第6話 月夜のゲートと忘れられた集落
準備という名のクエストに追われていると、時間なんてものはあっという間に過ぎ去っていく。
気づけば、カレンダーは次の新月が目前に迫っていることを示していた。
この一月、俺は来るべき日のために、ほとんど修行に近いレベルで肉体を酷使し続けた。
通販で買った物資を麓のコンビニで受け取り、それをひたすら山の上にある自宅まで人力で運び上げる。この単純作業の繰り返しだ。
「……いらっしゃいませ」
もはや聞き慣れた、絶対零度の歓迎の言葉。
澄田さんは、俺の顔を見るなり、あからさまに「またお前か」という表情を隠そうともしない。
「どうも。また、荷物をお願いします」
「……カウンターの裏です。どうぞ」
促されるままにカウンターの裏を覗き込むと、そこには大小さまざまな段ボール箱が、またしても山のように積まれていた。今回は、長期保存が可能なフリーズドライ食品やら、調理器具のセットやらだ。
「……平田さん」
彼女が俺の名前を覚えていることに、もはや何の感慨も湧かない。完全にブラックリスト入りしている自覚がある。
「は、はいっ」
荷物を軽バンに運び込んでいると、背後から静かな声がかかる。ガチガチに体が強張るのを感じた。
「その……遭難の準備ですか? それとも、家出?」
「ち、違う! キャンプだよ、キャンプ! 趣味なんだって!」
「はぁ……。そうですか。趣味で、ひと山越えるんですね。ご苦労様です」
その目は、全くもって信じていない。完全に、何かヤバい計画を立てている孤独な男を見る目だ。やめてくれ、その視線は俺のライフをゴリゴリ削っていく。
一方、農協では聖母の微笑みが俺を待っていた。
「あら、嶺くん。また買い出しかい? 本当に熱心ねぇ」
追加で肥料を買いに来た俺に、茜さんがにこやかに話しかけてくる。
「ええ、まあ。色々と試してみたくて。家庭菜園みたいなものです」
「そっかー。偉い偉い。でも、あんまり根を詰めすぎちゃダメよ? たまには、麓に下りてきて、美味しいものでも食べなさいね。お姉さんがご馳走してあげてもいいんだから」
ポン、と優しく背中を叩かれる。
ああ、なんだろう、この差は。一方は氷属性の魔法攻撃で、もう一方は回復魔法。
俺の精神は、この二人の女性によって、日々、鍛えられているのかもしれない。
……いや、ただ振り回されているだけだな、うん。
そんな奇妙な日常を繰り返しているうちに、ついにその前夜がやってきた。
夜空には、月齢29日を示す、カミソリのように細い月が、かろうじてその存在を主張している。
いよいよだ。
俺は、この日のために用意した巨大なバックパックに、ひと月分の食料と水を詰め込んでいた。ズシリ、と肩に食い込む重みが、これからの冒険の現実感を突きつけてくる。
「さて、と……」
仏間に移動し、バックパックを傍らに置く。
いつもなら、ここでお神酒をクイっといくところだが……。
俺には、一つ試してみたい仮説があった。
『向こうから戻る時は、拝むだけでよかった。なら、こちらから行く時も、酒は必須ではないのではないか?』
もし、この仮説が正しければ、向こうの世界で酒を切らして帰還不能になる、という最悪の事態は避けられる。
……だが、もし間違っていたら?
次回のチャンスは、また一月後だ。この準備と期待感を、もう一巡り繰り返す羽目になる。
ゴクリ、と喉が鳴る。
いや、ここはリスクを冒すべきだ。検証こそが、俺の『時空ジャーニー研究』の根幹なのだから。
俺は覚悟を決め、仏像に向かって、静かに手を合わせた。
頼む、行ってくれ……!
心の中で強く念じる。
……しーん。
ダメか……?
やはり、お神酒は必須のアイテムだったのか……。
俺の肩が、がっくりと落ちかけた、その瞬間。
ぐにゃり。
視界が、馴染み深いあの感覚で歪み始めた。
きた! きたきたきた!
祈りだけでも、行けるじゃないか!
気づけば、俺は荘厳な仏像が鎮座する、ひんやりとした『祠』の中に立っていた。
バックパックの重みが、現実感を増幅させる。
「よっしゃ!」
思わず、拳を握りしめる。
これで、また一つ、この時空転移システムの法則を解明できたわけだ。
今日のところは、このままここで夜を明かすことにした。
帰還は明後日の予定。
明日は新月当日、つまりフィーバータイムだ。
残りの荷物を運び込むため、何度か令和と永禄を往復することになるだろう。
祠の中に、持参した銀マットと寝袋を広げる。
令和の自宅とは違う、完全な暗闇と静寂。
虫の声と、風が木々を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえる。
少しの不安と、それを遥かに上回る高揚感。
まるで、秘密基地で初めて夜を明かす子供のような気分だ。
俺は、その奇妙な心地よさの中で、浅い眠りについた。
翌朝。
ピピピッ、という無機質な電子音で目を覚ます。
スマホのアラームだ。時刻は、午前六時になろうかというところ。
夏だけあって、祠の入り口から差し込む光は、すでに十分な明るさを持っていた。
よし、と気合を入れて寝袋から這い出し、早速、外の様子を伺う。
「ふむ……」
まずは、この祠の周辺を探索し、地理を把握するのが今日のクエストだ。
特に、獣道の有無は重要だ。動物たちが通る道は、人間にとっても歩きやすいことが多い。
そして、その道がどこに続いているのか……。
祠があるということは、かつては人が訪れていた証拠。道は必ずあるはずだ。
俺は注意深く周囲を観察し、すぐに見つけた。
祠の脇から、明らかに踏み固められた痕跡が、森の奥へと続いている。
ビンゴだ。
俺はクマ撃退スプレーをホルスターに差し、ナイフをベルトに吊るし、準備万端でその道を辿り始めた。
道は下り坂になっており、木々の間を縫うようにして続いている。
歩きながら、俺はあることに気づいていた。
この地形……なんだか、令和の婆さんの家から、崩れたお堂までの道のりに、妙によく似ている。
だとすれば、この道の先に広がるのは……。
期待と緊張を胸に、さらに進むこと十数分。
不意に、視界が開けた。
「……なんだ、これは」
そこに広がっていたのは、集落だった。
いや、廃集落、と言うべきか。
十軒ほどの茅葺き屋根の家々が、まるで時が止まったかのように、静かに佇んでいる。
家々は、辛うじてその形を保っているようだが、壁は剥がれ落ち、庭には背の高い雑草が生い茂り、少なくとも数年は人が住んでいた気配を感じさせない。
集落の周囲には、かつて田畑だったであろう土地が広がっているが、それらもまた、雑草と低木に覆われ、完全に自然に還ろうとしていた。
その光景は、令和の日本で俺が日々格闘している、婆さんの屋敷周りの状況と、驚くほど酷似していた。
やはり、俺が転移している先は、この土地の過去の姿なのだ。
そして、あの祠は、この集落の守り神か、何かだったのだろう。
そう考えると、色々と辻褄が合ってくる。
「さて、どうしたものか……」
この廃集落を見て回るだけでも、今日一日は終わりそうだ。
俺は、一番手前にあった家から、順番に見て回ることにした。
一歩足を踏み入れるだけで、雑草がガサガサと音を立てる。
トラクターが欲しくなるな、マジで。
家の中を覗き込むと、意外にも、家財道具のようなものが、いくつか残されていた。
埃をかぶった囲炉裏、割れた甕、朽ちかけた箪笥。
だが、生活の痕跡はそこで途絶えている。
まるで、ある日突然、住民全員が姿を消してしまったかのようだ。
夜逃げでもしたのか?
いや、それにしては、家財が残りすぎている。
それとも、何か恐ろしい疫病でも流行ったのだろうか……。
廃墟となった理由が分からない、というのは、なんとも不気味なものだ。
しかし、同時に思う。
この場所は、俺の活動拠点として、かなり魅力的かもしれない。
雨風をしのげる家があり、井戸さえ再生できれば、水の確保も容易になるだろう。
俺は各家を簡単に見て回り、集落の全体像を把握していった。
家は全部で十軒。
どれも同じような時期に廃墟になったらしく、荒れ果て具合に大差はなかった。
探索に夢中になっているうちに、太陽は西に傾き始めていた。
やばい、そろそろ祠に戻らないと。
夜の山は、たとえ獣害対策グッズを揃えていても、危険すぎる。
俺は急ぎ足で祠に戻り、息を整えた。
そして、夜。
新月当日のフィーバータイムを利用し、俺は令和への帰還と、永禄への転移を繰り返した。
一往復目、水と医薬品、サバイバルツールを運ぶ。
二往復目、農具と作物の種、椎茸の原木を運ぶ。
三往復目、残りの食料と、着替えなどの生活用品を運ぶ。
ヒーヒー言いながら、全ての荷物を祠の中に運び込む。
もはや、荘厳な祠は、完全に俺の秘密基地の倉庫と化していた。
「ふぅ……これで、当面の物資は確保できたな」
問題は、この大量の荷物をどう隠すかだ。
万が一、誰かがこの祠を訪れた時に、現代の物資が見つかるのはまずい。
俺は頭を捻り、仏像の台座の裏や、床板の一部を剥がして、その下に荷物を隠すことにした。
まるで、リスが冬に備えて木の実を隠すようだ。
作業を終える頃には、すっかり夜も更けていた。
翌日、つまり、今回の冒険の最終日。
俺は、昨日発見した廃集落と、この祠を繋ぐ獣道を、もう少し歩きやすく整備することにした。
持参した鉈で邪魔な枝を払い、足元の雑草を刈っていく。
これもまた、未来の自分への投資だ。
汗だくになりながら作業に没頭し、道がだいぶ通りやすくなった頃には、またしても夕暮れ時が近づいていた。
我ながら、この三日間は、かなり充実していたと言えるだろう。
転移の法則を一つ解明し、永禄尾張における活動拠点の候補まで見つけたのだ。
大きな進展だ。
俺は、満足感とともに、夜の闇が訪れるのを待ち、最後の帰還を果たした。
見慣れた仏間に戻り、俺はどっと疲れた体で畳の上に大の字になる。
泥と汗にまみれた体は、すぐにでもシャワーを浴びたいと悲鳴を上げていた。
今回の冒険の成果を、『時空ジャーニー研究ノート』に書き記し、俺はふらふらと山を下りることにした。
さすがに、三日ぶりの風呂には入りたいし、まともな飯も食いたい。
軽バンを走らせ、麓の町にある唯一の銭湯へ向かう。
その帰り道だった。
空腹に耐えきれず、例のコンビニの駐車場に車を滑り込ませる。
「……いらっしゃいませ」
ああ、いた。澄田さんだ。
俺の、泥だらけで薄汚れた姿を見るなり、彼女の眉がピクリと動いた。
「……また、山で何かと戦ってきたんですか?」
「いや、だからキャンプだって……。ちょっと、ぬかるみに足を取られてさ」
苦しい言い訳をしながら、カップ麺と弁当をカゴに入れる。
レジに向かうと、彼女は俺の顔をじっと見つめ、深いため息を一つ吐いた。
「……風邪、ひきますよ。そんな格好で」
「あ、ああ。この後、すぐ帰って着替えるから」
「……別に、いいですけど」
ぷい、とそっぽを向く彼女。
なんだろう。いつもの毒舌に、ほんの少しだけ、心配の色が混じっているように感じてしまうのは、俺の自意識過剰だろうか。
いや、気のせいだな、うん。
コンビニを出て、車に乗り込もうとした、その時。
「あら、嶺くん?」
聞き覚えのある、優しい声。
振り返ると、そこには、農協帰りの茜さんが立っていた。
「あ、茜さん。こんばんは」
「こんばんは。って、まあ! どうしたの、その格好! 泥んこじゃない!」
茜さんは、目を丸くして俺の全身を見回すと、クスクスと笑い出した。
「うふふ、なんだか、わんぱくな男の子みたい。でも、ちゃんとお風呂に入らないと、お母さんに怒られるわよ?」
「は、はは……。今、銭湯の帰りなんです」
「あら、そうなの。えらいえらい」
そう言って、彼女は俺の頭を、よしよし、と軽く撫でた。
やめてくれ。三十路前の男が、そんなことされて喜ぶわけ……いや、正直、ちょっと嬉しい。
その一部始終を、コンビニのガラス張りの向こうから、澄田さんが、射抜くような視線で、じっと見つめていることに、その時の俺は、まだ気づいていなかった。
やれやれ、永禄時代でのサバイバルも大変だが、この現代日本での人間関係も、なかなかに複雑なクエストになりそうだ。
俺は、二人の監視者、いや、二人のヒロイン候補? に見守られながら、次なる冒険への決意を新たにするのだった。