得るもの、失うもの
前回、書けなかった解説をここで入れたいと思います(例によって飛ばしていただいても構いません)。
【解説】鷹狩
鷹狩の歴史は古く、日本史上の初見は『日本書紀』の仁徳天皇のときで、百済から伝えられたといいます。以後、古代では皇族や貴族の間で流行り、中世では武士を中心に流行りました。これは現代におけるスポーツのようなものです。
戦国時代になると、武士(大名)が行う鷹狩は新たな意味が付与されます。それが領内の視察と軍事訓練です。領内をめぐり、その現状を直接見て把握する。下克上の世の中なので、不満が溜まると反乱を起こされてしまいます。それを防ぐためには必要な政策を施さなければならず、鷹狩と称して領内を観察した成果が政策を考えるときに活かされていました。軍事訓練は、鷹狩が多くの人を指揮して動かさなければならないことから、戦場で指揮する予行練習として武士たちに好んで行われます。この傾向は江戸時代まで続きました。
しかし、鷹狩の目的はそれだけではありません。注目すべきは、鷹狩は自然への挑戦だということです。これは近世の始まりをも意味していました。当時の人々の認識は、自分たちは自然に間借りしている、です。自然に対する畏敬の念を持っていたわけですが、鷹狩は自然にいる動物を狩るもの。つまり、鷹狩をやっている人が自然を抑圧(コントロール、支配)している、と領民は認識します。これを見せられたことで自然を畏れるという人々の意識が希薄化します(完全になくなったわけではありません)。そして、自然に挑む(開発)するという機運が生まれ、新田開発(ここでいう「新田」とは田んぼではなく村のことです)が活発に行われていきます。江戸時代が平和な時代であったこと、江戸幕府という全国的な権力が成立したことも、これを後押しする要因となりました(というかこちらが主要因です)。鷹狩にはそのような一面もあったことを、心に留めていただければと思います。
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具房は信長と交流を深めていたが、その一方で伊勢に帰る準備を進めていた。お市たちの出産が近いからだ。
「そうか。寂しくなるな」
信長にそのことを伝えると、残念そうにしていた。こればかりは仕方がない。具房と信長では、政治の拠点が異なるからだ。信長は広大な領土を持つが、尾張と美濃は事実上、房信に預けていた。よって、政治の中心は京になる。
しかし、具房はあくまでも伊勢が中心。敦子を娶ったことで定期的に往復しなければならないが、京に留まり続ける必要はない。
「半年後くらいには、また上洛しますので」
「楽しみにしているぞ」
二人は再会を約束した。
こんな調子で具房は帰国の挨拶回りをしていたのだが、残念なことにタイムアップとなる。二人が出産した、との報告があったのだ。
「姫君(お市)と若君(葵)でございます」
「そうか……」
具房は肩を落とす。また間に合わなかった、と。たしかに出産予定日はあくまでも目安。場合によって前後することもあり得る。それはわかっているのだが、こうなると最早、呪われているのではないかと思ってしまう。
(お祓いを受けるか?)
京には霊験あらたかな神社仏閣が多数ある。伊勢にも伊勢神宮があり、依頼先には事欠かなかった。
「とにかく急ぐぞ」
益体のないことを考えるのを止め、挨拶回りを終えたらすぐに帰れるように準備を急がせる。子どもの名前も考えなければ。
お市の娘は三女なので「江」に決まり。問題は葵の息子だ。帰りながら考えるか、と旅の楽しみとした。
ところが、数日のうちにまたしても使者がやってきた。しかも、かなり慌てた様子。具房は嫌な予感に襲われる。この時代、出産は命がけの行為だ。もしかして、どちらかが危篤に陥ったか、あるいはーー。不安に駆られる具房だが、北畠家の当主として泰然としていなければならない。己に喝を入れ、使者と対面する。
「土佐守様(塚原卜伝)が倒れられました」
結局、使者の報告はお市たちが危ない、というものではなかった。そのことにホッとするが、これはこれで驚きを禁じ得ない。
「土佐守が!?」
具房にとって卜伝は剣の師匠だ。初陣からしばらくは、側近として従軍していた。最近は老衰もあり、前線からは引退。具房の子どもたちの傅役をしつつ、兵士たちの剣術師範をしてくれている。彼が倒れたことは、具房に大きなショックを与えた。
一方で、これは予想されていたことでもあった。というのも、卜伝は本来、元亀二年(1571年)に死んでいるのだ。それが生きている。具房は彼がいつ死んでもおかしくない、でも死んでほしくはないーーそんな思いから、くれぐれも無理をしないようしつこく言っていた。だが、それも限界にきたのであろう。頭ではわかっていたのだが、やはり親しい人間が危篤ーーしかもかなりの確率で助からないーーというのは、心にくるものがあった。
「わかった」
具房は頷き、使者を労った。本当なら今すぐに駆けつけたいところだが、そんなことは北畠家当主という立場が許さない。具房は一個人であると同時に、北畠家に仕える家臣たち、伊勢や伊賀、大和、紀伊の領民の生活に責任を持つ。軽々しい行動は許されない。それが大名というものだ。
そして、理由はもうひとつ。卜伝の関係者は具房だけではない。父・具教もまた、卜伝に教えを受けた弟子である。彼もまた卜伝の最後を看取るべき人間だ。報告を受けた後、すぐに具教の許に向かい、伊勢への帰国を求めた。ところが、
「ここに残る」
具教は帰国を拒否した。
「なぜです? 師が危篤なのですよ?」
「その気持ちはわかる。だが、京での活動を疎かにはできん」
「それは次郎(長野具藤)に任せればいいではないですか」
京に具教と具藤を置いているのは、体のいい厄介払いであるとともに、朝廷との窓口役になってもらうためだ。当初は若い具藤に任せるのは不安があり、具教をつけていた。しかし、今や具藤も立派な大人になり、具教がいなくとも支障はない。京に留まる必要はないのだ。それでも具教は残ると言う。
「いいか、太郎。そなたが思っているより北畠家の存在は大きい。次郎では力不足だ。余かそなたがいなければ」
だから残るのだと。具房は言い返そうとしたが、具教が言わせなかった。
「余とそなたは親子だが、土佐入道の前では兄弟弟子だ。兄は先に師から離れ、活躍することこそが餞。ゆえに余は京に残る。よろしく伝えてくれ」
「……わかりました」
時間が惜しいという理由もあり、具房は説得を諦めた。不在中のことはお願いします、と言って屋敷を後にする。人員はギリギリまで絞り、強行軍で伊勢に向かった。
「こちらです」
到着すると、すぐに卜伝の許へ通された。
「殿……」
卜伝は横になったまま、視線を具房に向ける。少し身動ぎしたことから起き上がろうとしたのかもしれない。だが、よほど悪いのか、ほとんど体は持ち上がらなかった。具房は無理をしなくてもいい、と制止する。
「申し訳ありません。この老骨も限界のようです」
「何を言うか。少し体が悪いだけだ。すぐによくなる」
弱気な卜伝を慰める。本心では助からないと思っているが、口にはしない。
具房はふと卜伝が横になっている布団の周りを見た。そこには傅役として日ごろ、面倒を見ていた子どもたち、その母親たち、門弟がいて、布団を囲んでいる。まるで、帰省した孫子に囲まれているおじいちゃんのようだ。
「じい……」
そのなかでも、鶴松丸たちは特に心配しているようだ。じっとしていられない年齢なのに、子どもなりに何かを察しているのか、ずっと側にいて離れることがない。そんな子たちを、卜伝は慈しむように見ていた。
「若(鶴松丸)。若は立派に育っております。爺とはここでお別れでございますが、あの世でも若の成長を祈っております」
悔やまれるのは、若のお子の顔を見られなかったことです、と卜伝。さすがに九歳児に子どもの顔を見せろ、というのは難しい。
それから卜伝は子どもたちに対して順番に声をかけていった。ここが凄い。ここは気をつけろーーなどなど、その内容はとても濃い。彼が子どもたちをよく見ていた証左だ。具房は感謝の念を抱く。
夜になり、子どもたちは寝ることになった。抵抗したが、既にウトウトしていたので、寝るのは時間の問題である。
「爺が心配して、体が悪くなってしまうかもしれないぞ」
それは嫌だろう? と問えば頷く子どもたち。具房は上手いこと彼らを懐柔することに成功した。そして、部屋は大人だけの空間となる。
「お市たちも、今日は休め」
「でもーー」
「朝から子どもたちと一緒でほとんど付きっきりなんだろう? 子を産んだばかりで疲労があるだろう。大事をとれ」
「……そう、ですね。行きましょう」
「わかったわよ」
葵が具房の意図を汲み、お市に退室を促す。お市は渋々といった様子で部屋を出て行った。そして、部屋にいるのは(護衛などを除くと)具房と卜伝だけになる。
「殿。殿にお仕えできて、儂は幸せでした。孫が栄達する姿を見ているかのようで。あの小さかった子どもが、今や三位大納言です。鼻が高いですよ」
そう言って卜伝は笑った。彼の話は続く。
「傅役を仰せつかって、若たちのお世話をしておりました。曾孫に囲まれて暮らしているようで、嬉しかったですよ。若は、殿の幼少期と比べれば幼稚に見えます。しかしながら、さすが殿と奥方様の子。他の子どもに比べれば、十分に優秀です。どうか、温かく見守ってあげてください」
「無論だ」
具房は頷く。というか、転生者だからハイスペックなだけで、中身はちょっと勉強ができる普通の人間だ。具房の身体は運動神経がいいらしく、おかげで剣術はそれなりにできる。それでも、純粋な能力では信長のような本物の英雄には及ばない。それをよく自覚しているからこそ、子どもたちにも過度の期待は寄せていなかった。期待していることを強いて挙げるなら、無事にまっすぐ育ってほしいということか。それ以外は何も求めない。
「伊勢での日々は充実しておりました」
子どもの相手をしつつ、多くの門弟と剣の稽古をし、道を極めんと努力する日々。剣を振るう門弟たちの顔は皆、生き生きとしていた。それは卜伝の目指した「活人剣」そのものであった。
「それはよかった。早く体を治して、また剣を教えてくれ」
「殿にはもう教えることはありませんが……弟子たちが待っておりますからな」
「待て待て。わたしもまだ教えてもらうことがあるぞ」
そんな寂しいことを言うな、と具房。しかし、卜伝は本当に教えることはないという。
「奥義・一之太刀は儂の教えのすべてを吸収した先にある技。ゆえに、一之太刀を使えるということは、儂から教えることはもうないということです」
「そんな寂しいことを申すな。病は気から、という。辛気臭いことを言っていると、治るものも治らなくなるぞ」
「……そうですな。老骨はそろそろ休むことにいたします。殿もお休みください。気になって寝られずに、体を悪くしてしまうかもしれません」
「ん? はははっ! そうだな。そうさせてもらおう」
思わぬ返しに具房は驚かされるが、すぐに了承して退室した。周りにいる人間に、卜伝の変化に注意を促す。
しばらくは権兵衛や佐之助を筆頭に、卜伝の指導を受けた者たちが見舞いのためにひっきりなしに訪れた。彼らと卜伝が話をするのが恒例となっていたのだが、それが続くことはなかった。卜伝が遂に永遠の眠りに就いたのである。
「しかし、徳次郎は来なかったな」
葬儀が進むなか、猪三がこの場に現れなかった幼馴染の話題を挙げる。
「国持は忙しいんじゃないかな?」
「大変だよ、国を動かすのは」
権兵衛が推測を述べ、佐之助が北畠領全体の統治に携わっている自分の経験を基にその意見に賛同する。具房もそれを聞きながら不思議に思っていた。猪三と並び、卜伝の指導を熱心に受けていたのが徳次郎である。そんな彼がいくら忙しいとはいえ、見舞いに訪れないことがあるだろうか。彼の性格からすると、仕事を放り出してでも来そうだ。
(何かあったのか……?)
真っ先に思い浮かんだのは、三好軍に動きがあったーー紀伊に攻め込むような動きを見せているーーということだ。それなら納得できるのだが、それなら具房にも報告が上がってくるはずである。であれば何か別の要因があるということだが、具房たちにはさっぱりわからなかった。
だが、原因はすぐに判明する。翌日、紀伊から使者がやってきて、信虎が危篤であるという報告をしたのだ。具房は葬儀が終わると、すぐに紀伊へ向かう。ところが、信虎は既に身罷った後であった。
「遅かったか……」
具房は信虎を看とれなかったことを悔やんだ。彼は色々と精神的なダメージを与えてきたが、それでも具房の拡大政策を支えてくれた功臣である。身勝手かもしれないが、せめて最後くらいは卜伝のように言葉を交わして別れたかった。討死ならまだ諦めがつくが、今回は病死である。悔やんでも悔やみきれない。
「師匠(卜伝)を見舞えず申し訳ありません」
「いや、事情は理解した。仕方がないし、こっちこそ陸奥守(信虎)の最後を見届けられなかった。すまん」
具房と徳次郎は謝罪合戦を展開する。だが、やることはちゃんとやる。葬儀を行い、遺骨は二つに分ける。ひとつは徳次郎が引き取るのだが、もうひとつは信虎の生まれ故郷・甲斐に葬るためだ。使者を出し、信虎の死を伝える。そして遺骨の一部を引き渡す旨を伝え、人を寄越してもらうのだ。卜伝の場合も同じような対応がされていたのだが、やはり大名と国人では規模が違った。卜伝が数人という規模だったのに対し、武田家は百人近い人間を送ってきたのだ。
「ご配慮、感謝いたします」
団長の武田信廉が謝意を伝える。相手は勝頼なので、お骨を全部寄越せと言われて揉めるかと思っていた。だが、その懸念は杞憂に終わる。
「色々ありましたが、父は北畠家の家臣となったのです。そんな無理は言えません」
実際は家臣たち(特に宿老)が無茶を言う勝頼を抑えていた。彼の具房嫌いは筋金入りである。なにせ、自分は「当主代理」という半端者扱いなのに対し、具房は信玄から認められていたからだ。名将・武田信玄に気に入られることは、具房が考えている以上に大きなことだった。そんなわけで、自分がより優れていると証明しようと勝頼は躍起になっていたのだ。動機は義昭と似たものがある。
「反対があったのでは?」
「はは……」
信廉は笑って誤魔化す。反応から、反対があったのは事実らしい。勝頼に若手家臣たちは迎合しているが、古参は別のようだ。武田家の分断が窺える。
骨壺を大事に抱えて信廉たちは帰っていく。それを具房は「いい笑顔」で見送った。彼の内心はこうである。
武田家に分断工作をして弱体化させよう。
一人前の戦国大名になりつつある具房であった。
唐突ですが、卜伝と信虎が退場しました。念のために記しておくと、作中は天正元年です。
本編にもある通り、卜伝の没年は元亀二年なのですが、主要人物の死が続くと鬱になると思って、比較的近い信虎(天正二年)と近づけてみました。逆に信虎の死期が早まってしまいましたが、老齢ながら戦場に出ていたことの無理が祟ったーーと解釈してください。
【補足】お市が産んだ子はもちろん江ですが、葵が産んだ子は息子で進丸と名づけられています。