その令嬢。ふしだらではないが悪女である。
その日、ヴァレリア・ロズワールは、ご機嫌だった。
右手に手紙を持ち、長い廊下を軽い足取りで跳ねるように進んでいる。十四歳にもなった伯爵令嬢が屋敷の中をスキップするなど、家庭教師に見つかれば間違いなく注意される振る舞いだった。
けれど、誰も見ていない。というか、誰もヴァレリアに興味がないのだ。
伯爵は先妻と死別しており、先妻との間に生まれた息子は騎士として遠方に赴任していた。その後、後妻として迎えた夫人との間に予定外に生まれたのがヴァレリアである。
父は娘がどこで何をしているのか知らない。母は知ろうともしない。使用人たちはもちろん仕事としてヴァレリアの世話をしてくれたが、父や母へ娘の一挙一動を報告するよう命じられているわけでもない。だからヴァレリアは、案外自由だった。
父が屋敷を留守にする時間も知っている。政務室に忍び込んだところで、すぐに気づく者はいない。
ヴァレリアは廊下の角から顔を出し、左右を確認した。使用人の姿はなく、静かな廊下の先には父ギルバートの政務室がある。
ヴァレリアは扉を開けると、するりと中へ入り込んだ。父の政務室には大きな机と書棚があり、その奥には、曾祖父の代から使われているという重厚なチェストが置かれていた。黒ずんだ木材に細かな彫刻が施され、大人が二人がかりでなければ動かせそうにない。
ヴァレリアはその前にしゃがみ込んだ。床には厚い絨毯が敷かれている。チェストの脚と絨毯との間には、子供の指先が入る程度のわずかな隙間があった。
手にしていた封筒をそこへ差し込む。一度では奥まで入らなかったので、人差し指でさらに押した。白い封筒の端が少しずつ暗がりへ消えていき、最後には覗き込んでも見えなくなった。
「よし」
ヴァレリアは満足そうに立ち上がり、スカートについた埃を両手で払った。
同年代の少女より少し大人びた顔立ちをしていたが、その顔いっぱいに浮かんだ笑みは、十四歳の少女らしく可憐そのものだった。
そのまま何事もなかったように政務室を出る。扉を閉め、廊下を見回してから、ヴァレリアはまた軽い足取りで歩き出した。
二年後。
十六歳になったヴァレリア・ロズワールは、少女の面影を残しながらも、ひときわ目を引く妖艶な美しさを備えていた。
紅を差さずとも色の濃い唇に、長い睫毛に縁取られた瞳は、伏せるだけでどこか物憂げに見える。同年代の令嬢よりも豊かな体つきも相まって、黙って立っているだけで妙に人目を引いた。
もっとも、それは本人が望んだ評価ではない。
この日のドレスも胸元を高く仕立て、肩まできちんと覆った年相応のものだった。少女向けの淡い色より少し落ち着いた色を選んではいたが、ヴァレリアが自ら妖艶に見せようとしているわけではなかった。
母レジーナは、娘が何を着ようと興味が無い。ヴァレリアの衣装を母が選ぶことはこれまでも、これからも無い。父ギルバートは金だけは出してくれていたので、仕立屋へ行けばロズワール伯爵令嬢に相応しいものなら、侍女と仕立屋と相談して好きに注文できた。
「随分と楽しそうね」
支度を終えて階下へ向かう途中、レジーナが娘を見て言った。その言葉に、母から娘へ向けるような温かさは一切なかった。
「そう見えますか?」
「ええ。ようやく堂々と殿方と遊べるのだから、嬉しいのでしょうね」
ヴァレリアは母を見た。
レジーナは娘がデビュタントを迎える今日ですら、身支度を手伝うことも、ドレスを見に来ることもなかった。それでも完成した娘の姿を見れば、恨み言のひとつ言わずにはいられないらしい。
「お母様は、わたくしが殿方と遊んでいるところをご覧になったことがありまして?」
「見なくても分かります。あれだけ毎日のように出歩いていたのでしょう」
「婚約者を探さなければなりませんもの」
「デビュタントも済ませていない娘が?」
「ですから、下見ですわ」
ヴァレリアが答えると、レジーナは眉を顰めた。
ここ数年、ヴァレリアはよく屋敷を空けていた。買い物へ行き、友人と出かけ、商会を覗き、時には朝から夕方近くまで戻らない日もあった。
もちろん一人ではない。昼間に馬車を使い、必ず使用人を伴っている。貴族令嬢として咎められるような場所へ出入りしたこともなければ、夜遅く帰宅したこともない。
それでもレジーナの中では、娘はすっかり遊び歩く令嬢になっているらしかった。
「今日くらいはロズワール家の娘として、節度を持って振る舞いなさい」
「承知いたしました」
ヴァレリアは素直に頭を下げた。
レジーナはまだ何か言いたそうだったが、それ以上は構わず、先に階段を下りていった。その後ろ姿を見送ってから、ヴァレリアもゆっくりと階段を下りる。
今日は、ヴァレリアが待ちに待った十六歳のデビュタントだった。ようやく迎えたその日、彼女は正式に社交界への一歩を踏み出した。
ロズワール伯爵家の娘はひどく美しいらしい。
そんな噂は彼女が正式に社交界へ出るより先に広まっていた。本人を見たこともない者が尾ひれをつけて語り、それを聞いた者がさらに別の誰かへ話す。そうして出来上がったヴァレリア像は、いつしか「まだ十六だというのに男を惑わせるような娘」になっていた。
そして今、実物が姿を現したことで、その噂は消えるどころか、むしろ勢いを増した。
デビュタントを迎えた令嬢たちが並ぶ中でも、ヴァレリアの美しさは目立っていた。
視線を向けられるたびに愛想を振りまくこともなく、かといって俯いて隠れることもない。必要な挨拶をし、教えられたとおりに礼を取り、声をかけられれば応じる。その振る舞いには何ら問題がないはずなのに、伏せていた瞳を上げて相手を見るだけで、まるで誘うような、心を掻き立てる意味ありげな視線だと、誰もがそう感じてしまう。
最初に近づいてきたのは、ヴァレリアより二回りほど年上に見える男だった。
「ロズワール伯爵令嬢ですね。噂はかねがね。ようやくお目にかかれました」
丁寧な挨拶に、ヴァレリアも微笑むと、ドレスの裾をつまんで非の打ち所のない礼を取る。
「初めてお目に掛かります、ベルナール伯爵とお見受けいたします。わたくし、ロズワール伯爵が娘、ヴァレリアと申します。本日はお声がけいただき、光栄に存じます」
「素晴らしいご挨拶だ。とても今日がデビュタントとは思えない」
ベルナール伯爵は感心したようにヴァレリアを眺めた。
「今夜が初めての社交の場では、何かと心細いでしょう。私でよろしければ、いろいろとお教えしますよ」
「まあ。ありがとうございます」
男はその返事を好意的に受け取ったらしい。一歩近づき、声を落とした。
「こういう場には、表向きの作法とは別に、知っておいた方がいいこともありましてね。若いご令嬢には少々刺激が強い話もありますが、知っておいて損はないでしょう」
「まあ、そんな作法があっただなんて。そちらは、ベルナール伯爵夫人もご存じなのですか?」
男の笑みが止まった。ヴァレリアは小さく首を傾げる。
「先ほどベルナール伯爵夫人をお見かけしました。とてもお美しい方ですのね。ぜひご一緒に教えていただきたいですわ。わたくし、まだ十六ですから、既婚の殿方と二人きりでそのようなお話をするのは不安で」
「いや、そういう意味では……」
「違いましたの?」
「もちろんですとも」
男は取り繕うように笑い、用事を思い出したと言って去っていった。ヴァレリアはその背中を見送ったあと、近くを通った給仕から飲み物を受け取った。
二人目は、家名も名乗らず最初からずいぶん馴れ馴れしかった。
「随分と大人びているね。本当に十六なのかい?」
ヴァレリアはグラスを持ったまま男を見る。
「はい。つい先月、十六歳になったばかりです」
「そうか。いや、その年にはとても見えない。君のような女性なら、同年代の少年では物足りないんじゃないかな」
「そうなのでしょうか?」
「女性というものは、自分より経験のある男と付き合った方がいい。君くらいの年頃なら、なおさらね」
男は自信ありげに笑っていた。ヴァレリアはしばらくその顔を見てから、穏やかに尋ねた。
「では、あなたは十六歳の小娘でなければ、お相手をしていただけない程度の殿方なのですか?」
「……は?」
「経験のある大人の女性ではなく、何も知らない十六歳をわざわざお選びになるのでしょう? 何か理由がおありなのかと思いまして」
「そういう意味ではない」
「もしかして、同年代のご婦人には相手にされませんでしたのでしょうか?」
「君は口の利き方を知らないようだな」
「申し訳ございません。何も知らない十六歳ですので」
男の頬が引きつった。近くにいた令嬢が扇の陰で口元を隠す。男はそれを横目で確認すると、何も言わずに立ち去った。
三人目は、ヴァレリアの評判をすでに耳にした後だったらしい。挨拶もそこそこに話し出す。
「随分と手厳しいそうだね、ロズワール伯爵令嬢」
「まあ。どなたがそのようなことをおっしゃったのでしょうか」
「男を二人も追い払ったとか」
「追い払ってなどおりませんわ。お二人とも、なぜかご用事がおありだったようで、ご自分から席を外されましたの」
ヴァレリアが微笑むと、男は面白そうに目を細めた。
「なるほど。聞いたとおりだ。だが、そういう気の強い女性も私は嫌いではないよ」
「それはよろしゅうございました」
「君は自分が美しいと分かっているのだろう? それなら、もう少し男の扱い方を覚えた方がいい。可愛げというものも女には必要だ」
「可愛げでございますか」
「将来のための忠告だよ」
「では、わたくしからも一つよろしいでしょうか」
「何かな」
「初対面の女性に可愛げがないと忠告なさる前に、ご自分が女性から好かれる可愛げを身につけられた方が、将来のお役に立つかと存じます」
今度は、はっきりと周囲から笑い声が漏れた。男は顔を赤くし、何か言い返そうと口を開いたが、周囲の視線に気づいてそのまま閉じた。踵を返す背中を見ながら、ヴァレリアはグラスへ口をつける。
その後も同じような繰り返しだった。美しいと褒めれば喜ぶと思っている男。十六歳なら世辞と下心の区別もつかないと思っている男。大人びた容姿を勝手に経験の豊富さへ結びつけ、意味ありげな言葉を投げてくる男。
ヴァレリアは誰に対しても自分から喧嘩を売ったわけではない。ただ、相手が差し出してきた言葉を、そのまま少し丁寧に返してやっただけだ。それで機嫌を損ねるのなら、ヴァレリアにはどうしようもない。
「すごいご令嬢だな」
少し離れた場所からそんな声が聞こえた。
「顔だけ見れば、もっと男を手玉に取るような娘かと思ったが」
「手玉に取るどころか、片端から叩き落としているじゃないか」
「ロズワール伯爵も大変だな。あれでは嫁ぎ先を探すのも苦労するぞ」
ヴァレリアにも聞こえていたが、振り返らなかった。
この夜だけで、彼女の美貌を称える噂には新しい評判が加わった。ロズワール伯爵家のヴァレリアは、確かに美しい。だが、末恐ろしい娘だ。
そしてその評判は、ヴァレリア本人よりも先にロズワール伯爵邸へ帰り着くことになった。
デビュタントから数日後、ヴァレリアは父ギルバートの書斎へ呼び出された。
部屋へ入ると、父だけでなく母レジーナも待っていた。ギルバートは机の向こうに座り、いかにも不機嫌そうに眉間へ皺を寄せている。六十を過ぎてから白髪の目立つようになった髪を撫でつけ、娘が正面へ立つなり挨拶を返すこともなく口を開いた。
「お前は、自分が何をしたのか分かっているのか」
「デビュタントでございましたら、滞りなく終えたものと認識しております」
「そんなはずはない!」
ギルバートが机を叩いた。
「ベルナール伯爵をはじめ、何人もの方から苦情が来ている。初めて社交界へ出た娘が、目上の方々に恥をかかせて回ったそうではないか」
「恥をかかせた覚えはございません。皆様からお声がけいただきましたので、お話をさせていただいただけです」
「物には言い方というものがあるだろう!」
「わたくしは、お声がけくださった方々と同じようにお話ししただけでございます」
ギルバートが言葉を止めた。ヴァレリアは声を荒らげることもなく、父をまっすぐ見ていた。
「秘密のお作法について教えてくださるとのことでしたので、ぜひ奥様とご一緒に伺いたいと申し上げました。年上の男性とお付き合いする方がよいと勧められましたので、では年上の女性はいかがなのかと伺いました。それから、女性には可愛げが必要だとご忠告いただきましたので、男性の可愛げについてもお話しいたしましたわ。皆様とても親切でいらっしゃいましたので、わたくしも失礼のないよう、お一人ずつ丁寧にお返事をしただけでございます」
「それを屁理屈だと言っているのだ」
「そうでございますか」
ヴァレリアはあっさりと引き下がった。レジーナが苛立ったように扇を閉じる。
「あなたは昔からそうね。言われたことには従っているような顔をして、少しも反省していない」
「お母様からお叱りいただくようなことをいたしましたでしょうか」
「したからこうして呼ばれているのでしょう。せっかく社交界へ出たというのに、あれでは縁談など来なくなるわ」
「わたくしにあのようなお声がけをなさる方との縁談でしたら、なくなっても困りません」
「ヴァレリア!」
レジーナの声が鋭くなる。ヴァレリアは母へ視線を向けたまま、わずかに首を傾けた。
「何でしょうか」
「自分の立場を分かっているの? 伯爵家の娘なのよ。あなた一人の好き嫌いで相手を選べると思っているの?」
「いいえ。そのようなことは思っておりません」
「なら少しは慎みなさい。男に言い寄られるたびに噛みついていたら、誰もあなたなど欲しがらなくなるわ」
「お母様は、わたくしが殿方に言い寄られれば喜んでお受けするような娘であってほしいのですか?」
レジーナの眉が動いた。
「その方が、ロズワール家にとって都合がよろしいという意味でしょうか」
「またそうやって……」
「ヴァレリア、もういい」
ギルバートが低い声で遮った。
これまでのヴァレリアなら、父母に何を言われても適当な返事をして聞き流していた。父が叱れば「申し訳ございません」、母が嫌味を言えば「気をつけます」と答えて終わらせていた。何を言われようと逆らわず、聞き流している方が楽だったからだ。
だが、もうその必要もない。
ギルバートはしばらく娘を睨んでいたが、やがて大きく息を吐いた。
「お前にはこちらで相手を決める」
「そうでございますか」
「ヘンドリクス男爵だ。マルク・ヘンドリクス。三十になったばかりだが、まだ妻を迎えていない。領地も持っているし、男爵とはいえ家に不足はない」
「承知いたしました」
あまりに早い返答に、ギルバートの方が怪訝な顔をした。
「……相手が誰か分かっているのか」
「お名前は存じております」
「なら話は早い。先方もお前との縁談を望んでいる。近日中に顔合わせをする」
「かしこまりました」
ヴァレリアは一礼した。
レジーナは拍子抜けしたように娘を見ていた。先ほどまであれほど口を利いていたというのに、十四歳も年上の男爵へ嫁げと命じられた途端、何一つ反論しない。
「随分と素直なのね」
「お父様がお決めになったことでしょう?」
「そうだ。お前もようやく自分の立場を理解したか」
ギルバートの声から、わずかに険が取れた。ヴァレリアは微笑んだ。
「ええ。よく理解しておりますわ」
その数日後、マルク・ヘンドリクス男爵がロズワール伯爵邸を訪れた。
三十歳になったばかりのマルクは、ヴァレリアを見るなり満足そうな表情を浮かべた。噂には聞いていたが、実物はそれ以上だったらしい。紹介を受けている間にも、その視線はヴァレリアの顔から身体へ何度か移った。
「初めてお目にかかります、ヘンドリクス男爵。ヴァレリア・ロズワールと申します」
ヴァレリアが礼を取ると、マルクも笑顔で応じた。
「マルク・ヘンドリクスだ。君の噂は聞いているよ。随分と美しい令嬢だとは聞いていたが、これほどとは思わなかった」
「恐れ入ります」
「それに、少々気が強いとも聞いている」
マルクは冗談めかして笑った。
「だが、私は気にしないよ。君はまだ十六だ。妻としての振る舞いはこれから覚えていけばいい」
ヴァレリアは静かにマルクを見た。
「もちろん、最初から完璧である必要はない。私も君に無理をさせるつもりはないからね。結婚してから、少しずつ私の家のやり方に慣れてくれればいい」
「まあ。それはご寛大なことでございますね」
「そうだろう? 君のような若い女性には、年上の夫の方が合っている。社交界で君に声をかけた連中のように、少し言い返された程度で腹を立てたりもしない」
マルクはそう言って笑った。ヴァレリアも微笑みを返した。
「それを伺って安心いたしました」
その返事に、マルクは満足そうに頷いた。
彼には以前から囲っている平民の女がいた。長く関係を続けており、結婚したからといって手放すつもりはない。ただし貴族として家を維持する以上、いつまでも独身では都合が悪かった。
必要なのは、家柄に問題がなく、正妻という席に収まってくれる女だった。その相手が美しいなら、なお都合がいい。
ヴァレリアはまだ十六歳で、父親が決めた婚姻を受け入れたばかりの娘である。社交界では口が悪いと評判らしいが、それも結婚して自分の家へ入ればどうにでもなると、マルクは考えていた。
ギルバートにとっても、この縁談は都合がよかった。扱いづらくなった娘を家から出せるうえ、相手は爵位を持つ男である。レジーナに至っては、娘が屋敷からいなくなることに異論などなかった。
それぞれが、それぞれの都合でヴァレリアの結婚を望んでいた。
顔合わせを終えたあと、ヴァレリアは自室へ戻った。
扉が閉まると、先ほどまで浮かべていた令嬢らしい微笑みが消えた。鏡台の前に腰を下ろし、耳飾りを外して小箱へ戻す。
十六歳になり、デビュタントも終えた。ついにここまで来た。婚約など些細なことだった。あのような、叩けば埃しか出てこない男爵風情など取るに足らない。
ヴァレリアは鏡に映る自分を見ながら、ゆっくりと唇の端を上げた。
「では、始めましょうか」
誰に聞かせるでもなくそう呟くと、ヴァレリアは立ち上がった。
マルクとの婚約が決まってから数日後、ヴァレリアは朝から外出していた。
デビュタントを終えた今では、それを咎める者もいない。そもそも、それ以前から彼女がどこへ出かけようと、ロズワール家の人間が気に留めることはほとんどなかった。
レジーナは娘が頻繁に出歩くことを、男でも探して遊び歩いているのだと思っていた。今では婚約も決まったため、その準備に出かけているとでも思っているのだろう。ギルバートに至っては、娘がいつ屋敷を出て、いつ戻っているのかすら把握していない。
だから二年前から、ヴァレリアは好きなだけ動くことができた。
もともとヴァレリアは、屋敷の書庫にある本を読むことが多かった。誰も自分に構わないのなら、その時間をどう使おうと自由だったからだ。領地経営や商取引について書かれたものまで読み漁り、分からないことがあれば商会へ出向いた際に尋ねた。それまで暇潰しに過ぎなかった知識も、今ではヴァレリアを支える大きな力となっている。
馬車が止まったのは、これまでにも何度となく訪れた商会だった。
「お待ちしておりました、ロズワール伯爵令嬢」
奥の部屋へ通されたヴァレリアは、差し出された書類を一枚ずつ確認した。そこにはロズワール伯爵家の名で行われた取引と、複数の出金が記されている。
この二年間、ヴァレリアが遊び歩いていたことなど一度もない。
伯爵家の名と信用を使えば、十六にも満たない令嬢でも動かせるものは多い。まして、高齢にさしかかるにつれ当主は細かな帳簿を確認せず、夫人は家の金がどこへ流れているのかにも興味がない。必要な金だと父へ求めれば、法外な金額でない限りは理由を詳しく尋ねられることもなく支払われ、母は娘の外出先すら確かめない。
帳簿を任されている家令も、進んで家計を預かっているわけではなかった。当主から細かな実務を押しつけられ、日々の出入りを一人で合わせている。そこへヴァレリアは労わるように手を貸した。領収書を整理し、支出を書き間違いを指摘し、計算を手伝う。家令にとっては仕事が減るだけでなく、数字はきちんと合っていく。
家令はヴァレリアに感謝していたが、家でのヴァレリアの扱いを見てきたので、令嬢に帳簿仕事を手伝わせているなどと当主や夫人に知られれば、何を言われるか分からない。そのため彼女が手を貸していることは自分から口にすることはなかった。やがて細かな支出についてはヴァレリアが帳簿を確認していても、何も言わなくなった。
ヴァレリアはそんな大人たちの無関心を、二年かけて利用してきた。
伯爵家名義で動かした金の一部をいくつもの取引に紛れ込ませ、隠し財産のための資産へ変えていく。同時に、後から帳簿を辿った者が、それを当主夫妻の指示によるものと判断するように金の流れを並べていく。
もちろん、すべてを偽りで作ったわけではない。ギルバート自身が承認した支出もあれば、レジーナが使った金もある。正当な取引の中に混ぜてしまえば、不正は少し見ただけでは分からなくなる。
とりわけレジーナは都合がよかった。ヴァレリアは母がどこへ出入りし、何に金を使っているのかを、以前から知っていた。
「こちらでよろしいでしょうか」
商会の男が確認を求める。ヴァレリアは最後の一枚まで目を通すと、書類を揃えて返した。
「ええ。結構ですわ」
あとは、見つけてもらえばいい。これまで間違いがないよう整えてきた帳簿の中へ、ヴァレリアは一冊だけ、意図的に数字の合わないものを混ぜた
露骨すぎてはいけない。単独では見過ごせても、別の記録と照合すれば必ず気づく。そして一度その齟齬に気づけば、他の帳簿まで調べずにはいられない。どこに綻びを作れば、誰がどこまで調べるのか。それすらもヴァレリアの計画のうちだった。
ロズワール伯爵家が定期的に提出している書類の中へ、その帳簿が紛れ込んだのは、それから間もなくのことだった。
最初に問題となったのは、ほんの小さな数字の食い違いだった。提出された帳簿と、それに付随する取引記録の金額が一致していない。記載上は同じ支出を示しているにもかかわらず、片方にだけ余分な金額が加えられていた。単純な記載ミスだとも思われた。
しかし確認のため過去の記録まで遡ったところ、別の箇所でも不自然な金の動きが見つかった。
一つ見つかれば、二つ目は早い。そして、二つ目が見つかれば、もはや記載ミスでは済まない。
調査対象はその一冊から過去数年分の帳簿へ広がり、やがてロズワール伯爵家そのものへ正式な調査が入ることになった。
「ロズワール伯爵、初めまして。調査官のカリル・ディカマンと申します。このたび、ロズワール伯爵家の会計について確認すべき点が見つかりましたので、調査に参りました」
カリルはそう名乗ると、ギルバートへ一礼した。調査官になってまだ日の浅い新人ではあるが、今回は上官とともにロズワール伯爵家の調査を担当することになっている。
「何の話だ」
調査官たちを前に、ギルバートは露骨に顔をしかめた。
伯爵邸の一室には、これまで家に保管されていた帳簿や取引記録が運び込まれている。若い調査官のカリル・ディカマンは、上官の隣で資料を確認しながら、向かいに座るギルバートを見た。
「ロズワール伯爵家から提出された帳簿に不一致が確認されました。そのため過去の取引についても照合したところ、用途の確認できない出金が複数見つかっております」
「私は知らん。帳簿の細かな数字まで、当主である私が一つ一つ確認していると思うのか。家令に任せているのだ。多少の記載間違いくらいあるだろう」
「では、これらの支出については?」
「知らんと言っている」
ギルバートは苛立ったように答えた。
しかし、知らないと言えば解決する話でもない。
取引先へ確認すれば、実際にロズワール家名義で行われた取引だという返答がある。伯爵家の名で金が動き、記録も残っているのであれば、責任は当主にある。
そして、調査を進めるほど、金の流れはギルバートとその妻レジーナへ近づいていった。
「わたくしも存じませんわ」
別の日、事情を聞かれたレジーナも同じことを言った。
「家のお金のことは主人に任せておりますもの。わたくしが帳簿など見るはずがございませんでしょう?」
だが、レジーナ個人に関係する、衣服や宝飾品だけでは説明できない定期的な支出があるのは確かだ。
金の流れそのものは単純だったため、調べること自体は難しくなかった。
ただし、その使途を本人の前で口にするとなると話は別だった。事実を確認するためとはいえ、伯爵夫人に対して男娼遊びについて問いたださなければならない。調査官たちも、さすがにどう切り出すべきか少し躊躇った。
「……何ですって」
確認された事実を告げられた瞬間、レジーナの顔色が変わった。
「何かの間違いですわ」
「複数の証言が取れております」
「そんなもの、誰かが勝手に――」
「奥様が何度も足を運ばれていたことについても確認しております」
レジーナは口を閉じた。
カリルは手元の記録へ目を落とした。問題は、レジーナが男娼を買っていたことそのものだけではない。そこに使われた金の一部が、現在調べている不自然な出金と重なっている。
「違うわ」
レジーナが突然、顔を上げた。
「あの子よ」
「あの子、とは?」
「ヴァレリアよ。あの子だってずっと遊び歩いていたわ。デビュタントを迎える前から、しょっちゅう屋敷を空けていたもの。あの見た目でしょう? 男と何をしていたか分かったものではないわ」
カリルはわずかに眉を寄せた。
「ロズワール伯爵令嬢の外出については、すでに確認しております」
「なら分かるでしょう。あの子は何度も――」
「いずれも日中の外出です。また、確認できた範囲ではすべて使用人が同行しています」
レジーナの言葉が止まる。
「男性との密会や、奥様がお出入りになっていたような場所への訪問も確認されておりません」
「そんなはず……」
「少なくとも、我々が調べた限りではございません」
事実を述べただけだった。それでもレジーナは、頬を打たれたような顔をした。
娘は男と遊び歩いている。レジーナは長い間、そう決めつけていた。
豊かな体つきも、色の濃い唇も、男の目を引く顔立ちも、自分とは違う若さと美しさも。それだけのものを持つ娘が、男に興味を持たないはずがない。何より、自分の娘なのだ。自分に似ているのなら、そうであるはずだったのだ。
その頃、ヴァレリアは別室で事情を聞かれていた。
「お父様とお母様が、そのようなことを?」
告げられた内容に、ヴァレリアは目を見開いた。カリルは向かいに座る少女を見た。
「伯爵令嬢は、これらの出金について何かご存じでしょうか」
「いいえ。父からは家のお金について何かを聞かされたことはございません。母からも」
「帳簿をご覧になったことは?」
「一度もないわけではございませんが、直接関わったことはございません。わたくしは父から必要なお金をいただいていただけですもの」
「家令が帳簿を任されていたことは?」
「それは存じております。父から細かな仕事をずいぶん任されていたようで、大変そうにしておりましたから。ただ、家令が一人ですべてを決めていたとは思いませんわ。最終的な確認は当主である父がしていたのではないでしょうか」
「外出が多かったと伺っています」
「はい」
ヴァレリアは素直に頷いた。
「買い物やお茶、それから、いずれ結婚することになるのですから、外へ出て人と知り合うことも必要だと思っておりました。母からは遊び歩いていると思われていたようですけれど」
少し困ったように笑う。
「何か問題がございましたでしょうか」
「いいえ。同行した使用人からも話を聞いています。現時点で、あなたの外出について問題となる事実は確認されていません」
「それでしたら安心いたしました」
ヴァレリアは胸元へ手を添え、小さく息をついた。カリルはそれ以上追及しなかった。
今、目の前にいるのは十六歳になったばかりの伯爵令嬢である。その両親が行っていたらしい不正に突然巻き込まれた哀れな娘。
それでもヴァレリアは、父や母へ責任を押しつけるようなことを一度も言わなかった。尋ねられたことに答え、知らないことは知らないと言う。それだけだった。家令も両親も自分の責任を逃れようとしている中で、その態度はカリルの印象に残った。
「本日はありがとうございました。何か確認が必要になりましたら、改めてお話を伺うことがあるかもしれません」
「もちろんでございます。わたくしに分かることでしたら、何なりと」
ヴァレリアは丁寧に頭を下げた。事情聴取を終え、部屋を出る。扉が閉まっても、その歩調は変わらなかった。廊下を進み、角を曲がり、誰の姿もないことを確かめてから、ヴァレリアはほんの少しだけ口元を緩めた。
耄碌した老人と、承認欲求と快楽にしか興味のない女を欺くことなど、ヴァレリアにとっては難しいことではない。
そして今、その両親二人は何も知らないと必死に訴えている。これまで何一つ知ろうともしてこなかった人間たちが、今さら「何も知らない」と訴える姿は、ヴァレリアにはひどく滑稽に映った。
ロズワール伯爵家への調査が進むにつれ、マルク・ヘンドリクス男爵は目に見えて距離を取り始めた。
「私はまだヴァレリア嬢と婚姻を結んだわけではありません。婚約したばかりで、ロズワール家の内情についても何も知らされておりませんでした」
調査官を前に、マルクは何度もそう繰り返した。ロズワール家とはまだ別の家であり、今回の件には何ら関係がない。婚約者であるヴァレリアを案じる言葉より先に、自分が無関係であることを示す言葉ばかりが出てくる。実際、ロズワール伯爵家の不正そのものにマルクが関与した形跡はなかった。調査官たちにとっても、彼は婚約者というだけで罪を問うべき相手ではない。
ところが、金の流れを確認する過程で、別の問題が見つかった。
「ヘンドリクス男爵。こちらの支出について確認させてください」
差し出された記録を見て、マルクの表情がわずかに強張った。
それは、ヴァレリアとの婚約が決まった後に動いた金だった。婚約に際し、ヘンドリクス家ではヴァレリアを迎えるための費用として相応の予算が用意されている。衣装や装身具、贈答品、結婚後に必要となる品々を整えるためのものだった。しかし、ヴァレリアのもとには何一つ届いていない。
「ロズワール伯爵令嬢へ贈られた品について、確認できるものがございません」
「まだ婚姻まで時間がある。急いで用意する必要もないだろう」
「では、こちらの支出は?」
調査官が示した先には、別の商店や住居に向けて支払われた金額が並んでいた。衣服、装飾品、家具、生活費。名目こそ細かく分かれていたが、その先にいたのは、マルクが以前から囲っていた平民の女だった。
「……以前から関わりのある平民への支援です」
「女性ですよね。婚約後もこのような事を続けていると」
「それと今回の件とは関係がないでしょう。私はロズワール家の金には手をつけていない」
「ええ。その点について申し上げているのではございません」
淡々と返され、マルクは口を閉じた。
調査官で問題にしているのは、ロズワール家の不正への関与の有無である。マルクの愛人関係を暴き立てるために調査しているわけではない。まして、調査官がその話を社交界へ広めるつもりもない。ただ、婚約者を迎えるために用意された金が、他の女に使い込まれていた。その一連を知れば、何も言わずにはいられなかった。
「現時点でヘンドリクス男爵がロズワール伯爵家の不正に関与した事実は確認されておりません」
調査官は淡々と告げた。
「ただし、今回確認された使途不明金については別です。調査の過程で判明した以上、調査官としてヘンドリクス男爵家へ報告いたします」
マルクの顔から、さっと血の気が引いた。
ましてマルクと平民の女との関係は、それ以前から完全な秘密だったわけではない。息子が平民の女に入れ込み、金を使っていることを、年老いた両親は以前から快く思っていなかった。それでもいずれ家柄の釣り合う娘を妻に迎えれば落ち着くだろうと考え、ヴァレリアとの婚約を認めていたのである。その婚約のために用意した金まで女へ流れていたと知れば、黙っているはずがなかった。
「お前は何を考えている!」
父親の怒声に、マルクは顔をしかめた。
「ヴァレリア嬢には必要なものをいずれ揃えるつもりだった。少し使った程度で大袈裟な」
「少しだと? 全ては伯爵令嬢を妻に迎えるために用意した金だぞ!」
「結婚すれば、あの娘は男爵夫人になるんだ。衣食住に困らせるつもりはない。それで十分だろう」
その言葉を聞いた母親まで顔色を変えた。家柄のある正妻を迎え、平民の愛人は別に囲い続ける。しかも正妻を迎えるための金まで愛人へ使う。それを当然のように語る息子に、両親が味方することはなかった。
やがて話は屋敷の外へも広がった。事情を知った使用人から別の使用人へ、出入りの商人へ、そこからさらに別の家の使用人へと伝わっていった。
ヘンドリクス男爵令息は、長年平民の女を囲っている。それだけなら以前から知る者もいた。
しかし、ロズワール伯爵家の美しい令嬢と婚約しながら、婚約者には何一つ贈らず、その女へ婚約準備の金を使っていたなどという面白い話が、いつまでもヘンドリクス男爵家の中だけに留まっているはずもなかった。
ほどなくして、ヴァレリアとの婚約は解消された。ヘンドリクス男爵家としても、不正への関与を疑われているロズワール伯爵家との婚姻を、このまま進めることはできないと判断したのだ。
伯爵家との縁は失い、両親からは金の管理を厳しく改められ、使用人たちの目まで変わった。それでもマルクには、自分を愛してくれている女がいれば良かった。
ある朝、マルクが彼女のために借りていた家を訪ねると、中はひどく静かだった。呼んでも返事はなく、寝室にも人の姿はない。衣装棚を開けば、値の張る服や装身具はきれいになくなっていた。
「……どういうことだ」
近隣の者に話を聞くと、前日の夜まではいたらしい。
女は噂が広まりすぎたことに辟易していた。ロズワール伯爵家の美貌の令嬢を差し置いて選ばれるほどの女とはどんなものかと、好奇の目を向けられ続けることに疲れていたのだという。
マルクはしばらく、空になった衣装棚の前に立っていた。ヴァレリアをお飾りの妻にしても、愛する女との生活はこれまで通り続けられる。正妻も愛人も、自分が望む形で手元に置いておける。
そう考えていた男の手元には、結局どちらも残らなかった。
その顛末を聞いたヴァレリアは、特に何も思わなかった。マルク・ヘンドリクスなど、初めから彼女の眼中には入っていない。ヴァレリアはそもそもマルクに対して何もしていなかったのだ。
調査が終盤に入る頃には、ロズワール伯爵家の責任を免れることは難しくなっていた。
長年、伯爵家の帳簿を任されていた家令も処分の対象となった。家令は最後まで自分の関与を否定していたが、処分が決まると、それまでの主張を一転させた。
「お嬢様です。ヴァレリアお嬢様も帳簿をご覧になっていました。あの方が関わっていたのです」
しかし、それまでヴァレリアは無関係だと証言していたのも家令自身だった。自らの処分が決まった途端に始めた主張には、それを裏付ける記録も証言もない。
「では、なぜ今まで一度もそのことを話さなかったのですか」
調査官に問われると、家令は答えに詰まった。
「それは……お嬢様に、口止めを……」
「その事実を示すものはありますか」
「ございません。しかし、本当なのです」
処分を免れるため、責任を伯爵令嬢へ押しつけようとしている。そう判断されるのは当然だった。
ギルバートとレジーナについても同様だった。二人が自ら不正を指示したと認めることは最後までなかったが、当主とその妻として伯爵家の財産を管理する立場にありながら、長期間にわたる不自然な金の動きを放置していた責任まで消えるわけではない。多額の賠償が命じられ、ロズワール家だけではすぐに用意できない分については、親戚筋の貴族が肩代わりすることになった。
当然、それで済むはずもない。親戚筋にまで莫大な負担を負わせたうえ、当主本人は「知らなかった」の一点張りである。領地と財産を預かる者として、もはやギルバートにロズワール伯爵家を任せておくことはできないと判断され、当主の座を退くことを余儀なくされた。
その決定が下された日の夜、ギルバートはヴァレリアを呼びつけた。
「お前からも何とか言え。私はお前の父親だぞ」
ヴァレリアは向かいの椅子に腰掛けたまま、静かに父を見ていた。
「何を申し上げればよろしいのでしょう」
「親戚どもにだ。お前からも話をしろ。お前まで私に責任があると思っているわけではあるまい。私は何も知らなかったのだ」
「ええ。お父様は何もご存じなかったのでしょう」
ギルバートの顔がわずかに緩んだ。
「ならば――」
「ご自分の家のお金がどこへ流れているのかも、使用人がどのように帳簿を扱っているのかも、お母様が何にお金をお使いになっていたのかも。何もご存じなかった」
ギルバートの表情が止まった。
「それをわたくしが皆様にお伝えすればよろしいのですか?」
「ヴァレリア」
「すでに皆様、ご存じかと存じますけれど」
声を荒らげることもなく、ヴァレリアはそう答えた。
ギルバートはしばらく娘を睨んでいたが、やがて拳を机へ叩きつけた。
「もういい! お前などに頼んだ私が馬鹿だった!」
その声を聞いても、ヴァレリアは眉一つ動かさなかった。
「そもそも、なぜお前がこの家を継ぐ話になっている。ロズワールにはアレスがいる!」
久しくその名を口にすることさえなかった前妻との間に生まれた息子を叫んだ。かつてギルバートと激しく衝突し、家を離れて騎士となった息子。以来、国境沿いの辺境へ赴任したまま、ほとんど顔を合わせることもなくなった本来の後継者。
「そうだ。アレスを呼び戻せばいい」
先ほどまでの怒りが嘘のように、ギルバートの顔に希望が戻っていく。
「あいつが戻れば済む話だ。もともとロズワールを継ぐのはアレスだったのだからな。すぐに使いを出せ。いや、騎士団を通した方が早い。アレスを呼び戻すんだ」
ヴァレリアは何も言わず、ただ父の顔を静かに見つめていた。
騎士団からの返事が届くまで、それほどかからなかった。
「アレス・ロズワール様は、二年前に任務中に亡くなられております」
報告を受けたギルバートは、しばらく何も言わなかった。
「……誰が?」
「アレス様です」
「そんなはずはない。私は何も聞いていない」
「死亡後、騎士団からロズワール伯爵家へ正式な通知が送られております」
「届いていない!」
ギルバートは椅子から立ち上がった。
「息子が死んだという書状を受け取って、私が忘れるとでも思っているのか。そんなものは届いていない!」
二年前の手紙について、当時から勤めていた使用人たちにも確認が行われた。しかし日々大量に届く書状のうち、二年前の一通を覚えている者などほとんどいない。ただ、屋敷宛てに届いた手紙は取りまとめ、すべて政務室へ届けていたという点だけは証言が一致した。
調査官たちも加わって政務室を調べ直すことになった。
机や書棚、保管箱の中まで改められ、やがてチェストを動かした使用人が声を上げた。その下から、古い封書が一通見つかった。
それには騎士団の印章があり、その傍らには通常の書状には使われない黒い印が押されていた。戦死者の家族へ送られる、死亡通知の書状だった。
ギルバートは震える手でそれを受け取った。封蝋は劣化して割れていた。中に収められていたのは、アレス・ロズワールが任務中に死亡したことを知らせる正式な通知だった。
「知らない……私は、こんなものは知らん」
その言葉を聞きながら、ヴァレリアは二年前のことを思い出していた。
二年前、まだ十四歳だったヴァレリアは、廊下を歩いていた。ちょうどそこへ、届いたばかりのたくさんの書状を抱えた使用人が政務室へ向かってくる。途中で別の使用人に呼び止められた彼は、すぐに戻るつもりだったのだろう。手紙の束を近くの台へ置き、その場を離れた。
ヴァレリアは何気なく、その束へ目を向けた。一通だけ、見慣れない黒い印があった。騎士団の印章。そして、その隣に押された黒い印。ヴァレリアは、それが何を意味するのか知っていた。騎士が任務中に死亡した際、その家族へ送られる戦死通知の書状である。
ロズワール伯爵家の中で、騎士団に所属する家族は一人しかいない。ヴァレリアは周囲を確認すると、手紙の束からその一通だけを抜き取った。
自室へ持ち帰って封蝋を丁寧に開く。そこには、アレス・ロズワールが任務中に死亡したことが記されていた。
その事実を理解したヴァレリアは、しばらく書状を見つめていた。悲しみはなかった。長く離れて暮らしていた義理の兄との間に、今さら喪失を感じるほどの関係もない。
それよりも別のことを考えていた。父は老い、兄は死んだ。そして自分は、あと二年で成人する。
愛情もなく、期待するものもなく、ただ与えられた金を使い、母から疎まれ、父から存在を忘れられたように暮らしていたヴァレリアの日常に、そのとき初めて一筋の光が射した。
ヴァレリアは剥がした封蝋を元の位置へ戻し、裏側に一滴だけ蝋を垂らして封を留め直した。未開封に見えることを確かめると、そのまま書状を持って政務室へ入った。誰もいないことを確かめると、チェストの下へ滑り込ませる。そして二年後、その書状はもう一度封を切られた。
「二年前……」
ギルバートは椅子へ腰を落としたまま、書状を握っていた。
騎士団からの報告によると、アレスの死後、現地で必要な弔いはすでに行われていたことも分かった。家族からの返答はなく、葬儀にも墓にもロズワール家の者は誰一人として姿を見せなかった。
父親とは以前から折り合いが悪かったことも知られていた。そのため騎士団では、息子が死んでも葬儀にも来ず、墓を訪ねることすらしない冷酷な父親なのだと思われていたという。
実際は、ギルバートは二年間、息子が死んだことにすら気づかなかった。それどころか、アレスが生きていると思っていた間でさえ、自分から連絡を取ろうなどとは毛頭考えていなかった。
「私は……知らなかったんだ」
誰に言うでもなく、ギルバートが呟いた。
「知らなかった。アレスが死んだなど……私は、本当に……」
握っていた書状が床へ落ちた。
「旦那様?」
レジーナが声を上げるより早く、ギルバートの身体が傾いた。椅子から崩れ落ちるように床へ倒れ、周囲の使用人たちが慌てて駆け寄る。
「旦那様!」
「医師を! 早く!」
騒ぎの中、ヴァレリアだけは動かなかった。二年間、一度として連絡を取ろうともしなかった息子が、実は死んでいた。それだけのことで、まるで自分が何かを奪われた被害者であるかのように床に倒れた父と、その傍らに落ちた二年前の書状を、ただ静かに見つめていた。
アレスの死が明らかになってから、ロズワール伯爵家の処分は急速に進んだ。
倒れたギルバートが当主の座を退くことは、もはや覆らなかった。そしてアレスがすでに死亡している以上、ロズワール伯爵家を存続させるには、残された後継者であるヴァレリアが家を継ぐほかなかった。
それが決定的になってから、レジーナの態度は変わった。
「ヴァレリア」
呼び止められたヴァレリアは足を止めた。振り返ると、レジーナが廊下の向こうから近づいてくる。これまでなら、自分から娘の名前を呼び、追いかけることなどなかった女だった。
「少し、話をしましょう」
「何をお話しになるのですか」
「これからのことよ」
レジーナは声を落とし、周囲を気にするように視線を動かした。
「お父様はもう駄目でしょう。あの方が当主に戻ることはできない。それは私にも分かっているわ。でも、あなたは違うでしょう。あなたはこの家に残るのよ」
「そうなるようですね」
「だったら、私まで出ていく必要はないでしょう?」
ヴァレリアは何も答えなかった。
レジーナはそれを拒絶とは取らなかったらしい。一歩近づくと、娘の腕へ手を伸ばした。ヴァレリアは触れられる前に半歩だけ下がった。
「私はあなたの母親なのよ」
「存じております」
「あなたを産んだのは私でしょう。親子なのだから、こんなときくらい助け合ってもいいじゃない。私まで見捨てるつもりなの?」
ヴァレリアは、しばらく母の顔を見ていた。
幼い頃から何度も見てきた顔だった。けれど、その顔が自分へ向けられることはほとんどなかった。ドレスを選ぶのも、髪を整えるのも、体調を崩したときに付き添うのも使用人だった。レジーナが娘に関心を示すのは、ヴァレリアの容姿が人目を引いたときか、何か気に入らないことをしたときくらいだった。それでも今になれば、親子らしい。
「お母様」
ヴァレリアは静かに呼んだ。
「私がお母様のお腹にいたせいで、お父様の寵愛を失ったのでしょう?」
レジーナの表情が止まった。
「何を……」
「何度も聞きましたもの。私を産んでから、お父様が変わった。邪魔だった、私さえいなければ、と」
「それは、昔のことでしょう。私だって若かったのよ。あなたを本当に憎んでいたわけでは――」
「父からの寵愛を失った穴を埋めるように、男娼遊びに耽る方を、母というのでしょうか」
レジーナは言葉を失った。唇を開いたまま、何かを言い返そうとするようにヴァレリアを見つめる。しかし、声は出なかった。
「お母様がお好きになさったように、これからもお好きになさればよろしいでしょう。私とは関係のないところで」
「ヴァレリア」
「そういえば、わたくしもちょうど思っていたところなのですよ。お母様が邪魔だな、と」
レジーナの顔が強張った。
「最後になって、大事な娘と同じお気持ちになれてよかったですね、お母様」
ヴァレリアはそれだけ告げると、母に背を向けた。
「待ちなさい!」
背後から声が飛んだが、ヴァレリアは振り返らなかった。
母を憎んでいるのかと問われれば、今となってはそれすらよく分からなかった。レジーナはヴァレリアを疎み、勝手にふしだらな娘だと決めつけ、自分が追い詰められれば娘まで道連れにしようとした。そして最後には、自分が一度も果たしてこなかった母親という立場だけを持ち出した。
これまで我慢してきた分、父にも母にも随分と言い返してやった。少しくらい胸がすくものだと思っていたのに、ヴァレリアの心には何も残らなかった。こんなにも虚しいものだとは思わなかった。
結局、自分にとって父も母も、その程度の人間だったのだ。そんな人たちの言葉に、いまさら何の価値があるのだろう。
ほどなくして、ギルバートとレジーナは、追い出されるようにロズワール伯爵邸を去った。
当主は交代されたが、屋敷そのものは変わらない。使用人は働き、領地からは報告が届き、商会との取引も続いていく。当主が誰であろうと、ロズワール伯爵家というものは存在し続ける。
ヴァレリアという十六歳の若い女当主に不安を抱く者がいなかったわけではない。しかし、ヴァレリアはすでに成人しており、他に正統な後継者はいない。ヴァレリア自身も経験の不足は理解しており、領地経営や家政を補佐する者を新たに雇い入れ、その助言を受けながら伯爵家の運営を始めていた。
世間から見れば、ひどく気の毒な話だった。
父親は伯爵家の金を不正に扱い、母親はその金を使いながら秘密の集まりへ出入りして男娼と遊んでいた。婚約者となった男には以前から平民の女がおり、ヴァレリアを形式だけの妻として迎えようとしていた。そのうえ、本来の後継者である兄まで二年前に死亡していたのだ。
その中で、ヴァレリアだけは何一つ不品行を働いていなかった。男遊びを疑われ、妖艶な容姿から男慣れしているとも噂されたが、調べてもそのような事実は一つもない。気が強く、時に容赦のない物言いをすることは噂の通りだったが、あのような両親のもとで自分を守るために身につけたものだと考えれば、同情する者の方が多い。
結局、世間から見たヴァレリアは、ただ周囲の人間に恵まれなかった不運な令嬢であった。
ロズワール伯爵家をめぐる一連の調査が終わったあとも、カリル・ディカマンは何度か屋敷を訪れていた。
調査官としての仕事は、すでに終わっている。ギルバートとレジーナへの処分は決まり、ヴァレリアの関与を疑うような証拠も最後まで出なかった。十六歳で突然伯爵家を背負うことになった彼女を、カリルはただ気にかけていた。
「お変わりありませんか」
「ええ。大丈夫ですわ」
訪ねるたび、ヴァレリアはそう答えた。
若い女当主を不安視する者がいることも、両親の不祥事がいまだ社交界の話題になっていることも知っているはずだった。それでも彼女はいつも朗らかに笑い、必要な補佐役を雇い、覚えるべきことが多くて大変だと話す程度で、弱音らしい弱音を吐かなかった。
だから、その日のヴァレリアを見たとき、カリルはすぐにいつもと違うことに気づいた。
「……何かありましたか」
「別に」
「そうですか」
いつもならそこで「大丈夫です」と続くはずだった。
ヴァレリアは応接室の長椅子に腰掛けたまま、ひどく不機嫌そうに窓の外を眺めている。カリルが向かいへ座っても笑顔を作ろうともせず、しばらく黙っていた。
「ディカマン様」
「はい」
「わたくし、そんなに可哀想に見えます?」
「え?」
「皆さんおっしゃるのですよ。お気の毒に、大変でしたね、お若いのに、と」
ヴァレリアの唇がわずかに歪んだ。
「今さら何を言っているのでしょうね。父は昔からああいう人でした。娘が何をしていようが、必要な金さえ出しておけば父親の役目を果たしていると思っていた。息子とは喧嘩別れしたきり連絡すら取らず、その息子が二年も前に死んでいたことすら知らなかった。それで死んでいたと知った途端に倒れるのですから、随分と都合のいい父親ですこと」
カリルは何も言わなかった。
「母もそう。夫に愛されなくなったのは、わたくしを産んだからだそうです。知らないわよ、そんなもの。勝手に子を作って、勝手に産んで、勝手に夫婦仲が悪くなって、それを生まれた子供のせいにするなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがあるでしょう」
「ヴァレリア様」
「しかも自分は男娼遊びに耽っておきながら、わたくしが外へ出れば男遊び。少し胸が大きければふしだら。男に声をかけられれば色目を使った。何なのですか、それ」
言葉を挟もうとしたカリルを、ヴァレリアはちらりと見ただけで止めた。
「周りの男たちもですわ。十六になったばかりの娘を捕まえて、少し見た目が気に入ったからと寄ってきて。妻がいる者まで平然と口説く。断れば性格が悪い。言い返せば生意気。黙って笑っていれば可愛らしいのでしょうけれど、どうしてわたくしが、あんな連中を喜ばせるために笑わなくてはいけないのです?」
いつものヴァレリアなら、もっと柔らかく話しただろう。カリルの知る彼女は、両親の不正に巻き込まれても取り乱さず、婚約者の裏切りが明らかになっても淡々としていて、若くして伯爵家を背負うことになっても、自分は大丈夫だと笑っていた。
今、目の前にいる女はそんな姿とはかけ離れていた。
「マルク様に至っては傑作でしたわ。平民の女を囲っておきながら、貴族としての体裁のためには妻が必要だから、わたくしと結婚する。愛人は手放さない。でも若い妻も自分のものになる。よくもまあ、あれだけ自分に都合のいいことばかり考えられたものです」
ヴァレリアは吐き捨てるように言うと、頬杖をついた。
「皆、わたくしを馬鹿だと思っていたのでしょうね。娘だから。女だから。十六だから。自分たちの都合でどうにでもできると思っていた。父も、母も、マルク様も、あの夜会で寄ってきた男たちも。自分の方が賢くて、自分の方が上で、わたくしは何も知らない小娘だから、適当に扱っても構わないと」
そこまで一気に吐き出すと、ヴァレリアはふっと黙った。
カリルは、向かいに座る彼女を見つめた。泣き出す気配はない。怒りに震えているわけでもなかった。むしろ言葉にすればするほど、先ほどまでの勢いが失われていく。
「……随分、溜め込んでいらしたのですね」
「そうなのでしょうね」
ヴァレリアは自分の指先を眺めた。
「でも、つまらないですわ」
「つまらない?」
「もっと気分がいいものだと思っていました。今まで言えなかったことを全部言って、あの人たちがどれほど嫌いだったか誰かに聞いてもらえば、少しくらいすっきりするのかと」
何も変わらなかった。
父にも母にも、最後には言いたいことを言った。今こうして、さらに胸の内まで他人に吐き出してみた。それでも残ったものは達成感でも解放感でもなく、ひどく平坦な虚しさだけだった。
それも当然なのかもしれないと、ヴァレリアは思う。終わってしまったのだから。
アレスの死亡通知を見つけたあの日から、ヴァレリアの日常には目的があった。
どうすれば誰にも気づかれず金を動かせるか。どこまで父が帳簿を見ていないのか。母が何に金を使っているのか。どの商会なら利用できるのか。どの記録を残し、どの記録を別のものと混ぜれば、最後に何が出来上がるのか。一つずつ確かめ、考え続ける日々。
馬鹿にされればされるほど都合がよかった。誰も自分を見ていないことさえ利用できた。自分を十六の小娘と侮る人間を眺めながら、その人間が知らないところで動く時間は、退屈ではなかった。
その事実を、ヴァレリア自身よく分かっていた。
父も母もいなくなり、煩わしい婚約も消えた。伯爵家は手に入り、金もある。自分を縛る者もいない。望んだものをすべて手にした途端、つまらなくなった。
「……わたくし、幸せに向いていないのかもしれませんわね」
カリルが眉を寄せた。
「なぜ、そのようなことを」
ヴァレリアは困ったように笑った。
ようやくすべてが終わったというのに、この少女は安堵することができずにいる。
不幸であることがあまりにも長く当たり前だったために、それがなくなった今をどう生きればいいのか分からず、不安になっているのではないか。カリルには、そう思えた。
「ヴァレリア様」
「はい?」
「平穏に慣れていないだけではありませんか」
ヴァレリアは目を瞬いた。
「これまでがあまりにも騒がしかったのです。何も起きないことを、つまらないと感じているだけかもしれません」
「まあ」
ヴァレリアはしばらくカリルを見つめたあと、小さく笑った。
「ディカマン様は、本当に善良な方ですのね」
「それは褒めていらっしゃいますか?」
「もちろん」
カリルには、それ以上のことは分からなかった。しかし、彼女が家族をどれほど激しく嫌っていたのかは、今ので十分に分かった。
そして同時に、この少女は自分が思っていたよりずっと苛烈な人間なのだとも知った。
傷つけられたから泣くのではない。相手を嫌い、軽蔑し、必要ならば容赦なく切り捨てる。
その鋭さを、これまでヴァレリアが自分に向けなかっただけなのだ。
危うい、ともカリルは思った。放っておいていいのだろうかとも。
「もし、またこうして話したくなることがあれば、聞くくらいならできます」
その言葉を聞いたヴァレリアは、何度か瞬きをした。
それから、じっとカリルを見つめた。
「ディカマン様」
「はい」
「婚約者はいらっしゃいます?」
「……いませんが」
ヴァレリアの表情が変わった。
先ほどまでの苛立ちも、すべてを吐き出したあとの虚しさも消えている。
「では、わたくしと婚約してくださいません?」
あまりにも突然の申し出に、カリルは目を見開いた。
「……なぜ私が?」
カリルが聞き返すと、ヴァレリアは少し考えてから答えた。
「今まで出会った中で、一番誠実な方でしたから」
「それだけで?」
「それだけのことではございません。その誠実さに、わたくしはこれまで生きてきて、一度も出会ったことがなかったのです。誠実であるということは、とても素晴らしいことですわ」
ヴァレリアは笑った。今度は本当に楽しそうだった。
誠実な人間。ヴァレリアがこれまで最も縁遠かった種類の人間だった。父とも違う。母とも違う。マルクとも、夜会で自分へ近づいてきた男たちとも違う。こちらが何を差し出せば何を返してくるのか、簡単には想像できない。
だからこそ、興味が湧いた。この男と婚約したら、自分はどうなるのだろう。
退屈な幸福に耐えられず、自分から壊してしまうのかもしれない。誠実な男を振り回し、最後には愛想を尽かされるのかもしれない。それならそれで、きっと今より面白い。
あるいは。自分がこれまで一度も手に入れられなかったものを、この男なら与えるのかもしれない。
普通に大切にされ、相手を疑うことなく誰かと暮らす。相手を陥れる方法など考える必要もなく、明日の予定を話して、そのまま眠りにつく。そんな穏やかな生活を自分が楽しめるのか、ヴァレリアには分からなかった。
「わたくしも今、本当の心をお見せしました」
ヴァレリアはまっすぐにカリルを見る。
「きっと誠実に対応してくださるかと」
カリルはすぐに答えなかった。
突然求婚された困惑もあった。それ以上に、今しがた初めて見たヴァレリアの一面が頭から離れなかった。
対するヴァレリアは、その沈黙さえ楽しむように返事を待っていた。
久しぶりだった。この先に何があるのか、自分にも分からない。それが少し楽しかった。
誠実な男へ手を伸ばしたことが、生粋の悪女であるヴァレリアを破滅させるのか。
それとも、生まれてから一度も手に入れられなかった、ごく普通の幸せへつながるのか。
ヴァレリア自身にも、まだ分からない。
ヴァレリア・ロズワールは、ふしだらな令嬢ではない。しかし、生粋の悪女ではあった。




