第10章 古の儀式と名の灯
【早朝・訓練場】
エリアを失ってから、すでに数日が過ぎていた。
王都の混乱は深まる一方で、人々の間では「忘却の病」という不気味な言葉が囁かれ始めていた。
街では親が子の名を思い出せず、友が互いを知らぬ顔で通り過ぎる。日常の裂け目は、静かに、しかし確実に広がっていた。
ギルドの訓練場の片隅で、サースは銀の盾を磨いていた。磨けば磨くほど、かつてエリアが笑いながら「鈍く光ってる」とからかった日の記憶が胸に刺さる。
「サース、出発の準備はできたか?」
声をかけてきたのはカインだった。彼の表情には沈痛な影が宿る。忘却の波に流されれば、彼もまたエリア喪失の悲しみを忘れてしまえたはずだ。だが彼は敢えて記憶を繋ぎ止め、その痛みを共に背負う道を選んでいた。
「ありがとう」
かすれた声で感謝を告げる。
【午前・中央観測塔への道中】
サース、カイン、セレナ、騎士たちが護衛として同行した。
一行が街を離れると、忘却の影響はさらに顕著となっていた。村の人々は互いをよそよそしく扱い、すれ違う者の名を呼ばぬまま通り過ぎる。言葉を交わしても、微妙な齟齬が積み重なり、会話はすぐに途切れてしまう。
「このままじゃ、世界そのものが溶けて消えてしまう……」
セレナは蒼ざめた顔で呟いた。
「だからこそ急ぐんだ」
サースは前を見据えた。
「中央観測塔に、必ず何か手がかりがあるはずだ」
進むにつれて、風景は異様さを増した。
緑の木々の中に、半透明の草花が混じり、色を失った蝶が宙を漂う。世界が現実と虚無の境界ににじり寄られているかのようだった。
【野営地】
その夜、テントが組まれた。テント内は、魔法の炎で照らされていた。
その炎の揺らぎは、各希望にも不安にも満ちた表情を、揺らしていた。
そんな時、テントが開かれ、懐かしい声がサースの耳に届いた。
「久しぶり、サース」
振り返ると、そこにいたのはオルトとリーネだった。
思わず胸が熱くなる。忘却の中でなお、自分を名で呼んでくれる存在――その事実だけで涙が込み上げる。
オルトは研究のため王都に招かれ、塔の古文書の解読に協力するためここに来たという。
あれからリーネも、急速に腕を上げて、今じゃギルドの筆頭冒険者ということで、王の招集に、手を挙げてきてくれたらしい。
【却忘の街道】
野営地を離れ、数時間後、古びた街道の先に、それは現れた。
苔むした石造りの巨大な円錐塔。壁面はところどころ崩れ落ち、しかしなお空を貫くように屹立している。
「あれが……中央観測塔か」
カインが息を呑む。
「ここはかつて、星々を観測し、人々の『名』を記録した場所……」
セレナが説明する声にも、どこか畏怖が混じっていた。
【昼・中央観測塔の探索】
塔の内部は薄暗く、空気は重く湿っていた。
壁には古代の文字や図形が刻まれ、星の運行や「名」を記す儀式について記されている。
ーー古、「ミル=マーテル」が星々に「目の実」を宿し、世界の記憶を守った。
ーー人の名も約束も英雄譚も星に刻まれた。
ーー塔はその記憶を紡ぐ祭壇であり、銀の盾は儀式に用いられた。
「……これを見て」
リーネが指差した壁画には、夜空の下、人々が互いの名を呼び合う儀式が描かれていた。
星図には無数の光点――それぞれが人の「名」として輝いている。
だが儀式はやがて失われ、役割は「目守」と呼ばれる者たちに委ねられ、最終的にはただ一人の「観測者」へと集約されていった。
「……ひとりで、すべてを背負ったのか」
サースは震える声で呟いた。
「だからこそ、観測者は……星を喰らう者になった」
サースが呟く。
最上階へ辿り着いた一行は、水晶のドームに足を踏み入れた。内壁には精緻な星図、中央には銀色のプレートが残されていた。
【中央観測塔の夜】
灯火の下で古文書を解き明かしていたサースは、水晶ドームの片隅に異様な断片を見つけた。
ーーー「我が愛する子よ。お前だけは決して忘れさせない。
星々に幾重にもその名を刻み、千代万代に呼び続けよう。
たとえ世界が滅ぼうとも、お前は在り続ける。」
震える声で読み上げると、オルトが顔をしかめた。
「これは……誓約だ。母マーテルが、自らの血を継ぐ子へ施した“絶対の記録”……」
「血を継ぐ子……?」
セレナが息を呑んだ。
「じゃあ、これは伝説上の比喩じゃなく、実在した直系の存在に向けられたもの……?」
カインが拳を握りしめる。
「永遠に忘れられぬ存在……母の愛と同時に、重すぎる呪いだな」
サースは言葉を失った。
ふと銀の盾が低く震え、微かな光を放つ。まるで、その文言に応えるかのように。
思わず零れた独白に、仲間たちは視線を寄せた。
しかし、その問いには誰も答えられなかった。
ーーー銀の盾を継ぐ者。母マーテルの誓約に結ばれた血。
サースの胸の奥で、不気味な余韻だけが残り続けていた。
カインが拳を握りしめる。
「つまり……彼は母の愛によって、永遠に“見られ続ける存在”となったのか」
リーネが息を呑む。
「誰からも忘れられない。それは幸福ではなく、呪い……」
オルトが低く続ける。
「観測者は母の誓約によって、決して消えぬ存在となった。名を呼ばれ続けることは、記憶に縛られ続けることでもある。彼は『永遠に終わらない観測』に囚われているのだ」
静寂が降りる。
サースは震える手で盾を握り締めた。
「……だから、忘却を撒き散らす。
誰からも忘れられない苦痛から、せめて他者を“無”に還すことでしか耐えられなかったんだ」
誰も返せなかった。
水晶ドームに描かれた星図が、悲嘆に沈む母の眼差しのように揺らめいていた。
忘却を撒き散らす存在――星を喰らう者。
その名の真実が、彼の「忘れられぬ呪縛」にあるのなら、戦いは単なる討伐ではない。
サースは仲間を見回し、息を吸い込む。
「……行こう。答えを聞かねばならない。彼自身の口から」