源氏長者
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具房の予想通り、前久の赦免はすぐさま決定された。そのことを伝える勅使として具房の名が真っ先に挙がったが、全力で辞退している。他人に気を遣う旅は嫌だから。そんなこんなで、勅使は菊亭晴季に決まった。
決定のことは、屋敷に帰っても口にしなかった。伝えるべきことでもないし、何より蒔になぜ勅使にならなかったのかと怒られるからだ。
しかし、話は既に伝わっていた。犯人は敦子。京は狭い一方、公家の縁故は広い。義昭の追放によって二条晴良の失脚が噂されていたこともあり、政敵・近衛前久の帰洛は注目の的になっていた。京という狭い社会では、噂は物凄い速度で広まる。関心事となれば尚更だ。具房はこの公家ネットワークを舐めていた。それが敗因である。
予想通り、蒔に責められた。
「……どうして断ったの?」
「い、いや。それには事情があるんだ。蒔、話せばわかる。話し合おう」
「……問答無用」
ふんっ、という気合の声とともに繰り出されたのは肝臓を狙った一撃。急所のひとつであり、打たれれば激痛が走る。しかも、蒔は戦闘のプロ。洒落にならない。
「……ふん」
蒔は不機嫌そうに鼻を鳴らし、部屋を出て行った。護衛はしばしバトンタッチのようだ。いくら仕事人とはいえ、四六時中一緒というわけではない。女性なので体調的な都合から職務に就けないこともあるし、ひとりでいたいときもある。そういうときのために、護衛の体制を何パターンか用意していた。
痛みで悶絶していた具房も仕方がないなあ、と苦笑い。怒ることはなかった。周りの家臣たちも受け入れている。北畠家では割と目にする光景なので、もはや慣れていた。
「え? あれ?」
今のやりとりに衝撃を受けたのが敦子である。忍(蒔)が伊勢国司北畠家の当主にして中納言である具房を殴った。いくら側室とはいえ、何らかの罰が与えられるものだ。今回は殴られたのだから、処罰としては離縁が相当である。敦子はわたくしがおかしいの? と困惑していた。
価値観としては敦子の方が正しい。女は男に養ってもらう存在。だから従う。さもなくば生活できないからだ。たまに反抗する者もいる。理由は様々だが、彼女たちも男への従属という点だけは認識を同じくしている。
だが、今回の蒔のように反抗するどころか、暴力を振るうことなど前代未聞。特にこの手の因習は上流階級になればなるほど強く、まさしくそこに属する敦子は大きなカルチャーショックを受けた。しかも、同じカテゴリーに属するはずの具房までもがそのことを受け入れているのだから、衝撃はより大きい。
「あ〜、敦子はこれを見るのは初めてか」
具房は困ったように頭をかく。嫁による暴力沙汰は北畠家ではありふれたものだが、実際はお市と蒔しかやらない。加えて蒔も滅多に殴ったりしないので、実質的にバイオレンスワイフはお市だけだ(彼女は週一くらいで殴る)。その彼女は伊勢におり、京に住む敦子が知るはずもなかった。
とりあえず説明する。しかし、彼女は納得できていない模様。文化の壁は厚かった。
「まあ、わからなくてもいいよ」
経験則として具房は知っていた。人間は空気に流される生き物だと。知らず知らずのうちに感化され、周りと同じ行動をとるようになるのだ。ソースは伊勢。具房が持ち込んだ「男女平等」という概念は、この時代に即した様式(もっと女性を尊重しよう)に改変されているとはいえ、徐々に社会に浸透していた。
理由は、学校教育によってそのように刷り込まれたこと。子どもは同じ価値観を共有する人間が周りにいることで、その価値観を一般化させる。こうして領民にフェミニスト層を創出した。教育はたまに国家的な洗脳だといわれるが、まさしくその通りの効果を発揮している。
教育が始まって十年以上。人間五十年という時代であるから、時の流れで大人の約半数がこのような思想を持つ人物で占められた。当初は抑圧されてきた思想も、マイノリティーからマジョリティーへと変化している。それに伴って、抑圧していた側も徐々にフェミニストへと転向していた。周りの目が気になるから、周りに迎合しているのだ。一般人がいじめっ子といじめられっ子、どちらに加担するのかは考えるまでもないだろう。
このような事例があるから、敦子もやがて北畠家の家風に"染まる"だろうと具房は考えていた。だからこそ焦る必要はない、と言ったのだ。
そういう意図があっての言葉だったのだが、具房の言葉を額面通りに受け取ると、てめえには一生理解できないから気にするな、ということになる。それに敦子はショックを受けた。突き放した言い方が、まるで見捨てられたように思われたからだ。いうなれば、この程度のことも理解できない女は要らん、というところか。
久我家のーー否、村上源氏の期待を一身に背負う彼女からすると、具房に見放されることは一族の(政治的な)死を意味する。久我家が長き政治闘争と、政敵の没落という幸運の末に手にした源氏長者の地位が、北畠家に棚ぼたでゲットされてしまう。それを防ぐべく、敦子はここにいる。彼女は北畠家と久我家の架け橋なのだ。その役目が果たせなくなるのは、彼女や具房が死ぬときだけである。そうでなければならない。
「お、お願いです。あなた様! わたくしを見捨てないでくださいませ!」
だからこそ、彼女は具房に縋り、慈悲を乞う。一族のためなら泣き落としだろうが愛玩奴隷だろうが、文字通り『何でもする』のだ。それだけの覚悟を決めていた。
「きゅ、急にどうしたんだ?」
具房は困惑した。敦子はたまに、こうして縋りついてくることがある。なぜそんなことをするのか、よくわからなかった。だから地雷を踏みまくっているのである。
(別に、政略結婚だからって差別してるわけじゃないんだけど……)
普通に接しているだけである。なのにこうも地雷を踏むとなると、接し方を考えないといけないかもしれない。
(それにしても、今回は特に酷いな)
これまでも敦子がこのように縋りついてくることはあった。いつもは落ち着け、となだめて話題を逸らせば何とかなっていたのだが、今回はまったく効果がない。捨てないで、の一点張りだ。
「わかった。捨てない、捨てないから」
具房はとりあえずそう言ってこの場を収めた。しかし、このままだと息が詰まってしまう。そこで相談することにした。普段、こういった案件は葵に持ち込むのだが、生憎と彼女は伊勢にいる。なので、相手は必然的に蒔になった。
「蒔さ〜ん」
「……なに?」
蒔は屋敷の一角にいた。不機嫌オーラ全開である。具房は偉い人にすり寄る三下のような猫撫で声で近寄った。
「一緒に食べないか?」
そう言って掲げたのはどら焼き。屋敷の人間に変な顔をされつつ、厨房で具房自ら作ったものだ。なお、目撃者には黙っておくように言い含めている。試作品を報酬に渡すと好評を得て快諾してくれた。
「……ん」
女性は甘いものに目がない、という単純な発想からとられた作戦であったが、成功したらしい。具房は隣に座るよう促された。承知しましたお姫様、とふざけつつ、言われた通り隣に座る。そして姫にどら焼きを献上した。
「……苦しゅうない」
蒔もそれに乗っかり、お姫様っぽい口調で喋る。まあ、本物(敦子)とは比べるべくもないが。
どら焼きを受け取った蒔は、それをしげしげと眺めていた。彼女が知っているものとは見た目が違っていたからだ。
「……これが、どら焼き?」
「まあ食べてみろ」
「……うん」
具房に促されてひと口。
「っ!」
食べた瞬間、蒔は目を見開く。そして、
はむはむはむはむ……
と猛烈な勢いで食べ進めた。
「んぐ!?」
喉に詰めるというお約束も守る。
「おいおい……」
具房は呆れつつ、お茶を飲ませた。
「……はあ」
お茶で流し込んだ蒔はご満悦といった表情だ。それもそのはずで、彼女が食べたどら焼きは、某猫型ロボットが好んで食べる現代風のもの。この時代のどら焼きと比べると、とても甘い。
ちなみに、甘さの違いは生地がホットケーキに近いものだからである。これは現代のどら焼きがホットケーキの影響を受けているためだ。その事例として、魚の名前にちなんだ登場人物が出てくる某国民的アニメの原作漫画では、『どら焼きを焼く』と言ってホットケーキが作られている。両者が混同されるほど影響されていた、という証左であろう。
「許してくれるか?」
「……もうひとつくれたら」
彼女の目が具房の持つどら焼きに注がれていた。持ってきたのは二つ。ひとつは既に蒔が食べてしまった。つまり、全部寄越せということだ。
「それくらいなら」
具房は嫌な顔ひとつせず、自分のどら焼きを渡す。作る過程で味見をしているので惜しくはない。
「……ん」
はむはむはむはむ……
ものの数秒でどら焼きが蒔のお腹に消えた。いい食べっぷりだ、と具房。作った人間としてはとても嬉しい。
「……それで?」
一服して落ち着いたところで、蒔が用件を訊ねてきた。具房は事情を説明し、何かいい解決策はないかと問う。すると、帰ってきたのは解決策ではなく冷たい視線だった。
「……はあ」
あからさまにため息まで吐かれる。ダメな奴だな、と言われているようで具房はショックを受けた。
「……仕方ないか。御所様はズレてるから」
もう一度ため息が追加された後、蒔はなぜ敦子が事あるごとに縋りついてくるのかを説明した。
曰く、敦子の役目は北畠家と久我家の結びつきを強めること。その象徴はなんといっても子どもである、と。
「……でも、御所様は何もしてない」
「当たり前だろ。敦子はまだ十三だ」
若すぎる妊娠・出産は母体に大変な負担がかかる。だから、北畠領内では十六歳未満を妊娠させてはならない、という法令を出していた。このことは学校でも教えられ、かなり浸透してきている。だから具房も手を出していなかった。ところが蒔曰く、それが問題なのだという。
「……そのことを説明した?」
「もちろんだ。『まだ早い』と。……いや、待て。そういうことか?」
「……そういうこと」
答えていて、具房は気づく。言葉足らずだったと。彼には法令の存在が前提となっており、相手もそれを知っているものとして接していた。だが、ネットで何でも調べられる現代と違って、この時代は隣国でさえ言葉も文化も異なる異国みたいなものだ。ましてやここは京。伊勢の風習が細かく伝わるはずもなかった。
さらに、今回は特異だった。普通、具房の嫁は伊勢にいる。そこが本拠地なのだから当たり前だ。しかし、敦子は家格など色々な大人の都合により、側室でありながら京における正室という、珍妙な立場に置かれていた。そのため、お市や葵に説明を受けられなかったことが今回の騒ぎの要因のひとつといえる(京には蒔がいたが、具房があちこちを回ったことからその護衛をしており、屋敷にはほとんどいなかった)。
「……だから説明する。まずはそこから」
「わかった。ありがとう、蒔」
「……報酬は甘い物で」
「どら焼き食べただろ」
「……新作、期待してる」
具房は呆れた目で見るが、蒔はキラキラした目で見ていた。彼女は忍として、粗食に耐える訓練を積んでいる。なので嫌いな物、食べられない物はない。だが、人間の性として、美味しい物を食べたいと思うことは自然なことだ。特に蒔は、食べられるときに美味しい物をお腹いっぱい! がモットーである。甘い物ならなおよし。
「伊勢に戻ったらな」
京には具房が求める材料がない。どら焼きを作ったのも、手に入る物で作れるお菓子を考えた結果だ。小豆や小麦粉、砂糖は保存ができるし、鶏卵も手に入る。だが、洋菓子類を作るために必要な乳製品は伊勢から運ぶしかない。もちろん冷蔵技術がないため不可能だ。
「……約束」
蒔もそういった事情を鑑みて、帰国後に振る舞ってもらうことで同意した。具房はチーズケーキでも作ろうか。いやいや、ここはプリンか? などとしばしメニューで悩むこととなる。
そして肝心の敦子だが、具房が事情を説明すると納得してくれた。自分を疎んでのことではなく、むしろ大切にしてくれている、と上機嫌だ。
「わたくし、必ずあなた様に好かれる女になります!」
と意気込み、習い事などの女磨きに打ち込んでいる。色々と覚悟が決まっているためか、言動が重かった。しかし、こればかりは諦めるしかない。真面目すぎて変な道を突っ走るのが敦子らしさなのだから。
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敦子に関連した問題が解決したころ、京に近衛前久が戻ってきた。その護衛という形で、赤井直正も付き従っている。直正は前久を京へ送り届けると、具房のところへやってきた。
「ようこそ、悪右衛門殿(赤井直正)」
具房は歓迎する。普段ならこのまま宴会を開くところだが、今回はない。別に彼を蔑ろにしているのではなく、純粋に時間の都合だった。
実質的な天下人となった信長は最近、輪をかけて忙しい。全国の大名はもちろん、公家との付き合いもより密にしなければならない。さらに、拡大する領国の統治も彼の仕事である。ブラック企業も真っ青な激務だ。ああはなるまい、と具房は思った。
直正の会談は急に決まったことであるため、具房が自分の名前をフル活用して信長の過密スケジュールにぶち込んでいる。そんな理由もあって、時間は限られていた。具房は直正を連れて織田屋敷を訪ねる。
「よく参られた」
「織田様にお目通りが叶いまして恐悦至極に存じます。本日は主、市郎兵衛(赤井忠家)の名代として参りました」
「うむ。用向きは義弟殿(具房)から聞いておる。我と再び縁を結びたいそうだな?」
「左様でございます。前回は不幸な行き違いによって手切れとなってしまいましたが、此度の公方様の所業を見て、あの方にお味方は出来ないと考えました。なのでどうか、我らを受け入れていただきたい」
「わたしからもお願い申し上げます」
敵対したきっかけを『不幸な行き違い』と称するのはどうかと具房は思った。だが、きっかけ(山名祐豊の侵攻を撃退したら、山名家が織田家に援軍を要請してなし崩し的に戦闘になった)を考えると悪いのは山名祐豊のような気がして、気にせず援護射撃を送る。
「……まあよい。義弟殿がそう申しておるし、受け入れよう。『丹波の赤鬼』と呼ばれるその力、我らのために役立ててくれ」
「ははっ!」
赤井氏は無事に信長から受け入れられた。生野銀山の採掘権は失ったが、畿内との強力な経済的な結びつきができたことで、その勢力が衰えることはなかった。
信長に挨拶した直正はすぐに丹波へ帰っていく。織田家に服属したことで敵対していた山名氏とは準同盟関係になったのだが、油断はできない。前回もこの状況で攻めてきたのだから。なので、同じようなことが起きれば、信長は赤井氏に味方するという保障をしている。これは具房の提案だ。
『味方を攻めた山名氏が悪いのです。なのに前回の仕打ちは理不尽というものでしょう。このようなことが起きれば、人は従わなくなります』
いくら戦国の世とはいえ、基本的に約束は守るべきだ。山名氏が先に裏切ったのに、赤井氏が裏切ったような構図になっているのは明らかにおかしい。そのようなことが横行すれば、織田家に従う者はいなくなる。この先、天下を担っていく上では何よりも信用が大事だ。それを毀損するような行いは厳に慎むべきである。
具房が強硬に主張したため、信長はこれを受け入れた。山名氏にも注意が飛んでいる。当たり前のことだが、勝った者勝ちの戦国時代ではこのような理不尽がまかり通ってしまう。それが戦乱が続く要因のひとつになっているのだから、なかなか頭の痛い問題であった。
このように具房たちが赤井氏に対応しているなか、帰京した近衛前久もまた公家に働きかけを行なっていた。具房を正三位権大納言へ任官し、奨学院と淳和院の別当を兼ねるようにする政治工作だ。源氏長者の資格を得ることができ次第、天皇から宣旨が出されることになっていた。
義昭の擁立を狙う二条家などから猛烈な反対があったが、畿内を北畠家と織田家で完全に支配していることから彼らは政治的に干されており、家名の他に影響力を行使できなかった。その家名にしても、同格の前久が具房を擁立している以上、さほど問題にならない。よって、具房の源氏長者就任はあっさりと実現した。
「感謝申し上げます」
具房は前久のところへお礼をしに行った。しかし、前久は大したことではないと言う。もっともそれは無償でやったことではなく、対価はちゃんと提示された。
「これからは御堂関白(藤原道長)の時代のようにやっていこうではないか」
これは、かつて藤原北家と村上源氏が緊密な関係を築いていた摂関政治の時代のように、近衛家と北畠家が連携しようというものだった。近衛家の家名(威光)を使っていいから、北畠家は政治に必要な金を出してくれ、ということでもある。
「よろしくお願いします」
近衛家が協力してくれれば、朝廷工作もかなりやりやすいからだ。北畠家は朝廷工作において、かなりのノウハウがある。しかし、それはあくまでも武家として。生粋の公家である近衛家と比べるとまだまだであった。具房に否はなく、快諾した。
北畠屋敷には具教や具藤もいますが、彼らとは居住スペースが分かれています。さらに蒔は使用人のいない場所でやったので、侍女などから暴力沙汰が漏れることはありません。