第3章 古い塔の遺言
【夜・宿屋《東元橋》】
サースは、部屋で一人、銀の盾をじっと見つめていた。昼間、商人が泣いて礼を言った瞬間、盾の渦巻きに一瞬、星のような小さな光が宿ったのを確かに見た。それはすぐに消え失せたが、胸には確かな余韻が残っている。それはまるで、、、。
夜空には満月が輝き、窓からは冷たい風が吹き込んでくる。サースは指先で盾の渦巻きをなぞった。あの古道具屋の老人の言葉が頭をよぎる。「観測塔の祭具だ」。
その時、ドアがノックされ、オルトが顔を出した。
「サース、起きてるかい? 少し話せるかな」
「……はい」
オルトは椅子を引き、テーブルに座った。彼の小さな手帳が開かれ、今日の日付のページには、黒曜猪のスケッチと、サースの盾から放たれた光の粒のメモが描かれている。
「君の盾について、少し調べてみたんだ」
オルトは続けた。「図書館で古い民話や伝承を読んでいたんだが、その中に『世界は誰かの"視線"によって形を保っている』という、変わった話が残っていたんだ。君の《挑発》と盾の組み合わせは、その古い理屈に妙に当てはまる気がしてね」。
サースは息を呑んだ。「それは……どういう、ことですか」
「話によると、英雄が多くの人に見られることで強くなるのも、呪われた場所が忘れ去られることで力を失うのも、すべて『視線』という力によるものだというんだ。君の《挑発》は、その力を君に集め、盾がそれを猪の弱点――つまり、最も見られていなかった部分に流し込んでいたのかもしれない。今日、君の盾が光った時、そんな想像が頭をよぎったんだ」。
オルトは手帳にペンを走らせる。「古道具屋の老人が言っていた『観測塔』の祭具という言葉も、この伝承と一致する。ただのおとぎ話ではないかもしれない」。
サースは盾を握る手に力を込めた。自分の能力がただの呪いではなく、世界の根源に関わる力かもしれないという事実に、恐怖と同時に、微かな希望を感じていた。
「……明日、その観測塔に行ってみるべきじゃないか? もしかしたら、もっと何か分かるかもしれない」
サースは、リーネとオルトの顔を思い浮かべた。彼らが自分を気遣って、この提案をしてくれている。
「はい、お願いします」
オルトは安心したように微笑み、部屋を出ていった。
【午後・森の奥】
夜明けの森を抜けること数時間、突如として空が開けた。鬱蒼とした木々の隙間に、石で積まれた高い影がそびえている。苔に覆われ、半ば地に沈み、空へ伸びる姿はもはや廃墟そのものだった。
「……観測塔」
オルトが静かに呟いた。彼の声には、手帳で調べた古い伝承と目の前の現実が一致したことへの驚きと、未知の場所へ足を踏み入れることへの期待が混じっている。リーネは剣に手をかけ、鋭い目で周囲を見渡す。「人の気配があるわ」。サースは銀の盾を握りしめる。縁の渦が微かに震え、体の奥の鼓動と同調している。まるで塔そのものが彼を呼んでいるかのようだった。
三人は慎重に塔に近づいた。入口は朽ちた木の扉で半ば塞がれているが、人が通れるほどの隙間がある。石畳は苔むし、空気は湿って古い書物のような匂いがした。
【塔の内部】
塔の内部は、冷たい石と埃の匂いに満ちていた。崩れた階段、壁に刻まれた古い文様。しかし、中央の石床に腰を下ろしていた一人の老人が、彼らを迎えるように目を開いた。白髪と深い皺、だがその瞳は澄みきって、星を映すように光っていた。粗末な僧衣をまとい、手には古びた巻物を持っている。彼の周りには不思議な静寂があり、まるでこの場所だけが時間の流れから切り離されているかのようだった。
「よく来たな。」
老人の声は低く、遠くから響いてくるようだった。サースは息を呑んだ。
「俺を……知っているんですか?」。
老人は頷き、彼の盾を指さした。
「その銀の盾は《目の皿》――星の残響を受ける祭具。我ら“目守”が、世界に名を留めるために用いたものだ」。
オルトが身を乗り出す。昨日調べたおとぎ話のような伝承が、現実の言葉として目の前で語られていることに、彼は興奮を隠せない。
「やはり……! 伝承は真実だったのですね! 観測とは……いったい何を意味するのです?」。
老人は立ち上がり、塔の壁に残る石板を撫でた。そこには星図が刻まれ、無数の線で結ばれた複雑な模様が描かれている。「昔、観る母(ミル=マーテル)が世界を包んだ。星々に“目”を宿し、人の名と記憶を記録したのだ」。
老人は石板の一角を指差す。そこには小さな人影と、それを取り囲む無数の眼のような記号が刻まれていた。
老人は低く、歌うように口ずさんだ。
星は見守る 闇に沈むとも 在り
その時だった。塔の外で物音がした。リーネが即座に剣を構える。
黒い外套をまとった数人の影が、塔に踏み込んできた。顔は仮面に覆われ、無言のまま抜かれた刃は光を吸い込むように黒く濁っている。彼らの存在感は薄く、まるで世界から半ば消されかけているかのようだった。
先頭の男が機械的な声で告げる。「その盾を渡せ。貴様は持つに値しない」。
先頭の男を中心に、複数の視線がサースに突き刺さる。間に壁を張るように無意識に盾を構えていた。心臓が早鐘を打ち、逃げたい本能が叫ぶ。
だが――仲間と老人を守るため、震える声が出た。
「渡さない。」
その宣言と同時に、黒衣の兵が跳びかかってきた。黒刃が振り下ろされる。
「Bouclier-du-Nom!」
サースは咄嗟に叫んだ。銀の盾の渦が閃光を放つ。衝撃は盾を弾いたが、同時に不思議な現象が起きた。
無数の声が響く――名前を呼ぶ声、記憶の残響。それが盾を包み、黒刃を弾き返したのだ。
「なっ……!」。
兵士が怯む間に、リーネが斬り込んだ。剣が仮面を裂き、素顔が露わになる。それは無表情で、瞳には感情の色がない。オルトは詠唱を続ける。
「地の理よ、縛せ――《樹縛》!」。
根が伸び、敵を絡め取るが、敵が反対魔法を唱えることで、束縛は剥がされた。
すかさず、リーネの2撃目が敵の前線を襲う。
対人戦は、サースにとって初めてのことで、鼓動が休まらない。
反撃に備え、サースも盾を構え直す。
戦闘は長引く予感がしたが、敵の一言で、急な終焉を迎えることとなった。
「……いずれ、その名も消える」。
黒衣の影たちは闇に溶けるように姿を消した。あとには静寂だけが残る。
【塔の内部】
荒い息を整えながら、サースは盾を見つめる。渦はまだ微かに輝き、彼の存在を確かに刻んでいた。
「さっきのは、一体、、、。」
リーネが困惑していると、
老人は、全てを知っているような目で、低い声で告げた。
「この塔はもう守れぬ。だが、王都の《銀星の塔》ならば道は続く。お前の“名”はそちらで試されるだろう」。
老人の言葉に、リーネとオルトは迷わずサースの隣に立った。
「私たちも行きます」
「そうですよ。三人なら、どんな敵にも負けません」
彼らの言葉は、サースの心に温かく響いた。だが、同時に胸の奥を突き刺すような鋭い痛みを感じた。
黒曜猪との戦い、影のものたちとの遭遇。すべて、彼らが自分といたからこそ巻き込まれたのだ。自分の《挑発》は、単なる能力ではない。その秘密を知りたいが、それは、人々を自分に引き寄せ、危険に晒す呪いなのだ。特に、存在そのものを消し去る力を持つ敵がいる今、彼らを巻き込むことは、もうできない。
サースは首を振った。
「……俺は、一人で行く」
「どうして? 私たちはもうチームじゃないの?」
リーネの声が震える。その瞳に浮かんだ傷つきと戸惑いに、サースは顔を背けた。
「俺と一緒にいれば、また同じことが起きる。俺の力は、人を……注目を、俺に引き寄せる。巻き込みたくない」
それは言い訳だった。本当は、仲間ができてしまったことへの恐怖だった。今まで一人で生きてきた。孤独が当たり前で、誰も巻き込まない生き方を貫いてきた。それが、リーネやオルトと出会い、彼らが「必要だ」と言ってくれたことで、初めて人と繋がることの喜びを知ってしまった。
だが、喜びと引き換えに、彼らが傷つくかもしれないという恐怖も知ってしまった。
オルトが、サースの肩にそっと手を置いた。
「サース、君の力は、人を守るためのものじゃないか。昨日、僕たちが助かったのは君のおかげだ」
「それは……」
「だからこそ、今、私たちが君を支える。そう決めたの」
リーネの言葉は、彼の心をかき乱した。しかし、サースは自分の中の恐怖に負けそうだった。もうこれ以上、この温かさに甘えることはできない。
サースは、決意を固めた。この別れは、彼らを守るための、自分だけの戦いだ。
「ありがとう。二人には救われた。でも、これは……俺の問題だ」
それ以上は説得できなかった。
【夜明け・森の入口】
別れの朝、リーネは短く告げた。
「じゃあ――必ず、また会いましょう。約束よ」
オルトも頷いた。
「あなたの名前を、私たちは忘れません。」
サースは答えず、ただ銀の盾を抱きしめた。老人から託された巻物を背負い、一人王都への道を歩み始める。
振り返ると、リーネとオルトが手を振っていた。その姿が小さくなっても、彼らの名前は確かに胸に刻まれている。名前を呼び合うこと。お互いを見つめ合うこと。
それがどれほど大切なことか、サースは今、理解していた。その背を照らす朝日は、孤独と決意を同時に映していた。王都で何が待っているかはわからない。だが彼は歩き続ける。自分の名を、そして大切な人たちの名を守るために。