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『釣り糸を垂らす令嬢 〜ブロッコリーで釣り上げた運命の人はイケメン半魚人でした〜』

作者: とんこつ
掲載日:2026/04/25



「お嬢様!またそのようなところで、はしたない!」


 悲鳴のような侍女の声が、静かな湖畔に響き渡る。

 私は水辺に座り振り返りもせず、唇に人差し指を当ててみせた。


「シーッ。静かにしてちょうだい。魚が逃げてしまうわ」

「逃げてもよろしいのです!そもそも令嬢たるもの、そのような泥臭い遊びなど……っ!」


 きつく結い上げられた金糸の髪に、フリルがたっぷりとあしらわれたシルクのドレス。そしてその装いから完璧に浮いている泥だらけの長靴。

 水面に映る私の姿は、どこからどう見ても可憐で深窓の令嬢である。足元以外。

 しかし現在、私の白魚のような手には、一本の釣竿がしっかりと握られていた。

 この釣竿、ただの釣竿ではない。

 『釣りなど下品な遊び、令嬢にはふさわしくありません!』と両親にすべての道具を取り上げられてしまったため、「無いなら作ればいいじゃない」の精神で一念発起。

 庭師から教えてもらった良くしなる木を厳選し、お忍びで通った釣竿職人から技を覚え、研磨技術と謎の執念を駆使して自作した、超高感度プロ仕様の一品である。

微かなアタリも逃さない、私渾身の自信作だ。


「ああ、お嬢様……。その美しいお顔立ちに、その物々しい自作の釣竿。そして何より……」


 侍女が絶望したように指差した先。

 私の足元には、本日の『釣りエサ』がザルに入れられて鎮座している。

 細かく角切りにされた『ブロッコリー』と『にんじん』である。


「なぜそのお野菜で魚が釣れるのか、私にはもう一生理解できません……」

「ふふっ、お魚だって健康に気を遣う時代よ。それに、私が嫌いなものを彼らが食べてくれるんだから、お互いウィンウィンじゃない」


 スッ、と水面のウキがわずかに沈む。

 その数ミリの変化を、私の研ぎ澄まされた反射神経が捉えた。


「そいっ!」


 手首のスナップを利かせ、勢いよく竿を煽る。

 バシャァッ! という水音とともに、見事な弧を描いて宙を舞ったのは、丸々と太った立派な白身魚だった。その口には、しっかりとブロッコリーが咥えられている。


「ほら、釣れた。これは後で料理長に渡しておくから、いつも通りみんなで食べてね。このお魚はムニエルがいいと思うわ」

「……お嬢様は、本当に規格外でいらっしゃいますね」


 ついにツッコミを放棄してため息をつく侍女をよそに、私は手際よく魚をビクに入れ、再び針ににんじんを突き刺す。

 私が毎日毎日、こうして海へと繋がるこの湖に釣り糸を垂らしているのには理由がある。

 もちろん、純粋に趣味の釣りを楽しむためでもあるし、商人さんたちの胃袋を支えるためでもある。


 けれど、一番の目的は別だ。


 この水底から、いつかやってくるはずの『大物』を釣り上げるためだ。


「早く来ないと、お金だけが取り柄の変な男に買われちゃうんだけどなぁ……」


 ポツリと呟いた言葉は、チャポ、という静かな水音とともに、波紋の広がる水面へと吸い込まれていった。

 


   * * *



「姉様。またブロッコリーで生態系を破壊していたの?」


 屋敷の裏口で長靴の泥を落としていると、呆れたような声が降ってきた。

 振り返ると、少し気の弱そうな、しかし知性を感じさせる瞳を持った私の弟が立っていた。我が家の次期当主にして、一にお金二にお金、人の心は金で買える!と、狂った拝金主義の両親から生まれたとは思えない、我が家の良心そして私の唯一の味方である。


「失礼ね。今日はにんじんも使ったわよ。料理長も今日の使用人達のメニューが一品増えるって喜んでいたわ。私たちも後でこっそり食べにいきましょうね。きっと美味しいわよ」

「問題はそこじゃないんだけどなぁ……」


 弟は大きなため息をつきつつ、私の手から重いビクと釣竿を自然な動作で受け取ってくれた。彼もまた、幼い頃から私の釣りに付き合わされてきた「共犯者」である。


「……それで? 今日はどんな御用かしら。あなたがわざわざ裏口まで出迎えるなんて」

「ああ、うん。実はね、また『彼』が来てるんだ。父上と母上は相変わらず応接室で結納金の皮算用をしてて、僕に姉様を呼んでこいって」


 その言葉に、私は露骨に顔をしかめた。

『彼』——私の勝手に決められた婚約者であり、権力を笠に着てカジノ荒らしや踏み倒しなどやりたい放題の侯爵家子息だ。


「また来たの? 『もっと金持ちを連れてくるから一年待て』って条件を飲ませたはずなのに、あの方暇すぎない?」

「姉様に会いたくて仕方ないんじゃない? 態度は最悪だけどね」


 苦笑する弟と共に応接室へ向かうと、そこにはふんぞり返って高そうなソファに座る侯爵家子息の姿があった。

 派手な衣装に身を包み、いかにも「俺様」という顔をしているが、私が入室した瞬間、彼の方からわずかに「ビクッ」と動いたのを私は見逃さなかった。


「遅いぞ! 俺の妻となる女が、泥にまみれてウロウロするなど言語道断だ!」


 子息は立ち上がり、傲慢な態度で私を見下ろしてきた。

 しかし、その視線は私の泥だらけの長靴ではなく、なぜか私の顔をじっと見つめている。よく見ると、耳の先がほんのり赤い。


「まだあなたの妻になった覚えはありませんよ? 猶予期間の一年が過ぎるまでは、大人しくお待ちくださいと申し上げたはずです。私はお金持ちの殿方を必ず捕まえる予定ですので」

「フン!訳の分からんことを! 俺以上に金持ちな男が居るはずないだろう。お前はもう俺のものになると決まっているんだよ。大人しく俺の横で微笑んでいればいい!」


 ワーワーと騒ぎ立てる子息を完全にスルーして、私は懐から取り出した布で愛用の自作釣竿をキュッキュッと磨き始めた。

 手入れは大事である。いざ『大物』がかかった時に、竿が折れてしまっては困るのだから。


「お、おい! 俺を無視するな! こっちを見ろ!」

「はぁ……今日もお元気そうで何よりですわね。侯爵家に幸あらんことを」

「っ……!?」


 どう考えても噛み合っていない、適当な返事なのに、子息はなぜか顔を真っ赤にして大人しくなってしまった。

 その後ろで、弟が「相変わらずチョロい……そして姉様は相変わらず容赦ない……」と頭を抱えている。


「両親は私と貴方様のご実家である侯爵家との縁を結びたいと願っているようですが、私は私の生きたいようにしたいのです。最後まで足掻いてみせますわ。さあ、釣り道具の手入れがあるので本日はお引き取りを」

「なっ……! お、覚えていろ! 期限が来たら、有無を言わさずお前を抱え上げてでも式場に連れて行ってやるからな!」


 捨て台詞を吐いて、子息は逃げるように応接室を出て行った。

 バタン、と勢いよく扉が閉まった後、私はピカピカになった愛竿を満足げに眺めた。


「さて……タイムリミットまで時間もなくなってきたわね……」


 期限まで、あと少し。

 私は、幼い日に出会った、『運命の人』を思い出し、不敵な笑みを浮かべたのだった。



  * * *



 あれは今から数年前。私がまだ十歳で、弟が八歳だった頃のことだ。

 両親の目を盗んで試作第一号の自作釣竿を持ち出し、弟を見張りに立たせて湖で釣りをしていた時のことである。


『キターーーー! 大きいわ!』

『ね、姉様、声が大きい! 見つかっちゃうよ!』


 その日のエサは、夕食に出た特大の茹でブロッコリーをこっそりハンカチに包んで持ってきたものだった。

 ウキが沈むと同時に、手首から腕、そして肩へと強烈な重みが伝わってくる。ただの魚ではない。これは、間違いなく大物だ。


『逃がすものですか……! そぉいっ!』


 渾身の力で竿を天に向かって振り抜く。

 ザバァァァァッ!! という轟音とともに、水柱が上がった。

 きらきらと水飛沫が太陽の光を反射する中、水面から飛び出してきた『それ』は、見事な放物線を描いて湖畔の芝生へとドサリと落ちた。


『や、やったぁ! 釣れた……えっ?』

『ひっ……!!』


 ビチビチと芝生の上で跳ねる獲物を見て、弟が短い悲鳴を上げて腰を抜かした。

 無理もない。釣り上げられたそれは、どう見ても普通の魚ではなかったのだ。

 頭から腰にかけては、立派な鱗に覆われた魚そのもの。しかし、腰から下からは、人間の少年のような二本の足が生え、パタパタと虚空を蹴っている。

 いわゆる、半魚人……それも『上半身が魚で下半身が人間』という、どう控えめに見てもモンスター寄りのビジュアルである。

 後に本人?いや本魚に何色の鱗なのかと聞いたところ、ターコイズブルーという王族が持つ色らしかった。足は日焼けしていない青白い色をしていた。


『ま、マジか姉様……。ブ、ブロッコリーでバケモノが釣れたよ……!』

『あら……』


 ガタガタと震える弟の横で、私はその水生生物をまじまじと見つめ、ほう、と熱い吐息を漏らした。


『あらあらあら!なんて可愛らしいのっ!!』

『正気ですか姉様!?』


 ぱっちりとした(魚類の)丸い瞳は虹色にキラキラと輝き、ターコイズブルーの鱗やヒレは美しく、そしてじたばたとしている(人間らしき)足。とても可愛らしいその動き。

 私の胸に、ズキュンと恋の矢が突き刺さった瞬間だった。


『あ、あの……釣り上げていただき、ありがとうございます』


 キュンキュンしている私と、ドン引きしている弟。

 そんな私たちの前で、半魚人は突然、水気の多い声で流暢な人間の言葉を喋り出した。声は少年のもののようだった。


『ヒィッ! しゃ、喋ったぁ!?』


 ズザザザザッと弟は器用に腰を抜かしたまま後ずさったが、対照的に私は半魚人に近寄った。


『初めまして! 私はこの先の屋敷の娘です。あなたは?』

『ご丁寧にどうも。僕は海底王国の王子です。少し潮の流れに迷ってしまって、帰れそうな潮の流れを探していたんですけど、そうこうしているうちにお腹が空いてしまって……偶然目についたこの美味しそうな緑色のフサフサに食いついてしまい……いててっ』


 礼儀正しくお辞儀をしようとした半魚人の自称王子は、顔をしかめて自らの肩?(エラの下あたり)を押さえた。よく見ると、岩にぶつかったのか、美しい鱗の一部が剥がれて血が滲んでいる。


『まあ、お怪我を!大変、手当てしなくちゃ! ほら、あなたも手伝って!』

『えええ!?僕もさわるの!?』


 私はハンカチを水で濡らし、嫌がる弟を巻き込んで甲斐甲斐しく彼の看病をした。

 最初は怯えていた弟だったが、手当ての間、王子が「海底には光るクラゲのイルミネーションがあるんですよ」「最近アコヤ貝が異常繁殖して、海底のそこら中にトラップのように落ちている」「今の時期は珊瑚に魚達が卵を産みつけて、それがキラキラ光って観光スポットになっています」「ワカメ畑は恋人達の隠れ聖地」と楽しくて珍しい海の話をしてくれたことで、次第に目を輝かせるようになった。

 私たちは半魚人に、傷が癒えるまでこの湖に滞在してくれと言うと、彼は申し訳なさそうにしていたが、受け入れてくれた。


『姉様……。この人(魚?)、すごくいい人だね。魚柄うおがらがいいっていうか』

『でしょう?なんて素敵な殿方なのかしら』


 あっという間に打ち解けた私たちは、彼が少し回復するまでの数日間一生懸命手当てをした。

 どうやら野菜が好きらしく、食事の付け合わせの野菜を持ち出しては差し入れると、とても喜んで食べていた。

 聞くと何でも食べるとのことだったが、地上の野菜を食べたのは初めてらしく、特にブロッコリーとにんじんが好みらしい。

 私は残して怒られないからラッキーとばかりにいそいそと持ち出していた。

 治療の間、三人?で並んで座ってたくさんのお喋りをした。普通ならあり得ない状況だが、私と弟はどこか少しズレた、似たもの姉弟なのだ。

 彼は地上でも問題なく生きられるようで、湖に浮かんだり、器用に陸に上がっては、傷の治りが良くなると言う理由で、日当たりの良い草むらで昼寝をしていた。


 やがて、傷も癒えたとある日。


 王子は名残惜しそうに立ち上がり(人間の足で)、深々と私たちに向かって頭を下げた。

 立ってみるとよく分かる、魚と人間の足とのグラデーション部分がとても美しかった。一方弟は不気味だと少し引いていた。


『手当てをしていただき、本当にありがとうございました。すっかり治った僕はもう、海へ帰らなければなりません』

『そうなのね……。寂しくなるわ』

『あの……っ!』


 落ち込む私の両手を、王子がヒレでそっと包み込んだ。

 見上げると、彼の真ん丸な魚の瞳が、これ以上ないほど真剣な光を帯びて私を見つめていた。


『命を救っていただいた恩……いえ、貴女のその美しさと優しさに、心から惹かれました。今はまだ半魚前ですが、大きくなったら、必ず貴女を迎えに来ます。その時……僕のお嫁さんになってくれませんか?』

『っ……!』


 なんて情熱的なプロポーズだろうか。

 私は頬を染め、迷うことなく力強く頷いた。


『喜んで。待っているわ。……でもね、人間の世界では、お嫁さんをもらう時に必要なものがあるのよ』

『必要なもの、ですか?』

『ええ。『結納』といって、お嫁さんに見合うだけの『貢物』を持ってくるのがルールなの。だから、立派な王子様になって、たくさん貢物を持って迎えに来てね!』

『はい!必ず、貴方をお嫁さんにするためにふさわしいものをたくさん持って迎えに来ます!』



   * * *



「……という、運命の約束を交わしているのよ。こんなにロマンチックな純愛、他にないでしょう?」

「いい魚柄うおがらの人?だったけど……あんな魚か人かわからない中途半端な生き物相手に、どの辺が純愛でロマンチックなのか、僕には一生理解できないと思う……」


 自室のソファで当時を振り返りながらうっとりと頬杖をつく私に、紅茶を淹れてくれた弟が心底疲れたような顔でツッコミを入れた。


「それに、あれからもう何年も経ってる。あの時の王子が本当に迎えに来る保証なんて……」

「来るわ。絶対に」


 私は愛用の釣竿を撫でながら、窓の外に広がる湖へと思いを馳せる。


「だって、彼は『私の運命のお魚さん』だもの。その時が来るまで、私は何度でもあそこに釣り糸を垂らすわ」


 私は彼の虹色に光る宝石のような瞳を思い出した。

 あの瞳をもう一度見たい。


   * * *


「……おい! なんだこの不味い酒は! 侯爵家の跡取りである俺に、こんな泥水みたいなもんを飲ませる気か!」


 ガシャァァンッ!!


 王都の裏通りにある酒場に、グラスの割れる派手な音が響き渡った。


「ひぃっ! も、申し訳ございません、若様……っ!」


 慌てて床を拭きにきた若い店員を、俺は「邪魔だ!」と容赦なく蹴り飛ばす。

 無様に転がる店員を見て鼻で笑い、周囲の客たちを睨みつけると、誰もが恐れをなしてサッと目を逸らした。当然だ。侯爵家の跡取りである俺に逆らえる者など、この薄汚い酒場にいるはずがない。


「チッ、どいつもこいつも貧乏臭くてイライラするぜ……」


 ドカッと粗末な椅子に座り直し、俺は乱暴に足を組んだ。

 頭に浮かぶのは、昼間会いに行ったあの生意気な令嬢のことだ。

 そもそも、今回の婚約はあの令嬢の『拝金主義の親共』から持ちかけられた話だった。

 あの両親は自分の娘はとても美しいのでそばにおいて損はないと散々売り込んで来ていた。    

 美しい娘など貴族でなくとも手に入れてきた俺は全く期待していなかったのだが……いざ蓋を開けてみれば、とんだ上玉だった。

 きめ細かい白磁のような肌に、美しい金糸の髪。

 あの親から生まれたとは思えないほどの可憐な容姿を見た瞬間、俺の心は完全に奪われてしまったのだ。


「ふふっ……オレは本当についてるぜ。あんな極上の女が、結納金ひとつで手に入るんだからな」


 俺はニヤニヤと笑いながら、自分の前髪をかき上げた。


「それにしても……ああ、たまらないな。あの謎めいた視線」


 令嬢らしからぬ泥だらけの長靴を履き、謎の棒を大事そうに磨きながら、俺を軽くいなし水面ばかりを見つめていた横顔。


「俺ほどの完璧な男を前にして、あんな態度を取るなんて。フフ……なんてミステリアスな女なんだ。強がって俺を避けているようだが、本当はああやって俺の気を引きたいのだろう? まったく、可愛い小鳥ちゃんだ。そんな計算高いところも、たまらなく俺を惹きつけてしまう……くくっ、俺も罪な男だぜ」


 一人で勝手な解釈をこじらせ、俺は自分の口元を覆って陶酔した。

 他人が聞いたら確実に気持ちの悪いナルシストポエマー認定されるが、それを言ってくれる友人知人など彼にはいない。

 彼女が俺に冷たいのは、きっと照れ隠しに違いない。男を誘惑する術を知らないのだろう。  

 そんな彼女が考えた愛情表現テストなのだ。そう思うと、あの生意気な態度すら愛おしく思えてくる。


「タイムリミットまで、あと少しだ。あのミステリアスな女に純白のウェディングドレスを着せて、力ずくで俺の腕の中に閉じ込めてやる。泣いて許しを乞うまで、俺の部屋でたっぷり可愛がってやるからな……ハハハハッ!」


 気分の良くなった俺はバサリとマントを羽織り、立ち上がった。


「おい、店主!こんな不味い酒の代金を払う価値はねぇ!今日の分は侯爵家につけておけ!」


 当然、払う気など毛頭ない。

 這いつくばる店員と、引き攣った顔で頭を下げる店主を尻目に、俺は酒代を踏み倒して堂々と店を後にした。

 ちなみに彼が去った後、毎回店主や従業員が思い切り玄関に塩をぶちまけていた。

 東洋に伝わる悪縁を断ち切るおまじないのようなものにでも縋りたいくらいに街中で嫌われているのを、違う意味で前向きな彼は知る由もない。

 満天の星空を眺め、夜風に吹かれながら、俺は愛しのミステリアスな婚約者の顔を思い浮かべる。

 ああ、あの謎めいた瞳、強気な表情を、早く俺だけのものにしたい——。



   * * *



 太陽が真上に昇り、湖面がキラキラと光を反射している。

 今日、私は純白のウェディングドレスに身を包んでいた。最高級のシルクと、ふんだんにあしらわれたレース。水辺の景色には到底似つかわしくない装いだが、その手にはしっかりと磨き上げられた自作の釣竿が握り締められている。

 そして足元にはいつものザル。本日のエサである『大盛りの角切りブロッコリー』が、太陽の光を浴びて青々と輝いていた。

 傍から見れば、完全に狂気の沙汰だろう。

 私はピクリとも動かないウキを見つめながら、氷のように冷たい平常心を装っていた。

 ——しかし、心の中では盛大に叫んでいた。


(ちょっと!もう時間がないわよ!まさか約束を破る気!?三枚に下ろすわよ!)


 一見いつもと変わらない物静かな令嬢風であるが、内なる私はブロッコリーを握りしめながら包丁をシャコシャコと研いでいた。

 その時、背後の草むらを荒々しく掻き分ける複数の足音が聞こえてきた。


「姉様、ごめんなさい! これ以上は時間を稼げなかった……!」


 息を切らして駆け寄ってきたのは弟だった。屋敷で結納品の最終確認だの、馬車の不具合だのと理由をつけて必死に足止めをしてくれていたのだが、ついに限界を迎えたらしい。

 弟の後ろから、ぞろぞろと厄介な集団が姿を現した。


「貴方何を考えているの!今日は結婚式でしょう。こんな大切な日に釣りみたいなくだらない事を……しかもそのドレス!いくらすると思っているの!」


 娘が歩く金鉱に見える母親は、それはそれは激昂して、今にもつかみかかりそうになっていた。

 私はそんな母親を見て、血管切れるんじゃないかな?と何故か冷静さを取り戻した。


「フン、往生際が悪いぞ。こんな泥だらけの場所で花嫁衣装を汚すなど、相変わらず理解に苦しむ女だ」


 勝ち誇ったような、そしてストレートに下品な視線を向けてくるのは侯爵家の子息だ。その後ろには、結納金の額面しか頭にない私の父親と、困惑気味な子息の両親である侯爵家当主とその夫人、さらには護衛や使用人たちまで引き連れての大所帯である。


「あら、皆様お揃いで。ピクニックには少し人数が多すぎましてよ?」

「強がるのもそこまでだ。ほら、お前が喚いていた『もっと金持ちの殿方』とやらはいなかったじゃないか。残念だったな、時間切れだ」


 私が最後に仕掛けた強がりを鼻で笑い、子息が一歩、また一歩と私に歩み寄ってくる。 


「さあ、大人しく俺の腕の中に——」  


 子息が私の肩を掴もうと手を伸ばした、その瞬間だった。


 スボッ……!!


 水面に浮かんでいたウキが、これまで見たこともない凄まじい勢いで水中に引きずり込まれた。

 同時に、私の手作りの愛竿が悲鳴を上げるほど大きくしなり、手首に強烈な重みがズシリと乗る。ただの魚じゃない。これは、規格外の超大物だ。


「よっしゃあ!!」


 私は淑女の仮面をかなぐり捨て、腹の底から歓声を上げた。

 ウェディングドレスの裾を踏んづけながらもガバッと立ち上がり、特訓の成果である見事なフッキングを決める。


「な、なんだ!?気が狂ったのか?いきなり大声を……」

「下がりなさい!大物が釣れたのよ!!」


 驚いて後ずさる子息を怒鳴りつけ、私は両足でしっかりと地面を踏みしめた。

 ギリギリギリッ!と糸が鳴る。湖面がどんどん大きく波打ち、巨大な水柱が上がった。


「そぉぉぉぉいっ!!」


 渾身の力で竿を引き抜く。 


 ザバァァァァッ!!


 大量の水飛沫が太陽の光を反射して虹を作る中、美しいターコイズブルーのワカメのような長い髪と、長いヒレのような服を翻しながら、待ちに待った、あの頃よりかなり大きくなった『私のお魚さん』が、見事な放物線を描いて空を舞ったのだ。



   * * *



 ドサァァァァンッ!!!ドスッッ!!



 豪快な水飛沫を上げて空を舞った『私のお魚さん』は、華麗に着地……などするはずもなく。

 数年前と全く同じように、湖畔の芝生の上に見事なうつ伏せで墜落した。


「な、なんだ!? 空から人が……いや、化け物か!?」


 侯爵家の子息が悲鳴を上げ、護衛たちが慌てて剣に手をかける。

 無理もない。芝生の上でむくりと上体を起こしたその青年は、人間の姿をしていながら、明らかに只者ではなかった。


「もぐもぐ……うん、やっぱり地上の野菜はおいしいね」


 まず、青年は口に咥えていた角切りのブロッコリーをゆっくりと味わいながら咀嚼し、笑顔で飲み込んだ。相変わらず、このエサで釣られたらしい。

 そして立ち上がったその姿は、息を呑むほど美しく、背が高く逞しい青年へと成長を遂げていた。光の加減で虹色に輝く瞳、ヒレの色と同じワカメのようなウェーブがかった長い髪。完全な人型に変化することに成功しているようだが、彼の首筋やたくましい腕、すらりとした脚の一部には、ターコイズブルーの鱗が点々と残っている。

 しかしそれは決して不気味なものではなく、まるで最高級の宝石を埋め込んだ装飾品のように、太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。


「ようやく釣り上げたわ……長かった……」

「ごめんね。待たせちゃって。僕の可愛いお姫様。お迎えに上がりました」


 私は安堵とため息混じりにつぶやいた。

 彼は優雅に微笑み、ターコイズブルーの鱗が輝く腕を広げた。

 感動の再会である。私は釣竿を放り出し、純白のドレスを翻して彼のもとへ駆け寄った。


「遅いっ!!タイムリミットぎりぎりじゃないの!」

「うっ!?」


 そして、その無防備な鳩尾に向かって、愛を込めた渾身の右ストレート(グーパン)を叩き込んだ。

「ご、ごほっ……!相変わらず、僕のお姫様は元気がいいね……」

「当たり前よ、もう少しであの変な男に嫁がされるところだったんだから!一体今まで何をしてたのよ!間に合わなかったら貴方を恨んで三枚に下ろす所だったわよ」


 ダメージを受けてくの字に曲がる王子を問い詰めると、彼は痛むお腹を押さえながら、申し訳なさそうに眉尻を下げた。


「ごめんなさい。もっと早く来る予定だったんですが……地上の人間の間では真珠が人気だと聞いて。君への結納品にするなら、とにかく綺麗で大ぶりなものを厳選しなくてはと、海底で大繁殖してたアコヤ貝を育て直してたら時間がかかってしまって……」


 そう言うと、彼は腰に提げていた巨大な麻袋をゴソゴソと開けた。

 そして、中から両手いっぱいに何かを掬い上げると、


「君への愛の証です。受け取ってください!」


 バサァァァァァッ!!


 彼が天に向かって両手を振り上げると、パラパラと空から降り注いできたのは、丸く品質の良い『最高級真珠』の雨だった。

 ライスシャワーならぬ、規格外のパールシャワーである。

 陽の光を浴びてキラキラと光るパールシャワー。集まった人たちにコツコツと当たり、芝生に転がる真珠を見て、その場にいた全員の動きがピタリと止まった。


「し、真珠……? あんなたくさんの真珠を、こんな無造作に……?」

「全員動くな!この真珠は我が家のものだ!一粒たりとも渡さんぞ!」

 侯爵家当主の目が血走り、大きく見開く。

 両親は固まる人々をよそに、地面に這いつくばって真珠をかき集めている。少しでも動こうとする使用人達に怒鳴り散らすその姿は、身内として恥ずかしすぎる地獄絵図だ。

 そんな惨状をよそに、魚王子はスタスタと歩き出し、呆然と立ち尽くしている私の弟の目の前で立ち止まった。


「……えっと」

「あの時は、手当てを手伝ってくれてありがとうございました。君の協力がなければ、今日ここで彼女を迎えに来ることはできませんでした」


 王子はそう言って優しく微笑むと、麻袋とは別に用意していた美しい刺繍入りの小袋を弟に手渡した。


「これは……?」

「僕からの個人的なお礼です。地上で役立ててください」


 弟が恐る恐る小袋を開けると、中には先ほどばら撒かれたものよりもさらに色艶の良い、少し大ぶりで極上の真珠がぎっしりと詰まっていた。

「は、はは……姉様、本当にあの時の半魚人が、とんでもないイケメンになって迎えに来ちゃったよ……」


 小袋を持ったまま震える弟を見て、私は「だから言ったじゃない」と自慢げに胸を張ったのだった。



   * * *



 芝生の上では、私の両親が泥だらけになりながら、せこせこと真珠をかき集めていた。

 ドレスの裾を汚すなと喚いていた母親も、今や自分のドレスを大きな袋代わりにして、目を¥マークにしながら極上の真珠を抱え込んでいる。


「それじゃ、娘さんはもらっていくんで」

「ええ、ええ!どうぞどうぞ!返品は不可ですからね、お気をつけて〜!」


 魚王子が爽やかに告げると、両親は真珠の山に埋もれたまま、今日一番の素晴らしい満面の笑顔で私たちを送り出した。もはや娘の顔など一切見ていない。予想通りすぎて清々しいほどのクズっぷりである。


「ちょっと待てっ!!」


 私たちが湖へと歩き出そうとしたその時、空気を読まない大声が響いた。

 振り返ると、傲慢な侯爵家子息が顔を真っ赤にして立っていた。いや、怒っているというより、どこか縋るような、絶望したような顔をしている。


「お前っ、俺という完璧な婚約者がいながら、そんな魚か人か分からない奴と行くというのか!? 目を覚ませ! お前は俺の気を引きたいだけなんだろう!?」

「………完璧??……」

「ねぇ可愛いお姫様、あそこで叫んでるの、誰?」


 不思議そうに首を傾げる魚王子を見上げ、私は今日一番の優雅な令嬢スマイルを浮かべた。


「全く関係ない人よ」

「そっか。ならいいね。それじゃあ、行こうか」


 私の即答に、王子は納得したようにコクリと頷いた。

 一方、「関係ない人」と一刀両断された子息は、その場にガクンと膝をつき、まるで魂が抜けたように真っ白に燃え尽きていた。あの無駄に高いプライドと、実は豆腐メンタルの持ち主である子息には、致命傷クリティカルヒットだったらしい。

 そんな背景スルーと化した子息を放置して、魚王子は湖の波打ち際へと進み出た。

 次の瞬間、彼の体が眩い光に包まれる。

 光が弾けると同時に、そこには人間の姿ではなく、見上げるほど巨大で美しい魚が姿を現した。ターコイズブルーの鱗に、赤やオレンジが混じった長く優雅なヒレ。太陽の光を浴びて神々しいまでに輝く、巨大なパラダイスフィッシュだ。


『さあ、乗って』


 頭の中に直接響く彼の優しい声に導かれ、私は純白のドレスを翻して、その広くて柔らかい背中へと飛び乗った。


『しっかり掴まっててね!』


 巨大なパラダイスフィッシュは、そのしなやかな体を大きくしならせると、バシャン!と水面を叩き、大空へと高く高く飛び跳ねた。

 空中で弧を描きながら、私は地上の弟に向かって大きく手を振った。


「あの家で家族だったのは貴方だけだったわ!またね!」


 私の声に、呆然と空を見上げていた弟がハッと我に返り、真珠の入った小袋を握りしめながら、力いっぱい手を振り返してくれた。


「うんっ……!姉様、お元気で……!」


 少し涙ぐみながら笑う弟の姿を見届け、私は魚王子の背中で満足げに微笑んだ。


 ザッバァァァァァァァァァァンッ!!!


 巨大な水柱を上げて、私たちは深い深い湖の底へ、美しい海底王国へとダイブしたのだった。



   * * *



 その後、湖畔に残されたのは、真珠の重みで立ち上がれなくなった両親と、抜け殻のようになった子息だけだった。


「あ、ああっ……俺のミステリアスな小鳥ちゃんが……」と地面に突っ伏してブツブツとうわ言を繰り返す子息は、困惑しきりな侯爵家当主夫妻によって、両脇を抱えられるようにして無様に回収されていった。

 これが、傲慢だった彼の終わりの始まりである。

 私という絶好の「更生のためのカンフル剤」を失った侯爵家子息に、その後どんな悲惨な運命ざまぁが待ち受けていたのか。

 そして、私の有能な弟が、あの真珠を元手にどれほど痛快な下剋上を果たしたのか——。



   * * *



 それから数年後。


 すっかり立派な領主の顔つきになった弟は、執務室の机に置かれた『大きな巻貝』に向かって話しかけていた。


「……というわけで、今月分のブロッコリーと人参の出荷準備は整いました。試食用に大根も送りますね。そちらの受け入れ態勢はいかがですか?」

『ありがとう!こっちも最高品質の真珠を用意できているよ。地上の野菜は大人気だから、みんな到着を心待ちにしてるんだ』


 巻貝から聞こえてくるのは、少しノイズ混じりの、しかし間違いなくあの『魚王子』の爽やかな声だった。

 これは海底王国と地上を繋ぐ、魔法のような貝殻通信機である。

 あの日から数年。当主の座を継いだ弟は、海底に地上の野菜を輸出し、その対価として極上の真珠を独占的に仕入れるルートを確立した。  

 かつて拝金主義の両親が貶めた家名は、今や王都でも一、二を争うほどの豊かな大貴族へと急成長を遂げていた。


『あ、ちょっと代わって! ねえ、私よ!』


 不意に、巻貝の向こうから賑やかな声が割り込んできた。

 海底王国の王子妃となり、あの頃と変わらず元気にしている姉の声だ。


「姉様、お久しぶりです。そちらも変わりないですか?」

『ええ、元気よ!それより、また新しい『牡蠣』を送ったんだけど、ちゃんとあそこ(田舎)に届いたかしら? しっかり食べさせて、数日間の健康状態を観察して報告しなさいって伝えてね!』

「……相変わらず容赦ないなぁ」


 弟は苦笑しながらメモを取る。

 海底で自分の半魚人と幸せに暮らしている姉は、現在『極上牡蠣の養殖』でさらなる一儲けを企んでいるらしい。しかし、中には強烈にお腹を壊す「ハズレ」が混ざっているらしく、その安全性を確かめるための人体実験……もとい、試食係として白羽の矢が立ったのが、あの毒両親だった。

 あの日、両親が泥まみれになってかき集めた真珠は、あえて取り上げなかった。

 彼はその後侯爵様を通じて王家に繋いでもらい、真珠を取り引き材料にして、両親から家督を取り上げた。

 海底で取れる真珠は、養殖や海辺で取れるものよりも遥かに品質が良く、王家というか王妃様が食いついてくださったのだ。

 海底真珠をいたく気に入ってくださった王妃様は、自ら広告塔になり、その商品価値は鰻登りだ。

 ……温厚な弟も、あのオカネスキー両親には腹に据えかねていたのだ。

 莫大な財宝(真珠)を持ちながらも、一切の権力を持たず、ど田舎の領地に封じ込められた両親。そこに定期的に送られてくる、当たれば地獄の苦しみを味わう『ロシアンルーレット牡蠣』。

 食べなければ海底王国からの報復があるかもしれないと怯え、泣きながら牡蠣を飲み込む両親からの報告書を見るたび、弟は「姉様だけは絶対に敵に回してはいけない」と心に誓うのだった。


「牡蠣の件は了解しました。そういえば、姉様に報告が一つあります。あの『侯爵家の子息』の近況です」

『あら、あの方まだ生きてたの?』 


 巻貝越しでも伝わってくる興味のない声に、弟は少し笑ってしまった。


「ふふ。はい、かろうじて。姉様にフラれた後、彼は過去の悪行の被害者たちから一斉に恨みを買い、恐ろしくて屋敷から一歩も出られない日々を送っていたんですが……」

『ふぅん。自業自得ね』

「ついに見かねた侯爵家当主が、『罪を償うにはうってつけだ』と、彼を辺境伯未亡人のところへ婿に出したんです」


 未亡人、という言葉の響きは妖艶だが、相手は『鬼より怖い』と恐れられる厳格な女傑である。

 曲がったことが大嫌いな彼女に見張られ、子息は今、過去に踏み倒した酒代や破壊したカジノの賠償金を稼ぐため、領地で馬車馬のように働かされているらしい。


「少しでもサボったり弱音を吐いたりすると、未亡人の容赦ない愛の鞭が飛んでくるそうです。毎晩、疲労と筋肉痛で泣き暮らしているという噂ですよ」

『まあ、彼にはお似合いの末路ね。お金を稼ぐのがどれほど大切で厳しい事か、しっかり教えてもらえばいいわ』


 姉は楽しそうに笑うと、『それじゃ、また連絡するわね! 愛しの彼とお散歩に行ってくるから!』と一方的に通信を切った。

 プツン、と静かになった執務室で、弟は大きな貝殻を撫でながらフッと微笑む。


「……本当に、見事な一本釣りだったな」


 窓の外を見ると、あの日と同じように、太陽の光を反射してキラキラと輝く湖面が見えた。

 あの芯の強い姉は、今頃海底で、大好きな「お魚さん」と共に、誰よりも自由で幸せな日々を謳歌していることだろう。


 ——釣り糸を垂らす令嬢。


 彼女が釣り上げたのは、規格外の王子様と、揺るぎない自分自身の幸せだったのだ。





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