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教師と生徒

予想の続きは教科書を閉じて

掲載日:2025/12/23

 到着した電車に、俺は乗った。


 ホームは競馬場から帰る人で混んではいたが、ほとんどは急行で帰る人なので、時間が掛かる普通電車に乗ろうとする人は少なかった。行き先は大体彼らと同じだが、わざわざ今、混み合ってる急行に乗るよりは、普通で途中駅まで行き、そこで特急なり急行なりに乗り換えれば楽に座れる可能性が高い。


 俺は選び放題のベンチシートに腰掛けると、深いため息をついた。


 ──まーた負けた。しかも直前まで買うか買わないかと逡巡した挙句に切り飛ばした馬がゴール直前に突っ込んできやがった。それは勝ちはしなかったが、俺の馬券を紙屑にするくらいには役に立った──いらんことしやがって。


 この電車に乗り込んだ連中の何人かはそういう目に遭ったやつらが必ずいる。いるに違いない。でなければこんな間抜けな予想をした俺が浮かばれん。


 競馬新聞では印はほとんどついていなかった。せいぜい3着は上手くすれば確保するくらいの白抜きの三角マークがお情け程度に1つか2つくらい。パドックでもそんなにいい動きはしておらず、かといって悪くもなかったので思いっきり悩んだことは確かだ。本命は固い。だとすれば紐荒れだろうと予想し、それなりに手広くヒモ馬をピックアップしたが、こいつだけは締め切り5分前になるまで悩んだ。最終的にこいつは来ないと切り飛ばし──結果は御覧の有様だよとしか言いようがなかった。


『普通電車、間もなく発車します』


 ホームでの放送が鳴り、ドアが空気の抜ける音を立てつつ閉まり始めた──まだ閉まり切ってないドアのスキマをすり抜けるように、若い女性が車内へと転がり込んできたのはその時だった。


「……間に合ったぁ……」


 やや髪の長い彼女は、両の手を膝について呼吸を整えようと肩で息をし、そしてどこかに座ろうと上半身起こした。


 ──視線が交錯した。


「「……あ」」


 彼女は俺の方を見て思わず声が漏れたみたい。俺も彼女を見て思わず声が零れ落ちる。彼女はすぐさま視線を外してその場から立ち去ろうと一瞬ホームへ下りかけようとして、既に閉じられているドアに阻害された。ならばと電車が動き出すのと同時に後ろの車両へと歩き始めた。俺は義務感も手伝って確保した席を立ち、彼女より足早に、さながら差し馬が逃げ馬を差し切るくらいの速度差で彼女に追いつき、その手を握った。


 彼女のデニムパンツの後ろポケットには何やら新聞を丸めたらしい棒状のものが突き刺さっていたが、一見するまでもなくそれは競馬新聞にしか見えなかった。


「井原さん」

「ちっ……違います!」

「違わんだろ。その目じりと首筋のほくろ。俺のクラスの委員長以外にない」

「な、何の話ですか」

「だったら何故俺と目が合ったら逃げたんだ……?」


 痛い所を突かれたのか、眼鏡越しの彼女の目は悔しさと怯えが交互に表情を彩っていた。口元は何か言おうとして釣り上げられた魚のようにパクパクと動かし、目元は潤んで今にも泣きそうになる。


「まあ座れ。事情は訊いてやるから」


 映画の撮影かと思えるような俺と彼女の状況に、10人ほどばかりの乗客の視線が突き刺さる。それらを無視するように俺は彼女を幾らでも空いているベンチシートに座らせた。その隣に俺も腰を下ろす。


 彼女の長い髪が、ゆらりと冷房の風に吹かれてさらさらと簾のようにざわついている。目は潤み、口元はこれから何されるかわからない不安と恐怖とでひきつっているように見えた。そして彼女の腰を見る。ポケットに刺さった新聞は横組みの馬柱と共に、その上の煽り文句と各所に細かに書かれた寸評、そしてその上を踊るように書かれた、彼女の書いたいくつかの数字が見えた。


 専門誌買うのかよ、俺なんて普通のスポーツ紙の競馬欄なのに。最近の高校生金持ってんなぁ、と余計な事を思いつつ俺は不安が今すぐにでもあふれそうな彼女に訊いた。


「競馬……好きなのか?」

 無言でこくり、とうなづく彼女。

「競馬法、知ってるよな」

 さっきの場面をコピペしたように、彼女は再びうなづいた。

「親御さんと一緒か?」

 今度は首を横に振った。一緒なら来ても仕方ないが、単独かぁ。

「親御さんはこのこと知ってるのか?」

 再び首を横に、震えるかのように振った。

 まあそうだろうなぁ、と思いつつ、こんな学校以外知らなさそうな、クラスの委員長をやってる成績ソコソコ優秀な子が競馬場に行ってるなんてなぁ……と自分の知ってる世界がいかに狭かったかを思い知らされた。


 このままなら後日、職員会議にかけて処分を出して、親御さんを学校に呼び出して説明せにゃならんなぁ……あーめんどくさい。ったく面倒ごと起こしやがって。俺は彼女への怒りがふつふつと湧いてきたのと同時に、何でこういう時に出会っちゃったんだろ、と自分の不幸も同時に呪わざるを得なくなった。


「井原、お前はソコソコ成績優秀だし俺も処分に関してはなるだけ寛大な処置を求めるけど、決めるのは学年主任や教頭、校長だから、ある程度は覚悟しておけよ」

 彼女は電車の揺れに同調するかのように、かすかに首を縦に振った。


 とりあえずはおとなしく聞いてくれたようで、下手に騒がれて俺の方が警察沙汰になる危険性は回避できた。軽くため息をつくと、ふと視界の端に、彼女の尻ポケットに刺さった、さっきもチラ見した競馬新聞が映った。


 ──そういや、どういう予想してたんだろ。まあ、こういう子だから馬の名前とか感覚的なもので単勝馬券買ってんのかな──そういう興味がふつふつと湧いてきた。


「なあ、井原。新聞、見せてくれんか」

「は……はい」


 まだおびえるような声で彼女はそういうと、腰を浮かして恐る恐るそれを取り、俺の前に差し出した。まるで競馬歴ン十年のおっさんの様な丸め方をした競馬新聞を受け取った俺は、それを広げて見て──思わず声が出た。


「……は?」


 新聞の馬柱を見た後、すぐ横に座る彼女の横顔を見、また紙面に目を通して、またまた彼女の横顔を見て──俺はすぐには信じられなかった。


 馬柱にはびっちりと馬体重やパドックでの歩様の良し悪し、この競馬場での成績の可否や注意点などがびっしりと書き込まれているがまだそれは俺でもやることだからいい。俺が目を疑ったのは、その真ん中あたりで乱雑に書かれた、赤丸で囲まれた数字を見たことだった。


 彼女、俺が切り飛ばした馬を中心に馬連で流して当ててやがる──。


「井原、メイン……当てたのか?」


 幽霊を生で見たような信じられない顔をした俺の顔を横目で見た彼女は、幾分緊張感を解いたらしく、柔らかな表情を少しづつ時間の経過とともに表していった。


「ええ、当てました。悩みましたが……」

「悩みましたって……ヒモなら判るがこれ中心ってなんでそう考えられた?」


「だって調教時計、坂路で終い重点にしてる時計ですし、メンバー見てもこの組み合わせなら先行激化が予想出来るじゃないですか。確かにパドックはパッとはしなかったですけど踏み込みは悪くなったですし、返し馬もスッと素直にキャンターに入りましたから調子は悪くないと踏んで、この馬中心にしました。調教師のコメントも、いつもなら適当に言葉濁すんですが、今回は怪しいことしか言ってません。でもこの厩舎、そういう時に限って馬券圏内に突っ込んでくるので」


 え、そこまで見てるの……俺、調教師のコメントあんまり見てなかったぞ……。いや待て、だったら──


「でも新聞の本命……勝った馬をヒモにって何で?」

「馬柱では確かによさげなんですけど、主場での成績ってあんまりよく無さげなんですよ。改装後のここってミニ主場みたいな感じなので、もしかして、と思って……それに厩舎コメント、あの調教師よくラッパ吹くので今回もそれかなぁ、って」


 調教師や助手のコメントはメインレースならスポーツ紙でもそこそこの分量で掲載されている。俺は今まで何見てたんだ……宝の山が目の前にあるのに見ようともしてなかったってことか。


 いやまてまて、たまたまメインレースを当てただけなのかもしれないと、俺は他のページも見てみた。全部当ててる、とはさすがになかったがそれでも全12レース中5レースは当てている。本命サイドから中穴辺りまで、よりどりみどり──。


 俺は彼女の相場眼に恐れおののきつつ、それでも内から湧き上がる訊きたい、という欲求に抗えず、教え子に恐る恐る訊いてみた。


「──ちなみにさ、どれだけ浮いた?」

「えーと……2万円程」


 彼女は事も無げに言った。しかし、聞いた俺にとっては事も無げなレベルではなかった。それだけ当ててて2万円程ということは投入金額は100円とか200円とかそれぐらいだろうけど、これもっとつぎ込んでたら──。


 今度は俺が黙り込む羽目になった。ぐうの音も出ない。どうやったらこんな鮮やかに馬券を当てられるのか、俺自身が彼女に問い質したい気分なっていた。


 そして、ふと思うようになった。俺の中の、悪魔がささやく。

 この子を処分させたらダメなんじゃないかと。

 違反してることには違いないが、せっかく学校に来てるんだし、しかも担当のクラスの子だ。

 黙っていよう。そうすればこの子は、俺に当たり馬券をもたらしてくれる。

 手放すな。例え露見して、この立場を追われることになっても──。


「井原、このことは黙っておく」

「先生……いいんですか?」


 彼女はすっかり怯えとか恐れなどの感情は抜け落ち、どことなくパドックで馬を見極める勝負師のような鋭さの片鱗を、俺に向けて見せていた。そしてその口調は、委員長としてのプライドが戻ってきているように、思えてきた。


「黙ってる代わりに、頼みがある。予想の手助けしてくれないか?」

「毎週、ですか?」

「そこまでは言わん。ただ、ここぞというレースがある時に、手助けしてほしい」

 ──俺だって10年近く競馬やってきたプライド、ってのもある。予想を全部彼女任せにしてしまえば、確かに楽だが……楽しみも減る。せめて、俺自身が打つバクチの責任は、俺自身でありたい。


「いいですけど……先生、大丈夫ですか?立場とか」

「立場ねぇ……」俺はそんなものどうでもいいや、と頭で言葉を繋げつつ、天井の照明や吊り広告を眺めた「なんかもう最近、何で先生なんてなってしまったんだろうかと後悔し始めてる。そんな程度の人間が、立場がどうとか言える身分じゃないような気がする」


「……大変なんですね、先生って」

「気楽な商売じゃないのは判ってたけど、いざなってみるとねぇ……」俺は口元に自虐の笑みを浮かべて彼女の方を向いた「なるもんじゃねーな、って」


「だからと言って教え子に競馬予想させるのは違うと思うんですけど」

「はははっ、確かに。でもなぁ、こんなんなら教職免許なんか取らずにさっさと民間企業に勤めてりゃよかった」


 さっきまでの彼女の表情とは打って変わって、まるで学校で友人らとの会話を楽しんでいるシーンをそのまま切り出したような、何のストレスもない、彼女オリジナルの笑みを浮かべている。俺もそれにつられて、気が付けば教職員同士でもしゃべらないことを、俺は何のストレスもなく話してる。


 いつの間にか電車はこの地方で大きめの川を渡り、普通電車の終点まであと少しの所まで来ていた。そこで特急に乗り換えて、夜の帳がすでに下りているこの路線の終点まで。


 あと少しの、ちょっとした旅路。




 翌日。


「植田先生」


 HRを終えた俺を、昨日よく聞いた声が呼び止めた。さて別の教室へ1時間目の授業しに行くか、と担当のクラスの教室から廊下へ出た直後、その声の主は何か小さな鞄を小脇に抱えて、先週まで俺には見せてなかった表情で小走りに寄ってくる。


「どうした? 井原」


 パッと見会社の女性事務服のように見える、ブレザー風の学校指定の制服を着た井原が、俺の隣で歩く速度を同調させて、廊下を並んで歩く。


「植田先生。放課後、お時間ありますか?」

「そうだな、ちょっと遅いけど5時過ぎなら」


「なら」そう言って彼女は、小脇に抱えた鞄からその中身をチラッ、と俺に見せ、いたずらっぽい笑みを浮かべた「後でお勉強、しましょう」


 鞄の中にあったのは、緑の縁取りをした雑誌だった。真ん中あたりには大きめの文字と、馬の写真。

「かけっこは、月曜日から始まるんですよ」

「しょうがねえぁ……」


 ──まんざらでもないか。先生、という立場も。

 俺は、久しぶりに学校という職場で、笑えたような気がした。




【終】

──馬券は二十歳になってから。

未成年は買っちゃいけません。

法律違反ですし、何しろオトナの遊びですから──。

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