長篠合戦 伍
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「中央突破だ!」
武田軍中央部隊(武田信廉隊)が離脱していくのを見た具房は反攻を命じた。後方に温存されていた騎兵部隊が先頭を走り、陣地に籠もっていた歩兵部隊が続く。騎兵の突破力にものをいわせて正面の武田軍を粉砕。勝頼の本陣に襲いかかる。
「お、御屋形様を守れ!」
勝頼の側近が防戦を命じ、兵たちは槍衾を組んで迎撃の構えをとる。これが普通の騎兵なら最適解だが、北畠騎兵に対しては悪手であった。
北畠騎兵は、騎兵銃を撃ちながら突撃する。装弾数は五発。激しく揺れる馬上からの射撃ということもあって、命中率はお世辞にもよくない。どれだけの敵が倒せるのか、不安になるところだ。しかし、槍衾を組んでいるーーつまりは敵が密集していることで、問題にはならなかった。
馬蹄を轟かせ、銃撃しながら突撃してくる騎兵。槍衾を組む武田兵にかかる心理的プレッシャーは相当なものだ。放たれた矢に当たって落馬する者もいたが、迫力はいささかも衰えない。あと十秒もしないうちに激突するーーというところで、北畠騎兵は予想外の行動に出る。銃を撃ちながら、馬首を右に向けたのだ。馬は騎手の命令に従い、進路を右(武田軍から見て左)に変えた。遊牧民のような騎射戦術(銃バージョン)だ。
これは戦訓を元に編み出された戦法である。姉川の戦いで、騎兵単独で敵中へ突入したものの、馬上という目立つ位置にいる騎兵は、槍兵などを相手に苦戦した。接近戦を挑んでくれなければ、装備する刀では戦えないからだ。武器が届かないのでは戦いにすらならない。なので、彼らの役割は奇襲で敵を混乱させることだった。
この試みは成功する。予想された激突は生じず、肩透かしを食らった気分になる武田軍。だが、北畠軍の狙い通りに銃撃で隊列が崩れていた。密集しているので、穴を塞ぐのも容易ではない。ましてや、武田軍は召集された領民兵。集団行動などやったことはなく、その難易度は跳ね上がる。隊列を直そうと四苦八苦しているうちに、北畠軍の歩兵部隊が突入した。
「小隊単位で分散突撃!」
「行け行けッ!」
歩兵部隊を権兵衛、猪三が指揮する。権兵衛は少し後ろで指示を出し、猪三は先頭に立って槍を振るいつつ指示を出していた。
北畠軍は武田軍を翻弄する。それは行動の速さに違いがあるからだ。武田軍は勝頼が大名権力の強化を狙い、統制を強めていた。この改革に賛同する者で武田軍本隊(勝頼隊)は構成されており、何をするにも勝頼の指示を仰がなければならない。これではスピーディーな対応など、できるはずもなかった。
一方、北畠軍は小隊という極めて小さい単位で行動しており、与えられた権限内ならば隊長が判断して行動できた。その柔軟さが行動の速さに直結する。
「長坂隊、破られました!」
「跡部隊、押されております!」
同時に様々な報告が飛び込んでくる。勝頼はそれらの情報を処理できず、混乱した。対応を指示しても、前線に届いたときには既に状況が変わっている、などということも多発。前線がさらに混乱するという有様だった。
武田軍の混乱を他所に、北畠軍は電撃戦を展開する。歩兵が作った突破口から騎兵が突入。後方へ回り込み、部隊を取り囲む。歩兵が追いつけば、ちょっとやそっとのことでは破れない包囲の完成だ。後は相手が全滅する(降伏する)まで攻め立てる。こうして、みるみるうちに武田軍本隊の戦力は削られていった。
「くっ! ここは退くぞ!」
勝頼は撤退を決断した。山県昌景、馬場信房、内藤昌豊に殿を命じる。対応は二つに分かれた。既に敵と交戦している山県と馬場は、本隊が離脱する時間を稼ぐために攻撃に出る。内藤の場合は、まだ敵と戦っていない。なので、本隊が撤退していった道に陣取り、敵の侵入を防ぐ構えを見せる。
「さすがに本隊は討てないか……」
具房の理想は、敵本隊の後方に回り込んで包囲。勝頼を討つことだった。史実において、武田家は長篠の戦いで手痛い打撃を受けるものの、依然として織田・徳川連合にとって脅威であり続けた。それを除くために勝頼を討ち、内部対立を煽って武田家を弱体化させる。それが具房の狙いであった。だが、勝頼の逃亡は防げそうにない。殿を撃破したとしても、追撃するころには勝頼は遠くへ逃げているだろう。なので、狙いを変える。
「殿には名のある将が多い。確実に撃滅せよ」
具房は新たな指示を出した。殿の武田家重臣を討て、と。方針は、中央突破からの包囲である。内藤隊を撃破し、馬場隊と山県隊を分断・孤立させるというものだ。
「好機だ! 押し出せ!」
「三方ヶ原での屈辱を晴らすのだ!」
ほぼ同時刻。信長と家康も反攻を命じていた。北畠軍の快進撃に触発されたのだ。さすが戦国の英雄というべきか、具房が包囲に動いていることを看破。時間稼ぎのため、馬場隊と山県隊を釘づけにする。
「右衛門大夫(一条信龍)様。ここは引き受けます。御屋形様を甲斐へ」
「なっ! ここで退くは武士の名折れぞ!」
信龍は反発したが、信房は笑みを絶やさず言う。
「なに、源四郎(山県昌景)と源左衛門(内藤昌豊)とで少し暴れるだけです。ですが、典厩様(武田信豊)たちは御屋形様より先に退いてしまいましたから、御身が心配で、このままでは存分に暴れられないやもしれませんな」
だから、信龍は撤退して勝頼を保護しろと言う。なるほど、筋は通っている。だが、どう言い繕ったところで、それは信龍を逃がすための方便には変わりなかった。
「……手柄話を楽しみにしているぞ」
「ええ。右衛門大夫様の分も暴れさせていただきますとも」
「また会おう」
「そのときは、手柄話を肴にしましょう」
そんな会話をして二人は別れた。
「後を頼むぞ、源左衛門!」
「はっ」
内藤隊の援護を受け、信龍は戦場から離脱する。三将の奮戦により、彼は甲斐への撤退を果たした。だが、信龍の離脱から半刻(一時間)と保たず、内藤隊は壊滅する。
「内藤源左衛門を討ち取った!」
そう名乗りを上げたのは猪三だった。
「負けたか」
権兵衛は肩を落とす。具房はそんな彼の肩を叩いて励ます。
「まだ戦は終わってないぞ」
舞い上がっている猪三にも、勝って兜の緒を締めよ、と気を引き締めるよう注意する。そして二人に新たな命令を下す。
「これで、武田軍は袋の鼠になったわけだ。二人には、この撃滅を命じる。猪三は山県隊、権兵衛は馬場隊だ。包囲しているとはいえ、いずれも歴戦の将だ。決して油断しないように」
「よっしゃ! 次も首級を獲るぞ!」
「次は負けませんよ」
具房は二人のライバル心を刺激しつつ、油断はしないよう釘を刺した。そして、手柄を挙げてくるよう激励して送り出す。この言葉は二人に向けたものだが、同時に兵士たちにも向けられたものだ。
手柄のない者はまだ機会がある。
手柄がある者は油断せず、その拡大に努めるように。
その言葉に、兵士たちも奮起した。だが、それ以上にやる気があるのが織田・徳川軍だ。
「義弟殿(具房)に負けるでない!」
「大納言様(具房)にばかり手柄を立てられたのでは、後世の笑い者だぞ!」
信長と家康は包囲が完成したと見るや、敵を足止めするような攻撃ではなく、全面攻勢に出た。家臣たちもそれに触発され、激しい攻撃をかける。武田軍も包囲されたことで悲壮な覚悟を固めていたのだが、両軍の気迫はそれを凌駕した。
「凄い……」
佐久間信盛への援軍に向かい、そのまま行動している房高も、士気の高さに驚いていた。
「このままでは織田軍に遅れをとってしまうぞ」
権兵衛は焦った。猪三に内藤昌豊の首級を獲られており、具房には馬場信房を討って手柄にするように言われたものの、織田軍の猛攻の前に馬場隊は崩壊している。ここで首級を獲れるかというと、かなり微妙なところだ。
しかし、運は権兵衛に味方した。信房は血路を切り開くべく、一か八かの突撃を開始する。その先が、最短距離で本国へ帰れる北畠軍ーーつまりは権兵衛の部隊だった。
「撃て!」
向かってくる馬場隊に銃弾を浴びせる。権兵衛率いる精鋭部隊には新型銃が多数配備されており、銃弾の嵐が武田軍を襲う。ボルトを前後させるだけで次弾の装填ができるため、その弾幕は濃密。嵐と呼ぶに相応しい。
その嵐を幸運にも潜り抜けることができた者もいたが、次に待っているのは、きちんと武芸を修めた兵士たち。この二段構えの防御は、さしもの武田軍も突破できなかった。
「取引して正解でしたね」
権兵衛はバタバタと倒れる武田兵を見て、葵と取引してよかったと思っていた。新型銃の集中運用がなければ撃ち漏らしも多く、突破を許していただろう。
この場で馬場隊は壊滅。倒れた武田兵のなかには馬場信房もいた。銃創が多数あり、北畠軍によって討たれた、と判定される。
「よし!」
猪三と同じく大物の首級を獲れたことで、権兵衛は胸を撫で下ろした。
一方、山県隊に向かった猪三もまた張り切っていた。
(権兵衛よりも活躍してやるぞ)
猪三は権兵衛の能力を認めている。やる気の織田軍よりも早く、馬場信房を討つだろうと考えていた。だからこそ、自分は山県昌景を討たなければならないのだ。政治を含めた総合的な力では、自分は権兵衛に敵わない。だが、槍働きは別だ。これだけは、権兵衛よりも優れていると思っていた。負けるわけにはいかないのである。
「行け行け!」
猪三は軍の先頭に立ち、槍を振るう。その反対側からは、徳川軍が猛烈な攻撃を加えていた。もはやこれは「戦」ではなく「競争」と化している。山県昌景の首級獲り競争だ。
両軍の猛攻に晒された昌景は、勝頼が逃げる時間を稼ぐべく、必死に防戦した。しかし、事態は指揮官の采配が上手いか否かの問題を超越している。奮戦虚しく、昌景も討たれてしまう。
「山県源四郎を討ち取った!」
そんな名乗りが上がる。昌景を討ち取ったのは徳川軍だった。必然、その人物に注目が集まる。そして、誰もが首をかしげた。見覚えがなかったからだ。本多忠勝や榊原康政といった大物ではない。若々しく、元服したか否かという見た目年齢だ。あとイケメン。
「新参か」
ある将がそんな言葉を漏らす。それが、この場にいる人間の心情を代弁していた。あいつ誰? という空気が漂うなかに大久保忠世がやってくる。そして、昌景を討ち取ったイケメンに声をかけた。
「おお、虎松か。山県源四郎を討ち取ったのか。大手柄ではないか!」
「はい!」
爽やかに笑うイケメンーーもとい、虎松。具房がいれば、すぐに史実の井伊直政だと気づいただろう。そして、赤備えを受け継ぐことになる彼が昌景を討つとは何という皮肉か、と思ったはずだ。
ともあれ、昌景を討ったことで松下虎松の名は一気に徳川家中で知られることとなる。特に、戦後の論功行賞で旧領である井伊谷を与えられ、井伊の名を名乗ることを許された上、家康の娘(亀)と婚姻して準一門に列したことは、虎松の動向に人々の注目を集めさせることになった。
【解説】井伊直政について
井伊直政が家康に仕えるようになるのは、天正三年(1575年)のことです。そんな彼がなぜ天正二年の作中で家康に仕えているのかというと、彼にスカウトされたからです。
家康は、具房が身分を問わず人材を登用しているのを見て、自分も領内で人材発掘を行わせました。直政はその動きのなかで見出されます。家康は彼をとりあえず小姓とし、旧領については手柄を立てれば領有を認めることとしました。直政は約束が守られるか疑問に思いつつも、旧領を支配している家康に仕えることを選んでいます。