第5話: 風が誘う記憶
丘へと続く小道は、桜並木を抜けるにつれて、少しずつ勾配を増していった。
踏みしめるたび、乾いた土と若草の匂いが混じり合い、凪花の胸に懐かしさと緊張が同時に広がる。
腕に抱いた木箱が、春風に揺れてかすかに鳴った。
それは物音というより、眠っていた何かが目を覚まそうとする前触れのようだった。
——春の風が舞う丘。
日記に記されていた言葉が、何度も脳裏をよぎる。
見覚えのないはずの道。
知らないはずの風景。
それでも胸の奥では、「知っている」という感覚が確かに息づいていた。
丘の上に近づくにつれ、風は強さを増し、空は大きく開けていく。
草原の向こう、淡く揺れる光の中で、凪花はふと足を止めた。
——ここだ。
理由はわからない。
けれど、その場所だけが、周囲の時間から切り離されたように静まり返っていた。
凪花は木箱を抱き直す。
祖母が語らなかったこと。
日記に名を残した楓の想い。
そして、自分がここへ導かれた理由。
春風が丘を渡り、草を波のように揺らした。
その中心で、凪花は静かに息を吸い込む。
ここから——
祖母の記憶と、封じられていた過去が、語られ始める。
丘の頂に立った、その瞬間だった。
風が、止んだ。
さきほどまで凪花の背を押すように吹いていた春風が、嘘のように静まり返る。
草の揺れる音も、遠くの鳥の声も消え、世界から音だけが抜き取られたようだった。
「……静か……」
零れた声さえ、空気に溶けていく。
次の瞬間、風が再び動き出す。
だがそれは、前へ進む風ではなかった。
凪花を中心に、
ゆっくりと——円を描くように巡り始める風。
髪が浮き、スカートの裾が揺れ、足元の草が一斉に同じ方向へとなびいた。
舞い上がった花びらは落ちることを忘れ、空中で留まっている。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
——来る。
理由はわからない。
けれど、確信だけが先にあった。
凪花は思わず木箱を抱きしめる。
箱の中の手紙が、脈打ったように感じられた。
次の瞬間、
風が——凪花の胸を突き抜けた。
痛みはない。
代わりに、記憶が流れ込んでくる。
土の匂い。
若かった祖母の手。
同じ丘の上に立つ、誰かの背中。
(……これは……)
視界が揺れ、意識が引き込まれる。
凪花は“見る側”ではなく、“感じる側”になっていた。
——私は、ここに立っている。
祖母の視点だった。
風に揺れる桜を見上げ、手紙を胸に抱え、
その隣に、ひとりの青年が立っている。
穏やかな横顔。
どこか影を宿した瞳。
青年は桜を見つめたまま、静かに言った。
「この記憶は……きっと、次に来る人へ渡される」
祖母は、小さく頷く。
「ええ。あの子なら、受け取れるわ」
青年は、わずかに微笑んだ。
「……凪花、ですね」
——その名を口にした瞬間。
凪花の胸が、強く脈打った。
同時に、ひとつの名前が、はっきりと形を持って浮かび上がる。
楓。
日記の表紙に記されていた名。
桜を“記憶の証人”と呼んだ人。
「楓……」
声に出した瞬間、風が一気に解き放たれる。
巡っていた空気は春の風へと戻り、
凪花は膝をついて地面に手をついた。
息が荒い。
けれど、恐怖はなかった。
胸の奥に残っているのは、
確かな温度と、重なった想い。
祖母は、知っていた。
楓と、この丘で、何かを託し合っていた。
そして——
その記憶は、今、凪花の中に渡された。
彼女はゆっくりと立ち上がり、丘の先を見つめる。
「……ここが、始まりなんだ」
風が答えるように、桜の花びらが舞い上げた。
春風の丘に、凪花は静かに立っていた。
祖母の記憶と、楓の想いを胸に抱きながら。




