信玄の死
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冬が訪れた。戦国時代は現代日本より気温が低くなっている。小氷河期、小氷期などと呼称されることも多い。理由は太陽の活動が低迷したこと、世界中で火山が大噴火したことなど色々ある。
人間にとって暑さも敵だが、寒さもそれに負けず劣らず危険だ。特にこの時代は満足な栄養も摂れずに病気となり、衰弱死する危険が十分にあった。しかし、この時期は戦が頻発する時期でもある。秋の収穫が不足していると、それを補うために他所から奪ってくるのだ。戦は領国拡大だけでなく、維持という側面もあるのである。
とはいえ、北畠軍は他よりもその辺りの事情はマシだ。それは浜名湖北岸の北畠軍の陣地を訪れた徳川信康も実感した。魚介を中心にした贈り物を届けにきた彼は、昼食を共にすることとなる。父(家康)から北畠家の料理は絶品だと聞かされていたので、どんな豪勢な料理が出されるのかと期待していた。ところが、
「何ですか、これは?」
思わずそんな疑問が出る。イメージと現実が激しく乖離していたからだ。出されたのはジョッキサイズの器(持ち手なし)ひとつだけ。それと紙袋に入った箸だ。信康はこれが何なのかーーそれこそ食べ物なのかすら判然としなかった。
そんな疑念を浮かべる信康に対して、具房はウキウキしていた。何せこれはアレである。大学生のとき、忙しくて料理する暇がないとお世話になったもの。簡単に作れて、ストックもできる優れものだ。
「……そろそろかな」
「頃合いだな」
具房が手許にある砂時計を見る。これは約五分が計れる代物で、砂はその九割ほどが落ちていた。具房と猪三はそれを見て器の蓋を開ける。
ふわっ
蓋を開けた途端、器に封じられていた香りが辺りに広がる。そして器のなかには、狐色の汁と黒っぽい麺があった。
「いい香りですね」
「"つゆ"のいい香りがするな」
「梅雨? 今は冬ですよ」
「季節の梅雨じゃない。わたしたちは、カツオ出汁とかえし(味醂、醤油砂糖)を合わせたものを"つゆ"と呼んでいる」
「それは失礼しました」
別にいい、と具房は手を振る。信康の疑問その一は解けたものの、他は解決していない。
「ところで、これは何なのですか?」
「まあ焦らず、まずは食べてみてくれ」
具房はそう促した。信康は不承不承ながら蓋を開け、箸で器の中身を食べてみる。麺は饂飩のようだが、それよりも色が黒い。
(美味い……)
心のなかで味を絶賛する。寒いこの時期に、この温かさはとてもありがたい。
「何かわかったか?」
「いえ」
信康は首を振る。まあ隠すことでもない、と具房は答えを教えた。
「それはーー蕎麦だよ」
「蕎麦!?」
驚く信康。この時代、蕎麦は麺にされることはない。今日でいうところの蕎麦掻きや、お粥にして食べるのが常識だ。しかも、庶民の食べる雑穀であり、まかり間違っても名族である北畠家の当主が食べる代物ではない。
しかし、この蕎麦は蕎麦とは思えないほど美味い。材料はともかくとして、味だけなら上流階級の人間が食べるのに相応しいものだ。信康は混乱する。
「これが蕎麦……」
「三郎殿(信康)。蕎麦で驚いていてはいけない。これはどうやって作るのかわかるか?」
具房が訊ねると、わからないと答えた。信康は器を渡されて五分待つように言われただけである。どうやって作られたのかはさっぱりだ。
「麺と"つゆ"(原液)を器に入れ、お湯を注いで蓋をし、五分待てば完成する」
具房が説明したように、作り方はとってもシンプル。そしてこれは事実上のカップ麺であった。麺は茹でてある蕎麦を油で揚げて。つゆは煮詰めて原液に。それを一人前ずつ竹筒に入れておく。うどんも似たような仕組みでカップ麺化に成功している。なお、お湯で希釈したときに分量を間違うと味が狂うのはご愛敬。
何より具房が言いたかったのは、調理を必要とせずにまともな食事を作れることだ。多少は保存も利く上、軽く嵩張らない。籠城戦に使えるのはもちろん、行軍するときでも輸送が楽という利点がある。最悪の場合、お湯を使わなくてもそのまま食べることだってできる。しかも高カロリー。なかなかの優れものである。
説明を受けた信康は、画期的な食品であることに気づく。味も悪くないので、兵士たちも喜ぶだろうと。足軽は武器食料は自弁が基本であるため、戦時中の温かい食事は夢のような話であった。しかし、北畠軍はそれが当然。そのありがたみは、冬場でこそ感じられる。
「美味いなあ」
「温まる……」
「ありがたい」
兵士たちはそれぞれカップを片手にその温もりを感じていた。
「……ところで、中納言様(具房)」
「どうした?」
「見慣れないお召し物ですが、それは?」
「ああ、外套のことか」
「外套、というのですか?」
「そうだ。冬場は暖かいぞ」
具房がーーというか、北畠軍の全将兵が身につけているのはトレンチコートである。素材は革。普通はウールやギャバジン(防水加工された綿)が使われるのだが、羊はいないし綿はそれほど余裕はない。結果、余りまくっている皮革を使うこととなった。毛皮も使われ、防寒性能は高い。
「三郎殿もひとつどうですか?」
「いただけるのですか?」
「三河守殿(家康)の分も進呈しましょう」
甲冑の上から着られるよう、大きく作られている。この時代の人間はそれほど体格がよくないので、特大サイズというわけではない。ただ、トレンチコートとはいっているが、ベルトで締めるのではなくボタンで留めるタイプで、正確にはブリティッシュウォーマーに近い。
また、甲冑を着ない通常のトレンチコートも試作したのだが、和服の袖が邪魔で不便だった。なので現在は、学生の防寒具として細々と生産されている。
「これはなかなか……」
信康は早速、トレンチコートを着てみる。風が遮断されて、着ているとどんどん温かくなっていく。多少の寒さは気にならない。
信康は革製の手袋もついでにプレゼントされる。使用感を確かめるため、具房と共に浜名湖の南岸に向かった。そこにも北畠軍(一個大隊)が駐屯している。こちらは防御陣地というより、物資集積地となっていた。海路を使い、伊勢から物資をピストン輸送。浜名湖南岸に陸揚げされた物資は集積され、必要に応じて船(伊勢から輸送した部品を組み立てて建造した)で北岸へと運んでいる。
(これ、金にすると幾らになるんだ?)
武器弾薬、食糧が文字通り「山」となっている。計算するのは面倒だし、やったらやったで絶望的な彼我の力の差を感じるであろうから、信康は訊ねなかった。
家康の許に帰ると、早速トレンチコートを渡す。彼もその温かさを気に入った。
「奇怪な服だが、温かいな」
「中納言様の軍は、兵士に至るまで外套を身につけておりました」
「我らも導入するか?」
「それがよろしいかと。兵が戦で死ぬのではなく、凍え死ぬのはただの無駄でございます」
家康がトレンチコートの購入を仄めかすと、側に控えていた本多正信が猛プッシュした。彼は徳川家の実情に配慮しつつ、家中を北畠式に改めようと考えている。何かにつけて北畠を贔屓することで有名になっていた。
「兵に配るのはいかんぞ。逃げられる」
徳川軍は兵農分離が進んでおらず、未だに農民兵が多くいた。彼らにトレンチコートを支給するのは財政的に難しく、持ち逃げされる危険もある。なので、正信の献策には反対意見も多かった。結局、トレンチコートは家臣たちの分だけ調達することになる。
「不満か、弥八郎(正信)?」
「い、いえ。そんなことは……」
「はっはっは。不満だと顔に書いておるぞ」
正信は否定したが、家康にはバレていた。とはいえ、家康はそれで彼を罰しようとしているわけではない。どちらかというと、彼を擁護するような話だった。
「三河では無理かもしれんが、東遠江や駿河でなら中納言様と同じことができるだろう」
家康は、そのときに辣腕を振るってくれ、とフォローした。正信もたしかにそうだ、と気持ちを新たにする。
「しかし……」
正信の様子を見て頷いた家康は、ふと外を見る。目で見ることはできないが、視線は武田軍がいる方向に向いていた。
「どうされましたか?」
「いや何、武田が可哀想だと思っただけだ」
家康も北畠軍の陣容は見ている。驚嘆すべきは鉄砲の装備数と弾薬。無策で突っ込めば、多数の犠牲が出ることは確実だ。しかも、まだ余力があるのだから羨ましい話である。
さらに信康がもたらした報告。末端の兵まで温かい食事をし、防寒具が支給されているという。徳川軍にそんな体制が整っているはずないのだが、武田軍も似たり寄ったりである。おこぼれを貰える徳川軍に対し、何も貰えない武田軍。どちらがより厳しいか。それは考えるまでもないことだった。
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同時期の武田軍の陣地。その環境は北畠軍は元より、徳川軍と比べても劣悪だった。冬になったので、当然、気温は下がる。しかし、徳川軍のように城にいるわけでもなければ、北畠軍のように全員を収容するテントが張られているわけでもない。武将はともかく兵士たちは野ざらしで寝起きしていた。
その上、食事は雑穀入りのおにぎり程度。温かいものなど久しく口にしていない。冬の寒さもあり、兵士たちは疲弊していた。病気にかかる者も増えている。
「なんとか打開せねばな……ゴホッ、ゴホッ!」
「「「お屋形様!?」」」
「案ずるな。我にも兵の病が移ったか?」
信玄は激しく咳き込み、家臣たちが心配する。だがすぐに大丈夫だと答えた。寒さと戦陣という劣悪な環境に置かれた結果、信玄の体調は順調に悪くなっている。しかし、ここで彼が抜けることは考えられない。体調が悪かろうが戦に出なくてはならないのだ。
数的不利の武田軍は、敵を何とか野戦に引っ張り出そうと挑発行動を続けていた。しかし、効果はまったくない。挑発に乗った者はいた。しかし、具房は彼らに対して、
『こんな寒いなか戦う必要はないだろう』
と言って逸る兵士を抑えた。兵士たちも本音は戦いたくないし、殿様がそう言うのなら戦うことはしなかった。徳川軍の場合は三方ヶ原の敗戦がトラウマになっていて、武田軍に挑もうという猛者はいない。
かくして戦線は膠着した。
それを苦々しく思う人物も当然ながらいる。筆頭は勝頼であった。啄木鳥戦法は具房の「そして誰もいなくなった」作戦によって頓挫させられ、それに賛同した若手家臣たちと共に二俣城の守備(事実上の謹慎)を命じられ、つまらない後方勤務が続く。そのことへの不満が燻っていた。
「父上は慎重すぎる。攻撃しないことには始まらないではないか」
「まったくその通りですな」
「お屋形様はわかっておられない」
勝頼はシンパたちとあれやこれや、不満をぶち撒ける。信玄は謀略を使って勝てる状況を作ってから動くタイプなのに対して、勝頼は攻めるなかで打開策を見つけるタイプであった。馬が合わなくて当然といえる。
将帥としての力量はともかくとして、方針の優劣はつけ難かった。信玄のやり方は勝つ可能性が高く、負けても大敗とはならない。しかし、時間がかかるという欠点があった。勝頼のやり方はその逆で、時間がかからない反面、思わぬ罠にはまって大敗する恐れがある。その典型例が、史実の長篠合戦だ。
ともあれ、勝頼たちの間では色々と不満が溜まっていた。しかし、それを表に出すことはできない。容赦なく粛清されるからだ。家臣たちだけでなく、勝頼も例外ではない。現に、異母兄・義信は切腹させられている。逆らえばその二の舞だ。
結局、勝頼にできたのは自分が当主となったときにどう動くのかを想像することだけだった。
(父上もいい歳だ。そろそろ隠居するだろう)
老い先短いであろうから、隠居して院政を敷いたとしても、すぐに自分の時代がやってくる。ここで暴走すれば異母兄と同じ運命を辿るだけであるから、今は我慢だと自分に言い聞かせていた。
そんなときだった。勝頼のところに、本陣に来るように伝える使者がやってきたのは。
(そろそろ前線復帰か?)
許しを得られるのかと意気揚々と本陣へ向かう勝頼。そこで彼が見たのは、驚くべき光景であるとともに、期待した光景でもあった。
信玄が床に伏していたのである。
「四郎様……」
「弾正(春日昌信)。これは?」
勝頼は重臣中の重臣、春日昌信に事情を訊ねる。
「お屋形様は今朝、血を吐いて倒れられたのです」
「前々から健康が優れないご様子であったが、血を吐くとは……」
信玄の体調がよくないことは勝頼は無論、武田家の重臣なら知っていたことだ。しかし、血を吐くレベルだとは認識していなかった。
「医者。どうすればいい?」
「……甲斐へ戻り、静養されるべきです」
「それしかないか……」
全員、何となく感じていたことだ。だが現実に、はいそうですかと実行できるというわけではない。
「今……」
「「「お屋形!?」」」
横になっていた信玄が言葉を発したことで、注目が集まる。
「今、撤退したのでは敵に勘ぐられる可能性がある。ーーいや、北畠の三ッ者(忍)であれば容易く嗅ぎつけるだろう。であれば、去年のように春を待って撤退だ」
信玄は時折、咳き込みつつそう言った。
「しかし、それではお屋形様のお身体が持ちません」
「まだ大丈夫だ。それに、ここで慌てて動いたのなら武田が潰れる」
医者は反対したが、信玄の決定は春に撤退ということで変わらなかった。
「そして四郎。そなたには軍の指揮を任せる。春まで保たせるのだ」
「……承知いたしました」
勝頼は承諾した。『春まで保たせる』という言葉は積極的な攻撃は禁止、ということだと正しく理解する。事前に制限をかけられたことは不満だったが、全軍の指揮を任されるということは次期当主の何よりの象徴だ。そのメリットを考えて、受け入れた。
部隊の指揮をとった経験があるため、勝頼は軍の統率に苦慮しなかった。小競り合いすら起こらないという不気味な対陣は春先まで続く。そして前回同様、武田から和睦が持ちかけられる。ところが、ここで誤算が生じた。
「おや? 信濃守殿(信玄)はいらっしゃらないので?」
会談の場に現れた勝頼に、具房から早速、先制のパンチが飛ぶ。そう。信玄の体調はよくもなく悪くもなく、というものだったが、顔色は明らかに悪かった。会談の場に出ると怪しまれるので、出席を控えたのである。武田から出席したのは勝頼と春日昌信だ。
具房はそこを突いた。それは嫌味であると同時に、信玄が体調を崩しているのか探りを入れるという狙いもある。
これに勝頼はイラつく。言われるだろうと思っていたが、実際に言われると思った以上に腹が立つのだ。しかし、昌信から会談前に煩いくらいに注意されていたので、言いたいことを呑み込んで、事前に用意していた言い訳を口にする。
「父上は、次期当主としての経験を積むように、と言って俺に和睦を任された。だからこの場にはいない」
「なるほど。たしかに信濃守殿もいいお年だ。いつ体調を崩されてもおかしくない」
具房は薄く笑いながらうんうん、と頷く。勝頼は何とか切り抜けたと思ったが、昌信の考えは違っていた。
(この男、気がついているのか?)
彼は具房が、信玄の体調が優れないことに気づいているのではないか? と疑念を抱く。もっとも確証はないし、にわかには信じられない。なぜなら信玄の周辺には、三ッ者による厳重な監視体制が敷かれていたからだ。怪しい動きは見逃さない。しかし、具房の口ぶりは信玄の体調が悪いことに気づいているようなものだった。
(そんなまさか)
一旦、昌信はその疑念を振り払った。具房の発言は、相手の回答を額面通りに受けとらない捻くれた性格ゆえのものだということにしたのだ。
しかし、話が進むにつれて己の懸念が当たっているのではないか、と昌信は疑念を深める。去年と違い、和睦に具房たちが強硬な姿勢を崩さないからだ。
「ーーだから、現状維持で和睦だ。これの何が不満だと言うのだ!?」
勝頼は我慢の限界がきて怒鳴る。だが、具房や家康はどこ吹く風と聞き流す。そして、
「たしか、今川を攻めたときに徳川家は遠江、武田家は駿河を統治する、という条件を提示されたとか。ならば、それを履行してもらいませんとな」
「然り。我が所領を返してもらいたい」
と遠江の返還を要求する始末である。大勝したわけでもないのに、その要求はあまりにも過大であった。なおも勝頼たちが渋ると、具房はすかさず、
「このままでは時間の無駄。四郎殿ではなく、信濃守と和睦の話し合いがしたい」
と言う。そんな要求は呑めないので突っ撥ねる。するとまた遠江返還を受け入れろという話になり、拒否すれば信玄を呼べと主張する。まるで、信玄をこの場に引きずり出すために抵抗しているとしか思えなかった。結局、話はまとまらず翌日へ持ち越されることとなる。
「……よろしかったので?」
勝頼たちが退出した後、家康が具房に訊ねる。今回の作戦を起草したのは具房であった。家康は彼の言うがままに演技していたにすぎない。武田軍にトラウマを持つ身で、今も内心、冷や汗をかいていた。しかし、具房は問題ないと言う。
「信濃守が病で倒れたという情報の真偽を確かめるために探りを入れましたが、どうも事実のようですね」
「たしかに。四郎は次期当主として経験を積むと言っていたが、別に交渉を担当する必要はない。前回のように、横で聞いていればいいのに」
そう考えると、かなり無理な言い訳である。なぜそんな嘘を吐いたのかといえば、答えはひとつ。具房が言ったように、体調を崩して出てこられないからだ。
「雪解けを迎えたら上杉や佐竹(北関東連合)が動き始めます。甲斐や信濃はガラ空きになっており、兵を退かないという選択肢はない。なら、取れるだけの利益を取りましょう」
「……ですな」
家康もそれで納得したようだった。とはいえ、具房の目標は二俣城をはじめとした西遠江の明け渡しと一年の不可侵である。それ以上はタイムリミットを盾にしても武田も折れないだろうと考えた。
(覚悟を決められるより、なあなあで終わらせた方がいい)
逃げ道を完全に塞ぐと徹底抗戦され、大きな損害を受ける可能性がある。引き際は重要だ。
翌日。無理難題を提示したにもかかわらず、信玄は現れなかった。これで具房は、信玄が病で倒れたという情報が事実だと察した。
「昨日の件は西遠江でどうだろうか?」
信玄の決断があったのか、勝頼は冒頭で西遠江の割譲を申し出てきた。思ったよりすんなり話が纏まりそうで、具房は驚く。
(いや、それだけ焦っているってことか)
勝頼が具房の作戦に大敗したとはいえ、あれは非正規戦。表立った戦闘は特になく、ただ睨み合っていただけだ。それで領土を割譲すれば、領国の統治が緩む可能性がある。その危険性を甘受してでも和睦をするということは、それよりも優先すべきことがあるということだ。
「わたしに異存はないが、三河守殿はどうか?」
「某にもない」
「では、それでいこう。引き渡しは春日弾正に差配させる」
「承知した」
こうして和睦が結ばれた。翌日から春日軍を除いた武田軍が撤退を開始する。大軍の悠然とした行軍ではなく、逃げるような速さであった。
「これほど急ぐとは」
「恐らく、かなり拙いのでしょう」
具房の推測は的を射ていた。このとき、信玄は再び寝込んでしまったのである。それで慌てて撤退をしたのだが、道中の駒場(信濃国)で大量の吐血をした。ドクターストップがかけられて進軍は停止。すぐに主だった家臣が集まる。
「もう、ダメだな。身体が言うことを聞かぬ」
「そんなことございません、お屋形様。すぐによくなります!」
「気休めはよい。自分の身体のことは、自分がよくわかっておる」
元気づける家臣に、信玄は儚い笑みを見せた。それは普段の苛烈な信玄とは異なる、年相応の優しい姿であった。しかしそれも一瞬のこと。瞬きした後は、覇気の漲る「戦国武将」武田信玄に戻っていた。
「四郎。そなたは勝王丸(勝頼の嫡男)が元服するまで後見せよ。それから、自分の死は三年、誰にも悟られぬように」
「はっ」
それから信玄は重臣たちに遺言をしていく。特に重用していた山県昌景に対しては、
「源四郎(昌景)。明日は瀬田に旗を立てよ」
と上洛を諦めるなというメッセージを送っている。
「何かあれば長尾(上杉)を頼れ。あれは義士である。敵であれど、頼られれば断わらぬ」
自分の死後、困ったことがあれば上杉謙信を頼るようにと言った。あちこちで激戦を繰り広げた好敵手であったが、それゆえに一定の信頼は寄せていたようである。
「それから、安易に北畠と事を構えてはならぬ。できれば和し、叶わぬなら慎重に、必勝の構えをとれ。よいな?」
「「「はっ」」」
重臣たちを眼光鋭く見る。特に勝頼をじっと見て、軽挙は控えるよう無言の圧力をかけた。だが、それはほんの一瞬。次の瞬間には、穏やかな表情になっていた。
「これでよいか……。少し疲れた。今日は寝るとしよう」
言うべきことは言ったと信玄。その日は疲れたと眠る。しかし、彼が二度と目覚めることはなかった。