第11章 観測
観測塔の外郭に広がる天空の回廊は、砕けた水晶片と流星の粒子で満ちていた。
それは宇宙の胎動のように光り、同時に破滅の前触れのように脈動している。
その中心に立つのは、ひとりの男。蒼白な光を背負った黒衣の長身の影――忘却を撒き散らす者、マーテルの息子。
彼の名はもう誰の口にも残っていない。
だが彼自身は、千代万代の観測に縛られた存在――“決して忘れられない者”として立ち続けていた。
「……来たか。観測の徒よ」
彼の声は低く、しかし塔の骨組みそのものを共鳴させるように響く。
サースは前に出た。銀の盾を握るその手は震えていたが、目は逸らさなかった。
背後にセレナ、オルト、リーネ、カイン。
仲間たちは息を詰め、その光景を見据える。
「あなたが……マーテルの子……」
セレナが呟く。声は小さく、だが震えていた。
「子、か」
男の瞳に影が走る。
「愛された。だが、同時に檻に閉じ込められた。母は誓ったのだ――“我が子だけは忘れられぬように”と」
その言葉に、サースは思わず古文書の断片を思い出した。
ーーー「お前だけは決して忘れさせない」
あの記録は、確かに彼に刻まれていたのだ。
「俺は、世界のどの存在よりも、確かに“観測される”者となった。
誰もが、母の誓いによって、俺を忘れることができぬ。……それは幸福か?」
男の微笑みは歪んでいた。
「否。忘れられぬとは、解放されぬということだ。
俺は“存在”という牢獄に閉じ込められたのだ」
サースの胸を重苦しい痛みが貫いた。
彼の「盾」としての役割――仲間の攻撃を引き受け、敵の視線を一身に集める力。
それはまさに、黒衣の男と同じ「存在を独占する」呪いに近いものだった。
違うのは、彼がそれを「仲間のために選んでいる」点だ。
「……俺は、あんたの苦しみを完全に理解できるわけじゃない。
でも一つだけ、わかることがある」
サースは盾を掲げる。
その表面に星々の光が反射し、無数の視線のように煌めく。
「存在を証明するのは、“誰かに選ばれて見てもらうこと”だ。
俺は母の誓いじゃなく、仲間たちに見てもらうためにここにいる!」
黒衣の男の瞳が鋭く光った。
「戯言だ。お前たちの絆など、永遠の誓いの前では塵に等しい」
彼が右腕を振り上げた瞬間、黒い光の奔流が解き放たれる。
その名は――
《忘却殲滅》「Vergessen Vernichtung」!
空間そのものがえぐれ、記録が白紙に塗り替えられていく。
観測塔の壁に刻まれた歴史が、ひとつ、またひとつと消滅していった。
「来るぞッ!」
カインが叫び、槍を構える。
セレナは魔力障壁を展開し、オルトは詠唱を開始する。
だがその全ての視線を引き受けたのは、サースの盾だった。
「――ッッ!」
彼は咆哮と共に銀の盾を突き出す。
《守護障壁》「Mur d’Acier」!
光と闇が激突し、轟音が天を貫いた。
サースは膝を折りそうになりながらも、必死に堪える。
黒衣の男の視線が、記憶が、存在が、全て自分へと集中しているのを感じた。
「……俺が、あんたの視線を奪う。
仲間には一切触れさせない!」
轟音と光の渦が、観測塔の外郭を切り裂いていた。
サースは盾を前に突き出し、全身で衝撃を受け止める。
だが、ただの防御ではない。
彼は叫んだ。
《挑発》「Provocation Absolue」!
その瞬間、戦場の「意識」が収束する。
黒衣の男の憎悪も、観測塔に残された記録の残響も、すべてがサースという一点に向けられる。
「……なんだと」
黒衣の男がわずかに目を見開いた。
「俺の“存在の独占”に、貴様が割り込むというのか」
「そうだ!」
サースは全身を震わせながら吠える。
「お前の視線も、憎しみも、呪いも……全部俺が受けてやる! 仲間には一つも触れさせない!」
カインが叫ぶ。
「無茶だサース!」
「構わない!」
サースは返した。
「俺は“盾”だ。みんなを生かすために、俺が視線を奪う!」
その言葉に、黒衣の男は狂気めいた笑みを浮かべる。
「愚かだな……。忘却に囚われる苦しみを知らぬから、そんなことが言える。
ならば、その身に刻み込むがいい!」
彼が振りかざした手から、漆黒の斬撃が迸る。
《記録抹消》「Schwarzschnitt」!
漆黒の刃が空間を裂き、観測塔に刻まれた数千年の記録を削ぎ落としていく。
だがその軌跡は、すべてサースの盾へと集束した。
「ぐ、あああああッ!」
盾が悲鳴を上げるように軋む。
セレナがすぐさま治癒の光を注ぎ込む。
「サース! 持ちこたえて!」
「オルト、今だ!」
カインが叫ぶと同時に、魔導士が詠唱を完了する。
裁きの雷鳴よ、我が敵を打ち砕け、啓せ――雷王峯!」
蒼白の稲妻が、サースの盾の背後から放たれ、黒衣の男を直撃した。
だがその胸に穿たれた傷は、瞬く間に光に飲み込まれて塞がっていく。
「無駄だ……俺は“忘れられぬ存在”。消滅の概念すら、俺を拒む」
黒衣の男は静かに手を掲げる。
天空が暗転し、星々がひとつひとつ落ちていく。
《永劫観測》「Ewige Beobachtung」!
空そのものが瞳に変わり、無数の視線が戦場を見下ろした。
それはマーテルの誓いの再現――永遠に忘れられぬ呪詛だった。
「ッ、これは……!」
セレナが息を呑む。
「見られる……すべてが、記録され続ける……! 魂の自由が奪われる!」
サースは、体の奥底まで視線を突き刺される感覚に、歯を食いしばった。
胸が裂けそうな痛み。
だが同時に理解する。
(こいつは……俺と同じだ。
視線を奪うことに縛られ、存在を確かめ続けられる牢獄……。
なら、俺にしか終わらせられない!)
サースは大地を踏みしめ、盾を掲げる。
《挑発極致》「Provocation Infinie」!
視線が、さらに集中する。
天空の瞳さえも、サースただ一人へと向かう。
「……お前……そこまでして、何を望む!」
黒衣の男が叫ぶ。
「簡単なことだ!」
サースは喉が裂けるほどの声で返した。
「仲間に自由を! お前に安らぎを! 俺はそのために、盾を掲げる!」
仲間たちは、もはや攻撃よりも、サースを支えることに全力を注いでいた。
セレナの治癒魔法が絶え間なく流れ込み、カインがその背を守り、オルトの詠唱が盾の輝きを増幅させる。
サースの姿は、ただの盾役ではなかった。
仲間の命運を背負い、敵の存在を受け止める、唯一の「観測の焦点」だった。
塔の最上階、崩れゆく水晶ドームの下で、サースはなおも盾を掲げていた。
天を覆う瞳の群れが、彼ひとりを凝視する。
仲間を、世界を守るために――いや、それ以上に、サースの血に刻まれた宿命がそうさせていた。
黒衣の男が低く呟く。
「……何故だ。なぜ、貴様がそこまで視線を集められる……?」
呼吸乱しながら、その問いに答えたのは、オルトだった。
「サース、お前自身が……マーテルの“もうひとつの誓約”だ」
「……え?」
サースの手が震える。
「古文書にあっただろう。『我が愛する子よ。お前だけは決して忘れさせない』……。
あれは一人の息子への絶対の記録であると同時に――」
オルトは視線を強めた。
「その“血脈”へと受け継がれる誓約でもあったんだ。サース、お前はマーテルの直系。
“記憶に抗う盾”として生まれた者だ」
衝撃が、サースの全身を駆け抜けた。
ずっと感じてきた違和感。銀の盾に呼応するような血のざわめき。
すべてはマーテルの血の記憶だった。
「俺が……直系……?」
唇が震えた。
黒衣の男が、血走った瞳でサースを睨みつける。
「貴様も……俺と同じ母の子か……!
だが、なぜ……なぜ貴様だけが“忘却から逃れる盾”を得て、俺は“忘れられぬ呪い”に囚われた!」
咆哮と共に、彼の周囲に闇が膨れ上がった。
《存在独占》「Alleiniger Blick」!
塔全体がひとつの巨大な瞳と化し、そこに映るすべてを抹殺しようとする。
空気が焼け、仲間たちが呻き声を上げる。
だが、サースは一歩前へ進んだ。
盾を掲げ、血脈の声を全身に響かせる。
「俺に宿された意味があるなら、今ここで応えよう。
“悲劇”を終わらせるために!」
彼は絶叫する。
《究極挑発》「Provocation Éclipse Totale」!
瞬間、光と闇がせめぎ合う。
サースを中心に、すべての視線が強制的に収束した。
天空の瞳も、黒衣の男の狂気も、観測塔に刻まれた残響すらも――。
世界の「観測」が、ただ一人サースへと集中する。
「……来い。全部、俺が受け止める!」
盾が白銀に輝き、星々の光が反射して奔る。
その光に包まれた黒衣の男は、たまらず膝をついた。
「馬鹿な……この視線の奔流を……貴様ごときが……」
「俺は“ごとき”じゃない!」
サースの声は震えていたが、決して折れてはいなかった。
「俺は盾を掲げるために生まれた者だ!
お前が背負わされた呪いも……俺が引き受ける!」
その宣言に、黒衣の男の狂気が一瞬だけ和らぐ。
母に縛られた子としての孤独が、サースの言葉に反応したのだ。
「兄弟……なのか、俺たちは……」
黒衣の男の声にかすかな寂寥が滲んだ。
だがすぐに、その瞳に再び憎悪が燃える。
「ならばなおさら……貴様を滅ぼさねば、俺の存在は証明されぬ!」
最後の絶叫と共に、漆黒の撃が振り下ろされた。
《断絶の一閃》「Endgültiger Schnitt」!
サースは盾を振りかざす。
その背には仲間たちの祈りがあった。
リーネの剣とカインの槍が盾に力を重ね、オルトの魔法陣が光を流し込み、セレナの癒光がサースの命を支えた。
盾が燃え上がり、黒の斬撃と正面から衝突する。
白と黒がぶつかり合い、空が裂け、大地が揺れた。
やがて――。
黒は消え、残ったのは白銀の輝き。
黒衣の男の身体が透け、記録の糸のようにほどけていく。
「……の……愛……か……」
その最後の言葉は、呪いではなく、安堵に近い響きだった。
静かに、彼は消滅した。
忘却ではなく、真の「安らぎ」として。