縁談と縁談
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義昭が京を追放されたという話は、具教によってすぐに東海の具房へと伝えられた。
「追放後、すぐに改元したか」
「はい。新たな元号は『天正』です」
「義兄殿(信長)は『元亀』の元号に反対していたからな」
それにしても動きが早い、と具房。信長はよっぽど前の元号が嫌だったのだということが窺えた。義昭の足跡を消すとか、そんなレベルの話ではない。『元亀』の元号絶対変えるマンとでもいうべき執念を感じた。
この他にも色々な動きがあった。まず、義昭に味方していた三好三人衆が滅ぼされた。岩成友通は山城国淀城で討死。三好長逸、三好宗渭も行方不明になっている。
さらに阿波三好家では、家中の屋台骨ともいえる重臣・篠原長房が主君・三好長治に攻め滅ぼされた。これを見た家臣たちが相次いで離反。さらに土佐の長宗我部家が北上する動きを見せるなど、四国は混乱に陥る。おかげで畿内へ構っている余裕はなくなった。これを見た信長は野田城や福島城を攻略。畿内における三好家の橋頭堡を潰した。
三好家で内紛が勃発し、義昭が敗れたことから孤立することになった石山本願寺も、信長に茶器を贈って講和を求めた。相次ぐ戦闘で兵も疲弊していたことから、信長もこれを了承。これで戦闘が続いているのは加賀のみとなった。
「毛利との関係が怪しくなっているが、畿内が安定したことは大きな進展だな」
未だ本願寺は残っているものの、それ以外の抵抗勢力は畿内から一掃された。日本でも随一の経済力を持つ地域が安定したことは租税収入の安定につながり、ひいては織田家の力が増すことになる。今後は積極的な攻勢に出られるようになるだろう。
「それから書状を預かっております」
使者から二通の書状を渡される。一通は信長から、もう一通は具教からだった。
信長からの書状は、上洛の要請だった。束の間の平和を利用して、やり溜めていたことを全部やるつもりらしい。具体的には嫡男・奇妙丸の元服である。
(そういえば、そんな話もあったな……)
このところ忙しすぎてすっかり忘れていた。しかも偏諱を与えるという話にもなっており、それも考えなければならない。
(ま、帰るときに考えるか)
新幹線など存在しないため、何日もかけて浜松から京へ移動する。考える時間はたっぷりとあった。とりあえず了承の返事をしておく。
「次は父上からか」
使者が言っていたことを文書化しただけだろうと思っていたのだが、書状にはまったく別のことが書かれていた。それは縁談である。
(は!?)
聞いてないんですけど、と具房。しかもそれは打診ではなく、決まったという伝達だった。お相手は、本家筋である久我家のご令嬢。
(いやいやいや。何でだよ!?)
具房にはわけがわからなかった。婚姻自体は不思議ではない。本家と分家ということで、たまには血の交流もあるだろう。しかし、具房には既に正室のお市がいて、子ども(嫡男)もいる。久我家のご令嬢を迎えるということは、家格的にお市が側室に回らなければならない。そうなれば鶴松丸も嫡男ではなく、庶長子ということになり、家内の秩序が乱れてしまう。
(何を考えているんだよ!)
こんな重大事項を相談もなく決めた具教を殴りたい気分だ。最低限、文句を言わなければ気が済まない。具房は家康たちへの挨拶もそこそこに、三旗衆だけを連れて京へ上った。
「どういうことですか、父上!」
京の北畠屋敷へ着くと、具教の許へ怒鳴り込んだ。
「おお、待っていたぞ」
しかし、具教は普通に迎え入れた。具房が怒りを露わにしているのに、まったく気にした様子がない。
「父上ーー」
「落ち着け。言いたいことはわかる」
「ならばなぜ?」
「それはこれから説明しよう」
具教は経緯を説明し始めた。曰く、この縁談は久我家の側から申し込まれたのだと。
「今は堺に住んでおられる前右大将(久我通堅)から、妹君をそなたに嫁がせたいとの打診があった」
「随分と急な話ですね」
「そうか? 余は可能性のひとつとして考えておったぞ」
なぜそんな話になるのか、具房にはさっぱりわからない。だが、具教には察しがついているようだった。話せ、と具房は目線で続きを促す。
「そなたに関して、前々から噂が立っていたであろう?」
「源氏長者のことですか?」
「そうだ」
自身に関する噂と聞いて、具房にはそれくらいしか思いつかなかった。そしてそれは間違いではなかったようで、具教も頷く。だが、それと今回の縁談とがどう繋がるのか具房にはさっぱりだ。
「いいか。前右大将は主上から勅勘を被り、解官された。その子、侍従殿(敦通)はまだ官位が低い。このままでは足利家に長者の地位を盗られかねん。そこで目をつけたのがそなただ」
「……つまり、侍従殿が官位を上げるまでの間、わたしに中継ぎとして長者を任せるということですか?」
「ああ」
具教は頷く。そこまで言われると、具房にも話が見えてきた。降って湧いたこの縁談には、婚姻によって具房を久我家の一族とすることで、長者たる大義名分を得させようという意図があるのだと。
「ですが、奥の序列はーー」
「心配ない。そこは話をつけている」
大事なのは、あくまでも北畠家と久我家が縁戚になること。それにお市を大事にしている具房が反発するのもわかっていた。だから久我家のご令嬢は側室待遇ということで話がついているのだという。久我家はお願いする側なので、その条件を呑んだ。
(おいおい……)
具房は戦国の世の不条理を感じた。普通、こんなことはあり得ない。そのあり得ないことが実現してしまったのは、今が戦国時代だからだ。朝廷を庇護しているのは北畠家と織田家。北畠家は同門ということもあって村上源氏との結びつきが強く、彼らを支えていた。いわばパトロンであり、機嫌を損ねないように様々な配慮が必要だった。今回の譲歩もその一環というわけだ。
「ということで、受けてくれるな?」
「……わかりました」
そういうことなら、と具房も納得した。しかし、問題もある。具房が源氏長者になれるのか、という根本的な問題だ。
「その辺りは問題ない。既に動いている」
義昭は京から追放された。将軍職や位階は保ったままだが、畿内においてその権威はもはや通用しない。さらに具房を信長と共に新たな畿内の統治者とするべく、従三位権大納言に栄進することが内定しているという。これで官位の面でも義昭と並んだ。源氏長者となる条件ーー源氏のなかで最も高い官位にあることーーを満たしている。
さらに朝廷を蔑ろにしていた義昭より、勤皇の志の篤い具房の方がいい、と主上も納得しているという。村上源氏はもちろん大歓迎。他の源氏も容認姿勢らしい。懸案は公家社会の最大勢力である藤原氏だが、そこはさるやんごとなき方が動いてくれそうだという。
「その方とは?」
「それはーーいや、織田殿(信長)から聞くといい」
そう言って肝心なところは省かれてしまう。その日は夜も遅いということで就寝となったのだが、具房は『やんごとなき方』が気になってあまり眠れなかった。
数日後。信長から奇妙丸の元服を行うと言われ、具房は織田屋敷に向かう。そこで烏帽子親として、奇妙丸に烏帽子を被せた。そして、
「そなたには房の字を与える。これからは『房信』だ」
「ありがとうございます」
史実で信忠と名乗るはずだった奇妙丸は、この世界では房信となった。正直、語呂が悪い。しかし、これしかなかったのだ。
織田家の通字である「信」を使うのは絶対。あと一文字は偏諱を与えるので具房に由来する字を与えることになる。北畠家の通字である「具」を使うわけにはいかないので、ここは「房」一択だ。幼名から与えるという手もあるが、具房のそれで使えるのは「鶴」と「松」で、どちらも「信」とは合わない。
そこで「信」「房」を組み合わせることにしたわけだが、次に浮上した問題がどちらを先にするかということだった。普通は偏諱を与える側が先になるので「房信」になる。しかし、領土的な力関係では織田家の方が上だ。これに鑑みて遠慮すれば「信房」となる。
悩みに悩んだ末、具房は前者を選択した。今後は信長が天下人となるわけだが、現時点では両者の関係は協力者(同盟者)である。変に阿る必要はないと判断した。
夜は房信の元服を祝して宴会が開かれた。そこには当然、織田家の主だった家臣が集まっている。ただし、加賀で一向宗と戦っている柴田勝家は欠席していた。
信長、房信父子は出席者への対応で忙しそうにしている。そんな二人を見守りつつ、具房は料理に舌鼓を打っていた。彼の席次は信長たちの次であり、かなり高い。信長の妹婿であり、何より重要な同盟者だ。その待遇は当然といえる。そして、横には同じく信長の妹婿である浅井長政もいた。
現在、浅井家は改革の真っ最中である。その軸が北畠流の領地経営であり、この機会にノウハウを仕入れようとする長政から質問攻めに遭っていた。
「ーーというわけで、国人領主を介さない統治は、民意を無視することになりかねない危険性を孕んでいます。なので村落の代表者を集める場を設けて意見を聞き、施策に反映することが重要です」
「たしかに、民の協力なくして政はできませんからね。これまでは国人たちが担っていた役割を、我々がやらなければならないのですか」
盲点だった、と長政。民衆の支持がなければ成り立たないのが北畠流の領地経営だ。税は元より、兵役をも領民に対して義務化するのだから。正当な理由のみならず、それを受け入れてもらうだけの下地が必要だ。その下地が民衆の支持なのである。
「楽しそうだな」
「あ、義兄殿」
「楽しませていただいています」
ひと段落したらしい信長が二人のところへやってきた。房信はいいのかと思ったが、今は少し席を外しているらしい。
「羽目を外しすぎぬよう、監視せねば」
北畠屋敷で開かれた宴会で、房信は見事に酔い潰れた。いわば前科持ちである。晴れの舞台でそんなことにならないよう、信長は彼を見張るつもりらしい。
「そうだ。太郎殿(具房)。この後、少し話がしたいのだが、これが終わったら部屋に来てもらえないか?」
「わかりました」
具房も信長も、酒はほとんど飲まない。だから二人はこうした宴会の後に会談することも多かった。大体の人間が酔い潰れているので、邪魔が入らないのだ。
その後すぐに信長は宴会の中心に戻っていった。今は秀吉が隠し芸を披露し、諸将の笑いを誘っている。外様ながらも着実に功績を挙げ、出世街道を驀進している秀吉。国持になる日も近いと噂されている。だが、その分あまりよく思われておらず、こうして道化を演じているのだ。
(食えない奴だ)
具房はそんな秀吉を醒めた目で見ていた。普通に接するだけなら人当たりもよく、好感が持てる。しかし、具房は史実における彼を知っていた。甥・秀次の家族を皆殺しにするなど、本性はかなり悪どい。だから完全には心を許せなかった。
宴がお開きになると、参加者は二つのグループに分かれた。シャキッとして自分の足で帰る者と、家臣に連れられて帰る者だ。具房はそんな光景を見ながら、ゼミの合宿で酔い潰れた奴を介抱したなぁ、と前世を懐かしんでいた。そこへ信長がやってきて、会談に入る。
「実は、勘九郎(房信)の室に雪殿を迎えたいのだ」
改まった態度で信長が要請したのは婚姻の打診だった。曰く、房信の正室は武田信玄の娘に決まっていた。ところが同盟が反故になって敵対関係に陥ったため、婚姻など結べるはずがない。そこで代わりに具房の妹を正室にしようと考えたのだという。
「事情はわかりましたが、なぜ雪を?」
「以前会ったとき、とても聡明な娘だった。勘九郎にはこれから色々と苦労をかけるだろう。そのとき、しっかりした者が室となってくれていれば家は安泰だ」
「なるほど。わかりました。本人に話してみます」
具房としては、本人の意思を無視して婚姻を結ぶようなことはしたくない。雪からは以前、婚姻の相手は具房の利益になる相手なら誰でもいいと言われていたが、確認は必要だ。そのため、話は一旦保留とする。
「わかりました」
話を聞いた雪は承諾した。北畠家にとって織田家は重要な同盟相手。その嫡男の妻になるのだから責務は重い。下手な家臣や商人の妻になるよりはいい待遇だ。とはいえ、思うところはあるらしく快諾とはいかない。だが、割り切ってもらうしかなかった。
具房は信長に提案を受ける旨の返事をした。ただし、実際に輿入れするのは一年後とする。これは雪が今年で十五歳ーー子どもを産むには早すぎるからだ。信長には、諸々の準備があると伝えた。女性の地位が低いこの時代、彼女たちの一番の仕事は子どもを産むこと。死ぬ危険があっても産ませるのが普通である。具房は身内にそんな危険を冒させるつもりはなかった。
こうして雪は婚姻の準備に入る。彼女を慮り、具房は時間があればなるべく共に過ごすようにした。一度嫁ぐと滅多に顔を合わせることはなくなる。京に住むならともかく、房信の拠点は岐阜であるから尚更だ。
しかし、具房も暇ではない。久我家のご令嬢を迎える準備をしなければならないからだ。いくら側室とはいえ、清華家の家格を持つ公家の出身である。この婚姻自体が異例であるため、婚礼も異例の体裁ーー正室を迎えるかのような様式ーーがとられていた。
「よろしくお願いいたしますわ、あなた様」
「こちらこそよろしく」
久我家のご令嬢ーー敦子と対面する。彼女は永禄三年(1560年)生まれで、まだ十三歳と幼い。だが、これまで会ってきたどの女性よりも優雅だった。やはり本物のお嬢様は違うな、と具房。そして同時に安心していた。なにせ、本家のお嬢様である。見下されることも覚悟していた。だが、今のところそんなことはない。演技しているだけかもしれないが。
(それは慎重に見極めよう)
いずれにせよ、機嫌を損ねれば面倒な相手であることは間違いない。とはいえ、はっきりさせておくべきことはある。それは奥の序列だ。家格はともかく、あくまでもお市がトップだと。
それを聞いた敦子はころころと笑う。
「ご心配には及びませんわ。わたくしも弁えております」
彼女は自分の立場を理解していると言った。確かに家格ではお市は無論、具房よりも高い。しかしながら、名誉で飯は食えないのである。実際の力は北畠家や織田家の方が上であり、畿内の平穏は彼らによってもたらされているといっても過言ではない。そんな相手に楯突くほど愚かではなかった。
「むしろ、今はわたくしがあなた様に庇護を請わなければなりません。何でもいたします。ですから捨てないでくださいまし」
敦子はかなり悲壮な決意を固めていた。これは具房の認識不足である。今は家格よりも実力がものをいう時代だ。摂関家の娘が下克上を果たした血筋の怪しい大名に嫁ぐようなご時世であり、敦子の発言は不思議なものではない。もっとも、『何でもいたします』ーーその含意はどんなに非道なことをされてもお家のために我慢するということであり、ここまで振り切れているのもそれはそれで珍しいのだが。これには具房も苦笑するばかりだ。
「そんな寂しいことを言わないでくれ。事情はともかく、夫婦になったんだ。こんなおじさんだが、よろしく頼む」
具房は自分で言っていて悲しくなった。今年で二六。前世であれば「若者」であるが、人間五十年といわれるこの時代においては人生の折り返し地点を過ぎた立派な「中年」なのだ。
だが、敦子は首を振る。
「人格者として名高いあなた様の妻になれるのです。こんなに誇らしいことはありません」
善政を敷き、また優れた文物を生み出していることから具房の評判はいい。「名君」や「人格者」とも呼ばれていた。どうやら敦子はその評判を知っていたらしい。先ほどの『何でもいたします』発言は、世間の評判が本当か否かを確かめる狙いがあったようだ。
「悪い奴め」
「ふふっ。悪巧みはお任せください」
具房の恨み節に、敦子は黒い笑みを浮かべる。名門貴族のお嬢様は品格こそ備わっているが、お腹のなかはとても黒いようだ。