『雨(The_second_prologue)』
――雨が降っていた。
空は暗雲に覆われていた。
だが空気は白く濁っていた。
海原は霞んで見えない。
そんな中、ドォ……というその音だけが辺りに鳴り響いていた。
延々と。
ただ、延々と。
それだけしか聞こえない。
だからこそそれはむしろ、静まり返った世界。
雨音だけに支配される沈黙の世界。
限りなく〝無〟に近く。
それでいてすべてが完結されている。
――そこに。
黒塗りの傘1つ。
男が1人、立っていた。
広い背中、傘からはみ出た肩が濡れていた。
だがそれを気にした様子もなく。
微動だにせず。
男はじっと、雨の中、その石碑の前に立ち続けていた。
彼の背の半分ほどの高さのその石には深くこう刻まれている。
―――永劫の鳥 この空に 眠る
この国で、最西端に位置するこの場所。
人はここを、〝永劫の丘〟と呼ぶ。
ザァ……
傘に雨が打ちつける。
男は石を見ている。
空がピカリと光った。
だが……雷は遠い。
風はない。
春の嵐にはまだ、遠い。
昨日から降り続けるこの雨、明日には止むのだろうか?
止めば淀んだ空気は一掃され。
世界は多少なりとも浄化されるのか?
(だが)
雨が降ろうが止もうが。
(人は、)
それで浄化される事、ない。
「……」
打ち付ける雨が、傘を流れ、大地へと還っていく。
晴天ならば見える水平線は霧に溶けている。
――ここから、幾つもの鳥が旅立ち、
だがいずれ波は騒ぎ出す。
押し寄せる。
この丘目掛け。ここすらも。
――消えて行った。
飲み込まんとする。
安寧とした場所など本当はどこにも、
「もう13年か……」
ない。
男は頭を垂れた。
無精ひげの中にあるその口元が、仄かに歪んだ。
「晴高……」
男の名、『音羽』第8海軍基地総監・高藤 慶喜。
雨は世界を、そして彼を、淡々と打ち続ける。
いやそれはむしろ逆か。
降り注ぐそれを前に、高藤は1人打たれ続けている。
その身をさらすように。
懺悔するかのように。
雨打ち付ける草原に、どこからともなく沈丁花のにおいがした。
それは錯覚だったかもしれない。
だが高藤はそれに目を閉じた。
記憶と最も通じているのはにおいなのだと、どこかで聞いた事がある。
『惨い』
蘇る記憶。
あの日の記憶。
『こんな惨い事が、許されるわけがない』
あの男の目。
まっすぐで、どこまでも揺るがないあの目。
精悍な。
光。
輝き。
それはきっと、魂。
瞳の奥に、それが直結しているからこそ。
『狂ってる』
その圧倒的光に。
高藤はあの時、
『……こんな事でこの先、何かを得たとしても』
恐怖した。
『必ずこの国は滅びます』
恐怖した。
『……お前が首を突っ込む事じゃない』
『俺だって無関係じゃない』
『忘れろ』
『忘れられるわけがない! 現実、橋爪は、』
『いいからもう忘れろ!!! そうするしかないだろうが!!!』
『……』
『他に何ができる? お前に何ができる?』
『総監……無理です。俺はその事実を知った。知ったからには忘れられない。目を閉ざす事なんかできません。俺はそんなに起用じゃない』
『晴高、いいか。お前が言っている事は正論だ。だがな晴高、振りかざす正論がいつも必ずしも正しいとは限らない。時として暴力になる事をよく覚えておけ』
『正論も吐けなくなったらもう、終わりです』
――だから。
(焼きついてる)
あいつの目。
高藤は石碑を見つめる。
(あいつの最後の)
あの顔。
そして最後の言葉。
『光も闇も、世界は空に左右される。空は絶対です。だからこそ、守らなければいけない』
――守り続ける。
『俺はそのために生きたい』
最期の瞬間まで。
命の限り。
そのためにあいつは。
その翼を使って。
逝った。
雨は止まない。
高藤は空を見上げた。
雨粒は無限に落ちてくる。
「……」
――なぁ、晴高。
――お前は見たんだよな?
高藤は空に向かって問いかける。
この粒が、透明ではなくて。
雪のように白く光る粒が、空から降り注ぐ様を。
空が割れる様を。
人が望んだ、希望の光となって降り注ぐ、その先にある、
闇の世界までも。
「晴高」
鳥は、空を守るために飛んでった。
嵐は鳥に向かって、容赦なく吹き荒んだだろう。
そして鳥は、たくさん傷ついただろう。
羽根をもがれ、仲間を失い、その体傷つきながらも。
でも。
たった1つ、そこを守るために。
歯を食いしばり。
懸命に。
お前が願った、その通りに。
――生きる事のすべてを懸けて。
そしてその果てに。
傷ついた鳥はどこへ行った?
そしてそいつは、最後に何を見た?
闇と、嵐の中へ飛び込んだそいつは。
その目に最後に、何を映した?
あの精悍な輝きは。
「……」
なぁ、晴高。
お前は沈丁花が好きだった。
このにおいを嗅ぐと、初めて出会った時のあの笑顔を思い出すよ。
――高藤はゆっくりと瞬きをした。
そしてもう一度石碑を見た。
濡れて黒くなった石肌は、鈍い光を放ってる。
「……」
吐いた息が白い煙となった。
高藤は石碑に背を向けた。
丘に背を向けた。
海に背を向けた。
そして。
歩き出した。
涙は出ない。
だが代わりに雨は止まない。
一滴でも落ちたなら。
望んだ未来は見えたのか?
聖 晴高。
今生の別れ、お前は笑っていた。
――その瞳、闇を貫く光であれ。
ならば俺は。
「この闇を見据える、もう1つの」
闇となろう。
「……あの日、お前が本当に言いたかったのは」
呟きかけて。高藤は止めた。
雨が痕跡をぬぐっていく。
黒い傘に、彼は顔をすっと隠した。
空に光が走った。
それでもやはりまだ、風は吹かなかった。
――さぁ。
終わりを始めよう。