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北畠生存戦略  作者: 親交の日
第六章
75/226

槙島城の戦い

 



 ーーーーーー




 時系列は少し遡る。


 元亀四年(1573年)三月。北畠、織田、徳川連合軍が武田軍と睨み合いを続けているとき、畿内でも大きな動きがあった。前年、蜂起に失敗した足利義昭が再び挙兵したのである。


「北からは一向宗、西からは三好、そして東から武田が迫っておる。織田もこれまでよ!」


 三方向から攻め立てられている織田家の状況を見て、義昭は挙兵を決意した。前回の反省に鑑みて、二条城は防備が薄いとして家臣の三淵藤英に任せる。そして自身は槙島城に籠もった。ここで籠城し、いずれかの反信長勢力が京へ到達するのを待つ作戦である。本命は勿論、武田だ。


 しかし、情報の伝達が遅く、諜報に熱心ではない義昭は知らない。頼りにしている武田軍は、ガチガチに守りを固めた徳川領を通過できていないことを。


 北陸方面では小少将の暗躍によって混乱が生じたものの、今は収束している。後方が安定したため、一向宗を越前から駆逐。逆に加賀へと侵攻していた。


 摂津方面では緒戦で織田軍は敗れたものの、決定的な敗北ではなかった。その上、一向宗は石山から出られていない。各地でゲリラ的な蜂起が発生していたが規模は小さく、早々に鎮圧されていた。三好軍もまったく進めておらず、義昭の蜂起は見切り発車といえる。


 そして、このことは信長も織り込み済みであった。遠江方面が安定していたこともあり、東美濃(岩村城)を牽制していた奇妙丸麾下の尾張衆、美濃衆をも動員。総勢七万の軍勢を揃え、二条城を包囲する。


「降伏いたします」


 二条城を守備していた兵は千程度。とても敵わない、と藤英は降伏した。信長は色々と柵もあったのだろう、と言って彼らを許す。ただし、反抗されないよう信長の家臣に組み込み、義昭との縁を切らせた。


「次は槙島城だ!」


 信長は軍勢を槙島城へと向ける。城の眼前には宇治川が流れており、天然の水堀となっていた。渡河にあたっては当然、抵抗が予想される。信長は五ヶ庄の柳山に至り、渡河の方法に悩んでいた。そこへ長岡藤孝がやってきて、作戦を提案する。


「殿。ここは源平合戦における宇治川の戦いに倣い、軍を二手に分けるのはいかがでしょう?」


「寡兵で待ち構える公方(義昭)が木曽(義仲)軍で、渡河する我らが鎌倉(源頼朝)軍か。……面白い」


 意地の悪い笑みを浮かべる信長。清和源氏嫡流の義昭が、敗死した義仲の立場に回るというのは、何とも皮肉な話である。そして信長はこういうのが嫌いではない。


 かくして作戦が決まった。信長が本隊を、佐久間信盛が別働隊をそれぞれ率いて渡河を敢行する。宇治川は城を除けば最終防衛ラインであり、戦力をすべて注ぎ込んででも渡河を阻止するのがセオリー。ゆえに織田軍の諸将は激烈な抵抗を予測していた。ところが、蓋を開けてみると抵抗もなく、あっさりと渡河に成功してしまう。狐につままれたような心境だった。


「誘われているのか?」


 信長は、義昭に起死回生の秘策があり、宇治川の渡河を許したのもその一環なのではないかと疑う。まず想像されたのが、韓信が行った戦術として有名な嚢沙之計である。休憩がてら、信長は付近の住人に川の水量の変化を訊ねさせた。


「水量ですか? いつも通りですけどね」


 そんな答えを得たが、信長は安心できない。他の住人にも聞き込みをさせるとともに、上流へ人を遣って堰の有無を確認させた。


「水量の異常を訴える者はいません」


「上流に堰のようなものは見当たりません」


 証拠を積み重ね、信長は罠がないことを確認する。しかし、それが義昭の策略自体がないことの証明にはならない。慎重に行軍するよう、信長は何度も言い聞かせた。


「殿! 門が開きます!」


 城に近づいたとき、槙島城の門が開いて数百の兵が向かってきた。信長は再び罠を警戒しつつ、佐久間信盛に迎撃を命じる。


「引け! 深追いするな!」


 数の差もあり、織田軍は城兵を容易く撃破した。城へ逃げ込む敵を追いかけたが、罠を警戒した信長は追撃を中断させる。


「城を陥落させる好機だったのに……」


「いや、殿の仰る通り罠かもしれません」


 諸将も意見が割れていた。しかし大勢は揺るがないからいいではないか、という話になる。城兵を追って雪崩れ込んでいたら、城は落とせたかもしれない。だが、罠があれば大損害を被る可能性があった。逼迫した事情もないし、無理に攻める必要はないということだ。


 織田軍は槙島城を包囲すると、周辺を徹底的に探索させた。その間に大砲を据えるなど、攻城戦の準備を進めていく。


 ところで、信長が警戒する罠はあったのだろうか。答えは、そんなものは存在しない、であった。宇治川を守らなかったのは、単に兵士がいなかったからだ。二条城がスピード陥落したために足利軍の士気が崩壊。城兵の多くが逃亡していた。城にいるのはほんの五百ほど。これで七万の大軍を退けるだけの力は義昭にはなかった。


 そんなわけで、信長が周囲を徹底的に探索したところで何も見つけられなかった。何もないのだから当然だ。


「城攻めを行う。ただし、警戒は緩めるな」


 相変わらず罠を警戒しつつ、信長は攻撃の命令を出す。今回は、北畠軍が得意とする大砲を活用した攻城戦が行われた。防御施設を砲撃で破壊しながら進む、という荒業である。


 軍の質、量ともに劣る足利軍はろくな抵抗もままならず、わずか一日で本丸以外を陥落させられた。


「ぐぬぬ。織田め……。武田は!? 武田は何をしておるのだ! 公方たる余がこのような目に遭っているのだぞ!」


 義昭は自らの敗北を信玄以下の反信長勢力の責任にした。最大の敗因はろくに情報を集めず、こうなるだろうという希望的観測に基づいて行動したことにあるのだが、それを言う人材(長岡藤孝など)は既にこの場にはいない。


 それから義昭は延々と恨み言を口にしていたが、城に火をかけられると途端に弱気になる。信長から降伏勧告がなされると、将軍である自分に危害を加えることはないだろう、とあっさり降伏した。


「公方様は降伏すると仰せです」


「であるか」


 報告に信長は鷹揚に頷くが、内心では怒り心頭だった。


(降伏するなら兵を挙げるな!)


 数万の兵を動員するだけで多額の費用がかかる。遊び感覚で蜂起されたのでは堪らなかった。しかも、一度ならず二度までも。こうなれば、両者の関係が良好でないことは誰の目にも明らか。信長は獅子身中の虫を飼うつもりはないため、義昭との協調路線を放棄することとした。


「ご子息はお預かりいたす。公方様は早々に京を立ち去られよ」


 子を人質とした上で義昭を京から追放するーー信長はそう告げた。


「なっ!?」


「サル(羽柴秀吉)! 堺までお連れしろ」


「ははっ!」


 義昭は自分が追放されるとは思っておらず、驚いた。考え直すように言ったが、もはや愛想は尽きている信長の考えは変わらない。秀吉の護衛を受け、義昭は堺まで連れて行かれる。その先はご自由にーー目の前は海なので、そこを渡って四国なり何なりに行けということだった。


「おのれ。今に見ておれ」


 復讐に燃える義昭は紀伊へと向かった。そこには兄・義輝に仕えていたかつての甲斐守護・武田信虎がいる。子・信玄の上洛に合わせて蜂起するようにと説得するつもりだった。しかし、


「お断りいたす」


 信虎は考えることもなく断った。なぜだと訊ねる義昭に、信虎はピシャリと言い放つ。


「いくら公方様のお願いとはいえ、日本に和をもたらさんと奮闘する方々(具房や信長)の努力を無にするような行いは承服しかねる」


 と。信虎はかつて、甲斐守護として領国を安定させるために奮闘した。そのとき、親族や国人衆に散々足を引っ張られている。今の具房が当時の信虎に、義昭が親族や国人衆に重なって見えていた。そのため義昭の要請を拒絶したのだ。


(光源院様(足利義輝)は和を成そうとする側だから喜んでお仕えした。だが、これ(義昭)は公方としてあまりに不適格)


 その考えの下、信虎は義昭を適当にあしらう。義昭は信濃守護職などをエサに翻意を促すが、信虎の意思は変わらない。取りつく島もない様子に説得を諦めた。


「兄上に仕えていたから取り立ててやろうと思ったが、所詮は東国の田舎者よ。この不忠者めが」


 具房が聞いたら、いやいやお前(足利氏)も関東出身だろうが、と突っ込んだだろう。復讐に燃える余り、まともな判断が出来なくなっているらしい。復讐といってはいるが、実際は単なる逆恨みだ。


 信虎に対する文句を吐きながら、義昭は別の人物の許を訪れた。その人物とは、戦国でも一、二を争う謀将・松永久秀である。彼はかつて、義昭の誘いに乗って信長に反旗を翻した。その際、具房に敗れて所領は没収されていたため、優先順位は信虎より低かった。しかし、その知謀は是非とも味方にしたいところ。過去に裏切っていることもあり、ほぼ確実に成功するーー義昭はそう思っていた。だが、


「お断りします」


 久秀もまた、義昭の誘いを断った。天下人の側近を務めたり、裏切りを繰り返す悪人になってみたり。松永久秀は何らかの手段で人生を楽しんでいた。そんな彼は今、満たされている。義昭の誘いに乗って反乱を起こし、具房に敗れた。そのとき久秀は、新たな楽しみを見つけていたのだ。


 新たな時代の築城。


 それこそが久秀が見出した楽しみである。彼は自他共に認める築城の名手であった。蓄積した技術の集大成ともいえるのが、大和国主時代に居城としていた信貴山城である。十万の大軍を相手にしても抗える! そんな自信を持っていたが、具房によってわずか一日で陥落寸前まで追い込まれた。


 原因は北畠軍が潤沢に装備する火砲にあった。それを知ったとき、久秀は己の築城技術は時代遅れなのだと気づく。だが同時に、それを会得したいという欲望ーー楽しみが湧いた。具房に仕えるようになってから、和歌山城の築城の他、無数の仕事が割り振られている。老体の久秀にはキツいものもあったが、それでも楽しみのために奮闘していた。


 ここで義昭に味方するということは、その楽しみが奪われてしまうということに他ならない。それは受け入れられなかった。


 かくして義昭は支持者の獲得に失敗し、堺へすごすごと引き返す。だが、かつては自由都市とまで呼ばれた堺も、今や信長の息がかかった土地である。居心地はかなり悪く、肩身の狭い思いをしていた。


 しかし、そんな彼に救いの手が差し伸べられる。その主は西国の大々名・毛利家だった。従来、織田家と毛利家は備前や播磨をめぐる戦いのなかで協調関係にあった。だが、戦線が西(播磨方面)へと向かうにつれて、徐々に織田家との対立が見えている。今後、織田家と国境を接すれば、一転して対立関係となることが予想される。織田家に対抗するため、義昭の将軍権威を利用しようと毛利家は画策したのだ。


 説得に訪れたのは、毛利家の外交僧・安国寺恵瓊である。


「公方様にはどうか、鞆へと動座していただきたく」


「鞆か。かつては等持院様(足利尊氏)が光厳帝より新田氏追討の命を受けた地であるな」


「はい。土地柄も大変よろしい場所にございます」


「結構。では参るとするか」


 こうして義昭は毛利家の庇護を得て、鞆に活動拠点を置くこととなった。







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― 新着の感想 ―
[一言] 義昭はまだ懲りないようで・・・。 今度は毛利に頼る気みたいだが、どうなることやら・・・。
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