第2話 咲かなかった桜の約束
楓の時代の断片
——同じ桜の下。
まだ背の低い幹に、今よりも多くの枝葉を残していた頃。
春の空気は少し冷たく、土の匂いが濃かった。
楓は桜の木の根元に腰を下ろし、膝の上に日記を広げていた。
若い指先はインクに汚れ、何度も書き直した跡が紙に刻まれている。
「今日も、ここに来た」
そう書いて、彼は一度、筆を止めた。
桜の花びらが肩に落ちても、払おうとはしない。
この場所だけは、変わらなかった。
人の声も、街の音も、ここには届かない。
ただ風と、花びらと、静かな時間だけが流れている。
「君がいなくなってから、春が来るのが怖くなった」
文字は震えていた。
それでも楓は書くのをやめなかった。
忘れてしまうことが、何よりも怖かったのだ。
声の調子も、笑ったときの目の形も、
桜を見上げたときに浮かべた、あの小さなため息さえも。
「だから、桜に預けることにした」
幹にそっと手を添える。
ざらついた感触が、確かに“ここにいる”ことを教えてくれる。
「君を覚えていてくれるなら、
僕が消えても、約束は消えない」
風が吹き、枝が揺れ、花びらが舞った。
それは答えのようでもあり、ただの春の気まぐれのようでもあった。
楓は日記を閉じ、桜を見上げる。
その表情は、泣いているようで、微笑んでいるようでもあった。
——いつか、誰かがここに立つ。
この桜の下で、
自分と同じように、立ち止まる人がいる。
そう信じて。
夢に滲む春
その夜、凪花は夢を見た。
桜が、今よりも少し低い位置で枝を広げている。
空気は冷たく、春の始まりの匂いがした。
桜の根元に、ひとりの少年が座っている。
年は、自分より少し上だろうか。
伏せた横顔は見えないが、指先がインクで黒く染まっているのが分かった。
少年は膝の上に広げた日記に、何かを書いていた。
「桜の木は、僕の記憶の証人だ」
その声は、音にならず、風のように凪花の胸に届く。
——知っている。
その言葉は、確かに日記にあった。
凪花が一歩近づくと、少年はふと顔を上げる。
だが、その表情を確かめる前に、視界が揺れた。
代わりに現れたのは、もう一つの光景。
桜の木のそばに立つ、小さな女の子。
その手を引いているのは、若い女性だった。
優しく、どこか懐かしい横顔。
凪花は、息を呑む。
——祖母だ。
今よりもずっと若く、それでも同じ穏やかな眼差しで、
祖母は桜の幹に手を添えていた。
「大丈夫よ」
誰に向けた言葉なのかは、分からない。
けれどその声は、確かに春の空気に溶けていた。
「約束は、ここに残るから」
その瞬間、夢はゆっくりとほどけていく。
凪花は目を覚ました。
胸の鼓動が、いつもより少し早い。
枕元に置いた日記を、そっと開く。
あの一文に、自然と目が吸い寄せられた。
「桜の木は、僕の記憶の証人だ。」
——夢の中で聞いた、そのままの言葉。
凪花は静かに日記を閉じる。
祖母の言葉、楓の願い、桜の木。
それらは、同じ春のどこかで、確かに交差していた。
そして凪花は知る。
自分がこの桜に導かれたのは、偶然ではない。
まだ語られていない約束が、
この木の下で、彼女を待っているのだと。
桜が知っていること
翌朝、凪花は祖母の遺した箱を開いた。
古い桐箱の中には、手帳と、擦り切れた一枚の写真があった。
写真には、桜の木。
そして、その下に立つ若い祖母と——隣にいる、見知らぬ少年。
凪花の喉が、かすかに鳴る。
夢で見た横顔と、重なっていた。
手帳を開くと、祖母の文字が静かに並んでいた。
「あの子は、記憶を書き留めることでしか、自分を保てなかった」
「忘れられることを、誰よりも恐れていた」
——楓。
名前は、そこにあった。
祖母は彼を“観察者”ではなく、“預かる存在”と記している。
「私は全部を知らない。
けれど、この桜の下で交わされた約束だけは、本物だ」
ページをめくる指が、震える。
「この記憶は、次の春に渡される」
「血ではなく、想いで繋がる者へ」
凪花は、息を止めた。
——それは、私?
視線が最後の一文に落ちる。
「凪花は、聞こえる。
失われた声に、立ち止まれる子だから」
胸の奥で、何かが静かに噛み合う。
自分がなぜ、桜に惹かれ、日記の言葉に痛みを覚えたのか。
祖母は、楓が遺す“記憶”が、
いつか誰かを選ぶことを知っていた。
そして——
凪花は、それを受け取ってしまう側の人間だった。
桜の木は、ただ咲いていたわけじゃない。
祖母は守り、楓は託し、
そして今、凪花が立っている。
約束は、まだ終わっていない。
封じられた春
夜、凪花は再び桜の夢を見る。
今度の桜は、花をつけていなかった。
枝は静かに伸び、風の音だけが響いている。
桜の根元に、楓が立っていた。
夢の中でも、その名前だけははっきり分かる。
「これは、咲かなかった春だ」
楓はそう言って、幹に手を添えた。
その指先が触れた瞬間、景色が歪む。
凪花は知る。
楓が封じたのは、記憶ではない。
——選ばれなかった未来だ。
誰かと共に生きるはずだった時間。
交わされるはずだった言葉。
桜の下で、迎えるはずだった約束の日。
それらはすべて、
“起こらなかった春”として、桜に預けられていた。
「忘れたかったわけじゃない」
楓の声が、風に混じる。
「叶ってしまえば、
誰かの人生が壊れることもある」
だから彼は、願いを閉じた。
誰も悪者にならないために。
景色が変わる。
今度は、若い祖母がそこにいた。
まだ凪花を知らない頃の姿だ。
祖母は桜の下に立ち、
咲かない枝を見上げていた。
「……それでも、預けるのね」
楓は、うなずいた。
「いつか、受け取れる人が来る」
祖母は、静かに息を吐く。
「この子は、声を聞ける。
過去を抱えても、前を向ける子よ」
その言葉と同時に、
凪花ははっと目を覚ました。
胸が、痛いほどに温かい。
枕元の日記を開くと、
今まで気づかなかった一文が浮かび上がっていた。
「この春は、次の人へ渡す」
——渡されたのは、
悲しみではなく、選択の余白だった。
凪花は知る。
祖母が守ってきたのは、
楓が封じた“可能性”だったのだと。
——記憶は、まだ終わっていない。




