天下一の木
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目的を達した後、具房は普通にバカンスを楽しむ。お市が要望していたセーラー服は、わざわざ津から届けさせた。権力の濫用である。
「は、破廉恥です!」
セーラー服に着替えて浜へ繰り出そう、という段で抵抗したのが敦子だった。ロングスカートなので丈は着物と変わらないが、袖は夏のため半袖となっている。それを彼女は『破廉恥』と言っているのだ。
「どうして皆さん普通に着ているのですか!?」
愕然とするのが、お市たちが普通にセーラー服を着ていること。教養を積んだ葵さえも着ている。空気的に、着ていない敦子の方がおかしいみたいになっていた。まあ、彼女たちは学校に通っていたため、セーラー服に慣れていて抵抗がない、というだけの話なのだが。
浜で遊びたいけどこの服は断固拒否! そんな姿勢を見せていた敦子だったが、
「着ないの?」
というお市の言葉に反応する。何となく、自分を嘲るようなニュアンスを感じたのだ。実際にそんな意図はなく、着ないのはもったいない、という程度のものだった。しかし、肝心なのは受け手がどう受け取ったかということ。その点でいえば、お市の発言はアウトだった。
「い、いいでしょう。着ますよ。着ればいいんでしょう!」
ヒステリーでも起こしたように叫ぶと、敦子は着替えスペースに戻る。そしてセーラー服に着替えて戻ってきた。やはり恥ずかしいのか、顔は赤かったが。
「敦子。別に無理をしなくても……」
「も、問題ありませんわ」
とは言うが、顔を赤くして羞恥に震えていれば心配もする。具房は引き下がったものの、彼女の羞恥心が限界に達すれば強制的に収容しようと考えた。
だが、その心配は杞憂に終わる。先に遊び始めていたお市、蒔、毱亜は、キャーキャー言いながら波打ち際を走り、水が冷たくて気持ちいい、とはしゃいでいた。敦子も場にすぐ馴染み、一緒になってはしゃぐ。かくして、波打ち際でアイドル顔負けの美女、美少女による追いかけっこが始まった。そんな姿を、具房と葵は浜から眺める。
「さすが太郎様。お二人を仲直りさせてしまいましたね」
「いや、大したことはしていないぞ」
謙遜ではなく本当に、具房は大したことはしていない。実家の名誉が傷つくぞ、と脅して黙らせたようなものだ。正直、これでよかったのか? と自問自答している。いい機会だと葵にもそのことを明かした。すると、
「ふふっ。そこはお任せを」
葵は二人のーーというより妻たちの間を取り持つ役目は自分に任せろと言う。
「お前も忙しいだろう?」
「太郎様ほどではありませんから」
だから任せてほしい、と葵。その熱意に負けて、具房は任せると言った。ただし、手に余るようなら相談するように、とも言い含めておく。
「頼んだぞ。それから、無理もするな」
「はい……」
葵の肩に手を回す。すると葵も甘えるように身を寄せてきた。騒ぐお市たちとは別に、二人の間ではまったりした雰囲気が流れる。このままどこかにしけ込みたいところだが、そうは問屋が卸さない。
「おーい! 旦那様も葵さんも、遊びましょう!」
お市が浜から呼んでいる。蒔たちも同様だ。具房たちからすれば間の悪い以外の何物でもない。雰囲気をぶち壊すという意味ではナイスタイミングだった。
これには二人も苦笑。しかし、どこか憎めないのはお市の人徳だろうか。
「おう!」
よいしょ、と立ち上がりつつ答える。そして、今まさに立ち上がろうとしていた葵に手を貸した。
「ありがとうございます」
柔らかく微笑む葵。具房は不意に、彼女の美貌に目がいく。言ってはなんだが、ただの村娘がよくここまで化けたものだ、と感心してしまう。
「どうかしましたか?」
「いや、何でもない」
と反射的に答えて、具房は己の失策を嘆く。見つめておいて何でもないはないだろう、と。遅いかもしれないが、褒めておく。
「実は、葵が美しいから見惚れてしまった」
そちらは素直な感想。その後に白良浜の白に映えるな、というあからさまな褒め言葉を使う。さすがにダメかと思ったが、根は純朴な葵には効果覿面だった。
「えっ、あ、その……ありがとう」
いつもの上品な淑女としての仮面が剥がれ、素の彼女が出た。その姿は久しぶりに見るような気がする。
賛辞をきっかけに、二人の間にまたしても妖しい雰囲気が流れた。だが、それをまたしてもぶち壊したのがお市。
「何してるの! 遅いわよ!」
「悪い! 今行く!」
具房たちは今度こそお市たちのところへ行って、童心に帰って水遊びや砂遊びに興じた。
それから日中は遊び、夜は温泉でリフレッシュ、という日々が続いた。たまに朝から温泉でのんびりしてみたり、エチエチしてみたりと、具房はこの世界に産まれて初めて退廃的な生活を送った。子どもたちのことも、ほとんど乳母たちに任せている。
しかし、楽しい時間も終わりがくる。帰国の予定日がやってきたのだ。
「たまにはこんな生活もいいな」
具房は再び大名としての政務を行わなければならないことを嘆いた。しかも彼には信長(事実上の天下人)の補佐という仕事もある。多忙なのは間違いない。このまま白浜で隠居したいところだが、そんなことをすると人々に迷惑がかかる。無理な話だった。
「また来ましょう。今度は子どもたちを連れて」
「そうだな」
毎年とはいかないが、暇があればバカンスに来るのもいいだろう。具房はお市の言葉に頷いて迎えの馬車に乗り込んだ。
白浜から田辺へと馬車で移動し、そこから船に乗って津に向かう。具房たちが乗る船の周りは戦当然のように戦闘艦隊が囲んでいた。さすがに大名が乗る船が独航するわけにはいかない。
「よく訓練されているな。新編とは思えない」
「この日のために訓練していましたからね」
具房が整然とした艦隊運動を称えると、それに答えたのが戦闘艦隊の司令官・九鬼澄隆であった。
当初、戦闘艦隊は一個しか存在しなかった。これは具房が想定していた仮想敵が、石山合戦で来援する毛利水軍だけだったからだ。しかし、今や紀伊を押さえ、徳川家への助力も行なっている。戦線が二つになり、どちらも制海権を握るために戦闘艦隊を増設、増強する必要があった。徐々に数を増やしていたのだが、遂に先日、編制が完結したのだ。
新たな編制は戦列艦八、フリゲート三十二の計四十隻。これが二個艦隊存在する。戦時にはこれらに加えて、各地で交易を行なっている商船を仮装巡洋艦として配属することとなっていた。
乗組員は、古参と新兵が半々。しかし相当ハードな訓練を行なったのか、見事に統制がとれている。
「これなら実戦を経験すれば完成だな」
「はい。早く戦いたくて、皆うずうずしています」
血の気の多いことだ、と具房は思った。戦いたい、という人間の気持ちが彼には理解できない。鍛えた力を確かめたい、という気持ちはわかる。だが、戦いの対価は自らの命だ。必ずしも失うわけではないが、可能性はゼロではない。そんなものに好き好んで挑む人の神経が、具房には理解できないのだ。もちろん口にはしないが。
船団は何事もなく津に着いた。ここで一同は下船する。お市たちの旅は終了。だが、敦子は京へ戻らなければならない。ひとりで行かせるわけにもいかないので、具房も護衛として上京することになっていた。
「殿! 織田様(信長)から文が届いております!」
城に戻ると、家臣が緊急の案件だと信長からの書状を持ってきた。ご苦労、と労いの言葉をかけつつ、具房はそれを開封する。書状は挨拶文から始まり、お市との生活はどうだなどと綴られていた。これのどこが緊急なんだろうと思いながら読み進め、
「なっ!?」
文面に驚いた。崩し字を読み間違えてないよな? と何度も見返すが、文面が変わることはない。つまり、事実ということだ。
(マジかよ……)
具房は書状を置いて瞑目する。目を開けると、目線をやや上に向けた。これが彼のシンキングポーズだ。傍目から見るとぼーっとしているようだが、頭はフル回転している。なお、周囲の警戒には意識を残しているため、チャンスだと暗殺を試みても返り討ちだ。そんな警戒網に引っかかる者がいた。
(これは……問題なし)
知っている人物のそれであったため、具房はスルーする。だが、その人物は具房に用があったらしく、部屋に入ってきた。
「旦那様。兄上から文がーーって、どうしたの?」
気配の正体はお市。信長から手紙が送られてくると、最近の彼はどうしていると聞きにくるのがいつものことだった。ところが、部屋に入ると具房がシンキングポーズをしている。何かあったのかと訝しんだお市は、事情を訊ねた。
「これを見てくれ」
具房は隠すことでもない、と信長からの書状を見せる。目を通したお市もまた驚く。
「これ、本当なの?」
「ああ」
具房は頷いた。凄いじゃない、とお市。だが、具房はむしろ困惑していた。なぜこうなった? と。
信長からの書状には、朝廷が蘭奢待の切り取りを許可し、近く勅使が送られてくるというものだった。許可を与えられたのは具房と信長。畿内の騒乱を治めたことを評価してのものだという。
だが、具房はこのことをまったく知らない。そんな朝廷工作は行なっていないからだ。ゆえにこれは、織田家独自の活動だったといえる。疑問なのは、なぜ北畠家も巻き込まれたのか、ということだ。その疑問に対する答えは、程なくしてやってきた勅使ーー日野輝資が教えてくれた。
「主上の強い希望です」
信長が蘭奢待の切り取りを要請したところ、切り取るのは具房と信長という条件で許可したのだという。曰く、天下を支えているのはこの二人である、と。どうやら朝廷は、二人の二頭政治を望んでいるようだ。
(まあ、ストッパーとしての役割を期待されているのはわかるけど……)
朝廷からすれば、成り上がりでよくわからない織田家より、それなりに交流のある北畠家の方が付き合いやすい。両者は密接な関係を築いており、信長も具房の意見をよく聞く。その点から、信長の暴走を抑えるストッパー役を任せようとしていることは容易に察せられた。
「直ちに上洛されたい」
「承知した」
具房はこの求めに応じて上洛する。敦子を送るために上洛する予定だったが、蘭奢待の切り取りという公的行事ーー歴史に残る偉業ーーがあるため、規模を大きくしなければならない。そのため、少し時間をとられた。おかげで子どもたちと敦子が交流する時間がとれたのはよかったかもしれない。まあ、子どもたち(年長組)は自分と同年代の「母」に対して少し戸惑っていた様子だったが。
「大変名誉なことですわね」
上洛する馬車で、敦子は終始ご満悦といった表情だった。蘭奢待の切り取りというのはそれだけ凄いということだ。
入京した具房は、翌日すぐに大和へ向けて旅立った。蘭奢待の切り取りは多聞山城(北畠家の大和支配の拠点)で行われる。自分が与り知らないところで話が進められていたのになぜかホストにされていたのだ。たまったものではない。慌てて準備をしたのである。
多聞山城には既に信長が入っていた。そこで二人は会見した。
「今回のことは急で驚きました」
具房は冒頭で無茶振りに対してチクリと嫌味を言う。これを信長は、
「すまぬすまぬ」
と軽く流す。具房も本気で怒っていたわけではないので、今度は気をつけてください、と釘を刺すだけに留めた。
具房は長距離移動を続けていたという事情に鑑みて、蘭奢待の切り取りは二日後に行われることとなった。信長も遠慮したのか、会談も何も申し込まれなかった。おかげでその日はゆっくり過ごすことができた。旅は疲れるので、とてもありがたい。
切り取り当日。多聞山城から東大寺に特使が送られる。北畠家からは北畠具藤、具親、六角義治、島左近、藤堂房高、猪三が派遣され、織田家からは織田信興、津田信澄、佐久間信盛、丹羽長秀、松井友閑が派遣された。
蘭奢待は長持に入れられて運ばれてくる。蘭奢待は1.6メートルの長さがある。目の前で見るとその大きさが伝わった。
切り取りは順番に行われる。まずは信長。
「後々の話の種になろう。皆、よく見るがよい」
そう言ってど真ん中ーー隣には足利義政が切り取った跡があるーーを切り取る。『話の種に』とは、知り合いとの会話のネタにしろ、ということだ。その含意は噂を広めろ、である。歴代の足利将軍が切り取りを許された蘭奢待。それを切り取ったのは当代の将軍・足利義昭ではなく織田信長だと宣伝するのだ。
一方の具房は何も言わずに切り取った。彼にパフォーマンスの意図はない。というより、これは親に突如として買い物に連れ出されたようなもので、何に利用できるか考える暇がなかった。具房は歴史を知っているだけの凡人であり、策謀も長い間じっくり考えてから実行に移す。今回のように、突発的な事態への対応力は弱かった。
そこで、今回は無難にこなす方針をとる。慣例に倣い、一寸八分(5.5センチ)ほどの大きさで切り取った。
(……で、どうしろと?)
元の場所に戻ったところで、具房はふとそんなことを思った。彼はそもそもお香を焚くことがない。香木をもらっても困るのだ。お中元で高級酒を贈られた下戸の気分である。
(ま、半分は家臣への褒美に使って、もう半分は保存しておくか)
蘭奢待の切り取りは滅多に許されるものではない。この先、子孫が機会を得ることはまずないだろう。だから記念として保存するのだ。具房は物惜しみをするタイプの人間で、部屋には『記念品』が多い。そのコレクションに新たな品物が加わる。
ともあれ、蘭奢待の切り取りという一大イベントは無事に終わったのだった。