其の3 斎藤道三
1553年。女性忍者の私は、美濃の斎藤道三の居城にいた。
「御屋形さま、尾張の大ウツケは、どうでございましたか?」
「あれはウツケなどではない。世間の奴らは、信長の天賦を理解でないのだよ」
道三は、すっかり、織田信長の武将としての器量を認めたようである。
美濃支配者・斎藤道三は、敵対していた尾張の織田信秀との和睦のために、娘の帰蝶を信秀の長男である信長に嫁がせていた。つまり政略結婚である。
そして今日、美濃と尾張の国境にある聖徳寺で、道三は信長と会見した。
信長は、世間では大ウツケ(大馬鹿者)と酷評されている。だが、
「私の子は将来、織田信長の門外に馬を繋ぎ、織田信長に従うことになるだろう」
と、戦国の梟雄・斎藤道三に言わせるほどの人物だった。
斎藤道三は、その父と親子二代で、美濃を乗っ取った、下克上を象徴するような人物である。
最初、道三の父は僧侶から還俗し、美濃の小守護代・長井長弘に仕える。だが、この長弘を殺害し、その後、美濃の内紛を巧みに利用して、出世した。
そして父の死後、家督を継いだ道三は主君である名門・土岐頼芸に反旗を翻して、その座を奪い取ったのだ。
こうして、権謀術数の限りを尽くして、成り上がった道三だが、その長男の斎藤義龍との関係は険悪であった。そして、
1556年。道三と義龍は、長良川の戦いを勃発させる。四月二十日。道三軍が長良川の北岸に、義龍軍は南岸に布陣して、両者は激突した。
この時、家中の大半は義龍を支持していて、義龍の兵が1万7500名に対して、道三の兵は僅か2700名。
女性忍者の私も男装し、道三の旗本の一人として参戦する。
戦いは、義龍軍の竹脇道鎮が、兵5000を率いての突撃で始まった。
「うおおおぉぉぉぉっ!」
雄叫びが挙がり、両軍入り乱れての戦場で、道鎮が、
「女のような華奢な奴めが!」
と、私を槍で薙ぎ払おうとしたが、
サッと、跳んで、クナイを投げつける私。
ザシュン!
クナイは道鎮の左目に当たり、
「ぐぁっ、クナイとは忍びか?」
そう吐き捨てながら、左目に突き刺さったクナイを引き抜く道鎮。そこへ、
「御屋形さまに、刃向かう逆賊が!」
と、豪傑の柴田角内が斬りかかり、道鎮の首を、
「討ち取ったり!」
角内が叫ぶと、
「な、なんと。竹脇殿が!」
戦意を喪失した竹脇勢は潰走する。
だが、所詮は多勢に無勢。奮戦も、ここまでだった。最期は大軍に呑み込まれ、
斎藤道三は討ち死にした。享年六十三歳。
「命が失せれば、この世には何もなくなってしまうだろう。いったい、私にとって最期の安住の地は、どこにあるのだろうか」
と、常々、道三は私に呟いていた。
長良川の戦いに勝利した義龍も、この後、1561年に三十四歳の若さで病死する。その息子の斎藤龍興が家督を継ぐが、
1567年。織田信長に稲葉城を攻められ斎藤家は滅亡した。