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気が付くと俺は犬になっていて、人間の言葉を発することができなくなっていた。
声を出すたびに犬の鳴き声が聞こえ、苛立ちが徐々に沸いてくる。
俺を犬にした張本人の立石教授は満足そうに俺を見ている。
隣の教授の孫も俺を見てはしゃいでいる。そんなに俺が珍しいらしい。
「ほら、約束通りに犬を飼ってきただろ?」
「うん、ありがとう、おじいちゃん!」
どうやら何かのプレゼントに犬を要求していたのだろう。
しかし、なんで本物の犬を使わずに俺を使ったのか甚だ疑問だ。
そもそも人間を犬畜生に変える薬を作る予算があるなら本物を買うべきなのだ。
そんなことを考えていると教授の孫が歩いてきて、目の前まで来ていた。
おもむろに手を伸ばし頭を撫でようとする。
普通の犬なら喜ぶだろうが、20を超えた俺には苦痛で仕方ない。
伸びてくる手かわして後ろに向いた。歳下の女の子に触られる趣味はない。
「このワンちゃん、何か変」
「まだ家に来て慣れない環境で戸惑ってるんだよ。その内慣れるさ」
そんな会話をしている2人を気にせず、俺は後ろを見たときに見つけた鏡を見つめた。
本当に体も犬になっていて、絶望に近いものが全身を襲った。
ダックスフンドになっている俺は短い足、たれ耳、細い尻尾を見て、もう2度と人間には戻れないのかと泣きそうになった。
今泣いても犬の情けない鳴き声しか出ないし、さらに惨めな醜態晒すだけだと思い留まって。
「君は素直じゃなね。本当はうれしかったのだろう?」
「ワンワン、ワン」
「今の状態じゃあ会話できないね」
そう言って教授は入り口近くの棚から薬を取り出した。
また変な物を飲ませる気なのかも知れない。動物的本能が危険を感知している。
今すぐにでも駆け抜けて外に逃げ出したいが、扉が閉まっていて、自力で逃げ出せない。
その内、教授が犬用の水飲み皿と錠剤1錠を持って、目の前に来た。
「これを飲めば元の姿に戻れるぞ、外森直哉君」
そうそう聞くと俺は錠剤を口の中に入れ、水を飲もうとした。
しかし、犬の水の飲み方なんて今までやったことがなく、うまく飲めない。
それを見かねた教授が俺を抱きかかえて水道まで運んでくれてた。
「これで水を飲めるだろう。早く口を開けなさい」
支持通りに口を開けると、ものすごい勢いで水が流れ込んで来た。
水は周りに飛び散り全身ずぶ濡れになってしまった。
この姿は梅雨の6月に降る雨に打たれ、路頭に迷う野良犬のように哀れだろう。
こうなる前にもっと真面目にやっておけば良かった、と今更後悔した。
錠剤は飲めたので、しばらくじっとしていると体が徐々に熱くなってきた。
何か体の中に変化が訪れているようにな感じが伝わってくる。
同時に再び頭痛と眩暈が襲って来た。本当に人間に戻れるのだろうか?
この間々、犬畜生で生活は真っ平御免だ。
少しして、眠気が襲ってきて思考が回らなくなり俺は眠りについた。
目が覚めると、まず最初に俺を犬に変えてくれた教授の顔があった。
俺は寝ながら左右を見たり、自分の手を見たりした。
どうやら人間に戻れたらしい。第一に安堵が心を覆った。
次に怒りが沸々とこみ上げてきた。理由は言うまでもない。
「一体、どう言う事だ!説明してください」
「まあまあ、戻っていきなり怒鳴るな。犬の時の方が可愛げがあったぞ」
「それはまともな言葉が話せなくて悪態が付けなからじゃないですか」
「まあ。それもあるな」
まるで他人事のような口調の目の前の男の言葉で言い表せれない感情が出てきた。
今なら何をやったって許される。得体の知れない薬を飲まされ、更に顔から水を浴びせられた。
万人が万人に聞いても俺が被害者だと言うだろう。
それだけこの男ががしたことは酷い。
この教授は鬼か。人間ではないのではないのか。人の皮を被った悪魔だ。
無言で睨む俺を無視し、人の皮を被った悪魔は分厚い封筒と錠剤が入った紙袋を持ってきた。
紙袋の中の錠剤の数には驚いたが、それより驚いたものがあった。
「これで、向う半年は生活できるだろう。それだけの額は入っている」
「何ですか、それは。向う半年の犬の餌ですか?」
「いやいや、犬の餌代だよ。今日から君は犬になるんだ、犬森君」
刺す、いや鈍器で殴ってもいい。そんな殺人衝動が電撃の如く体を駆け巡った。
今にも飛びかかりそうな自分を抑えている自分がとても情けない。
「また、呼ぶからその時はよろしく頼むよ。今度は孫の言うことちゃんと聞くように」
そう言って教授は部屋を出ていった。目の前には錠剤入りの紙袋と向う半年の餌代が置いてある。
俺は紙袋の方は一瞥し、分厚い封筒に手を伸ばした。中々、重みがある。
中の額を見て俺は思わず声を上げた。向う半年なんてもんじゃない。
「これは・・・、今夜は憂さ晴らしに久しぶりに梯子だな」
世の中捨てた物ではない。表情には出さないが、内心はほくそ笑んだ。
犬になるだけで400万。一体、あの教授はどうやってこんなに金をため込んでいたのか。
いや、そんなことはどうでもいい。今はこの犬のになって得た金で楽しもう。
立ち上がって封筒と紙袋を持つと俺は研究所を出た。
外に出ると周囲の視線が俺に釘付けだ。何か汚らしい物を見る目でこちらを見る。
そこでようやく、今自分の状態に気が付いたが、遅かった。
服を脱いだまま外に出て、素っ裸だった。