第1章 注視の胎動
サースは、誰にも見られず、静かに生きたかった。
しかし、彼に授けられたのは、その願いとは正反対の才能だった。
それは、周囲の視線を磁石のように引き寄せる、皮肉な呪い。
にもかかわらず、彼はその能力を使い、人々の盾となる道を選んだ。
なぜ、彼は最も嫌いな「視線」の中で生きることを決めたのか?
これは、自分自身から逃げるのではなく、自分自身と向き合い、未来を切り開く物語。
「俺を見るな!」
サースは震える声で叫びながら、巨大な猪の突進を盾で受け止めた。角が盾に激突し、衝撃が全身を貫く。だが同時に、胸の奥で忌まわしい感覚がうずいた——《挑発》スキルの無意識な発動。
なぜ注目を集めるのが死ぬほど嫌いな俺が、こんな目立つ役回りをしているのか。
答えは単純だった。生きるためだ。
【三時間前】
夜は冷えて、草の葉に薄い霜が降りかかっていた。サースは草原に寝転び、星を見上げながら、また同じ夢想に浸っていた。
「ただ、静かに紙の匂いに埋もれていたいだけなのに……」
できれば、図書館で本を読み、人を避け、空想に身を預けて1日を過ごしたい。読書は、人と関わらなければいきていけない現実世界を見る俺に、そっと見なくていいよと蓋をしてくれる優しい唯一の友達だった。
だが現実は容赦ない。財布の中身は銅貨が数枚。明日食べる分すら怪しい。冒険者の仕事をしなければ、確実に飢え死にする。
問題は彼の持つスキルだった。
『挑発』
ランク:C 効果:対象の注目を強制的に自分に向ける
※発動時、周囲の視線も同時に引き寄せる
生来の才能というより呪いに近い。瞬間、周囲の視線が磁石に引かれる鉄粉のように彼へ向かう。八歳の夏祭りで村の舞台に上がらされた時、数百の視線が針のように肌を突き刺し、立っているだけで全身が石になった。
それ以来、注目を浴びることは彼にとって耐え難い試練となった。
【翌朝・ギルド《白紙通り》】
石造りの受付ホールに革靴が響く。ギルドは、いつも混み合っていて、苦手な場所の一つだった。
サースは書類に名前を書き、受付嬢に軽く会釈した。
その瞬間——空気の温度が変わった。
視線という見えない重さが、光のように集まる。受付嬢の目が彼を捉え、近くの冒険者たちも何となくこちらを見る。《挑発》スキルの無意識な発動。彼の存在が周囲に「見よ」という無言の命令を発していた。
「うっ……」
体が震える。喉が締まる。受付嬢は慣れた様子で手早く処理を続けた。ギルドには様々なスキル持ちが来る。彼女にとってはただの日常だった。
受付を離れて、掲示板を探すことにした。原則、危険度で報酬は決まるので、できるならギルドに来る回数を減らし、一度に多くを稼ぎたい。そう思いながら、掲示板を見ていると、掲示板の隅に追いやられたのだろう、少し色の褪せた《迷い猪退治》の依頼があった。
『依頼内容:森に出没する迷い猪の退治』
『推奨人数:3名 報酬:銀貨15枚 危険度:D』
報酬は少ないが、群れではなく単体。短時間で終わる。何より——目立たない仕事だ。
問題なのはこの後だ。彼は、攻撃のスキルを持たないため、どうしても代わりの火力担当が必要になるが、当然自分からは探し回ることもできないため、いつもギルド側に、お願いしている。
今回も、見つからないだろうと思い、再度受付嬢に相対する心の準備をしていると、突然、背後から声がかかった。
「この依頼、もしよければご一緒しませんか?」
振り向くと、二人が立っていた。リーネとオルトと名乗った。
女剣士リーネは肩までの髪をまっすぐに整え、鋭い瞳でこちらを見つめている。その目には戦場を知る者の冷静さと、同時に不器用な温かさがあった。隣の青年術師オルトは本を抱えるような仕草で穏やかに微笑んでいる。
「あなたのスキル、《挑発》でしたね。ぜひ力を貸してほしいのです」
オルトの言葉は丁寧だったが、その目には確かな期待が光っていた。
輝いた眼光に、一瞬眩んだサースは本音が出そうになった。「で、できれば、後ろの方で、、、」
だがリーネが首を振る。
「わかった。派手な動きは私がする。あなたは盾になってもらえればいい」
その声には無駄がなく、余計な配慮もない。ただ、人を守ることへの確信があった。
サースの脳裏に、幼い日の記憶が蘇る。十歳の頃、村の子供たちに囲まれ「変な奴」「いつもビクビクしてる」と囃し立てられていた時、一人の女の子がそっと手を差し伸べてくれた。
「大丈夫」
ただそれだけの言葉で、世界が少しだけ優しく見えたのだ。
「一件だけ」
小さく頷くと、リーネの顔が明るくなった。
「ありがとう、助かるわ」
【昼頃・森】
森は昼の光を木漏れ日として落とし、湿った土の匂いが鼻を撫でる。リーネとオルトは、友人同士で、駆け出しの冒険者とのことだった。最後尾を歩く俺に、二人は、適度に話を振ってくれたが、同時に俺の方に振り返られてしまうと、思わず反射で目を逸らしてしまう。だが不思議と会話自体は、心地よかった。
「来るわよ」
リーネの合図と同時に、粗い吐息が響いた。次いで、巨大な猪が森の奥から姿を現した。
黒光りする毛並み。血走った目。角が前方に突き出し、その体躯は商隊の馬車ほどもある。
こちらを視界にとらえると、目の色を変える。地面を勢いよく蹴ると、一歩ずつ、図体の大きさからは、想像もできない加速度で、先頭のリーネを目掛けて、猛進してきた。
バンッと空気が弾ける音がした直後、猪は、遠くの先ほど居た位置からワープしてきたかのスピードに乗って、俺らの眼前に現れた。リーネまで、数秒の距離。
ふぅーっと息を整える。
冒険者の端くれとして、多少の現場慣れはしているが、この瞬間は毎回、心身にこたえる。
「Provocation!」
サースは震える声で詠唱した。古い祭壇の言葉のような響きが森に混じる。
瞬間——視界が引き締まった。
生き物の視線が見えない糸で束ねられ、猪の注意がサースへ吸い寄せられる。猪は動揺し、突進の軌道が自然とサースの立つ位置へ向かった。
衝撃。角が盾に当たり、痛みが手首を抜けて、踏ん張る足腰に駆け抜ける。痛みをどう逃がそうか考えていると、その瞬間、鋭い剣戟の音が聞こえた。
挑発による強制的な方向転換により、体制を崩した猪に、リーネの剣が滑り込んだ。刃が猪の脇腹を深く裂く。
「地の理よ、縛せ!——《樹縛》!」
オルトの術で地面から太い根が飛び出し、猪の足を絡め取る。巨体が完全に動きを止め、リーネは隙を逃さず追撃した。
戦いは短時間で終わった。
初めての感覚だった。即席チームには経験があったが、なぜか特に言葉を発することなく、やりたいことを他者と自然に理解し合えた感覚だった。
【夕方・森の外】
森の外で待っていた商人が震える声でリーネに近寄ってきた。顔には涙と安堵が混じっている。
「ありがとう、本当に……あなたたちがいなければ、私たちは……」
老人は手を震わせながらオルトとサースの肩に触れた。
その一言は、誰かに肯定された時の暖かさを、サースの内部で呼び覚ました。視線を避けたかった。だが同時に、守ることで誰かの安らぎを生む実感が確かにあった。
矛盾する感情——でも、重みがあった。
【夜・ギルド《白紙通り》】
3人で報酬を受け取りに戻ると、受付嬢は俺らにこう告げた。
「あの依頼、冒険者からは旨みが少ないだかなんだか言われて、何ヶ月も放置されていたものだったんです。」
だから、色褪せていたのか。
「私の地元でもあったので、少しホッとした気持ちです。みなさん、ありがとうございました。」
事務処理の顔しか見せてこなかった、彼女が見せた柔らかい表情に、少したじろいだ。
今日は、初めて、冒険者としての意義を感じられたのかもしれない。
そんなことをよぎった割には、最後、リーネとオルトの顔も見れないまま、二人に感謝と別れを告げたサースであった。
【夜・古道具屋】
サースは、昼の戦いで、欠損した盾の代えを探しに、村の古道具屋を訪ねていた。
店主は年老いた男で、商売上手というより骨董に愛情を持つ人だった。
これまでも、何度かお世話になっている店で、サースが店に入ると、盾を探し始めるくらいだった。
「この前の、盾はもうダメになってしまったのかえ」
返事の代わりに、盾を店主の前に差し出した。
店主は、不思議そうにサースへ告げた。
「妙な欠け方をしておる。傷をつけられたというより、まるで、内側から壊れたようじゃ。」
盾を引き取ると、店主は、店の奥へ消えていった。
奥の部屋から店主の《鑑定》の声が聞こえ、光が漏れ出す。
これはなんと、なんたらという小さな声が聞こえたが、サースには聞こえていなかった。
5分後、部屋の奥から——銀色に研がれた美しい盾。店主は、それを持って帰ってきた。
縁に沿って細い渦巻きの模様が刻まれている。その渦は小さいながらも見る者の視線を惹きつけ、まるで時間の進み方を変えるような錯覚を与えた。
「古い観測塔から出たものだよ」
店主はぽつりと呟く。サースは渦を指で撫でた。冷たさと、ほんの僅かな振動が伝わる。掌が触れた瞬間、盾の縁が微かに暖かくなり、胸の奥の鼓動と合い始めるような感触があった。
『銀の盾』
品質:??? 効果:???
※古代観測装置の欠片。詳細不明
値段は今日の報酬とほぼ同額。決して安くない。
目立ちたくない自分が盾を買い注目を集める生業と矛盾。そんな彼にとって、盾は自分と敵を隔てる存在以上の役割があった。盾はただの防具以上に思えた。渦巻きは何かを受け止める器のようで、彼の《挑発》に安定を与えてくれるかもしれない——そんな直感があった。
「合うだろう」
店主の言葉に、サースは小さく笑ってしまう。見抜かれた気もするが、不思議と嫌ではなかった。
「……買います」
小さな踏み出し。だが確実な一歩だった。
【深夜・宿屋《東元橋》】
宿の窓際で、サースは銀の盾を膝の上に置き、星空を眺めた。
今日も、自分は確かに見られた。嫌だった。でも、その代わりに誰かがほんの少しだけ救われた。その暖かさが胸に残る。冒険者としての、やりがいだ。
生きることは矛盾でできている。注目を受けることは苦痛だが、注目を受けて誰かを守ることは救いでもある。
幼い日のあの子の顔を思い出す。「大丈夫」という一言がどれほど自分を支えたかを知っているからこそ、今度は自分が誰かに同じ言葉を返したい。
眠気が近づく時、窓の外——夜空の一隅で、小さな渦がかすかに蠢くのが見えた。星の並びとは違う、ほんの指先ほどの空間が螺旋を描いていた。
「気のせいか……?」
そう呟きながらも、銀の盾の縁が微かに光ったのは確かだった。
目を閉じる前に、サースはそっと掌で盾を撫でた。渦巻き模様が彼の指先に小さな震えを伝え、星ひとつが遠くから見守るように瞬いた。
注目を集めることは呪いかもしれない。しかしそれを選んで誰かを守るならば、その呪いもまた意味を持つのかもしれない——
心のどこかで小さな灯がともり始めていた。
まだ小さく、しかし確かな始まりとして。