18 思い出作り
しっかりと湯を使い、新しい服を身につけてから香水をシュッと振りかける。一番いいのは首のところかなと思ったが、結局そこにはつけられなかった。首はαに噛んでもらう大事な場所だ。そこに偽物の香りはつけたくない。
(そんなことを思うなんて、僕もΩらしくなったってことか)
しみじみとそんなことを思ったところで、トントンと扉を叩く音がした。続いて「ノアール殿下がいらっしゃいました」と侍女の声がする。「どうぞ」と返事をし、姿勢を正して殿下を出迎えた。
「……着替えたのか?」
「はい?」
「いや、なんでもない」
朝から執務で忙しかった殿下とは、今日初めて顔を合わせることになる。香水のこともあり若干緊張しているが、まずは食事を無事に済ませなければ先に進めない。
夕食を食べながら少しだけ絵の話をする。「秋になれば紅葉が楽しめる。見頃になったら見に行こう」という殿下の言葉に胸が痛み、「描き甲斐がありそうですね」と笑顔で返事をするだけに留めた。
「……」
夕食が終わり、食後の紅茶を飲んでいる殿下の目が何度も僕を見る。もしかして香水の香りに気づいたのだろうか。もし効果が本当なら、そろそろ変化が表れてもいい頃合いだ。
「……やはり何か……」
殿下がそうつぶやいた瞬間、カチャリとティーカップがソーサーにぶつかる音がした。普段あまり表情の変わらない殿下が眉をひそめている。気のせいでなければ頬も少し赤らんでいるよに見えた。
(効果が表れたのか?)
席を立ち、ゆっくりと殿下に近づく。額を押さえている殿下の右手に触れながら「ノアール殿下」と声をかけた。
「……っ」
息を呑むような気配がしたあと、殿下の手がゆっくりと額から離れた。現れた黒い瞳はいつになくギラギラしている。前回の発情のときのような眼差しを見た僕は、香水の効果が出たのだと思いホッとした。同時に胸がちくちくと痛んだ。その痛みを無視しながら殿下の手を取り、寝室へと促した
(自ら進んで同性とこんなことをすることになるとは思わなかった)
それが正直な感想だった。王太子だった僕の閨教育は姫君を相手にすることのみで、自分が受け入れる側になるなんて想像すらしなかった。
それなのにいまはノアール殿下を受け入れられることが嬉しくて仕方がない。これが本来の僕なんだとさえ思った。発情していなくても大丈夫なのか不安だったが、僕の体はすっかりΩになったようで意外なほどすんなりとこの状況を受け入れることができた。
「ラン、シュ……」
「っ」
名前を呼ばれるだけで胸が高鳴る。体も喜んでいるのか、どこもかしこも歓喜に震えるようだった。
(Ωの体は、こんなふうに、なるのか)
前回の発情のことは、ところどころだけだが一応覚えている。しかし自分の体がどうなっていたのかまでは記憶になかった。自分のことがわからなくなるくらい、発情のときは快感で頭がいっぱいになるということなのだろう。
殿下に腕を掴まれゾクッとした。この世には背筋がわななくような快感があるのだと初めて知った。「ランシュ」と名前を呼ばれるたびに体の奥が痺れ、自分のものとは思えない声が何度も漏れた。
(それにしても、さすがはα、だな)
ノアール殿下はすでに三度果てている。それなのに殿下の体は熱いままで僕を離そうとはしなかった。
(αなら当然か)
だからこそ“生ませる性”と呼ばれているのだ。そしてΩである僕は“生む性”のはずなのに、残念ながらそうはならなかった。この先も本当に子が生めるのかわからない。生めたとしてもいまじゃなくてよかったのだと何度も言い聞かせた。
(それに、ノアール殿下以外のαが相手なら……側妃になるだけで、子は別に……)
殿下に背中を抱きしめながら、そんなことを考える僕はおかしいのかもしれない。目の前に想う人がいるというのに、考えているのは近い将来訪れるだろうことばかりだ。
(殿下が相手でないなら、子はできなくていい)
むしろできないほうがいい。そうして側妃としてαを支え、アールエッティ王国の役に立てればそれでいいのだ。
「ランシュ」
あぁ、どうして優しく頬を撫でたりするのだろう。発情していないにも関わらず、僕にはこんなことをする余裕がないままだ。それなのに発情している殿下は愛撫も抱擁もしてくれている。優しい口づけをくり返し、ふわふわでどうしようもない僕の髪を愛おしそうに撫でてくれた。
(αは、発情の相手をしている間も意識がはっきりしているんだろうか)
ふと、そんなことを思った。最中の記憶もすべて残っているのだとしたら……それでは帰国の挨拶のときに気まずくなりそうだ。
「ランシュ」
「んっ」
抱き寄せられて、また口づける。殿下に覆い被さるように身を寄せた僕の背中を、殿下の熱い手が何度も撫でる。その熱が愛しくて苦しくて、全部この身に焼きつけておこうと考えていたのにできそうにない。そんな思いを振り切るように、ただひたすら偽物の発情を体に刻み込んだ。
「……ん、」
ゆっくり開いた視界に最初に映ったのは見慣れた天井だった。どうやら眠ってしまっていたらしい。
(これも織り込み済みだ)
閨のことに慣れていない僕が眠ってしまうだろうことはわかっていた。それでも問題ないと考えたのは、ここが僕の部屋で殿下が朝から執務だとわかっていたからだ。
あの香水の効果は一晩で消えると聞いている。それなら殿下の執務を邪魔することはない。僕も三度目だから、一晩だけの行為なら翌朝には目が覚めるだろうと予想した。
(起きたら朝食を食べて、荷物を全部鞄に詰めたらベインブルへ行こう)
いつもより早い時間なら廊下で殿下に遭遇することもない。ベインブルを回り、執務室に殿下が入った頃合いを見計らって帰国の挨拶をしよう。何か言われるかもしれないが、そこはうまく躱して午後には馬車に乗る手はずだ。
アールエッティ王国までは最新の馬車を使っても数日かかる。その間に心の整理をして、父上や母上に挨拶するときにはいつもの僕に戻るんだ。妹のルーシアは勘がいいから何か気づくかもしれないが、きっと何も聞かないでくれるはず。
「よし」
決意を固めるために声を出した。まずは顔を洗って着替えをして……そう思って起き上がろうとしたができなかった。両手が頭の上に向いたまま動かない。
「……なんだ、これは」
頭上を見ると、両手首が紐のようなもので一つに結ばれていた。その紐の先はベッドの柱に括りつけられている。
(どういうことだ?)
これでは起き上がることができない。どうしてこんな状態になっているのかわからず、それでも紐を解こうと何度も手を動かした。痛くはないが意外としっかり結んであるようで、手首を動かしたくらいでは解けそうにない。
(ちょっと待て、本当に解けないぞ?)
なんとか指で紐をつかもうとしたとき、扉の開く音がした。視線を向けると、そこにはやって来るはずのないノアール殿下の姿があった。
「殿下」
なぜ殿下が部屋に来たのだろう。今日は朝から執務で、午後には来客があるとも聞いていた。僕の様子を見に来る時間はないはずで、だから昨夜計画を実行に移したのだ。
「目が覚めたか」
手には水差しと青いグラスを載せたトレイがあった。やはり前回も殿下が用意してくれたんだなと思いながら、そのことより表情のほうが気になった。
扉を閉めた殿下の顔はいつもどおり無表情だが、どことなく険しい表情に見える。どうしたのだろうと見つめていると、トレイをベッド脇のテーブルに置き、じっと僕を見下ろした。
「殿下……?」
「なぜ帰国する?」
(え……?)
まだ国にすら届いていないだろう帰国のことを、なぜ殿下が知っているのかと驚いた。
帰国する旨を記した手紙は昨日の昼過ぎに送った。親書ではなく後宮で回収される一般の手紙に紛れ込ませて出したから、僕自身が一日遅れで出発すれば父上が手紙を受け取った翌日に城に到着できる。何かあったのかとビジュオール王国に問い合わせる時間を作らせないため、あえてギリギリの状態で手紙を送った。すべて計算のうえで秘密裏に行ったことなのに、なぜ殿下は僕が帰国しようとしていることを知っているんだろうか。
「わたしのそばにいるのは嫌ということか?」
「そ、うでは、ありませんが……」
むしろ、ずっとそばにいたいと思っている。しかし、それは叶わないのだ。
「では、なぜ帰国しようとしている?」
「それは……いえ、そもそも、どうしてそのことを、」
「知っているのか、ということか?」
「あの……はい」
ここで誤魔化したところで意味はない。僕は正直に返事をし、殿下を見つめた。
「ランシュの様子がおかしいことには気づいていた。絵の道具を片付けていることは侍女らから聞いていた。昨夜ランシュのものとは違う香りを感じ、何かあると考えた」
さすがは大国の王太子だ。僕がコソコソと計画していたことなどお見通しだったということか。
「それにここはわたしの後宮だ。いつもと違う行動を取ればすぐにわかる」
つまり、知られていないと考えていた僕が浅はかだったということだ。いや、たとえ露呈しても僕のことを気にかけるとは思っていなかったから油断していた。
「もう一度聞く。なぜ帰国しようとした?」
「……そろそろ、期限じゃないかと考えたからです」
「期限?」
「到着した日に、殿下がおっしゃったことです」
「わたしが?」
殿下が眉を寄せている。もしかして覚えていないのだろうか。
「もしや、いつまでの滞在になるかわからないと言ったことをそう理解したのか?」
「僕は男のΩですから、そういう期限があるのだと思っていました」
「具体的には?」
「え?」
「具体的に、どういった期限だと思っていた?」
「それは……」
答えようとして、また胸が痛んだ。以前はそこまで特別に思っていなかった言葉なのに、いざ口にしようとすると胸がちくちくする。国のために嫁ぐだけだと思っていたはずが、いつの間にかそうじゃない気持ちがこんなにも強くなってしまった。
「僕に子ができなければ……後宮を出ることになるのだと」
そう、どのみち後宮を出ることになる。それを自主的に行おうとしただけだ。
「なるほどな。あのときは、穏やかそうなランシュを見て憐れに思ってそう告げた。わたしの後宮に集められるΩたちは気の強い者が多い。これまでも醜い争いを続けては何人もの姫が後宮を去った。そういう目にランシュが遭うのではと思い、つい漏らしてしまった」
「まぁ……なんとなくそれはわかります」
僕も少しは経験したからわかる。キャンバスの被害は堪えたが、それでも王太子としてそれなりの経験を積んでいたから耐えられた。これが気の弱い姫君なら気に病んでいたかもしれない。
「すべてはわたしが問題を放置してきたことに原因がある。それでも手放す決意はできなかった」
「殿下?」
小さくため息をついた殿下がベッドに腰を掛けた。そうして僕から視線を外し「わたしに兄弟がいないことは知っているな?」と問いかけてきた。
「はい」
「陛下の後宮には三十二人の妃がいた。それなのに子どもはわたし一人だ。なぜだと思う?」
それはまたお盛んな……そんな不敬なことを思いつつ、「わかりません」と答える。
「我が国では、随分前から国王に子が生まれにくくなっている。数代前からは傍系のαの数も少なくなり、王族αの数自体が減っていると言ってもいい」
「そうでしたか」
「それでも王太子は国王の最初のαの子と決まっている。なぜだかわかるか?」
遠く離れていたビジュオール王国の内情を僕が知るはずもない。答えられずにいると、僕に視線を戻した殿下が口を開いた。
「国王の最初の子が、もっとも強いαだからだ。これは王族に多くのαの子が生まれていた時代から変わらない。我が国では、なぜか国王となった者にもっとも強いαの子が授かるのだ。まるでαの呪いのようにな」
「呪い……」
「建国以来、我が国はαの王に固執し続けてきた。他国よりも優秀で強いαの王を据えるため、αの子を生ませようと近隣からΩを奪取してきた歴史を持つ。その強すぎる執念がいつしか生まれるαの数を少なくし、かつ子ども自体生まれにくくしているのではと思っている」
だから殿下には兄弟が生まれなかったということなのだろうか。
「子が生まれにくくなったことで、ますますΩを集めることになった。子が生まれるまで何人ものΩと交わること、それが国王と王太子の務めになっているほどだ。これではまるで子を孕ませるための道具のようだと思わないか?」
殿下の浮かべる苦笑に、虚しさと憤りのようなものを感じた。
僕も王太子として子をなさなければいけない責務を負っていた。どの国の世継ぎも似たようなものだろう。しかしノアール殿下のそれは、本人の意思をあまりに無視しているように思える。同じ立場だったら、自分の気持ちを置き去りにした状況にひどく思い悩んだに違いない。
「我が国ではαの数が著しく減っている。わたしだけでなくヴィオレッティやルジャンのところも、次代のαは生まれていない」
「……もしかして、それでルジャン殿下に罰が下されていないのですか?」
反逆罪に問われてもおかしくないことをしたルジャン殿下に、何かしらのお咎めが下ったという話はいまだに聞こえてこない。その理由がようやくわかった。
「αの種からしかαは誕生しない。とくに王族αはαとΩの間に生まれることがほとんどだ。だから、いま王族αの数を減らすことはできない。それに王族のα同士で揉め事が起きれば、近隣諸国に内乱と捉えられかねない恐れもある」
大国だからこそ内政事情が外交に発展しかねないということか。後継ぎも国政もαのことも、すべてが王太子であるノアール殿下一人にかかっている気がしてならなかった。同じ王太子という立場だった者として胸が苦しくなった。
「我がアールエッティ王国は小国ではありますが、元王太子だった身として、殿下の心中お察しします」
僕の言葉に、殿下の表情が少し和らいだ。
「そんなランシュだから惹かれたのかもしれないな。貴殿はこれまで出会ったどのΩとも違う。αとしてのわたしも王太子としてのわたしも、ただ絵に興味があるだけのわたしのことも受け入れてくれる。そんなランシュだから興味を持ち、手に入れたいと思った」
一瞬何を言われたのかわからなかった。呆ける僕に殿下が微笑みかける。
「だから発情を共に過ごした。子が云々ということを忘れ、ただ触れたいと思ってこの腕に抱いた。誰かにこんな気持ちを抱いたのは初めてだ。吐き気がするほど嫌っていたΩだというのに、むしろランシュがΩでよかったと感謝したくらいだ」
まさかの告白に今度こそ驚いた。
「それなのに、まさか逃げられかけていたとはな」
「それは、」
「首を噛んだ後、もし子ができなければほかのΩを抱かなくてはいけなくなる。たとえ子ができたとしても、αの子を増やすために大勢のΩを抱くことになるだろう。いや、一人子ができたのだからと、ますますΩをあてがわれる可能性がある」
「……」
「そんな状況になったとしても、首を噛まれたランシュは逃げることができない。それではあまりに不憫だと思い、噛むことをためらった。それでも手放せない自分に嫌気がさした。自分も陛下と同じなのだと呪わしくも思った」
「殿下、」
「しかし、今回のことでようやく決心がついた。あぁ、ヴィオの言葉を借りるなら“腹を括った”ということになるか」
薄く笑っている殿下に背筋がゾクッとした。「謝らなければ」そう思った。しかし両手を縛られたままでは起き上がることもできない。なんて間抜けな格好で話をしていたんだと思ったのも束の間、何かに体を押さえつけられるような感覚がして驚いた。同時に濃密なミルクの香りを感じ、体がブルッと震える。
「ランシュに教えていなかったことがある」
わずかに微笑んでいるだけだった殿下の口元が美しい弧を描いた。
「αの威嚇には、Ωの自由を奪うこととαを退けること以外に、もう一つできることがある」
造形美がすぎる顔が、ゆっくりと近づいてきた。
「それは、Ωを強制的に発情させることだ」
鼻先が触れそうな距離で優しくそう囁いた殿下から、突然強烈な香りが吹き出した。ミルクの香りには違いないのだろうが、あまりに濃いせいで一瞬何の香りかわからなかった。それが一気に僕の中に入り体中の力を奪っていく。急激に朦朧としてきた頭に殿下の声が響いた。
「昔はほとんどのαがこの力を持っていたそうだ。しかしいまは陛下とわたし、それにヴィオくらいしか使うことができない。数だけでなく、それだけ我が国のαは衰えてきているということだ」
唇に熱くて柔らかいものが触れた。そこからさらに濃密なミルクの香りが入り込み、それに反応するかのように体が小刻みに震え始める。
「これほど欲情するのはランシュに対してだけだ。子ができなかったのはランシュがΩに目覚めるのが遅かったからだろう。滅多に生まれない存在だから詳細はわからないが、男のΩは発情や香りの強さが精神状態に影響されやすいと曾祖母の日記に書いてあった。そういうことが懐妊に影響しているのかもしれない」
大好きな香りなのに、あまりに強すぎて苦しい。このままでは窒息してしまう。
「しかし、こうして何度も発情をくり返せば必ず子はできる。ランシュとなら何人でも子を作ろう。腹が空かないくらい孕ませてやろう」
体中がミルクの香りに侵されて、自分がどうなっているのかわからなくなってきた。心地よいのか苦しいのか、それさえも曖昧になっていく。
「わたしから逃げることは許さない……ランシュ」
殿下の低い囁き声に体がビクッと震えた。それが歓喜によるものなのか、それとも恐怖によるものなのかわからない。ただ震えるほどの何かが体の奥で渦巻いて勝手に震えてしまうのだ。そんな状態でも、一つだけはっきりわかったことがあった。
(これで僕は、殿下だけの……)
そう思った瞬間、僕の体から何かが一気に吹き出したような気がした。