完結編 18話
事態は一刻を争う状況となり、ウィリアムはもはや手段を選んではいられなかった。
民を切り捨て、メイジ・シールドの範囲を限定的とし、反撃に出れば、この戦に勝利できる。だが、その代償はあまりにも大きい。守るべき民を犠牲にした勝利に、何の意味があるというのか。ウィリアムの思考が、苦悩の淵を彷徨う。
「く……このままでは……」
そのときだった。
視線の先、両軍の間に、一頭の馬が土煙を巻き上げながら、戦場を切り裂くように疾走してきたのだ。その背には、見覚えのある真紅の衣装。そう、戦場に現れたのは、渦中のアイリス本人であった。彼女は単騎で王都まで馬を走らせ続けていたのだ。
到着と同時、スレイプニルは足を曲げて座り込んでしまった。あまりの疲れからか、一歩も動けないようだ。
そして、アイリスもまた、満身創痍であった。連日に渡る強行軍と、森の中を馬で駆け抜けたせいで、枝や棘が絡まり、もはや輝きを失っていた。
顔には、幾筋もの切り傷。その傷口からは、血が流れ落ち、白い肌を赤く染めている。深紅の衣服も泥まみれで汚れている。
これは、森林地帯を『最小限のルート』で突っ切ったからだ。整備されていない獣道は当然、木々の枝や棘だらけ。大きな障害物だけを避けて馬を全力疾走させれば、数多の生傷をつけることになる。
ウィリアムはアイリスの姿を見て、驚愕した。
「なぜ君がここに……まさか」
アイリスは、ウィリアムの言葉に答えることなく、力なく一歩踏み出す。
その表情は、疲労困憊ながらも、強い意志を秘めていた。
彼女は、カベルネ軍に向き直ると、腹の底から絞り出すような声で叫んだ。
「……私は、アイリス・ジャーマン! シールド・ウェストの領地を預かる者だ! カベルネ侯爵! 今すぐ兵を引けぇ!! 私は、ここに、いるぞ!!」
カベルネは彼女の登場に驚き、思わず立ち上がった。
「ま、間違いない。あの声、あの顔、うぅ…愛しのアイリス嬢だ」
カベルネは、泥だらけの姿すら愛おしむように、アイリスを見つめる。その瞳は、狂気的なまでの情欲に染まっていたが、すぐ我に返って、慌てて兵に命令を飛ばす。
「ま、魔法を止めよ!!今すぐだ!このままではアイリス嬢へ被害が及ぶやもしれぬ!!だが、いつでも撃てるようにしておけよ、私はお嬢と話がある!」
「は、はいいい……魔法部隊、詠唱解除!詠唱、かいじょー!!」
カベルネは重たい体を起こし、不格好ながらも急いで馬に跨った
* *
アイリスの登場により、ひとまずの脅威は去った。
だが、それは、根本的な解決を意味しない。
カベルネは、大規模魔法を維持させたまま、これ見よがしに百名程度の少数精鋭を率いて、アイリスの元へ向かう。ウィリアムも、その動きに呼応するように、同数の兵を率いてアイリスに近づいた。
両者がアイリスを挟んで対峙する構図となり、状況は一触即発だ。だが、ウィリアムが少しでも動こうものなら、混乱している民兵たちに、容赦なく炎の雨が降り注ぐことになってしまう。
「カベルネ! アイリスも言っている通りだ! 兵を引け! お前は…!」
ウィリアムは、怒りを込めてカベルネを睨みつける。
しかし、カベルネは、涼しい顔でウィリアムの言葉を遮った。
「おっと、今は私とお嬢の大切な時間です。王子には控えていただきたい。 問題ありません。全て解決したら、兵を引くことを約束しましょう」
カベルネは、まるで全てを掌握しているかのような態度で言い放つ。
ウィリアムは、歯噛みしながらも、今は静観するしかなかった。
暫くの沈黙が続き、アイリスは二人を一瞥すると、カベルネに向き直って言った。
「まずはどういうことか説明してもらうか、カベルネ侯爵」
言葉自体に実体があるかのような、重く、冷たい口調。
カベルネは、その迫力に押され気味になりながらも、すぐに虚勢を張った。
「目上にも関わらず、豪胆な態度を崩さない。ふむ…だが、その自信に満ちた姿もまた美しい。それでこそ、我が妻にふさわしいものだ」
「黙れ。聞いたことだけに答えろ」
「ふ……ふん。その強がった虚勢、いつまで持ちますかな?私としては、すぐにでも民を蹴散らしてお前を攫ってもいいのです……が……」
「……!」
アイリスは、何も言わずにカベルネを睨みつける。その視線は、鋼鉄の刃のように鋭く、カベルネの心の奥底まで見透かすようだった。
カベルネは、さすがに恐怖を覚えたのか、渋々と言葉を続けた。
「う……ま、まぁ良いでしょう。貴女をお迎えに上がるためですよ。アイリス嬢。ダメじゃないですか、嫁入り前にも関わらず、その辺りをうろつかれると、心配でたまらないのですから。私の『物』が勝手な許可なく他の男に会おうなどと……心配で心配で…ああ、考えただけでも気が気でない!」
カベルネは、そう言いながら、自分の胸ぐらを掴んでみせる。まるで今苦しんでいることを最大限にアピールしているようだが、アイリスにはそれが滑稽に見えてたまらなかった。
「お前の物になった覚えはない。ましてや、求婚に答えた覚えもな」
「ふぅ……今から、なるんですよ」
カベルネは、そう呟くと、ニヤついた表情で続けた。
「アイリス嬢、貴女は頭の良い女性だ。貴女ならわかるはずです。この状況…貴女の返答次第では…ええ、結果は明白。多くの命が失われることになる。うーん、民は貴女の我儘によって犠牲となる…なんと悲劇的なことでしょう!」
さぁ、どうしますか。と言わんばかりにアイリスの返答を待っている。その包み隠さない欲望に染まった弧を描く目線はアイリスの体に向いていた。
「ふん…外道が。端的に言って、お前のような男は私の好みじゃないのだ。私の想い人は既に決まっている。お前如きに良いように弄ばれるつもりは無い。死んでもお断りだ!」
「では、残念ながら―」
カベルネは、魔道兵に大規模魔法の発動を指示しようと、ゆっくりと手を挙げた。
その瞬間、アイリスが、静かに、しかし、力強く言い放った。
「待て。」
カベルネの手が、空中に止まる。
「そうだな…だが、私は強い男であれば、受け入れてやってもいいとは思っている。カベルネ、私と一騎討ちをしろ。私を負かすことができれば、好きにするがいい……」
「好きにする…」
その言葉を聞いた瞬間、カベルネの目が怪しく光った。
「ふむ……」
カベルネは、少し考える素振りを見せた後、不気味な笑みを浮かべて頷いた。
「良いでしょう。その申し出、喜んで受けさせてもらおう。王子、あなたには、この試合の見届け人となっていただきたい。勝敗に関わらず、これが終われば兵を引きます。民もこれ以上失わせません。戦神ヘラヘクスと名誉にかけて、邪魔をしないでいただきたい」
ウィリアムは、他に選択肢がないことを悟り、静かに頷いた。
「他に選択肢は無いんだろ…わかった。だが、カベルネ、約束は守ってもらうぞ。」
「ご理解いただけて何よりです」
カベルネの側近たちが、一騎討ちの場を整えるために着々と準備を進めていく
アイリスはどこか遠く、一点を見つめたままだ。
ウィリアムはアイリスの容態を伺うが
「アイリス、君は疲労困憊で立つのもやっとであろう。なぜ受けた」
「王子、これでいいのです。これで……」
だがアイリスは自らを納得させるように呟くだけだった
二人の一騎討ちが始まろうとしている。