第17話 ヘタレ主人公と絶対零度の報告会
時は流れ、弥生三月。尾張の山々にも、ようやく春の気配が訪れ始めていた。澄田さんが、この永禄の世に滞在して、早くも一ヶ月が経とうとしている。大学生である彼女も、そろそろ、令和の日常に戻らなければならない時期だ。
「澄田さん、本当に、この一ヶ月、助かった。ありがとう」
令和へと繋がる祠の前で、俺は、改めて、彼女に頭を下げた。
「いえ。私にとっても、非常に有意義なフィールドワークとなりました。むしろ、感謝しているのは、こちらのほうです」
澄田さんは、いつも通りの冷静な口調でそう言ったが、その表情は、どこか名残惜しそうに見えた。
この一ヶ月、彼女は、ただの知識の提供者ではなく、俺たちの村の、かけがえのない仲間だった。
特に、陶器作りの時の、あの楽しそうな顔は、忘れられない。
「また、いつでも、来てくれよな」
「……はい。もちろんです」
彼女は、小さく、しかし、はっきりと頷いた。
俺たちは、大森たちに見送られながら、時空のトンネルへと足を踏み入れた。
眩い光が収まった先は、見慣れた婆ちゃんの家の仏間だ。
「ふう、着いたな。さて、それじゃあ……」
俺が、リビングへ向かおうと、一歩、足を踏み出した、その瞬間だった。
「嶺さんっ!」
仏間の襖が、勢いよくスパン!と開かれ、そこから、弾丸のような勢いで、人影が飛び出してきた。
「うわっ!?」
俺は、その衝撃に、たたらを踏む。俺の胸に、顔をうずめてきたのは、間違いなく、茜さんだった。
「おかえりなさい! ずっと、ずっと、待ってたんだから!」
甘えた声と、シャンプーのいい匂い。一ヶ月ぶりの、茜さんの感触に、俺の心臓が、馬鹿みたいに跳ね上がる。
「あ、茜さん……ただいま」
「うん、おかえり……。ねえ、嶺さん。約束、覚えてる?」
「え、約束?」
俺が、きょとんとしていると、茜さんは、顔を上げ、潤んだ瞳で、俺をじっと見つめてきた。その瞳には、熱っぽい何かが宿っている。
「……キス、してくれるって」
「ええっ!? いや、そんな約束は……!」
してない! 断じて、していない! だが、茜さんは、俺の言葉など、聞こえていないかのように、ぐいっと、俺の顔を引き寄せた。
そして――。
俺の唇に、柔らかくて、温かい感触が、押し当てられた。
しまった、と思った時には、もう遅かった。前回のような、可愛らしいものではない。もっと、こう、確かめるような、想いの全てをぶつけてくるような、そんな、濃厚なキス。
俺の頭は、完全に、真っ白になった。
な、な、な……なんだ、これは……!?
だが、それ以上に、俺の全身を、凍り付かせる出来事が、すぐ隣で起こっていた。
ごおおおおおっ……。
比喩ではない。物理的に、気温が、急降下したかのような、凄まじい冷気と圧力を、俺は、肌で感じていた。
恐る恐る、本当に、恐る恐る、視線だけを、横に向ける。
そこに立っていたのは、能面のような、無表情の澄田さんだった。
いや、違う。
無表情ではない。
その瞳は、絶対零度の光を放ち、俺と、俺にキスをしている茜さんを、射抜くように、見据えていた。
その視線は、まるで、南極の氷でできた、鋭利な刃物のようだ。
刺されたら、血も出ずに、凍傷で、細胞が壊死しそうだ。
ひっ……!
俺は、声にならない悲鳴を上げた。
まずい。
これは、まずい。人生で、最大級に、まずい状況だ!
俺は、慌てて、茜さんを引き離そうとした。
だが、彼女は、まるで、それを予期していたかのように、俺の首に回した腕に、さらに力を込めてくる。
しかも、だ。
彼女は、俺と唇を重ねたまま、ちらり、と、澄田さんの方に、挑戦的な視線を送ったのだ。
見せつけている!
この人、澄田さんに見せつけるために、わざと、キスをやめないんだ!
女の戦い、という言葉が、脳裏をよぎった。だが、これは、戦いなどという、生易しいものではない。
これは、戦争だ。
俺という、ちっぽけな領土を巡る、二大勢力の、全面戦争だ!
やめろ……!
やめてくれ……!
俺のライフは、もう、ゼロだ!
俺が、心の中で、必死に白旗を振っていると、ついに、しびれを切らした第三勢力……いや、絶対零度の女神が、動いた。
「……そこまでです」
地を這うような、低い声。
次の瞬間、澄田さんの手が、にゅっと伸びてきて、俺の腕と、茜さんの腕を、それぞれ、鷲掴みにした。
その握力は、人間の女性のものとは、到底、思えなかった。
「い、いった……!」
「きゃっ!?」
俺と茜さんの、情けない声が、同時に上がる。
澄田さんは、何も言わず、俺たち二人を、まるで、言うことを聞かない、二匹の子犬でも引きずるように、ずかずかと、居間へと、連行していった。
居間に、俺と茜さんを、乱暴に座らせると、澄田さんは、仁王立ちで、俺たちを見下ろした。
「これより、永禄尾張における、この一ヶ月間の活動報告会を、開始します」
有無を言わさぬ、冷徹な声。
報告会?
今、この状況で?
どう考えても、それどころではないだろう!
だが、澄田さんの、あの、氷の瞳に睨まれると、俺は「はい」としか、言えなかった。
「まず、経済基盤の拡充について。先日、完成した、新型荷車の量産体制が軌道に乗り、清州への、安定した物資輸送が可能となりました。これにより、炭の売上は、前月比で、150パーセントの増加を記録しています」
淡々と、しかし、どこか、棘のある口調で、報告は続く。
俺は、ただ、背筋を伸ばして、それを聞くことしかできない。
だが、俺の隣に座る茜さんは、違った。
彼女は、澄田さんの報告など、まるで、意に介していないかのように、そっと、俺の太ももの上に、自分の手を置いてきたのだ。
「ひっ!?」
俺は、びくっとして、肩を震わせた。
「さらに、新規事業として、陶器の生産を開始。私が、現地で指導を行い、草木灰を用いた釉薬の開発にも成功。第一号製品が完成し、こちらも、清州の市場での、新たな商品となる見込みです」
澄田さんの声のトーンが、一段、低くなった気がした。彼女の視線が、俺の太ももの上の、茜さんの手に、一瞬だけ、突き刺さる。
やめろ!
茜さん、頼むから、挑発するのは、やめてくれ!
俺が、凍殺されてしまう!
俺は、目で、必死に訴えたが、茜さんは、悪戯っぽく、にこりと微笑むと、今度は、俺の手を、両手で、ぎゅっと、握りしめてきた。
しかも、指を絡める、恋人繋ぎ、というやつだ。
俺は、もう、おろおろするしかなかった。
右手は茜さんに捕まれ、左隣からは、絶対零度の視線が突き刺さる。
正面の澄田さんからは、氷点下の報告が、延々と続けられる。
なんだ、この地獄絵図は。
「次に、村のコミュニティ形成について。木地衆との連携が、より一層、強化され、彼らの多くが、我々の村に定住するようになりました。これにより、労働力の安定確保と、技術力の向上が……」
澄田さんが、言葉を続ける。だが、その額には、青筋が、ぴくぴくと浮き上がっていた。
茜さんは、さらに、エスカレートする。あろうことか、俺の肩に、こてん、と頭を乗せてきたのだ。
ああ、もう、だめだ……。俺は、今日、ここで、死ぬんだ……。
俺が、人生を諦めかけた、その時だった。
「……もう、いい」
意外にも、先に、音を上げたのは、茜さんの方だった。
彼女は、ぱっと、俺から手を離すと、ふう、と、大きなため息をついた。
「……嶺さんの、へたれ!」
ぽつり、と、そんな言葉を、俺に残すと、彼女は、何事もなかったかのように、居住まいを正した。
「で、相談なんだけど、嶺さん。今度、農協で、新しく、直売所を出すことになってね。そこの、ポップのデザインを、ちょっと、手伝って欲しいんだけど……」
え? 急に、いつもの、仕事の相談?
あまりの、展開の速さに、俺の脳みそは、完全についていけていない。
だが、目の前の澄田さんのオーラが、少しだけ、和らいだのを感じて、俺は、心の底から、ほっとした。
助かった……。
とりあえず、処刑は、免れたらしい……。
その後、俺は、二人の、なんとも言えない、緊張感の漂う空気の中で、茜さんの仕事の相談に乗り、あっという間に、時間は過ぎていった。
俺は、この、気まずすぎる空間から、一刻も早く、逃げ出したかった。
「そ、そうだ! 茜さん、頼んでおいた、サツマイモの苗は、どうなった?」
「ああ、それなら、ちゃんと、用意してあるわよ。倉庫に」
「よし! じゃあ、俺、それを、永禄に運んで、すぐに、戻……いや、やっぱり、向こうの様子も、気になるしな!」
俺は、仏間に、サツマイモの苗が入った箱を、いくつも運び込みながら、できるだけ、自然を装って、宣言した。
「悪いけど、俺、また、向こうに戻るわ! 帰りは……そうだな、一ヶ月後くらいに!」
我ながら、完璧な、逃亡計画だった。
だが、その言葉を聞いた、二人の反応は、冷ややかだった。
「……ふうん。逃げるのね」
「……ええ。あれは、完全に、逃げますね」
茜さんと澄田さんが、顔を見合わせ、ふっと、鼻で笑った。その表情は、驚くほど、シンクロしていた。
「え、いや、逃げるって、わけじゃ……」
「いいから、早く、行ってくれば? こっちのことは、気にしないで」
「ええ。私たちが、何か、問題でも?」
二人は、なぜか、急に、仲良くなったかのように、腕を組んで、にこやかに、俺を見送っている。
……なんだ、この、急な、連帯感は。
背筋に、さっきとは、また、別の種類の、悪寒が走る。
だが、俺には、もう、この場から、逃げ出す以外の選択肢は、残されていなかった。
「じ、じゃあ、行ってくる!」
俺は、そう言い残すと、転がるように、再び、祠の光の中へと、飛び込んだのだった。
俺の姿が、光の中に消えた後、仏間には、二人の女性が、残された。
茜と澄田は、どちらからともなく、ふう、と、ため息をつくと、顔を見合わせて、苦笑した。
「……やれやれ」
「……ええ、本当に」
二人は、再び、リビングのソファに、腰を下ろした。さっきまでの、殺伐とした空気は、もう、どこにもない。
「……あの様子だと、澄田さん。あなたも、この一ヶ月、あのヘタレに、何もされてませんわね? 残念だったわね」
茜が、探るように、言った。
澄田は、少し、悔しそうに、唇を噛んだ。
「……ええ。まあ。ですが、それは、大峰さんも、同じでは? あの、見せつけるようなキス以上のことは、何も、なかったのでしょう?」
「……うっさいわね」
茜は、ぷいっと、顔を背けた。
しばらくの、沈黙。
やがて、二人は、同時に、顔を上げた。そして、その口から、全く同じ言葉が、飛び出した。
「「……へたれがっ!!」」
その言葉は、奇妙なほど、綺麗にハモっていた。
二人は、一瞬、きょとんとした後、どちらからともなく、くすくすと、笑い出した。
「あははっ! なによ、それ!」
「ふふっ……。いえ、全く、同感でしたので」
さっきまでの、敵意は、嘘のように消え去っていた。
そこには、同じ、悩みを抱える、同志のような、不思議な連帯感が、生まれていた。
「もう、ほんっと、信じられない! こっちが、あんなに、勇気出してるのに!」
「理解不能です。彼の、あの、異常なまでの、危機回避能力と、恋愛に対する、鈍感さは。研究対象として、非常に、興味深いですが」
「研究対象ですって? いいわよ、共同研究と、いきましょうじゃないの」
茜は、そう言うと、不敵な笑みを浮かべて、澄田に、手を差し出した。
「こうなったら、私とあなたで、協力して、あの、超弩級のヘタレを、一人前の男に、育て上げるしかないわね!」
澄田は、一瞬、驚いたように、目を見開いたが、やがて、その提案の意味を理解し、ふっと、口元を綻ばせた。
「……なるほど。共同戦線、ですか。合理的です。彼の、あの、ヘタレステータスを、改善しない限り、我々、どちらにとっても、未来はない、と」
彼女は、差し出された茜の手を、しっかりと、握り返した。
「ええ。謹んで、お受けいたします。この、史上、最も、困難なクエストを」
こうして、ヘタレな主人公、嶺を、全く、知らないところで、二人のヒロインによる、奇妙で、そして、強力な、共同戦線が、結成されたのであった。
彼が、次に、令和に戻ってくる時、一体、どんな運命が、待ち受けているのか。
それは、まだ、誰も、知らない。




