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22 静かな前奏曲(フォアシュピール)

「色合いはこれくらいかなと思っているんですけど」

「いままでの見慣れた黒と違って、なんとも鮮やかだな」

「目立ちすぎますか?」

「いや、装飾品としてならこれでも控えめなくらいだ。そういえば、何かつけると聞いたが」

「はい。加工のしやすさを考えるとカラーストーンがいいかなと思っています。職人たちからも可能だという返事をもらっていますし」

「なるほど、カラーストーンか。種類も豊富だし、それならΩの姫たちも楽しむことができるだろう。さすがだな」

「あはは……ありがとうございます」


 ノアール殿下に褒められると、照れくさくてつい笑ってしまう。そんな僕の気持ちを知っているのか微笑みを浮かべた殿下は、試作品の首飾りを手に取り「なるほど」と観察を始めた。

 執務室の大きなテーブルの上には新しい首飾りの試作品が並んでいる。革の色は以前よりも鮮やかな明るめの真紅になった。紺碧や深緑の色も鮮やかに染められたと、いくつかの試作品が一緒に上がってきている。それらの横には色とりどりのカラーストーンが置かれていた。形や大きさがバラバラなのは、まだデザインが確定していないからだ。


(あまりたくさん付けすぎても美しくないしな)


 こういうのは全体的な均衡が難しいのだと改めて思った。装飾品は母上も手がけていたが、もう少し作業手順や方法を見ておくべきだったと反省する。


「この留め具も美しいな」


 殿下の指が、首飾りの留め具にぶら下がっている宝石をつついて揺らした。


「留め具もいくつか種類を増やそうと思っています。見た目が違えば、それだけでも首飾りの印象が変わると思うんです。それに姫君たちは髪を結い上げることが多いですから、うなじを飾る装飾品としても喜ばれると思うんです。留め具に直接宝石をつけるか、このようにぶら下げる形にするかは調整中です」

「なるほど」

「……って、殿下?」


 殿下が立ち上がり、留め具の揺れる部分を僕のうなじに近づけたのがわかった。どうしたのだろうと少しだけ振り返ると「なるほど、これは」とつぶやいている。


「殿下?」

「真っさらなうなじを彩るだけでなく、こういう飾りは噛み痕にも映える。自分が噛んだところを宝石が飾るというのはたまらないな」

「あの、殿下、」

「しかし、噛み痕を飾るならもう少し小さい宝石のほうがいいか。ランシュは肌が白いから透明なものより……そうだな。赤い石のほうが映えるに違いない」

「殿下、あの、指が、」

「それに、位置はもう少し上のほうで……いや、背中が広く開いた服なら長くても……」

「殿下、うなじを撫でるのはちょっと」


 指の感触に耐えられず、うなじを右手で押さえながら振り返った。すると殿下が驚いたように黒目を見張る。


「あぁ、すまない。つい考えに夢中になってしまった。不躾に触るなどよくないことだな」

「いえ、そうではなくて……。その、うなじを触られると、少しぞわぞわすると言いますか、落ち着かなくなると言いますか」

「あぁ、そうか。……うん、そうだな」


「すまなかった」と謝る殿下に「いえ、大丈夫です」と答えて正面を向く。すると、今度はうなじに熱いものが触れるのを感じてギョッとした。直後にチュッという音まで聞こえてくる。


「殿下!」

「すまない。ランシュのうなじに自分の噛み痕があるのだと改めて思うと嬉しくて、つい」

「う、嬉しいのはかまいませんけど、でも! うなじに触れられるとゾクゾクするので、こういう場所ではやめてください」


 どういう理由かはわからないが、殿下にうなじを触られるとゾクゾクしまう。自分で触ってもどうということはないのに、殿下にほんの少し触られるだけで体が熱くなるのだ。

 噛まれてしばらくの間は、殿下も気遣ってくれたのかうなじに触れることはなかった。むしろ気になったのは僕のほうで、一日に何度も指で触れていたような気がする。ところが数日前から、やたらと殿下が噛み痕に触れるようになった。起き抜けに撫で、食事の後に触れ、執務室にいるというのにまた触れられた。しかも口づけまでされてしまった。


(おかげで、昨日から体が熱っぽくてますます変なんだ)


 それもこれも殿下が頻繁に触れてくるからに違いない。「まったく」と思いながらも口元が緩むのをごまかし、首飾りのデザイン画に目を向ける。


「ランシュの好きにするのが一番いいと、わたしは思っている」


 立ったままデザイン画を見ていた殿下が、不意にそんなことを口にした。


「殿下?」

「職人たちもランシュと仕事ができることを喜んでいると聞いた。自分の腕を試せると意気込む職人もいるそうだ」

「そう言ってもらえるのはありがたいことです」


 そこそこ無茶なお願いしているから嫌がられるだろうと覚悟していた。とくによその国の者にあれこれ注文をつけられるのは、大国の職人として歓迎できないことだったに違いない。


(それなのに、皆快く引き受けてくれるなんて本当にありがたい)


 そう思って安堵していると、殿下の手が優しく僕の肩を叩いた。


「アールエッティ王国は物作りも盛んだと聞いている。そういった国の王子なのだから、職人たちの扱いもうまいのだろうな」

「いえ、職人たちが優秀なのです。僕が装飾品に詳しければ、もっと的確な指示が出せるんですが……残念です」

「いや、ランシュの指示はわかりやすいと評判だそうだ。そのうち首飾り以外の物も作りたいと言い出す職人たちが出てきそうだな。あぁ、それこそキャンバスや絵の具も作りたいと言い出すかもしれない」

「あはは、それなら喜んで試作品の手伝いをしますよ」

「絵の具を作るランシュも可愛いだろうな」

「……殿下」


 駄目だ。微笑みながらそんなことを言われると、照れくさくて殿下の顔が見られなくなる。絵を褒められることには慣れているが、僕自身が褒められることなんてなかったから、どう反応していいのかわからない。


「……少し、香りがするか?」

「え?」

「いや、いつもよりも少しだけランシュの香りがしているような気がしたが……うなじに触れたからだろうか」

「あー……すみません。僕にはよくわからなくて」


 屈みながら少しだけ顔を寄せてきた殿下にドキッとしつつ、そう答えた。

 僕には自分の香りがどうなっているのかわからない。元々香りはなかったし、いまは殿下しか感じないということで余計に気にしなくなった。発情が安定すれば自分でもわかるようになるのかもしれないが、そもそもどうやって香りを出すのかもよくわかっていない。リュネイル様いわく「本能ですね」ということで、学んでどうにかなることではないのだろう。


「曾祖母の日記に、うなじのことが書いてあった」

「うなじのこと、ですか?」


 殿下の曾祖母は僕と同じ男のΩだ。殿下は僕の発情を安定させるための情報があるんじゃないかと言って、いまも時間を見つけては曾祖母が残したという日記を読んでいる。


「噛まれたあと、うなじが敏感になったと書いてあった」

「それでこの間からうなじを触っているんですか?」

「……いや、それは……つい」


 ほんの少し頬を赤くした殿下が、そっと視線を外した。……なるほど、無意識にやっていたということか。

 やれやれと思いながらも、そんな子どもっぽい殿下も可愛くて好きだなと思った。それに忙しいなか僕のために日記を読み続けてくれている殿下も好きだ。


(結局、僕はどんな殿下も好きってことだ)


 しまった。そんなことを考えていたら僕の頬まで赤くなってしまう。


「あの、じゃあ、首飾りは引き続き、調整しておきます」

「そうだな。あぁ、くれぐれも無理はしないように」


 殿下の言葉に「はい」と頷くと、「やはり香りがするような……」と殿下がつぶやいた。




 今日は午後から月桃宮に行くことになっていた。ノアール殿下は若干眉を寄せていたが、駄目だとは言われていない。事前にリュネイル様から「Ωの体によい食べ物を祖国から取り寄せましたので、ランシュ殿下にお越しいただきたく存じます」という丁寧な手紙が殿下宛に届いたからだろう。


(それに、殿下はリュネイル様のことを快く思っていないわけでもないようだしな)


 むしろ、手紙を読んでいるときの表情には憐れみの色が混じっているように見えた。おそらく子をなせず、それでもうなじを噛まれてしまったために国へ帰ることもできないリュネイル様を不憫に思っているのだろう。


(ということは、リュネイル様が男のΩだと知ったら……)


 僕とリュネイル様を重ね合わせてしまうかもしれない。そのことでつらくなるのは僕ではなく、むしろ殿下のほうだ。


「うん、やっぱり黙っておこう」


 殿下に隠し事をするのは本意ではないが、言わないほうがいいこともある。そう思いながら美しい月桃宮に向かった。

 案内されて部屋に入ると、相変わらず愛の女神のように美しいリュネイル様がソファに座っていた。今日は輝くような金の三つ編みを結い上げているからか、露わになった首筋がなんとも艶めかしい。


「どうぞ、座ってください」

「ありがとうございます」


 頭を下げてから向かい側のソファに座ると、赤い果実が載った皿を侍女が運んで来た。


「これは?」

「我がラベルミュールで採れる果実です。処女の実と呼ばれ、結婚を前にした女性たちが子宝に恵まれるようにと食べる風習があるのです」

「子宝に……」

「それに、Ωの体にもよいと言われています」

「Ωの?」

「はい。とはいえ薬ではありませんから、確実に何かしらの効果があるとはお約束できませんが」


 赤い実は僕の拳の半分ほどの大きさで、やや楕円形の形をしている。鮮やかな赤色の皮は少しゴツゴツしていて、アールエッティ王国では見なかった果物だ。


「ここに切れ目を入れてありますので、こうして……切れ目を持つと、するりと皮を剥くことができますから。あぁ、果汁が多いですから、膝に布を敷いてください」


 そう言って手渡された布は見るからに高価なものだった。美しい刺繍が施されたものを汚してよいか悩んでいると、ふわりと甘い香りが漂ってくる。果物の香りかと思ったが、それとは少し違う香りのような気がした。


「祖国では、Ωとわかった者がよく食べる果実でもあるのです。Ωも子宝に恵まれるのかはわかりませんが、何事も試してみる価値はあると思いますよ?」


 試してみることには大いに賛成だが、それよりも前の言葉が気になる。


「もしかして、リュネイル様の周りにはほかにもΩがいらっしゃったのですか?」

「ラベルミュールは昔からΩがよく生まれる国なのです。男性のΩは珍しいですけれど、まったくいないわけでもありません。それでも二、三世代に一人くらいの割合ですから、ビジュオール王国でこうして自分以外の男性Ωに出会うことになるとは思っていませんでした」

「そうだったんですか。アールエッティから近い国なのに、まったく知りませんでした」

「公言はしていませんでしたからね。とくにΩはもっとも高価な輸出品の一つだったので、大国にしか知られていなかったと思いますよ」

「え? Ωが、輸出品?」


 人を表現するにはそぐわない言葉に驚いた。

 ラベルミュール国は海洋貿易が盛んな国だ。貿易品のほとんどは海の物で、とくに海産物と真珠は質が高いことで有名だった。近年は青色の顔料の元となる石が見つかり、アールエッティ王国とも細々ながら取引をしている。

 そんな商品と同じように、Ωも売られていたということなんだろうか。一瞬「まさか」という言葉が脳裏をよぎった。


「それも昔の話です。いまはΩの輸出は禁止されていますし、もちろんわたしも商品としてビジュオール王国に来たわけではありません」


 にこりと微笑まれて、思わず視線をさまよわせてしまった。僕がそう思ったことに気づかれたのだとわかり、ばつが悪くなる。


「そういう国ですから、昔からΩによいと言われる食べ物や飲み物がいくつもあるのです。わたしも口にしているものですから害がないことは保証します。子ができなかったわたしが勧めても説得力はないかもしれませんが」

「そんなことはありません」


 さすがに、そこまで言わせてしまうのは駄目だ。慌てて頭を振ると、「ふふっ」と笑われてしまった。


「わたしの場合は果実以前の問題なので、どうぞ気にしないでください」

「果実以前の問題、ですか?」


 紅茶をひと口飲んだリュネイル様が、「発情異常の体質で、そもそも子ができないのです」と口にした。


「発情異常?」

「発情はありますが、子をなすための体が整わないのです。女性でいえば不妊体質といったところでしょうか」

「不妊、ですか」


 Ωは生む性だと言われているが、そのような体質のΩもいるということを初めて知った。


「おまけに香りが強くて大変でした。αどころか普通の男たちも引き寄せてしまうので、祖国では屋敷の奥深くに籠もってばかりだったのです。まぁ、いまも似たような生活ではありますが」


 そう言って、美しい指が赤い果実を一つ手に取った。


「そんな強い香りのΩなら優秀に違いないとビジュオール王国は思ったのでしょうね。おかげで王太子妃候補にと声をかけられ、こうして陛下の後宮の一角に住まう贅沢を味わうことになりました」


 ゴツゴツとした果実の皮を剥きながら、まるで世間話のようにリュネイル様は話している。しかし、僕には軽い話には思えなかった。


「あの……子ができないとわかったのは、陛下の後宮に入られてからなのですか?」


 僕の問いかけに、リュネイル様がふわりと微笑んだ。


「いいえ。初めての発情を迎えてしばらくして、医師にそう診断されました」


 ということは、ビジュオール王国から声をかけられた段階ではすでにわかっていたということだ。それなのに、なぜ後宮に来たのだろうか。不躾なことだとわかっていながら、どうしても聞かずにはいられなかった。


「その、陛下は、リュネイル様の体のことはご存知なのですか?」

「さぁ、どうでしょう。ただ、発情が来るたびに閨を共にしているのに子ができなかったのですから、どこかで気づかれていたとは思いますけれど」


 ますますわからなくなる。子を作ることを最優先に考えている国王が、子ができないΩのリュネイル様とずっと閨を共にしていたのはなぜなんだろうか。そもそも、子ができないとわかっていて後宮に入ったリュネイル様の意図もわからない。

 子ができないΩはビジュオール王国にとっては不要のものだ。ビジュオール王国以外でも歓迎されることはないだろう。体質のことが知れれば冷遇されることもわかっていたはず。


「こんなわたしが後宮に来たことが不思議ですか?」


 一瞬どう答えるべきか迷ったが、「申し訳ありません」と謝りながらこくりと頷いた。

「我が祖国は海上交易で富を得ていますが、周辺国との取引だけでは未来が望めませんでした。そんなとき、大国ビジュオールから後宮への招待状が届いたのです。わたしは支度金の代わりに、祖国ラベルミュールとの末永い取引を願い出ました。そうして王太子だった陛下の元へと来たのです。まぁ、陛下を騙したと言ってしまえばそれまでなのですけれど」


 当時の王太子、つまり未来の国王を騙すのは大罪だ。しかし財政的な話を聞いては何も言えなくなる。僕だって似たような理由でこの国に来たのだからなおさらだ。


「我がアールエッティ王国も同じようなものです。その、金銭的に大変困窮しておりまして、それでぼ、……わたしもノアール殿下の後宮にやって来ました」

「ふふっ、国ことは存じていますよ。それでも民たちは芸術にまい進し、多くの国がその恩恵に(あずか)っています。活気があって力強く、それに自分たちの信念を貫くすばらしい国ではありませんか」

「ありがとうございます」


 財政難で頭が痛いことばかりだが、我が国の芸術が他国の人々を楽しませていると聞くとやはり嬉しくなる。元王太子としても誇らしいことだ。


「さぁ、殿下もどうぞ召し上がってください」

「はい、ありがとうございます」


 手に取った果実の皮は思ったよりも硬かった。ところが剥いた中身は柔らかな半透明で、ふわりと甘い香りがする。ゆっくりとひと口囓ると果汁がじゅわっと口の中に広がった。甘く澄んだ香りは妹が好む香水に少し似ているかもしれない。


「あ……っと」

「ね、果汁が多いでしょう? それがおいしいのですけれど、手から滴り落ちるのには難儀します。遠慮なく膝の布で拭ってくださいね」

「はい」


 手のひらから手首に滴りかけていた果汁を拭っていると、リュネイル様が果実をひと口囓るのが見えた。赤い唇が果汁に濡れ、まるで紅を引いたように艶やかに光る。それを舌先がちろりと舐め取るのが、やけに淫靡に見えてドキッとした。


「そういえば、祖国ではこの果実の香りが発情したΩの香りに似ていると言われていました。だから子宝に恵まれるという言い伝えがあるのかもしれませんね」

「Ωの香りですか?」

「言い伝えですけれどね。実際には個々で香りが違うのですから、Ωの香りを知らない普通の人が売るためにそう言ったのでしょう」

「へぇ」


 果実を食べたからか、まだ鼻孔に香りが残っている。いや、それだけじゃない。甘くも清々しい花の蜜のような甘い香りも感じる。こんなに芳醇な香りが続く果実は生まれて初めてだ。


「食べた瞬間は澄んだ甘い香りですが、花の蜜のような涼やかな香りもして後を引きます」


 僕の言葉に、リュネイル様が「あぁ、花の蜜のようなというのはわたしの香りでしょう」と微笑んだ。


「え?」

「発情が近いので、そのせいでしょうね。Ω同士は元々互いに感じやすいので、ランシュ殿下も感じ取られたのでしょう」

「リュネイル様の香り、ですか? いえ、あの……お恥ずかしい話ですが、わたしは自分の香りもほかのΩの香りも感じ取ることができないので、違うのではと」

「いえ、間違いないと思いますよ。うなじを噛まれたあとも、なぜか一部のαにはわたしの香りが感じられるようですから、同じΩならなおのこと。これも発情異常のせいだと思いますけれど」


 噛まれたあともαに香りの影響を与えてしまうとは、発情異常とはなんと大変な体質なんだろうか。


(あぁ、それでリュネイル様は後宮ではなく、この月桃宮に住んでいらっしゃるのか)


 それでは、噛んでもなお国王は安心できないに違いない。



(……って、噛んだのは陛下なんだよな?)


 つまり子ができないリュネイル様を国王は噛んだということだ。いや、子ができない体質だとわかる前に噛んだのかもしれない。そうなると子ができないのにうなじを噛まれ、こうして一人屋敷に閉じ込められているリュネイル様は不憫すぎやしないだろうか。


「噛まれる前の香りはもっとひどかったのですから、噛まれてよかったと思っています」

「……それでも、子ができないのにうなじを噛まれるのは……その、」


 何と声をかければよいのかわからなかった。果実を持った自分の手に視線を落とすと、「うなじを噛んでほしいと願ったのはわたしのほうですよ」という声が返ってくる。


「え?」

「誰彼かまわず誘ってしまう香りをどうにかしたかったという思いもありましたが、陛下に噛ませたいと願ったのはわたしのほうです。そうして無事に噛ませ、王妃様を除くすべての妃候補を追い出すことができました」

「それは、どういう……」


 なぜか不穏なものを感じて問いかけた僕に、リュネイル様は神々しささえ感じる微笑みを浮かべた。そんな顔を見せられてはそれ以上問いかけることはできない。


「そういえば、ランシュ殿下は陛下にノアール殿下の子を生みますと宣言されたと聞きましたが」

「あー……はい」


 思わず「あはは」と笑った僕に、「お強いのですね」という言葉が続く。


「強くはないと思います。諦めたくなかったというのが本音です」

「そう思って実行できるのですから、十分お強いと思いますよ」

「そうでしょうか」

「ランシュ殿下が強い方でよかった」

「え?」

「そうでなくては、いまごろ陛下に泣かされていたでしょうから」

「え? 泣かされ……?」

「それに、わたしも泣かしてしまっていたかもしれません」

「ええと、それはどういう……?」


 どういうことだろうと首を傾げると、リュネイル様に「ふふっ、可愛らしい方ですね」と微笑まれて顔が赤くなった。


「か、可愛い、ですか?」

「強いうえに可愛いなんて、ノアール殿下はイチコロだったでしょうねぇ」

「い、いちころ、」

「こういう方だから、ノアール殿下も心から繋がることができたのでしょう」

「あの、」

「それなのに、わたしにランシュ殿下を追い出してほしいなんて陛下も困った方です」


 そう言って頬に手を当てながら困った顔をするリュネイル様に、「え?」と目を見張った。


「あの、追い出すというのは」

「陛下はランシュ殿下を追い出したがっておいでなのです。わたしは同じ男のΩで子がいない。ランシュ殿下もそうなるのだと思わせたかったのでしょう。そういうこともあって、今回こちらへ呼ぶことになってしまいました。まったく、陛下には困ったものです」

「陛下が、わたしを……」


 いや、そういうことがあってもおかしくはない。僕のせいで殿下の後宮は空になったわけだし、僕が本当に子を生めるのかもわからないのだ。

 それに同じ男のΩであるリュネイル様には子ができなかった。僕と殿下はすでに四度、閨を共にしている。そのうち三度は発情していた。それなのに子ができないのだから、僕もリュネイル様と同じだと判断されてもおかしくはない。


「あぁ、安心してください。わたしにその気はありませんから」


 そう言ったリュネイル様が、またもや女神のような笑みを浮かべた。


「しかし、それではリュネイル様が罰を与えられてしまうのでは」

「ふふっ、大丈夫です。陛下がわたしに罰を与えることは決してありません」

「そうなのですか?」

「えぇ。わたしが選んだ方(・・・・・・・・)ですから、罰を与えたりはしませんよ」


 リュネイル様の笑みは美しいままだったが、なぜかほんの少しだけ恐ろしいと思ってしまった。


「ランシュ殿下、今後も心を強くお持ちくださいね」

「え?」

「ランシュ殿下なら大丈夫でしょうけれど」

「あの、」

「ノアール殿下が全力で守ってくださるでしょうしね」


 不意に「わたしが全力をもってランシュを守ると誓う」という殿下の声が蘇った。あのときは自分も殿下を助けるのだと思って聞き流してしまったが、改めて思い出すと頬が熱くなる。

 その後、話の流れでリュネイル様の肖像画を描く約束をし、月桃宮を出た。帰り際には例の赤い果実を手土産にもらい、ほかにもいくつかΩの体によいと言われるハーブティーや果実を教えてもらった。


(わからないことだらけだけど、この先もなんとかなりそうかな)


 同じ男のΩが近くにいるというのは心強い。それに、国王と違ってリュネイル様は僕と殿下のことを応援してくれている。少なくとも、国王に命じられて何かすることはないだろうこともわかった。


(しかし、本当に大丈夫なんだろうか)


 正式に命じられたわけじゃないのだろうが、いくら妃とはいえ国王の命令を無視してもよいのか心配になってくる。それに、やけにきっぱりと「罰を与えられることはない」と言い切った様子も気になった。


(いや、あれこれ詮索するのはよくないな)


 リュネイル様は王妃ではないものの妃の一人だ。夫婦の間にはいろんなことがあるのだろう。自分の両親であっても尋ねないほうがよいことはたくさんある。


(知らなくてよいことに首は突っ込まない。それが妃の心得だと本にも書いてあったしな)


 それに、あれこれ考えて発情が不安定になっては元も子もない。まずは心を穏やかにすることで体調を整え、発情を安定させなくては。

 本当なら期限つきなのだから焦ったほうがいいのかもしれないが、僕の場合は焦らないのが最短の道だ。殿下からも「焦らなくても大丈夫だ」と言われているし、Ωの体によいものを積極的に取るようにもなった。


(さて、次の発情はいつ来るだろうなぁ)


 待ち遠しいような不安なような、そんな複雑な気持ちになりながら後宮へと戻った。

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