8 標的
(やっぱり参加するんじゃなかったな)
それが正直な感想だった。そう思いながらも、アールエッティ王国の第一王子として恥ずかしくないように背筋を伸ばしシャンパングラスを持つ。
今日は王太子の妃候補たちを労うためのパーティが開かれていた。慰労会という名目だが、実際は姫君たちの気分転換、いわばガス抜きのためのパーティだろう。参加すべきじゃないと思ったが、殿下に直接「参加するか?」と尋ねられて「参加しません」とは言えなかった。
(それにしても、本来なら華やかなパーティなんだろうが……)
それぞれの思惑が渦巻いているからか、どこかピリピリしているように感じられる。とくに殿下の周りには、笑顔と憎悪が入り混じっているような恐ろしい雰囲気が漂っていた。
(あれでは殿下も大変だろうな)
細かなことに気がつく殿下のようだから、姫君たちが牽制し合っていることにも当然気づいているだろう。そんな中で最初の妃を決めなければいけないとは、同じ王太子だった身として心情を察するに余りある。
(いや、我が国と同じように考えるのは失礼か)
ビジュオール王国は大国だ。そんな大国の王太子が妃を決めるということは、国同士の繋がりや政治的思惑、それに各国の均衡にも目を配らなくてはいけない。「とりあえずこの姫にしよう」なんて気楽な気持ちで決めることはできないだろう。
(そうなると、僕が最初の妃になるのはますます難しい気がしてきたぞ)
アールエッティ王国と繋がりを持つメリットが大国ビジュオールにあるとは思えない。利があるのは我が国だけで、そんな小国の王子である僕を妃に選ぶのは相当な物好きくらいだ。もしくは珍獣好きといったところか。
(そんな物好きがいるのも大国ならではなのかもしれないが……)
ビジュオール王国の後宮に来て三月弱が経とうとしているが、肖像画を描いてほしいという王侯貴族からの手紙が届くようになった。後宮にいる僕にそういった話が届くのは本来あり得ないはずなのだが、これも姫君たちの策略の一つなのかもしれない。もしくは殿下に僕を妃にする意志がない現れなのか。
(そうだとしたら、いよいよ王太子妃以外の道を考えないと駄目か)
これだけ殿下と濃厚接触をくり返しているというのに、僕には一向に発情する気配がない。このままでは子を孕むことができず、遠からず後宮を出ることになるだろう。
(いっそ殿下以外のα王族に嫁ぎ先を変えるか……?)
ノアール殿下には兄弟がいない。だが、αの従兄弟は複数いると聞いている。それなら従兄弟の誰かに嫁ぐというのもありだろう。王太子でなくとも大国の王族なのだからお金持ちだろうし、アールエッティ王国を少しでも助けることができるはずだ。
(少し周囲も見ておくか)
今後の見通しが決まったと視線を上げたところで、姫君たちに囲まれていることに気がついた。扇子で口元を覆っているが嘲笑しているのは目を見ればわかる。これは面倒なことになったなと思っていると、姫君たちが次々に話し始めた。
「今日はあなたもいらっしゃったのね」
「一応妃候補として後宮にいらっしゃるのでしょうから、招待状が届いても仕方がないけれど」
「あら、それでも断るのが礼儀というものじゃなくて?」
「そうよね。ただの画家が王太子殿下主催のパーティに出席するなんて本来あってはいけないことだわ」
「ま、それはさすがに失礼よ。ただの画家ではなくて、画家のような王子様なのだから」
「あら、王子様のような画家じゃなかったかしら?」
姫君たちがクスクス笑っている。まるで子どものようなやり口だなと半ば呆れながらも、さてどうしたものかと考えた。
ここで少しでも反論すれば姫君たちの反感をさらに買うことになるだろう。男のΩに出し抜かれたくないという姫君たちの気持ちもわからなくはないし、彼女たちと争う意思は僕にはない。
(同じΩであっても、やはり僕は男だからな。女として男に負けるなんて屈辱なのだろう)
ビジュオール王国の王太子妃候補に選ばれるような姫君たちだ、自尊心は僕よりはるかに強く高いに違いない。そんな女性たちと争って勝とうなんて、妹にすら勝てない僕には想像すらできないことだ。
(かといって、黙っていても穏便に脱出できるかどうか……)
少し離れたところで、殿下も十数人の姫君たちに取り囲まれている。おそらく殿下にこちらの様子を見せないようにしているのだろう。ということは、今回は全員での共闘といったところか。
(なるほど、一番目障りな僕を早く排除しようということか)
普段牽制し合っているはずの姫君たちの連携には頭が下がる。こんな後宮で自分が生き残れるとは到底思えない。これは早々に別の嫁ぎ先を見つけたほうがよさそうだ。
そこまで考えたとき、体の奥からゾワッと熱が膨らむような奇妙な感覚に襲われた。一瞬体が震え、服と擦れた肌がピリッとする。
(なんだ……?)
高熱が出たときに近い感覚だが、先ほどまでは何ともなかった。しかしいまは目眩も少し感じる。
(……体調を理由に早々に部屋に戻るべきか)
ややふらつく足に力を入れ、姫君たちに退席の言葉を告げようとしたときだった。
「あら、ごめんなさい」
閉じた扇子でコツンと肩を小突かれた。元々少しぐらついていたからか、カクンと膝の力が抜ける。それでも倒れてはいけないと踏ん張ったところで、今度は反対の肩を小突かれた。
「いい加減、ご自分の立場をよくわきまえるべきよ」
「そうよ。あなたのような小さな国の王子は大国の妃にふさわしくないわ」
今度はグラスを持っていない左腕を小突かれた。大した力ではないが、目眩がしているからか体がグラリと揺れてしまう。
「それにΩといっても男ではないの。昔は男のΩも王妃になって子を生んだと本に書かれていたけれど、あなたがそうなるとは限らないわ」
「そもそも男の体で子を身ごもるなんて本当にできるのかしら」
「いくらΩを妃にと考えている殿下でも、さすがに男を……なんてねぇ」
あちこちから笑い声が聞こえる。僕自身「たしかに」と思う部分もあるが、いかんせん目眩がひどくて頷くこともできない。
「そもそも本当にΩなのか怪しいものだわ」
「あら、わたくしもそう思っていたところよ。Ωなら発情していなくてももう少し香りがするはずなのに……ほら、やっぱりしない」
「香りがしないなんて、Ωというのも嘘じゃなくって?」
「まぁ、それが本当なら大変なことだわ」
「それとも、もうどなたかに首を噛まれてしまっているのかもしれないわ。それなら香りがしなくてもおかしくないでしょう?」
「そうだとしたらとんでもないことよ。殿下以外に噛まれたのだとしたら断罪されてもおかしくないわ」
香りがしないのは、僕がまだ発情していないからだ。それに誰かに首を噛まれたことなんてない。
(……ちょっと待て。首を噛まれるとは、どういうことだ……?)
ぐらつく頭でも最後の言葉がやけに気になった。内容からして「αが噛む」ということなのだろうが、そんな婚姻の方法は聞いたことがない。それともαとΩでは普通のことなのだろうか。
……駄目だ、うまく考えられない。目眩もひどくなってきたからか、姫君たちのドレスがぼやけて見えてきた。
(それにしても、こういう場でさえ、似たようなデザインの、ドレスなのだな)
そんなことに感心していた僕の右手から力が抜けた。握っていたグラスが床に落ち、ガシャンという砕ける音と「きゃあ」という姫君たちの悲鳴が聞こえる。
(しまった……。ドレスを、汚してしまったに、違いない……)
これではますます怒りを買ってしまうに違いない。早く謝らなければと思っているのに僕の体は段々前のめりになり、アッと思ったときには目の前に磨き上げられた床があった。
ドスン。
(い……たい、な……)
かろうじて顔面からぶつかるのは避けられたが、代わりに右肩から派手に倒れてしまった。腕を痛めていたらしばらく筆が持てなくなるな……そんなことを思っていた僕の耳に「何をしている」という殿下の声が聞こえてきた。
「殿下」
「ノアール様」
少し焦っているような姫君たちの声が聞こえ、ドレスの裾が動くのが見えた。色とりどりの布の間から真っ白な靴が現れる。
(……たしかこれは、殿下の靴、だったような……)
我が国でも目を引きそうな色とデザインの革靴に、なかなかよい感覚をお持ちのようだと思った。こういう殿下となら妃になったあとも楽しく過ごせそうだと思っていたのに残念だ。そんなことを思いながら見ていた革靴が段々近づいて来る。
「大丈夫か」
「……これは、……申し訳……」
「よい、じっとしていろ」
床に膝をつきながら声をかけてきたのは殿下自身だった。大国の王太子になんてことをさせているんだと恐縮したが、謝罪の言葉すらうまく出てこない。頭だけでなく口もうまく動かないのかと情けなく思っている間に脇に腕を回されたことに気がついた。
(……まさか、殿下の腕、か……?)
驚いて身じろいだが体をうまく動かすことさえできなかった。いったいどうしてしまったんだと困惑していと、頬に柔らかな布が触れた。
ぞくん。
殿下の服に頬が触れたのだとわかった。たったそれだけのことなのに、なぜか体の奥が痺れるような感覚がした。皮膚が粟立ち、頭がますますぐらついてくる。そのせいで余計に身を預けることになってしまった。
ぞくっ、ぞくん。
まただ。体の奥から強い痺れのようなものが駆け上がってきた。高熱を出したときに感じた、肌がむず痒いようなおかしな感じもする。目眩もひどくなり、全身がグラグラ揺れているような感覚になった。
「は、はっ」
気がつけば口から熱い息が漏れていた。これは間違いなく高熱が出たときの症状だ。あのときはΩの体に対応できなくて、という熱だったが、今回は病気の可能性がある。アールエッティ王国とビジュオール王国では気候が違うから、そのせいで風邪を引いてしまったに違いない。
(それでは……殿下に、移してしまう……)
早く体を離さなければ。もし病気を移してしまったら大問題だ。力が抜けた腕をなんとか動かし、無礼だと思いながらも殿下の胸をゆっくりと押し返した。ところが殿下の胸が遠のくことはなく、逆に力強く引き寄せられてしまった。
(……どういう、ことだ……?)
「発情のように見えるが、それにしては……」
想像していなかったほど近くから聞こえてきた声に肩がビクッと震えた。
「……香りはしないが、しかし発情しているようにしか見えない」
(香り……? それにいま、発情と言ったか……?)
目眩を感じながらも言葉の意味を考えていると、ひょいと体を持ち上げられた。背中や膝の裏、それに体の左側がやけに熱く感じる。
「わたしはランシュ王子と退室するが、皆はこのままパーティを楽しんでほしい」
殿下が何か話しているがうまく理解できない。僕のことは侍従か誰かに任せてくれれば大丈夫だと言いたいのに、声を出そうと口を開いても「は、は」という乱れた息しか出てこなかった。
(僕は……いったい、どうしたと……いうんだ……)
体が揺れているように感じるが、それが目眩なのか実際に揺れているのかすらわからない。僕は朦朧とした意識のまま、焦れったいようなくすぐったいような熱っぽさと揺れる心地よさに身を委ねた。