかないけど、今回は大目に見るよ。でもああいう態度取られたらこっちも傷付くってこと覚えといて」
結香はうなだれて言った。
「ご、ごめん、……ところでプレゼントがどうとか言ってたのは?」
レイニエルは深いため息をついた後、気持ちを切り替えるように頭を振った。
「瑠璃さんがプレゼントを間違えたらしい。俺が返しとくから渡して」
結香は深く考えずに包みをレイニエルに渡した。
「あ、ありがとう、瑠璃さんによろしくね」
「……うん、じゃあまたね。見送りはいらないから」
レイニエルはヒラヒラと手を振って出ていった。
赤い悪魔、レイニエル・ルフィーク。結香が10歳の時に異国で出会った赤髪、碧眼の少年。その美しい容姿からは想像出来ないような毒舌と予想のつかない行動で結香を翻弄した。
レイニエル自身は覚えていないようで結香は安心した。もし彼の本質が変わっていないとすれば、結香がどんな目に逢うか分からない。
レイニエルが去って数分後。
「うわぁぁぁぁぁーー!!」
結香の絶叫がマンション全体を揺るがした。
完