8話 カルア森林にて
黒封筒を前にしばらく固まっていた俺だが、メアリーが「早く開けろ開けろ〜」と机をトントン叩いて急かしてくるので、渋々封を切った。
――中には一枚の紙。
そこに書かれていたのは、たった一文だけだった。
【至急、東方森林地帯に出現した『巨大生物』の調査を行え】
「…………」
「……あれ? アルバス? 固まってる?」
「……なんで俺?」
「ん? 適任だから」
「適任ってなんだよ。巨大生物って書いてあるけど、具体的な種族名すらないんだが?」
「大丈夫大丈夫、行けばわかるよぅ」
「それが嫌なんだが?」
できれば一生わかりたくない。
メアリーは俺の肩をポンポン叩きながら、気だるい声で言う。
「まぁまぁ、調査って言っても様子見だからさぁ。危なくなったら逃げればいいだけだよ?」
「その逃げればいいだけに命かかってんだよなぁ。で、オタクは?」
「ん?」
「国家指定冒険者さんのメアリーさん来るんですかって聞いてるんですが?」
「あー……私はねぇ……」
メアリーは少し視線をそらして、
「……ちょっと今日、爪のメンテがあってぇ」
「乙女か!」
「まだ二十も八の乙女だよぅ」
戦闘兵器として国家に指定されてるくせに何言いやがる!
「いやいや、来るから来るから。あとでね。
ほらぁ、キミ先に行って様子見しといてよぉ。私はそのあと行くから。……多分」
「多分てなんだよ! 一番信用できねぇ言葉だぞそれ!」
「大丈夫大丈夫、最悪でも死ぬだけだから」
「二回言うな!!」
くそ、この女……絶対適当に言ってるだろ。
「……アルバス」
突然、メアリーが真顔になった。
やめろ。
こういう時だけ急に真面目になるのやめろ。流れが読めねぇんだよ。
「大丈夫。キミならできるよ」
「…………」
不覚にも、ほんの一瞬だけ胸の奥が落ち着きそうになる。
「ま、私は後から合流するけどねぇ!」
「はい台無し!」
「はいはい、というわけで行ってらっしゃい。
あ、もし死にそうになったら空に向かって叫んで。
メアリー助けて! って聞こえたら行くから」
「聞こえなかったら?」
「えっ。聞こえなかったら……まぁ……」
メアリーは肩をすくめた。
「ガンバ?」
「テキトーすぎるだろ国家兵器!」
ということで。
俺の三日間の休息は本当に一瞬で消え去り、代わりに東方森林地帯行きという死亡フラグみたいな任務が舞い込んできたのだった。
「はぁ……ララノアとアイリスが戻ってくるまでに終わればいいけどな……」
そんな俺のぼやきを背中で聞いたメアリーは、ニヤニヤしながら呟いた。
「戻ってきても終わってなかったら面白いんだけどねぇ」
「やめろォ!」
◇
東方森林地帯、通称カルア森林。
街から東に歩いて三時間ほど掛かる地点に、ひっそりと口を開けている深緑の塊だ。
「はぁ……なんでこんなとこにいるんかね俺」
ララノア、アイリスと行った“ざわめきの森”と違って、カルア森林はモンスターのレベルが軒並み高い。
中級冒険者のパーティ単位でやっと森に入って依頼をこなせる、そんな危険地帯。
そもそも俺みたいな単独行動の中級冒険者が、のこのこ足を踏み入れるような場所じゃない。
普段だったら俺は絶対に来ない。いや、本当に来ない。
受けざるを得ない依頼だったから受けただけだ、普通の指名依頼だったら依頼料によって応相談……いや速攻断ってるな。
太陽の光は分厚い枝葉に遮られ、地表にはまだらな影が広がっていた。
湿った土の匂いと、古く巨大な木々が幾重にも重なった冷たい空気が、肌をじわじわと撫でる。
獣の匂いが混じる風が、ほんのわずかに頬をかすめるたび、背筋がざらりと粟立つ。
時折、名も知らない鳥の声が聞こえる。
けれど、それすらもどこか弱い。遠い。
まるで、森そのものが声を出すのをためらっているかのようだ。
――おかしい。
本来のカルア森林は、行けばすぐに何かしらの気配がぶつかってくる。
油断してりゃ一瞬で囲まれる、そんな“生きた森”のはずだ。
なのに、今のこれは静寂が逆に耳を刺すほどだ。
(……気配が、ない)
自分の足が枯れ枝を踏む音ばかりが、やたら大きく周囲に響く。
まるで森全体が息を潜め、こちらを伺っているような、不気味な静けさだった。
「……嫌な仕事引き受けたな、俺」
愚痴りつつ、弓を手に歩調を落とす。
目だけを鋭く動かして、木々の隙間を読み取る。
その瞬間――視界の端で微かに木の葉が揺れた。
風じゃない。
っ! そこだ。
反射で弓を引き絞り、影へ向けて矢を放つ。
鋭い風切り音が森に走った。
「クソっ! 外したか」
矢は木の幹に深々と突き立った。
しかし手応えが無い。
獲物を掠めた感触すらない。
だが。
次の瞬間、木々が不自然に“連鎖”して揺れ始めた。
一つ揺れるのではなく、奥から手前へ、ドォン、ドォン、と押し広げられるように震えてくる。
まるで何か“巨大なもの”が木々を押しのけながら突き進んでくるような。
「……おいおい、マジかよ」
鳥が一斉に飛び立ち、空へ逃げた。
嫌な予感が、喉の奥で金属の味になって広がる。
そして。
木々の隙間から、そいつは姿を見せた。
灰色の硬質な毛並みが、血を吸った鉄のように鈍く光っている。
人間の三倍はゆうに超える巨体。
大岩みたいに盛り上がった両腕。
裂けた口の奥で、黄色い牙がギラリと光る。
「オーク・エイプ……!?」
オーク・エイプ。
上級指定モンスター。
別名、魔獣種《大牙猿》。




