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其の一 応仁の乱

 私は、室町幕府管領・細川勝元の娘として生まれた。


 京の都に戦乱が起こったのは、確か私が七歳か八歳の頃だと思う。十一年にも及ぶ長い戦乱、応仁の乱の始まりだった(1467年〜1477年)


 私の父の勝元が東軍の指揮をとり、対する西軍を率いたのは、私の母の父、つまり私からみれば祖父の山名宗全である。


 まあ、元々、父の勝元と祖父の宗全は不仲であったらしいが。


 そして、この応仁の乱の最大の激戦は、1467年十月に起こった相国寺の戦いだろう。


 西軍は九月に東岩倉の戦いで東軍を破り、十月には、さらなる攻撃にでて、京の都の相国寺に構える東軍に攻めかかった。


 この一戦で西軍は相国寺を制圧する。


 ここで、一旦は退却した東軍だが、援軍を得て反撃に転じ、相国寺の奪回に成功した。


 しかし、再度、西軍の猛攻撃で相国寺は西軍の手に落ちる。だが両軍は多数の死傷者を出したため、一旦休戦となった。


 この激戦の最中、将軍・足利義政は、曖昧な態度のまま、東軍、西軍の、どちらにも付かず、相国寺の近くで酒を飲んでいたらしい。


 このような不毛な消耗戦を続けていた応仁の乱だが、やがて終息へ向かう時が来た。


 1473年。まず、西軍を率いる山名宗全が七十歳で病死。後を追うように、東軍を指揮する細川勝元が四十四歳の若さで病死したのだ。


 両軍の大将が死去した事により、この応仁の乱は、勝者なき戦いとして終わるのだが、


 長い戦乱で京の都は荒廃し、足利将軍の権威は失墜した。


 その焼け野原となった京の都の往来で、経を唱える僧侶の姿があった。私は、その頃は尼の身であったが、


「美しい。そなたは元は高貴な身分であったのだろう」


 と、その僧侶は、通りがかった私を見て言う。


「今は仏門の身、俗世の身分など、関係ありません」


「それは、そうだな」


「それより、あなたは何故こんな往来で、お経を唱えていたのですか?」


「唱えたいからだ」


「いえ、そうではなく、何故、お経を唱えたいと、あたなは思ったのですか。戦で亡くなった人々の成仏のためですか?」


「成仏か。そんなものは無い。人は自然に生まれ、自然に死ぬ。草木や虫、魚、鳥、獣、皆同じだ」


「成仏が無いとは、あなたは、本当に仏門の方なのですか?」


「無い、と、拙僧は考えるが、これは拙僧の考えであって、真理かどうかは解らないな」


 私は、この僧侶に常人ではい気配を感じた。もしかすると魔物かもしれない。


「あなたは、何者ですか?」

「拙僧は、果心居士と申す」


 そして私は、この果心居士に呪術をかけられ『永遠に十七歳』の身になってしまったのだが、


 これ以後、この国では各地で下克上が勃発し、群雄割拠の戦国時代が幕を開けた。


「そなたは、この乱世を見届ける『女性忍者くのいち』となるのだ」


 果心居士は、そう言い、私には、その言葉に逆らう術は無かった。

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