友達の復讐
橋本誠也が転校してきたのは、オレが高校二年生のときだ。橋本は太っていて、見るからに暗そうな奴だった。転校初日での自己紹介はぼそぼそとよく聞こえないような声で話し、昼休みになっても誰にも話しかけようとしない。誰かに話しかけられることがあっても、小さな声で一言二言最低限の返事をするだけで、まったく会話を盛り上げようとする姿勢がなかった。
だから橋本はすぐにクラスで孤立した。運動が苦手らしく、体育ではいつも足をひっぱった。勉強も不得意で、教師に当てられても答えられないことがほとんどだ。
オレはそんな橋本を見て、シンパシーを感じていた。オレも、橋本と同じように運動が不得意だ。勉強はできる方だったが、オレよりできる奴はたくさんいて、クラスでの順位は中の上といったところだった。他人に自慢できるような特技などない。
友達も有野という生徒一人だけだった。しかし、この有野はオレと反対に社交的な性格で、オレ以外にもたくさん友達がいた。いつオレなんて見限られるか分からない。オレと有野の仲がいいのは、家が近所同士で、小中高と同じ学校に通っているからだった。向こうからすれば腐れ縁かもしれない。
だから、オレは橋本と友達になりたいと思った。オレだっていつ孤立するか分からない。そうなる前に、仲間をつくっておきたかった。
橋本が転校してきてから一ヶ月ほどたった頃、確か六月くらいだったと思うが、オレは昼休みにひとりぼっちで本を読んでいた橋本に声をかけた。
橋本が読んでいたのはオレが好きなミステリー作家、鎌谷連夜の本だったので、勇気を出してこう尋ねた。
「オレも連夜好き。面白いよね」
橋本はそれを聞いて、「うん」とだけ答えた。愛想の無いことこの上ないが、そんな反応が返ってくるのはあらかじめ分かっていたので、オレは少々強引に話を進めた。
「他の作品も面白いんだよね。あれも読んだ? 『光の中の殺人』。オレ、あれが連夜の最高傑作だと思うんだよね」
オレはある作品のタイトルを言った。すると、橋本の顔が少し明るくなった。
「うん、あれ面白いよね。最後のどんでん返しはほんとにびっくりした」
「そうそう、どんでん返しなんて、今の小説じゃ当り前だから見慣れてるけど、あれはオレも騙されたね。しかも先が読めないだけじゃなくて、メッセージ性もあってさ」
「分かる。それが鎌谷ミステリーのいいところだよね」
オレは橋本とあっさり打ち解けてしまった。それからは鎌谷連夜以外の作家の話もし、一方しか知らない作家の話題になれば、その作家の作品を貸し借りして、後日感想を語り合った。
橋本は映画も好きらしく、休日には二人で映画を観に行ったりもした。オレと橋本はすっかり仲良くなった。
それとともに、有野との仲は疎遠になっていった。有野にはオレ以外にも友達がたくさんいるから、有野が困っている様子はない。オレも橋本とばかり遊び、それで満足していたので、有野との仲が開いていくことをそれほど悲しいと思っていなかった。
有野は柔道を習っていて、喧嘩は強いし、他のスポーツも大得意だった。それでいて勉強もでき、性格は明るかったので、男子生徒からは頼られ、女子生徒からは好意を寄せられることが多かった。最初からオレなんかとは住む世界が違っていた。だから、このような関係になるのも時間の問題だったのかもしれない。
ただ、一つ気になるのは、有野が意図的にオレを遠ざけているような気がしたことだ。
オレは橋本と仲良くなった日に、すぐにそのことを有野に報告した。そして学校が終わったら三人で遊ばないかと誘ったのだが、有野は素っ気なく断った。
そのときは偶然別の予定でも入っているのだろうと思っていたが、それから何度か遊びに誘っても、有野はのってこなかった。
オレはこう思った。有野がオレと遊んでくれていたのは、おそらく孤立しそうなオレに同情していたからなのだろうと。だから橋本という友達ができてしまえば、お情けで一緒につるんでやる必要もなくなり、これからは本当の友達と遊んでいたいというわけだ。
オレは有野に対する屈辱と苛立ちを感じたが、それもすぐに収まった。なぜならオレも橋本に似たような同情を感じて話しかけたからだ。他人のことを偉そうに批判できない。
だが、オレは橋本を見捨てたりなんかしない。オレは橋本のことを本当の友達だと思っていたからだ。だから有野とは違う。これからは本当の友達を大事にしよう。そう心に誓った。
橋本と仲良くなってから一ヶ月が過ぎた頃、オレは自分の部屋で橋本とテレビゲームをして遊んでいた。対戦型の格闘ゲームで、橋本はやったことがないらしかったが、見る見る上達して、あっという間にオレよりも強くなっていた。
そのときは熱戦になり、あともう少しで勝てそうなところでオレが負けてしまった。緊張の糸が切れ、オレは頭を抱えてうしろに背中を倒した。
「もっちゃん、強すぎ」
そのころ、オレは橋本のことをもっちゃんと呼んでいた。
オレは隣に座っているもっちゃんの顔を見上げた。さぞ喜んでいるだろうと思っていたが、もっちゃんはなぜか無表情で、どこか悲しそうな目をしていた。
「勝ったんだからもっと喜べよ」
そう言うと、もっちゃんはこう答えた。
「町田君、いつも僕と遊んでくれてありがとう」
町田とはオレの名前だ。どうしていきなりそんなことを言うのかと思っていると、突然、もっちゃんの目から涙が流れ始めた。
「おいおい、どうしたんだよ、そんなに勝ったのが嬉しかったのか?」
オレが慌てて問いただすと、もっちゃんは首を振った。
「ううん、オレ、こんなに誰かと楽しく遊んだことなんてないから、嬉しくって……」
「嬉しくって、たかがゲームくらいで、そんな……」
しばらく沈黙が流れた。もっちゃんは涙を袖で拭った後、ぽつりぽつりと語り出した。
「僕ね、前の学校でいじめを受けてたんだよ。だから転校してきたんだ」
オレはそのことを聞いても、さほど驚かなかった。もっちゃんの様子を見るに、転校してきたのはいじめが原因ではないかと、なんとなく察しがついていたからだ。だから気を遣って、なぜ転校してきたのかは訊かなかった。それをもっちゃん自身から話してくれて、オレは嬉しかった。オレのことを信頼してくれた証だと思ったから。
もっちゃんはなおも涙を流しながら、自身の過去を話してくれた。
「前の学校に、柴田っていう奴がいてさ、空手やってるガキ大将で、喧嘩が強かったんだ。いつも下っ端を連れてて、そいつらと一緒になって僕のことをいじめてたんだよ」
もっちゃんは堰を切ったように前の学校での出来事を話し始めた。今まで相談相手がおらず、不満が溜りきっていたのだろう。もっちゃんは自分が受けてきたいじめの内容と、いじめっ子である柴田への恨みを語り出した。
「柴田の奴は本当に糞野郎で、最初は僕以外の生徒をいじめてて、それに僕も付き合わせようとしたんだ。僕はそれが嫌だったから無視した。それからだよ。柴田が僕に目を付けたのは。最初は生意気だって言って、僕を殴ったり髪を引っ張ったりするだけだったけど、だんだんそれだけじゃなくなって、金を要求するようになった。僕のお小遣いは全部柴田に取られたよ。でもそれだけじゃ終わらなくて、金が無いなら万引きしてこいって言われて、僕、何回も万引きしちゃったんだ。それで、警察に……」
もっちゃんはそこで言葉を切り、嗚咽を漏らした。
「もういいよ、もっちゃん」
オレはそう言ってもっちゃんの肩に手を置いた。
「ありがとう、町田君。柴田の奴、殺してやりたいよ。こういうとき、どうしていじめられてた側が転校しなくちゃいけないんだろう。悪いのは全部あの屑なのに。警察に捕まったけど、オレは柴田にやり返されるのが怖くて、あいつに脅されてやったって言えなかった。そしたら僕一人が悪いってことになって、教師や他の生徒から犯罪者扱いされるようになったんだ。だから転校するしかなかった。でも、それで良かったよ。転校して町田君に会えたんだから」
もっちゃんは赤くなった目で笑った。オレはもっちゃんが可哀想でならなかった。そして何より、柴田という生徒に対して怒りを通り越して殺意を抱いた。
オレは本心からこう言った。
「その柴田とかいう奴、死んだ方がいいな」
「うん、あんな奴、死んでも誰も困らないよ。いつも取り巻きを連れてたけど、そいつらも好きで柴田とつるんでたわけじゃない。そうしないと柴田にいじめられるから、仕方なく一緒にいただけだ。あいつに本当の友達なんて一人もいない。偉そうな顔してるけど、暴力で脅さないと友達一人つくれないし、自分で悪事を働く度胸がないから、他人にやらせるしかない臆病者の卑怯者だよ。あんな屑、死んじゃえばいいんだ」
橋本は恨みに満ちた顔で柴田への罵倒を続けた。
義憤に駆られたオレは、ある提案をした。
「なあ、柴田に復讐してやらないか?」
「え?」
「オレ達で柴田にやり返すんだよ」
「やり返すって、何を?」
「そうだなぁ。喧嘩をふっかけても、オレなんかじゃ負けちゃうだろうし。うしろからバットで殴ってやるってのはどう? 不意打ちをしかければさすがに空手が強くても倒せるっしょ」
「そんなことしたら警察に捕まっちゃうよ。あんな屑のために町田君が自分の人生を犠牲にしちゃダメだ」
「うーん、たしかに悪いのはあっちなのに、こっちが警察に捕まるのは癪だなぁ。家の窓ガラスに石を投げてやるってのは……、いや、そんなことしたら柴田の親に通報されるだろうし」
「石じゃなくて、泥団子を投げるってのはどう? これなら当たっても怪我しないし、服が汚れるだけだから、柴田も警察沙汰にしないんじゃないかな」
「それいいな、もっちゃん! 何回も陰からぶつけてやったら、あいつもビビるんじゃないかな。恨みを買ってる奴はたくさんいるだろうから、まさか転校したもっちゃんが今更復讐しにきたって思わないだろうし。疑心暗鬼になること間違いなしだ」
「でも、泥団子を投げるって、なんだか子供っぽいね」
「いいんだよ、幼稚で。向こうが幼稚な奴なんだから。こっちもそれに合わせるだけだ。徹底的にやってやろう」
「うん、あいつに正義の鉄槌を下そう」
もっちゃんは目を輝かせた。
その後、オレともっちゃんは意見を出し合い、計画を練っていった。
泥団子作戦は三日後の土曜日に決行することになった。土曜日は柴田が空手の道場に一人で向かう。それを脇道で待ち伏せし、柴田が通り過ぎたところで背中に泥団子を二人で投げる。後は一目散に逃げる、というのが作戦プランだった。
泥団子はもっちゃんが用意してくれることになった。決行場所ももっちゃんが考えてくれた。後は追いかけてくるであろう柴田から、いかに確実に逃げるかを考えるだけだった。
翌日の昼休み、オレはもっちゃんと一緒に逃走ルートについての話し合いをしていた。失敗は許されない。もし見つかれば半殺しにされるだろうし、顔がバレれてしまえば、そのときに逃げられても、後からやり返されるだけだ。
もっちゃんと綿密な打ち合わせをしていると、横から有野が声をかけてきた。最近はめっきり有野と話す機会がなくなっていたので、オレはちょっと驚いた。
有野が言う。
「町田、今日、オレの家に来てくれないか?」
「うん、いいけど、なんで?」
「それは後で話すよ」
オレは有野の顔を伺った。なんだかむっとしている感じで、険悪な雰囲気が漂っている
「じゃあ行くけど、もっちゃんも行っていい?」
「いや、悪いけど二人で話したいんだ。ごめんな、橋本」
有野は冷たく言い放った。言葉とは裏腹に、謝意など一切感じられない。
「うん、いいよ別に」
もっちゃんはぎこちなく笑って言った。本当は傷ついているだろう。
「じゃっ、後でな」
有野はそう言って教室から出て行った。
オレは有野の真意が分からず、困惑するしかなかった。何か怒らせるようなことでもしただろうか。記憶をたどってみるが、思い当たる節はない。とにかく家に行ってみれば分かることだと思い、オレはまた橋本と作戦会議を始めた。
放課後、オレは自分の家に帰った後、一人で有野の家へと向かった。ほんの一ヶ月前はよく有野の家でゲームをしたり漫画を読んだりしていたが、それも最近ではすっかりなくなった。
家に着き、インターホンのボタンを押すと、有野が出迎えてくれた。二人で有野の部屋に入る。昼休みと同じように、空気が重苦しい。やはりオレは何か怒らせるようなことをしたのだろうか。
有野はベッドに、オレは床に腰を降ろした。
「いったいどうしたの? 二人きりで話したい事って何?」
オレが重たい空気に耐えかねて尋ねると、有野が言った。
「最近、橋本と仲いいよな」
質問の答えになっていない。わけがわからなかったが、とりあえず返事をした。
「うん。めちゃくちゃいい奴だよ、もっちゃん」
「そっか……」
有野はそう言って黙った。また重たい空気が流れる。オレはそれを遮るように言った。
「今日の話って、もっちゃんが関係するの?」
「ああ、ちょっと言っておきたいことがあって」
「何?」
「俺、柔道習ってるだろ? それでさ、俺の道場には、よその学校の生徒も来るんだけど、その生徒が言うんだよ。お前の学校に橋本誠也って奴が転校してこなかったかって。そいつは橋本が元いた学校の生徒でさ、なんで橋本が転校したのか教えてくれたんだ。橋本の奴は、柴田って生徒にひどいいじめをしてたらしいんだよ。柴田に暴力を振るうだけじゃなくて、万引きも強要してたみたいだ。それを苦に、柴田って生徒は自殺したんだってよ。それが問題になって、あいつは転校したらしいんだ」
オレは一瞬頭が真っ白になり、その直後、今度は怒濤のように疑問が押し寄せてきた。有野は何を言ってるのだろうか。いじめっ子は柴田で、いじめられていたのはもっちゃんの方だ。しかも柴田が自殺しているとはどういうことだろうか。じゃあ、オレともっちゃんはいったい誰に復讐する計画を立てていたというのか……。
オレが混乱して何も答えられずにいると、有野は気遣うように言った。
「お前が言いたいことは分かるよ。嘘だって言いたいんだろ? お前ら仲良さそうだったもんな。俺だって橋本が悪い奴にはとても思えなかった。どちらかといえば、いじめられっ子みたいな雰囲気だろ? だから、橋本の事を話してくれた奴に訊いたんだ。たしかに橋本って奴はうちに転校してきたが、本当にお前の言う橋本なのかなって。それで橋本の特徴を話したら、そいつも驚いてさ。俺が言う橋本の特徴と、そいつが知ってる橋本の特徴が全然違うんだよ。そいつが言うにはだ、橋本は空手を習ってて、めちゃくちゃ筋肉質で、運動神経抜群だったって言うんだよ。でも俺達が知ってる橋本は太ってて、運動もダメだろ? おまけにそいつが言うには、橋本は勉強の成績もクラスでトップだったらしい。でも、俺たちが知ってる橋本は、授業でも答えられないことが多いから、勉強が得意そうには見えない。そいつが言う橋本と、俺達が知ってる橋本が全然違うんだよ。だから同姓同名の別人なんじゃないかって話になって、そいつに橋本がうつった写真を持ってきてもらったんだ。それを見たら、顔がまったく同じだったよ。写真の橋本は痩せてるけど、顔はどう見ても俺達が知ってる橋本だった」
「……なんで、もっちゃんはそんなに変わっちゃったんだろう」
オレは有野の言葉が素直に飲み込めなかった。信じたくないという気持ちもあったが、それだけではなく、もっちゃんの行動に不可解な点が多すぎたからだ。
有野は訳知り顔でこう言った。
「そんなの決まってるだろ。自分がいじめっ子だったことを隠すためだ。ま、あいつの場合はいじめっ子どころか、人殺しみたいなもんだ。だから太って容姿を変えて、別人になりすました。勉強と運動ができない振りをしてるのも、目立たないようにするためだろ」
オレは有野の説明に納得がいかなかった。たしかに容姿や学校での態度を変える理由はそれで説明がつく。だが、もっちゃんがオレに見せてくれた涙、あれは嘘だったというのだろうか。そんなはずはない。あれが演技だとは思えないし、そもそもいじめを隠すだけなら、自分からあんな告白をする必要がないのだ。
不可解なことが山積みだったが、オレはそのことを有野に説明する気になれなかった。もっちゃんはオレのことを信用して自分の過去を話してくれたのだ。それを誰かに勝手に話すことは憚られた。でも、それがすべて嘘だったとしたら……。
考えをどれだけ巡らせても、答えは見つかりそうにない。今度は有野の方が沈黙に耐えかねたのか、口を開いた。
「でな、なんでこのことをお前に話したかっていうと、心配だからだよ。今のあいつがどれだけ善人に見えようと、人殺しには変わりないからな。ただ、あいつが心を入れ替えたっていうなら、被害者でもない俺が文句をつける資格は無い。だから、このことは誰にも言わないよ。俺はお前とあいつの仲を引き裂きたいわけじゃないんだ。俺はあいつとつるむのはごめんだけどな。……まあ、とにかく、何かされそうになったら、すぐに俺に言えよ。助けてやるからさ」
有野が「人殺し」という言葉を発する度に、オレは自分が罵倒されたかのように傷ついた。もっちゃんはそんな奴じゃない、と思いたかった。でも、それはもっちゃんと友達になったオレにしか分からない感情で、有野とは共感し得なかった。
オレはとりあえず、有野にお礼を言った。
「ありがとう。何かあったら、有野に頼るよ」
「おう、あいつがお前にひどいことしたら、俺が駆けつけて投げ飛ばしてやるから」
そう言って有野は笑うが、オレは笑う気になれなかった。それを見て、有野は気まずそうに言った。
「話したいことはそれだけだ。で、これからどうする。まだ時間あるけど、ゲームでもしていくか」
「いいよ。もう帰る」
「……そうだよな」
有野はぎこちなく笑って言った。
「心配してくれてありがとう。じゃあね」
「おう、じゃあな」
オレは有野の家を出た。一人でとぼとぼ歩きながら、考えを整理する。
有野の言っていることは本当だろう。冗談でこんな嘘をつくような奴じゃない。ということは、もっちゃんはいじめっ子だったということになる。有野の言葉を借りるなら人殺しだ。でも、それならあの涙はなんだったのだろうか。それに、もっちゃんはまるで自分がいじめられていたかのように過去を語り、いじめっ子を屑と言って罵倒していた。屑以外にも「臆病者」「卑怯者」とも罵っていた。「死んでも誰も困らない」とまでも。そのときの恨みに満ちた顔はよく覚えている。演技だとはとても思えない。あれはもっちゃんの本心だろう。
ということは、もっちゃんも過去にいじめを受けていたことがあるのだろうか。そして自分が受けた仕打ちを柴田にも与えていたのだろうか?
いや、それだと、いじめっ子のことを柴田と呼称するのはおかしい。もっちゃんも他の生徒からいじめを受けたことがあるのなら、そのいじめっ子の名前を出して罵倒すればいいのだ。なぜわざわざ柴田をいじめっ子に仕立てる必要があるのか。
しかも、もっちゃんが語る「柴田」の人物像は、過去のもっちゃんとまったく同じだ。ということは、柴田に対して罵倒する形で、実質的にはもっちゃん自身への罵倒を繰り返していたことになる。ということは、もっちゃんは自分の行いを反省していた、ということにならないだろうか。
いや、もしかしたら、「反省していた」などという言葉では片付けられないくらいに、自分の過ちを悔いたのかもしれない。でなければ、あれほど痛烈に自身を罵倒することはないだろう。もっちゃんは柴田の自殺がきっかけで、自分がいかに残酷なことをしていたのかに気がついた。しかも、もっちゃんの過ちを責めるのは自分自身だけではない。クラスの連中も自殺者が出たとなれば、さすがにもっちゃんへの接し方を変えるはずだ。クラスに居場所なんか無くなるだろう。犯した罪への自覚と、クラスメイトからの冷たい視線や陰口に心を苛まれ続け……記憶を捏造した。
オレは答えに辿り着いた気がした。これですべての説明がつく。もっちゃんは自分の良心と他者から受ける呵責に耐えかね、過去の忌まわしい記憶を捏造したのだ。つまり、記憶の中の自分と柴田の立ち位置を入れ替え、自分の方が柴田にいじめられていたと思い込むようになった。そしてその思い込みを強固にするために、自分の容姿や言動、果ては性格までも柴田に寄せていった。逆に、もっちゃんの中での柴田像は、過去の自分自身の容姿や人間性を投影しているのだろう。そして、自分はいじめを苦に転校したというストーリーを作りだし、今もそのストーリーを演じ続けている。演じていることを自覚せずに。
ここまで考えて、オレは自分の家に着いた。だが中に入る気がせず、通り過ぎて思考を続けた。
もっちゃんは、過去の自分を殺したのだ。『死んでも誰も困らない』と思う過去の自分を。そして、これから死ぬまで、柴田という他人を演じて生きていくしかない。もっちゃんはもう、自分の人生を歩むことができないのだ。
これは十分に、償いと呼べる生き方ではないだろうか。当然、被害者や遺族はこの程度の罰では納得しないだろう。望んでいるのは本当の意味でのもっちゃんの死かもしれない。でも、もっちゃんはもう、橋本ではない。橋本はもうどこにもいなくなってしまったのだ。もっちゃんが殺したから。
オレの中で、もっちゃんへの不信感が徐々に消え去っていった。たしかにもっちゃんは嘘をついた。でも、もっちゃんの嘘はすべて本心から放たれている。オレを騙すための嘘ではない。むしろ自分を騙すための嘘だ。そんな嘘をつかれても、オレはもっちゃんは恨む気持ちにはなれない。
過去がどうであれ、そして他人がどう言おうと、もっちゃんはオレの大事な友達だ。これからの付き合い方を変える必要なんかない。
そこまで考えると、オレはさっぱりとした気持ちになった。そしてきびすを返し、自分の家に帰った。
翌日、オレはこの日の昼休みももっちゃんと作戦会議をしていた。気になるのは、もう柴田が死んでいるということだ。もっちゃんはそのことに目を背けている。
だが、作戦を決行すれば、嫌でも柴田、正確には橋本像を投影した柴田という生徒がどこにもいないことに気づくだろう。泥団子を投げる対象は存在しない。だから、オレにとってはもはやこの作戦は、失敗することが分かりきっている無意味なイベントだった。だが、うきうきしながら計画を話すもっちゃんを見ていると、中止を言い出すこともできなかった。おそらく当日は、来るはずもない柴田を待ち続けるはめになるだろう。
オレはそれでもいいと思った。面倒ごとに付き合ってやるのが友達の勤めだ。
翌日、とうとう作戦決行日を迎えた。作戦を立てた頃はあれだけ高まっていた緊張感も、今では跡形も無く消え去っている。せっかくの休日なのだから、さっさと作戦は中断して、もっちゃんとゲームでもやろう。そう思いながら家を出た。
自転車に乗って待ち合わせ場所に向かう。そこにはすでにもっちゃんが待っていた。
「おまたせ」
オレはそう言って自転車を止めた。もっちゃんの顔がなぜか暗い。
「ん? どうしたの?」
「あのさ、実は、謝らなきゃいけないことがあって……」
「え、何?」
「後で説明するよ。じゃ、行こうか」
「うん、あれ、ちょっと待って」
オレはもっちゃんの自転車のカゴを見て、おかしなことに気づいた。カゴの中には青いプラスチックのバケツが入っていた。約束だとその中に泥団子が入っているはずなのだが、実際に入っていたのはたくさんの拳大の石だった。
「泥団子って言ったじゃん? こんなのぶつけたら柴田が大怪我するかもしれないだろ?」
オレはいるはずもない柴田を気遣ったセリフを吐いた。
「うん、それも事情は後で説明する。とにかく僕についてきて」
そう言ってもっちゃんはオレに背中を向け、ペダルを踏んで進み出した。オレも黙って後をついていく。
しばらくすると、もっちゃんが選ぶ道がおかしいことに気づいた。当初の目的地から遠ざかっている。どこに向かっているのか訊こうかと思ったが、どうせ「後で説明する」と答えられるだろうと思い、黙ってペダルをこいだ。
出発してから三十分ほどして、ようやくもっちゃんが自転車を止めた。
「あそこが目的地だよ」
そう言ってもっちゃんは自転車から降りた。
もっちゃんが見つめている先には、墓地があった。オレは堪らず尋ねた。
「ねえ、どういうこと? 謝りたい事って何?」
もっちゃんは静かに言った。
「実はね、柴田はもう死んでたんだよ。どうして死んだのかは分からないけどね。だからもう、復讐する相手はいないんだ。せっかく計画を立ててくれたのに、ごめんね。でも、何もしないんじゃ悔しいから、柴田の墓に泥団子を投げてやることにした。だけど、墓だったらちょっと傷ついても警察沙汰にはならないでしょ? どうせだったらと思って、石にした」
どうやらもっちゃんはまた記憶を捏造したらしい。柴田の死因を自殺ではなく、原因不明ということにしたようだ。
もっちゃんはバケツをカゴから出し、こちらに差し出した。オレは中の石を一つ掴んだ。
もっちゃんが先に進む。オレは後を追いながら、人気の無い狭い墓地を進んだ。墓石が二十個ほど並んでいる。もっちゃんが立ち止まり、そのうちの一つを指さした。
「あれだよ」
見ると、墓石には『柴田家之墓』と書かれている。
もっちゃんはバケツから石を取りだし、その墓石に投げつけた。
「よくも、よくも散々やってくれたな」
言葉の一音一音に恨みがこもっているのが分かる。その言葉を言い放つとともに、もっちゃんは勢いよく石を投げつけた。
墓石がカンッと高い音をたてる。石を当てた部分の墓石が傷つき、灰色から白に変色した。
オレはその光景を、もっちゃんの背中越しに呆然と眺めていた。
「この屑がっ」
墓石が高い音をたてる。ぶつかった石は地面に落ちて、カタンと呆気ない音がした。
その後も、もっちゃんの罵声と石打ちは続いた。バケツに入っていた二十個ほどの石はあっという間に減っていき、すぐに空となった。
投げる物が無くなり、もっちゃんがこちらを振り向いた。その頬には涙が流れていた。
「それ、投げないの?」
もっちゃんはオレが握っている石を指さした。
「ああ、オレは……」少し迷ったが、オレは思い切って言った。「やっぱり、いいよ」
そう言って持っていた石を地面に落とした。
そのとき、もっちゃんの顔には明らかな失望の色が浮かんだが、すぐに申し訳なさそうな顔になり、こう言った。
「そうだよね。町田君は優しいもんね。こんなことに付き合わせて、ごめん」
オレは笑顔を作って言った。
「ううん。元はと言えばオレから言い出したことだし。それよりもこれからどうする? オレの家でゲームでもしようぜ?」
もっちゃんは涙を拭って答えた。
「うん。じゃあ、帰ろっか」
オレたちは自転車に乗って墓地を後にした。
その後、オレともっちゃんはずっと友達のまま、残りの高校生活の二年間を過ごした。オレは高校を卒業した後、大学に進学したが、もっちゃんは勉強ができないからと、進学はせずに就職の道を選んだ。
今、オレは大学生だが、もっちゃんとは高校を卒業したきり連絡を取っていない。来年には成人式があるから、そのときにもっちゃんに会えるかもしれない。もっちゃんは社会に出てもまだ、柴田を演じ続けているのだろうか。