『予兆(arashino_kehai)』-3-
そして。
彼女がきたのはそんな馬鹿騒ぎもひと段落を終えた夜半すぎ。
静かなバラードが流れるその最中だった。
カランコロン
『海雲亭』の扉に掛けてある鈴は、揺れるといつも涼やかな音を立てる。
耳障りにはならない、心地のいい音である。
誰か帰ったのかなと、瑛己は思った。
時計を見れば、もう間もなく日付が変わる時間。
この時間にやってくるお客も、早々はいない。
だが、
「あら、いらっしゃい」
海月がそう言ったので、瑛己は「?」と思って戸口を見た。
店内にはもう、瑛己たちを含めて3つしかテーブルは残っていない。その残りの2つでさえ、帰る準備を始めている。
瑛己たちも似たようなもの。完全に酔い潰れた飛と新を、秀一が必死に起こそうとしている最中であった。
そんな中。
――戸口に立っていたのは、赤。
酔いと眠気でもうろうとする意識の中にも確実に滑り込んでくる、深紅のジャケット。
結い上げた髪と、勝気な瞳。
瑛己もよく知る、1人の娘であった。
「昴……?」
本上 昴。
彼女がそこに、立っていた。
「……」
彼女は扉を半分開けた状態でしばらくそこに凍るように立ち止まっていたが。
ふと瑛己からを逸らすと、店内ではなく店の外へと消えて行った。
「あ、おい」
思わず声を上げた瑛己に、海月が。
「瑛己君、行って。何か用意しとくから」
瑛己は無言で頷き、走り出した。
店の外に出ると、すぐに、赤い背中は見つかった。慌て駆け寄り「昴!」と呼び止めた。
彼女は瑛己の声にすぐに振り返ったが、
「……」
「どうした、店、来たんだろ?」
「……でももう閉まるだろ? こんな時間だし」
「今、海月さんが何か用意してくれてる」
「……」
一瞬瑛己は昴の様子に、何か違和感を感じた。
「どうした?」
「……いや、いい。ちょっと仕事のついでに寄っただけだから」
本上 昴、瑛己の知る彼女は、もっと強気な女性であったが。
一向に動かない彼女に、瑛己はじれったさより、何か別の妙な感触を覚えた。
どうした? 何かあったのか? そう問おうと口を開きかけたその刹那。
「昴さん!!」
瑛己の背後から、彼女を呼ぶ声がした。
秀一である。
「あの……本上 昴さん、でしたよね?」
瑛己を追いかけてやってきた秀一は彼の隣に立ち、夜の通りにポツンと立つ彼女に向かって叫んだ。
「とりあえず中へ。冷えたでしょう? まだ夜は寒いし」
「……」
昴はそんな秀一を、じっと見つめた。
そして少しの沈黙の時間の末。根負けしたのは昴の方。
彼女はポリポリと頭を掻くと、瑛己たちの方へと歩み寄った。
そんな彼女を迎えながら瑛己は、今置かれた状態を改めて意識した。
本上 昴と、相楽 秀一。
かつてこの空で、撃墜した者と撃墜された者。
その2人が今ここに対面している事。
「……」
あのまま帰すべきだったか? 店の中には飛と新もいる――。
◇
「さぁどうぞ。ここのビーフシチューは美味しいですよ。僕の一番のオススメです」
店内に戻り。
元いたテーブルから少し離れた別のテーブルに、瑛己と秀一、そして昴の3人は腰掛けていた。
飛と新は眠ったままである。
それを密かに確認し、瑛己は内心安堵した。しばらくそのままでいてくれと願った。
「で、どうした? こんな時間に」
秀一が持ってきてくれた水に口付け、瑛己は聞いた。
昴は少し言いにくそうに視線をそむけ、
「仕事の途中で、ちょうど道だったから。寄った」
「お仕事ですか。こんな夜中に? 大変ですね」
秀一の問いには答えず、昴はシチューを口にした。「美味しい」
「でしょ?」
「うん。本当だ」
「よかった」
満足そうに笑う秀一を昴は一瞥し、大きく瞬きをした。
そしてもう一度彼女を見て、
「体調は、いいのか?」
問われた秀一は一瞬動きを止めたが、「ああ」
「大丈夫。もう隊務にも復帰しています」
「そっか」
「はい」
――あの一件には、色々な経緯があった。
『日嵩』による【無双】壊滅作戦。
その最中、昴は秀一を撃ち墜とし、そのまま瑛己たちにも襲い掛かった。
だが彼女もまたその直後、現れた【天賦】によって苦戦を余儀なくされ。
最終的には無凱に捕らえられる事態にまで陥った。
彼女が瑛己たちを襲ったのは、雇われたから。
雇ったのは『日嵩』総監・上島 昌平。
その結果、秀一は一時、意識不明の重態となったが。
――意識を取り戻したのは、『日嵩』による『湊』襲撃の最中。
そしてその時昴はその場に居合わせているのである。
だが秀一が完全に言葉を取り戻すのにはもう少し時間がかかっている。
そして昴はその時にはもう、基地を離れ去っていた――。
色々な事が重なり、交じり合った結果で起こった事だった。
翻弄された結果だと言い変えてもいい。
だが一概に、まったく責任がないというわけでもない。
だから昴は言わない。秀一に、すまなかったとは。
でも。
昴を見ていればわかる。秀一に何かしらの思いがある事は。
仕事だった。でも後に昴は、罠に掛けられた事とそれを見抜けなかった自分の甘さにも憤っていた。それを瑛己も見ていた。
後悔か、懺悔か、はたまた――。
何にせよ、
「昴さん、」
「?」
「あの……僕、ずっと言わなきゃいけないって思ってた事があったんです」
一瞬昴は目を見開き、その空気が身構えた。
「何だよ」
「後で聞いたんですけど……昴さんが、飛たちを助けてくれたって。無凱に捕まった飛や隊長を助けてくれたって」
「……」
「ありがとうございました」
「――ハン」
昴は鼻で笑ってそっぽを向いた。
「それに、瑛己さんの事も」
「別にあたしは。自分のプライドが許せなかったから」
「……」
「あの親父に騙されて、最後には無凱なんかに足元すくわれた。それがどうしても我慢ならなかったから」
「昴さん」
「だから、そのついで。別に感謝されるようなこっちゃない」
瑛己は少し苦笑して、「そうだな」と呟いた。
「何だよ、何がおかしい」
「いや別に」
「大体あの時はなぁ、お前が兄者に無茶言うから。お前さえいなけりゃなぁ」
「来はどうしてる? 元気か?」
瑛己がそう聞くと、昴は少し目を見開き、すぐさま瑛己から目をそらした。「ああ」
「元気」
「そうか」
「仕事で飛び回ってる」
「忙しいんだな」
「……ああ」
何となく、感じる物はあった。
でも瑛己はそれ以上聞かなかった。それは、瑛己がもし今彼女に自分の隊務を聞かれても同じ事。言えない事もある。それを理解していたから。
「元気なら、いい」
「……」
「2人には世話になったから。体には気をつけろよ」
「……りがと」
昴は一瞬何とも言えない目をしたが、すぐにそれを瞬きで消し去った。
「相楽」
「はい?」
「一杯、おごらせて」
「え、や」
「何でもいいからさ。あ、飲めない?」
「……いえ。ありがとうございます」
じゃあ海月さん特性のアップルティを……と人差し指立てた秀一に、昴は面白そうに笑った。
「聖も飲む?」
「ん」
「はは、酒場でアップルティ囲むなんて。かわいすぎ」
秀一がザルである事は黙っておこうと思った瑛己であった。
◇
「んもー、ちゃんと自分で歩いてって!!」
「ムニャムニャ……」
「あーあ、ダメだなこりゃ」
完全に潰れた飛と新を、残りの3人で担いで基地に戻る事となった。
「もうこいつら、そこら辺に捨てて行けばいいじゃん」
そう言いつつ、何だかんだで昴も手伝っている。
「僕的にはそれ、大賛成」
「俺もだ」
「全会一致じゃん。なのになんでこんな苦労して、あたしらこの馬鹿共を運んでるわけ?」
「んー……」
「……理由が浮かばない」
「やっぱり捨ててこうよ」
「賛成」
「俺もだ」
「じゃあどこに捨てる? 三択で決めよ。①草っぱら、②海、③土に埋める」
「海に捨てちゃいたいけど、そこまで行くのがねー? 面倒だし」
「土を掘る労力も惜しい」
「じゃぁそこらにポイする?」
「んー、こんな酒臭いのを置いてったら、草花がかわいそうかも」
「新芽が出掛かってるのにな」
「あー、そりゃ言えてる。土壌汚染だわな」
何だかんだで。
結局、基地までの草原をブツブツ言いながら、3人、歩いた。
最終的に、裏口までたどり着き、詰め所の門番に事情を話し手伝ってもらうまで。
「星、よく見えるなぁ」
「昴って、星の名前ですよね? いいなぁ。カッコいい」
「そうかぁ? まぁ、サンクス。相楽とかもいい名前じゃん」
「えー? そうかなぁ?」
「〝秀〟って字がついてる奴ってさ、あたし的にはそれだけで自動的に秀才に見える。いいじゃん」
「それ、昴さんだけのイメージですよね? あはは、でもありがとう。名前負けしないようにしなきゃ」
その時間は、後から考えれば本当はとても短い時間だったんだろうけど。
撃墜した者、された者。
瑛己は少し安堵する。
夜には夜の、空がある。
そしてそれは、昼に負けず劣らず、美しい。
「じゃ、ここで。また来てください。お仕事頑張って」
「ん。ありがと」
飛と新は、詰め所の兵士に殴られながら担れて行った。
昴とはここでお別れである。
秀一は少し寂しそうにそう言い、手を振った。
「またな」
と一言言って別れようとした瑛己であったが。
「あ」
「……ん?」
「……」
「あー……瑛己さん、僕先行ってる。じゃぁまた」
飛と新を追いかけるように、秀一が走って行った。
それを不思議な面持ちで眺め、瑛己は昴を見た。
「ん?」
「……」
少し昴は戸惑った様子で瑛己を見ていたが、不意に目をそらし、
「いや……」
「お前」
今日、何できた?
本当は何か用事があったんじゃ……? 瑛己の脳裏を、そんな言葉が過ぎる。
今日の昴は何かおかしい。
でもそれが何かと言われると、的確な言葉が見つからない。
(何か、)
「兄者がさ、」
「?」
「……この前、言ってた。お前に伝えたい事があるって」
「……俺に?」
「兄者最近……何か、あっちこっち調べに行っててさ。それが何かはわかんないんだけど」
「……」
「お前と……無凱に会ってから、何かちょっと変わったっていうか」
「……そうか」
「……」
「……」
「……にしてもさ、『湊』の鳥はおかしいよな」
「?」
眉をひそめて笑う昴に、「何が」と瑛己は問いかける。
「あんな事があったのに、恨み言の一つも言いやしない」
「……」
「どいつもこいつも礼ばっかり。お前の所の総監だってそうだったじゃん。他の面子も」
須賀は知らんけど、とどこか楽しそうに笑って昴はそっぽを向いた。
「……恨み言が言われたかったのか?」
瑛己の言葉に昴は少し考えて、「さぁ、どうだかな」と呟いた。
「昴、……何かあったか?」
「別に」
「でも」
「なぁ、聖」
「……?」
「こんな事があるんだな。敵同士で撃ち合った奴と、こんなふうに話せる日が来るなんて」
瑛己は苦笑した。
「秀一が生きててよかったな」
「……」
瑛己の言葉に昴は心底嫌そうな顔をして、
「お前は意地悪だ」と蹴飛ばした。
「じゃぁな」
「昴、」
「会えて良かったよ。あ、そうだ。これ、相楽に渡しておいて。お土産。あげようと思って忘れてた」
「ああ……」
「んじゃ、改めて。バイバイ」
「……気をつけろよ」
「ん? あはは」
「また来いよ」
「ん。仕事終わったら」
「絶対だぞ」
「しつこいってば。そんなにあたしに会いたいのかよ? 惚れたか?」
「……」
「んな目で見るなよ、わかったから。顔出すよ……じゃぁな。あばよ」
「昴」
「聖、ほんと、あんたに会えて良かった」
あんたらに会えて良かった。
それだけで。
ちょっとあたしは。
飛んでて良かったと、思えた。
――きっとこれから、何が待ち受けていようとも。
坂道を下っていく昴の姿を、瑛己は見えなくなるまで、見つめ続けた。
胸を何かが湧いてくる。それが何だかわからない。
けれどそれが瑛己には、いい事のようには思えなかった。
昴の姿が闇の中に溶けてしまうと、今度は空を見上げた。
オリオン座が見えた。
そこから斜めに辿れば、おうし座の1等星アルデバラン。そしてプレヤデス星団が光ってた。
「昴……」
手を振った彼女の背中が、夜空に星座のように浮かんで。目を閉じてもそれは、消える事がなかった。
何だかわからない予感と、心地悪さのせいか。
さっきは美しく見えた夜空が、急にのしかかってくるような錯覚を覚えた瑛己であった。