31 唯一という存在
大勢の人々に見守られるなか、王太子ノアール殿下との婚姻の書類に名を記した。それから可愛らしく着飾ったシエラを抱き、ノアール殿下の隣で殿下の言葉を聞く。王太子としての決意だけでなく、僕やシエラへの感謝も含まれた言葉に胸が熱くなった。最前列にいたアールエッティ王国からの使者たちが大泣きしていたのも印象深い。
大勢の招待客の視線に多少たじろく場面もあったが、大きな失敗はなかったと思う。招待客たちの間を歩いているときに「あれが男のΩか」というような言葉が聞こえたものの、それ以上の言葉を投げつけられることもなかった。代わりに終始ジロジロと見られた気がするが、それだけ男のΩが珍しいということなのだろう。
何はともあれ結婚式を無事に終えることができた。シエラのお披露目もできたし、僕は晴れて正式な王太子妃となった。だからといって急に何かが変わることはないが、式が終わった夜は「よし」と拳を握りしめて気合いを入れ直したりもした。
(式も終わった。画材工房も稼働し始めた。僕も本格的に絵を再開するかな)
完成間近だったリュネイル様の肖像画を仕上げたのは、つい先日のことだ。それを持って久しぶりにリュネイル様に会ってきた。結婚式の前にシエラと一緒に会いに行ったときもだったが、絵を持っていったときもたくさんの子供服を頂戴してしまった。
同じくらい王妃からも子供服を頂戴している。しかもシエラの顔を見せに行くたびに頂戴するものだからいったい何人分かという量で、ノアール殿下と思わず顔を見合わせてしまったほどだ。
(王妃にとってはもちろんのこと、リュネイル様にとってもシエラは孫のような感じってことか)
リュネイル様からはまたシエラと遊びに来てほしいと言われた。シエラもリュネイル様が好きなようだから、近いうちにまた遊びに行くことにしよう。
(もしかして、リュネイル様の美しさは赤ん坊にもわかるのかな)
乳母相手にもぐずることの多いシエラだが、リュネイル様のそばにいるときは一切泣かない。それどころかにぱぁと笑い、いつまでもキャッキャッとご機嫌な様子を見せる。
そんなシエラは、完成したリュネイル様の肖像画を見たときにもキャッキャと笑って手を叩いてくれた。それだけ実物そっくりのリュネイル様を描けたということで、画家としてこれほど嬉しいことはない。
(やはりキラキラが足りなかったんだろうな)
ずっと何かが足りないと思い完成させられなかったが、足りなかったのはあふれんばかりの生命力だったに違いない。僕はシエラを生むときに見たキラキラした感覚を思い出しつつ、リュネイル様の肖像画と向き合った。あのキラキラしたものをなんとか絵に描けないか試行錯誤した。ただの光の反射ではない、内面からにじみ出るような美しさを描くのだと奮起した。
そうして目や頬、唇に手を加えた完成品は自分で見てもすばらしい出来で、リュネイル様も大層喜んでくれた。今回のことは今後の僕の画家人生にとっても大きな分岐点になるだろう。
「さて、今日は工房で作った絵の具の仕上がり具合を確認することにするか」
色合いや溶き油との混ざり具合、それに匂いも確認しておきたい。下絵が終わったキャンバスの中からケーキ皿ほどの大きさの花の絵を選び「さぁ塗るぞ」と絵筆を取ったときだった。
「その前に昼食だ」
「殿下」
声に驚いて振り返ると、部屋に入ってきた殿下の後ろに昼食を載せたワゴンを押す侍女たちがいる。
(しまった、また時間を忘れていた)
あれこれ忙しくしているからか、たまに昼食の時間を忘れそうになる。いや、実際何度か忘れてしまい、シエラの授乳で思い出したくらいだ。
そんな僕を心配したノアール殿下は、毎日必ず僕の部屋で昼食を取るようになった。王太子としてますます忙しくなった殿下を煩わせてはいけないと思っているのに、昼食だけは一緒に取るのだと言って譲らない。だからこそ時間には気をつけようと思っていたのに、また時計を見るのを忘れてしまった。
「わたしと一緒に取ることにしておいてよかっただろう?」
「あー……申し訳ありません」
「謝る必要はない。わたしがランシュと一緒に食べたいのだ」
内容は気恥ずかしくなるものなのに殿下の表情は少し暗い。いや、暗いというより、これは機嫌がよくないときの顔だ。
(せっかく一緒に過ごす時間だというのに、僕がすぐに忘れてしまうからだろうなぁ)
殿下は王太子としての執務が増え、僕はシエラの世話や画材工房、それに依頼された絵の制作があるため顔を合わせる時間が随分減ってしまった。本来なら王太子妃の仕事で殿下と一緒に執務をこなす時間が増えるはずなのに、そちらのほうは必要最低限のことしか任せてもらえない。
そのことに僕は少しばかり不満を抱いていた。たしかに王太子妃としての教育は受けていないが、僕だって元は一国の王太子だ。説明を受ければちゃんと役目も果たせるだろうし、少しでも殿下の助けになりたいとも思っている。それなのに王太子妃の仕事がほとんどないのは、殿下がそう指示しているからだ。とくに隣国の外交団との会食に僕が出席するのを嫌がり、親善のためにやって来た使節団への挨拶すら控えるように言われている。
僕だって王太子時代には諸外国の王侯貴族と接してきたのだから、作法や会話には慣れている。それなのに頑なに駄目だと言うのは僕を信頼していない証拠じゃないのか、なんて勘繰りたくなっても仕方がないだろう。
(理由を聞いても言いたがらないしなぁ)
口をつぐみ、視線を逸らす殿下を思い出すと無性に腹が立ってきた。せめて理由を言ってくれれば解決できるかもしれないのにと思うと口がへの字になりそうになる。
そういう小さなことが積み重なっているからか、僕が気にしすぎているせいか、こうして顔を合わせて食事をしているのに話が弾むことがない。結婚式が終わってからはベッドを共にすることも減り、殿下が寝室に来るときも僕が先に眠ってしまうことがほとんどになった。
(……いや、こんなことではよくないよな)
わかっているが、僕も忙しくしているせいか心に余裕が持てない。それにシエラの授乳で寝不足気味が重なり、些細なことで苛ついてしまうことが増えてきた。
(これじゃあ駄目だ)
王太子妃としてもだが、シエラの親としても殿下の妃としてもよくない状況だ。もっと広い視野で周りを見るようにしなければと、王太子時代に言われていたことを思い出す。
(まぁ、それが一番難しいというか……っていうか、今日のパンはやけに甘いな)
ひと口囓ったパンは昨日と同じ種類だというのにやけに甘く感じる。もうひと口囓ってみるが、やはり甘い。
(……いや、これはパンの甘さじゃない)
パンを飲み込んでから、殿下に悟られないように小さく鼻を鳴らす。ほんのり漂う独特の甘い香りは僕のバニラの香りだ。もう一度嗅ぐと、今度は殿下の濃いミルクの香りが鼻を通り抜ける。ほんのわずかだが二人の香りが混ざり合い、極上のミルクセーキのような香りに感じられて体がじんわり熱くなった。
「もしかして……」
「ランシュ、体の調子がよくないのではないのか?」
急に食べることをやめた僕を、向かいに座る殿下が眉尻を下げながら見ている。
「あぁいえ、なんでもありませんから気にしないでください」
しまった。「もしかして」と期待している気持ちを悟られたくなくて素っ気ない返事をしてしまった。案の定、殿下の顔から表情が消える。しくじったと思ったが、自分でもはっきりわからないことを殿下に話すわけにはいかない。
(これが発情だとして、五カ月というのはさすがに遅い気がする)
これも僕が男のΩだからだろうか。それとも遅咲きが影響しているのだろうか。
シエラが生まれてすでに五カ月が経とうとしている。アフェクシィ殿に頼んで用意してもらったΩの解説本には、早ければ出産して半月後には発情すると書いてあった。ところがひと月経ってもふた月が過ぎても僕は発情しなかった。おまけにあれこれ勝手に忙しくしているせいで妊娠中ですらしていた殿下との触れ合いもない。
以前「発情していなくても抱きたいと思っている」と言ったくらいだから、殿下はそれを望んでいるに違いない。そういう雰囲気を感じるときがあるが、疲労と気恥ずかしさから気づかない振りをしてしまった。
(でも、発情ならそんなことは関係なくなる)
発情ならαとΩがベッドを共にするのは当然のことだ。男同士という気恥ずかしさや抵抗も消える。それに体だけでなく心から繋がれる発情なら、いまの僕たちの微妙なすれ違いも解消される気がした。
(そう思うと発情が待ち遠しくなるな……って、もしかして一年振りじゃないか?)
最後に発情したのはシエラができたときだから、かれこれ一年ほど前の話になる。
不意に最後の発情のことを思い出した。あのときは頭が痺れるほどの濃厚な香りに溺れるような感覚だった。実際、香りが強すぎて息ができなくなるときもあったし、それが苦しいのにたまらなく気持ちよかった気がする。それをまた感じられるということだ。
(……なんだかお腹の奥が熱くなってきた気がする)
これも発情が近づいている前兆なんだろうか。だが、もし発情なら殿下も気づくはずだ。そう思って様子を伺ってみるものの、とくに変わった様子はない。もしかして僕の勘違いかと思ったものの、やはり体の奥がジクジクするのは発情前のような気がする。
発情かどうか気になってしまい、食が進まなくなってきた。しかし食べなければますます殿下に心配をかけてしまう。パンを囓り、スープで流し込むようにしながらなんとか食事を続けた。
(発情だといいな)
そうしてまた殿下と一緒に発情を過ごしたい。昨日の夜までは発情を思い出すことすらなかったのに、いまはそのことばかりが頭を巡った。
発情の兆候を感じて三日が経った。しかし僕の香りの強さはほとんど変化していない。シエラを出産したあともかすかに香ったままだったからか、殿下も気づいていないように見える。
それでも僕には確信めいたものがあった。僕はもうすぐ発情する。そのときはシエラのことも忘れて殿下のことしか考えられなくなるだろう。親としてどうなんだと思わなくもないが、それがαとΩだと本に書いてあった。後宮の侍女たちはそのことを十分にわかっているし、乳母やアフェクシィ殿もいるから問題ない。シエラはぐずるかもしれないが、あの子ならきっと大丈夫。
(早く発情が来ないかな)
気がつけばそのことばかり考えていた。授乳中も発情が気になり、乳首への刺激にドキッとしてしまうこともあった。食事のときも入浴のときも、こうして絵を描いているときでさえ発情のことばかりが頭を埋めていく。
(……早く殿下と発情を過ごしたい)
発情は世界を僕と殿下だけにしてくれる。濃厚なミルクの香りとバニラの香りが混じり合い、その中で僕と殿下は交わり続ける。誰にも邪魔できないし邪魔させない。僕の香りは殿下を捕らえ続け、決して逃したりはしない。
(僕のこの香りは殿下だけのものだ)
殿下だけを呼び寄せる香りを目一杯放ち、僕だけのαをこの腕に捕らえる。僕が望む限り、殿下は僕に囚われ続ける。
足元に何かがころんと転がった。床を見ると絵筆が落ちている。右手を見たら、持っていたはずの絵筆が消えていた。
「……僕が落としたのか」
おかしな話だが気がつかなかった。発情が近いせいか、こうしてぼんやりすることが増えてきた気がする。絵を描くのはやめておいたほうがいいかと思いながら、筆を拾おうと立ち上がった……が、そのままぼんやりしてしまった。。
「……何をしようとしてたんだっけ」
何かをしようと思って立ち上がったはずなのに思い出せない。「ええと……」と額に右手を当てたとき、ふわっとバニラの香りを感じた。
(……そうだ、殿下の香りを集めないと)
僕の香りが殿下の香りを集めろと言っている。そうだ、僕は殿下の香りをたくさん集め、安心して発情できる場所を作らなくてはいけない。
気がついたら寝室のクローゼットを開けていた。ふわりと漂っているのは大好きな濃いミルクの香りだ。くんと鼻を鳴らし、とくに濃く香るシャツや上着を何枚か手に取る。ズボンと夜着も手にしたところで、別の場所からいい香りがすることに気がついた。
「……あれか」
ベッドの脇にタオルが置いてある。あれは今朝殿下が使ったものだ。
(そうだ、昨日のシャツもあるんだった)
今朝早くに目が覚めた僕は、本来なら回収されるはずの殿下のシャツを自分の枕の下に隠した。なぜかそうしなければと思ったからだ。枕をどけると、昨日一日殿下が着ていたシャツが出てきた。枕を床に落とし、代わりに自分の顔をシャツに押しつける。
すぅっと息を吸うと濃いミルクの香りが鼻一杯に広がった。クローゼットの中のシャツよりも濃厚な香りに唾液が溢れそうになる。
「ん……」
シャツをかぷっと噛んだ。途端に口の中が大好きな香りでいっぱいになる。それだけでは満足できず、気がつけばシエラがお乳を飲むときのようにチュウチュウと吸いついていた。
(駄目だ、全然足りない)
もっと濃くで息が苦しくなるほどの香りがほしい。足の指から頭のてっぺんまでぐるぐる巻きにされるような、あの苦しいまでの香りがほしい。
「早く……早く、僕の香りに気づいて……」
そうつぶやくと、僕の全身から目眩がするほど甘いバニラの香りが噴き出したような気がした。
「ランシュ、」
「待て」と言う前にうるさい口を自分の唇で塞いだ。口づけだけでも濃い香りが体に入ってきて気持ちがいい。でも、全然足りない。これよりもっと濃密で苦しくなるほどの香りを僕は知っている。
「ランシュ」
「ぅるさい」
僕はもう何も着ていない。すぐにでも殿下を受け入れられる状態だというのに、ついさっき寝室に現れた殿下はなぜかすぐに服を脱ごうとしなかった。
それがたまらなく悲しかった。同時に腹が立ってどうしようもなかった。殿下は僕だけのαなのに、なぜ僕が求めるものをすぐに差し出そうとしないのか。こうして裸の僕をベッドの上に押さえつけるように覆い被さっているのに、触れると邪魔な服の感触がして苛々してくる。
「少し落ち着け」
「ん……んぅ、」
口づけと同時に喉の奥に届きそうなほど舌を入れられて背中が震えた。シャツを掴んでいた指を解かれるのが嫌で頭を振ろうとしたが、舌を甘噛みされて動けなくなる。そのまま口の中をたくさん舐め回された。息継ぎで少し唇が離れても絡ませた舌が解けることはなく、貪り合うような口づけが続く。
「前回の発情もすごかったが、今回はさらにすごいな」
唇が離れるのが嫌で手を伸ばすと、指先をカリッと噛まれて首筋がぞわりとした。そのまま手のひらや手首、肘の内側や二の腕に口づけされる。そうして鎖骨のあたりを噛まれ、胸の上側にちゅうっと吸いつかれた。
「んっ」
少し膨らんだからか、以前よりも敏感になったような気がする。そういえば、殿下はこの胸を気にするようにいつもじっと見ていた。男の胸が膨らむなんて、やはり気持ち悪いと思っているのではないだろうか。心配になり、そっと胸を見る。
少女のようにささやかに膨らんだ僕の胸の上側に、殿下が触れるような口づけを落とした。そのまま唇で撫でるように外側に触れ、下側に触れ、少しだけ肌から離れる。口が少し開き、赤い舌がちらりと現れた。何をするのだろうかと見ていると、その舌が尖っている中心部分をぺろりと舐めた。
「んっ」
大したことがない行為に背中がゾクゾクした。仰け反るように顎が上がる。シエラに吸われるときとはまったく違う感覚に首筋が粟立った。
「ここはとくに甘く感じるな」
「でん、か」
またぺろりと舐められた。これまでまったく気に留めることがなかった部分なのに、舐められるだけでビリビリしてしまう。それどころか吸われてもいないのにお乳が噴き出しそうな感覚がして驚いた。
「殿下、そこはあまり、ん……っ」
今度は手で揉まれた。授乳のとき、こうして揉むことはあるもののそれとは感触がまったく違う。背中を駆け下りた感覚に腰がグンと持ち上がった。いまのは間違いなく快感だ。
「シエラが吸うのを密かに羨ましく思っていたが……。なるほど、以前より大きさも弾力も増している。それに……」
濡れたところに吐息が当たってむず痒い。思わず身をよじると、「ここからランシュの強い香りがする」と囁かれて「んふ」と甘えるような声を出してしまった。
「甘くて濃厚で、ノットが膨らみそうになるほどだ」
そう言って太ももに熱いものを擦りつけられた。いつの間に脱いだのか、気がつけば殿下のどこもかしこもが待ちわびた素肌になっている。
「殿下、はやく」
久しぶりの発情だというのに僕の体は全部覚えていた。これからどれだけ素晴らしい時間を過ごすことになるのか、それだけ濃厚な香りに包まれるのか、すべて昨日のことのように思い出し、お腹の奥がじゅわりと熱を帯びる。それが背中を伝ってうなじをカッと熱くした。
「はやく」
「焦り必要はない。まだ発情は始まったばかりだ」
「はやく、いいから、早く僕の中に、」
始まったばかりかもしれないが、僕の体は殿下がほしくて限界を迎えていた。お腹の奥がジクジク疼き、手足をバタバタさせて暴れたくなる。早く体の深い場所を殿下の熱いもので埋めてほしい。そうして想いの丈をたっぷり注ぎ込んでほしい。発情で目覚めた僕のΩが狂ってしまいそうなほど僕だけのαを求めていた。
「はや、く……っ」
何度も訴えているのに、殿下は顔や体のあちこちに口づけるばかりだ。そんな焦れったい刺激で僕が満足できると思っているのか。それに触れてほしいのはそこじゃない。体のもっと奥深くで殿下を感じたくて気が触れそうになる。
「でん、か……っ」
肩を押して顔を上げさせようとした瞬間、胸をカリッと噛まれてピュゥッお乳が噴き出た。途端に濃厚なバニラの香りが広がり、同時に頭の中でぐわっと熱が広がった。
「いい、加減に、しろ……っ」
蹴り飛ばす勢いでのし掛かる殿下を押しのけた。チラッと見た殿下の下半身はすでに熱を十分持っていて、なぜ早く行為を進めないのかと腹が立った。
(そうか、向かい合わせだからいけないのか)
そう考えた僕は、くるりと背を向けると四つん這いになった。そうして尻側にいる殿下を見ながら「早くしろと、言ってるじゃないかっ」と叫ぶように乞うた。
さぁ、早く僕を抱きしめろ。αの本能のままに僕を抱くんだ。殿下だけのΩである僕を、僕だけのαである殿下が抱き、そうして子を成すのだ。僕が選んだ僕だけのαの胤は、僕だけが実らせることができる。これは互いに唯一の存在である僕たち二人の間でしかできないことだ。
「あぁ、なんて濃く甘い香りなんだ」
殿下から、いつもとはまったく違う虚ろな声が聞こえてきた。膝立ちになった殿下がゆらりと近づいてくる。見据えるような眼差しのまま殿下の顔がゆっくりと僕の尻に近づいたかと思うと、そっと尻たぶに口づけた。そのまま腰や背中に口づけ、合間に熱い声で僕の名を呼ぶ。
まるで神に赦しを乞うような姿に、祈るような声に心がゾクゾクと震えた。逸るように忙しくなる鼓動に思わず笑みがこぼれる。そうだ、僕だけのαなのだから僕だけを見ればいい。僕に囚われたまま僕の望みを早く叶えるんだ。
「はやく、しろ」
「ランシュ」
うっとりと蕩けるような声で名を呼んだ殿下が、肩甲骨に触れるように口づけた。そのまま唇を滑らせ、うなじに吸いつく。
「ふあ」
体の芯がゾクンと震え、上半身から力が抜けた。ぐにゃりと崩れ落ちた上半身とは違い、下半身は殿下が腰を掴んでいるからか膝立ちのままになっている。
「ここが、一番香りが濃いな」
うなじに熱い息が触れた。ぞわりとした感覚に身震いすると、それを封じるように僕の体にのし掛かった殿下がうなじにガブッと噛みついた。
「ひぃ……っ!」
痛みを感じたのは一瞬だった。すぐに背中を振るわせるような快感が駆け抜け、それがお腹の奥と脳天を貫く。あまりに強すぎる感覚に、それが快感なのか恐怖なのかわからなくなった。剥き出しになった何かを直接噛まれるような感覚が怖くて、無我夢中でベッドを掻き乱す。
「ひ、ひっ、や、やめ、はなし、て……!」
口からこぼれる声はほとんど悲鳴だった。殿下にも聞こえているはずなのに、鋭い歯は離れることなくますます肌に食い込んでいく。
「あぁ! あっ、ぁひ、ひっ、ひぅ!」
恐怖と快感が入り混じり、体がブルブルと震え出した。すっかり崩れ落ちていたはずの上半身にもグゥッと力が入り、全身がカチコチになってしまうほどどこもかしこも力んでいる。そんな体の中心を信じられないくらいの快楽が走り抜けた。
「あぁっ、ぁあ! ぁ、あ、あぁ、あぁっ!」
訳がわからなかった。うなじが熱くて焼けてしまったのかと思った。気持ちがいいのに怖くて頭がおかしくなりそうだった。そのくらい頭は混乱しているのに、僕の体はこのまま噛まれ続けろと訴えた。訳がわからずブルブルと震えながら、まるで獲物になったかのようにαという獣にうなじを噛まれ続ける。
「あぁ……!」
ついに殿下の歯が肌を食い破ったような気がした。初めてうなじを噛まれたときよりも鋭い痛みと、それを上回る快感が何度も体を駆け抜ける。頭が弾け飛んで体中から僕の香りが噴き出したような気がした。
「まさか、Ωにここまで発情を促されるとはな。いや、これも互いが唯一の存在だからか。……あぁ、いい香りがますます強くなった。発情はこれからだ。さぁ、またたっぷりとここに注いでやろう」
「ここに」と言いながらお腹を撫でられ、ぞくりとした。体の奥からじゅわりと香りが染み出し、もっと僕を味わえというようにねっとりと殿下に絡みつく。それはまるで無限に続く快楽の始まりのようだった。いや、発情とは本来そういうものだ。得も言われぬ多幸感を感じた僕は、微笑みながら「僕だけのα」とつぶやいた。
こうして僕と殿下はその後、七日間もの間交わり続けた。三度目の吐精後から何度もうなじを噛まれたせいか、発情が終わったときには初めて噛まれたとき以上の痕がついていた。僕自身は見えないが、周囲から「そんなに噛まれるほど激しい発情を……」と思われるのはさすがに恥ずかしい気がする。
(いっそ発情のとき用の首飾りでも作るか)
別に噛まれたくないわけではないが、あれは快感としてきつすぎる。殿下は「ランシュが激しく誘ったからだ」と言っていたが、そんな意識は僕にはない。ただ殿下と交わりたくて、早くどうにかしてほしくてたまらなかっただけだ。
(いや、それもどうかと思うが……)
僕はなんていやらしくなったんだろう。それともΩだからそう思うのだろうか。そんなことを考えながらミルクセーキを飲む。
発情が終わって半月と少しが経ったが、最近またミルクセーキばかりを飲んでいる気がする。夏になり暑くなってきたから、いまは冷やしたミルクセーキを用意してもらっている。シエラがお腹にいたときは温かいミルクセーキだったなと思うと、月日が経つのは早いものだ。
(さて、新しい画材の確認に行くか)
最近、画材工房で小さな子どもでも扱える絵の具作りを進めている。アールエッティ王国にも子ども用の水溶き絵の具や色鉛筆はあるが、シエラができて初めて子ども用絵の具について真剣に考えるようになった。
小さい子どもというのは、とにかくなんでも口に入れたがる。それはシエラも同じで、僕が絵を描いている横で絵の具を口に入れようとしたときには心底焦った。
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(シエラは成長が早すぎるんだ)
生まれたときはあんなに小さかったのに、あっという間に大きくなった。これもαだからだろうか。まだ確定はしていないが、あの成長の早さはαに違いない。そんな急成長を遂げているシエラは、最近絵の具に多大な関心を寄せている。というより僕の真似をしたいのか、絵を描きたくてたまらない様子を見せ始めた。
しかし、僕が使っている絵の具には口に入れると毒になるものがある。アールエッティ王国には子ども用の絵の具もあるが、あれでも赤ん坊には早すぎるだろう。では色鉛筆ならどうかと考えたが、細い芯が折れたときに飲み込まないか心配になった。
そこで、万が一飲み込んでも大丈夫な子ども用の絵の具が作れないか職人たちに相談することにした。さすがに難しいかと思っていたが、アールエッティ王国から呼んだ職人たちは探求心が強くすぐに話に乗ってくれた。一緒に働いているビジュオール王国の職人たちもそれに触発されたようで、いまでは工房あげて試作品作りに取りかかってくれている。そうして先日、何色か見本ができたと連絡が来た。今日はそれを見に行く予定だ。
(試作品をいくつかもらって、部屋で試し描きしてみるか)
それなら殿下との昼食にも間に合う。そう思いながら、冷たいミルクセーキを一気に飲み干した。




