表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
444/478

完結編 12話


 フレイル・ブロンズマン領


 王都から東に広がる広大な領地、フレイル・ブロンズマン領。首都はフレイル・シーザーという仰々しい名前を持っているが、人々からは単に「ブロンズマン領」と呼ばれていた。資源と食糧に恵まれたこの地は、かつては王都に次ぐ繁栄を誇り、侯爵の領地にふさわしい場所だと―そう、かつては。


 王都からずっと西の僻地に、ソード・ノヴァエラという名の新しい町が誕生して以来、ブロンズマン領の評価と生産性は下落の一途を辿っていた。


 優秀な人材は、より良い条件とチャンスを求めて西の新天地へと流出。魔物が食料を荒らし、物流が滞って物価は高騰する。魔物への対策費がかさみ、税はさらに重くなる一方。民の不満は高まるばかり……。


 まるで、歯車が狂い始めたが最後、全ての歯車が逆回転を始めてしまったかのような、目を覆うばかりの転落劇だった。


 「ああ、これも全てサトルのせいだ……!」


 カベルネ・ブロンズマン侯爵は、領地を襲うあらゆる災厄の責任を、サトルという男一人に押し付けていた。自室に籠もりきり、領地の統治はおろそかに、ただひたすらサトルへの謀略に耽る日々。


 「ああ、こんな気持ちの時は、お前を見て心を落ち着かせてやりたいものだ……」


 カベルネの自室には本人以外存在しない。話し相手は、壁に飾られた一枚の肖像画だ。

 自室の壁にはシールド・ウェストの領主、アイリスの肖像画が無数に立て掛けられている。全て彼女に送ったが返されてしまった高価な贈り物の数々が、床に乱雑に転がっている。


 「ソード・ノヴァエラ、サトル、この二つが私を苦しめるのだ……」


 カベルネは、震える手でアイリスの肖像画に触れた。冷たく滑らかな絵の具の感触が、彼の心をさらに掻き乱す。


 確かに、チャンスがソード・ノヴァエラに流れたのは事実だった。しかし、カベルネが実直な統治を続けていれば、ある程度の発展を維持することはできただろう。 だが、そんな当たり前の事実に、もはや彼の目は向けられない。


 一度でも悪い事態に陥ると、人はとかく分かりやすい「悪」を作り出して、他の全てに目をつむってしまうものだ。 狭量な領主、カベルネもまた、その例外ではなかった。


 「冒険者上がりの、低俗な血統の分際で……。よりによって、首都より大きな町を築き上げるとは、言語道断! 王子の威光に逆らい、私の領土に泥を塗る不届き者め! あやつはスターリムの癌だ……。このまま野放しにしておけば、我が領土の価値は地に落ちるばかりだ! そうだろう? アイリス!」


 カベルネは、まるで生きているかのように肖像画に語りかける。その歪んだ愛情は、もはや狂気と化していた。


 ソード・ノヴァエラでの会議以来、彼の精神状態は明らかに不安定さを増していた。本心ではサトルを侮っていたものの、王子を含め周囲が彼を高く評価している現状は、カベルネにとって面白くない以外の何物でもなかったのだ。


 「会議では王になるだの、世迷言を吐き散らかしていたな……。王子も、あの男に騙されているのだ! このまま放置すれば、いずれ国にとっての災厄となる。早急に、手を打たねば……」


 そう自分に言い聞かせるように、カベルネの中で復讐の炎が燃え盛る。心臓が、冷え切った溶岩のように、どろりと音を立てて脈打つ。


 そして、ある程度の結論に達した時だった。 控えめなノックの音が、重い扉越しに響いた。


 「ん? 誰だ、こんな夜更けに」


 「恐れ入ります」


 入室してきたのは、家令の役目を担う執事だった。カベルネは彼に、屋敷全体の管理を任せている。 執事の手には、ブロンズマン領宛ての文が握られていた。


 家令は洗練されたお辞儀をしてカベルネに文を手渡す。


 「僭越ながら申し上げます。ソード・ノヴァエラに放った草より、文が届きました」


 「なんだって……?」


 カベルネは乱暴に文をひったくると、封蝋を素手で引きちぎり、中身を貪るように読み始めた。


 「……ぐっ……! こ、これは……! あああああっ!!」


 文面には、シールド・ウェストの領主であるアイリス・ジャーマンが、サトルの元に亡命したという衝撃的な知らせが記されていた。 それだけではない。アイリスは、今後サトルの家臣として迎え入れられる可能性もあるというのだ。


 カベルネの顔が、みるみるうちに怒りで紅潮していく。 その様子に身の危険を感じた執事が、慌てて彼を落ち着かせようとした。


 「カベルネ様! ご気分が優れないご様子……。 どうかなさいましたか?」


 「うるさい!」


 カベルネは、振り払うように執事の手を叩き落とし、手紙をくしゃくしゃに丸めると、暖炉の中に投げ捨てた。


 燃え上がる手紙の中で、アイリスの文字が一瞬浮かび上がり、灰となって消えていく。カベルネの怒りは、もはや制御不可能な域に達していた。


 「畜生が……! アイリスが、私の婚約者が、サトルに奪われたというのか!! 手紙には、そう書かれていた!!」


 実際には亡命しただけであり、「婚約者が奪われた」というのはカベルネの勝手な思い込みに過ぎなかった。しかし、手紙の中身を見ていない執事には、それが真実だと信じる以外に道はなかったのだ。


 「それは……一大事にございます。アイリス様は、フォマティクスとの戦争後、カベルネ様より求婚の申し出を受けられたばかり……。男爵の地位にあるアイリス様にとっては、大変な「誉」であったはずなのに……」


 かねてより、カベルネはサトルが領主となる以前からアイリスに一方的な恋心を抱いていた。だが、これといった功績のない男爵家との縁組は、周囲の反発を招く可能性があった。 しかし、今回の戦争でアイリスが大きな武功を挙げたことで、ようやく彼女を自分のものにできる名目が立ったのだ。もちろん、そこにはアイリス自身の気持ちなど、微塵も考慮されていない。


 「サトルめ……! 好き勝手しやがって! 我が領土を荒らすだけでは飽き足らず、愛しい婚約者まで奪うとは……。もはや、黙って見過ごすわけにはいかない!」


 カベルネは、憎悪を込めて唇を歪ませると、低い声で宣言した。


 「出兵する」


 「カ、カベルネ様!!」


 「うるさい! 出兵だと言っているのだ! 聞こえなかったのか!? 王子だろうと、他国だろうと、もはや関係ない。 サトルの兵力はたかだか200程度だろう。 5000の兵で、徹底的に叩き潰してやる!」


 カベルネの瞳は、狂乱の炎で燃え上がっていた。執事の制止も、もはや彼の耳には届かない。


 「アイリス……お前は、私の『物』だ」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ