正信の葛藤
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具房は武田軍に一撃を与えた後、浜名湖の北岸に布陣した。三河方面への進撃を阻む格好だ。南岸は空いているが、道が細いため通過は現実的ではなかった。武田軍がそれでも三河を目指すならば山地を通るしかないが、こちらも数の優位が活かせない。つまり、武田軍の選択肢は撤退か、北畠軍に決戦を挑むかの二者択一に絞られたということになる。
(今回は引き上げてくれよ……)
そう念じつつ、具房は野戦築城に勤しむ。空堀を掘り、そのときに出た土を土塁に使う。さらに歩兵や騎兵の侵攻を阻むため、逆茂木も設置した。
北畠軍の様子を、武田軍は斥候を出して観察していた。驚くべきは、信玄自らが様子を見にきたことだろう。
「これでは手が出せぬな」
陣地を見た信玄は攻略を諦めた。主力武将が負傷し、兵も数的な損害はともかく、疲労が溜まっている。このまま戦いを継続すれば、思わぬ損害を被る可能性があった。
「ーーと思う」
自陣に帰った信玄は、諸将を前に撤退するという方針を示した。
「なぜです!?」
これに反対したのが武田勝頼だった。北畠軍のちっぽけな陣地など容易く突破できる! として滞陣するべきだと主張する。これに同調したのが、勝頼と緊密な関係を築いていた長坂釣閑斎(光堅)であった。しかし、信玄は頑として譲らない。
「長尾(上杉謙信)が動いたら何とする?」
「今は冬。越後からは攻められません」
「愚か者め。兵が疲れておったら勝てる戦も勝てなくなるわ」
信玄は勝頼たちの反対意見を押し切り、和睦に踏み切った。具房のところへ使者が派遣され、和睦の提案がなされる。家康のところも同様だ。
「お久しぶりです、三河守殿(家康)」
「中納言様(具房)。お元気そうで何よりです」
具房と家康は再会を喜ぶ。具房はまた佐久間信盛(信長の代理)とも挨拶をした。こちらはこんにちは、程度の簡単な挨拶だ。大名と家臣という身分差もあるし、あまり親しくないという理由もある。家康とは、通商関係でとても良好な関係にあった。徳川領の発展は、伊勢との通商なしにはあり得ない。だから具房との関係も非常に気を遣っていた。
武田家からは当主の信玄と後継者の勝頼が現れた。浜名湖の湖畔に陣幕が設けられ、そこで話し合いが行われる。
この場にいない信長からは、和睦の内容は具房と家康に一任するとの回答を得ていた。信盛は署名するだけの存在なので、交渉は主に大名三人によって行われる。出だしは当事者の家康に任せていた。彼は冒頭、
「和睦の条件としては、今回の戦が起きるより以前の状態に戻し、不可侵としたい」
と過大な条件を提示した。さすがに呑まないだろう、と具房は思っている。棚ぼたで得たものならともかく、遠江や三河の城は戦で奪いとったものだ。武田軍に有利な状況ではいそうですか、と返すはずがなかった。
「断る」
信玄は即座に断った。そして武田家側の条件を提示する。
「現状維持で、一年だ」
これまた家康からすると受け入れ難い条件が出された。しかし、ここまでは予定調和。ここから条件が詰められるのだ。
(ま、着地点は見えてるけど)
武田家から申し出てきた和睦とはいえ、現状は徳川家が圧倒的に不利。和睦が引き出せれば御の字だ。だが、それなら放っておいてもいい。具房が出てきたのは、その流れを変えるためだった。
「……このまま戦が長引くなら」
具房はポツリと漏らす。途端に視線が集中した。彼は伊勢、志摩、伊賀、大和、紀伊の五ヶ国を領有する大々名。さりげなく、この場で一番の実力者なのだ。何を言うのかと、全員が注目していた。そんななかで、具房は勿体つけるようにゆっくりと喋る。
「我らは五万の兵をこの地に派遣する用意があります」
どうしますか? と具房は信玄に問う。数の優位でごり押しするのなら、逆転してやればいいだけの話だ。五万の大軍を動員することは、東海地域に限れば不可能ではない。海路が使えるからだ。船で物資を近場まで運び、陸路での輸送は最低限に留める。これで安全かつ安定して大量の物資を運べた。
できるのか疑われれば、現状維持のまま時間を進め、本当に動員すればいい。だが、そのときは逆に武田側が不利になる。五万の大軍がいるなら、数に任せて武田軍を叩き潰せばいいからだ。今度は具房たちに交渉に応じる理由がなくなる。ゆえに、決断すべきは今だ。
「ふん! 何を言うか。ハッタリもいい加減にするのだな!」
勝頼が鼻で笑うが、具房は気にせず信玄を見る。信玄も具房を見る。戦国の英雄、武田信玄と目を合わせるという、戦国ファン垂涎のシチュエーションだった。
「ふっ。仕方あるまい」
嘘を言っているようには思えないと、信玄。和睦案を譲歩する姿勢を見せた。期間は変わらず一年。ただし三河からは手を引く、というものだった。さすがに攻め落とすのに苦労した二俣城を明け渡すつもりはないらしい。それでも根拠地である三河を取り戻せるのだから、家康にとっても悪くない条件だった。
「その条件なら」
家康も同意し、これで和睦は成立した。よかったよかった、と具房が笑っていると勝頼に睨まれた。彼はこの和睦に不服らしい。だが、提案を受けたのはあくまでも信玄だ。勘違いしないでほしい。
その後、会談はお開きになったのだが、具房は信玄に呼び止められた。
「中納言殿。少し話をしないか?」
「わかりました」
信玄と話すことができる機会はとても貴重であるから、具房は快く受けた。勝頼はまたしても反対したが、信玄は相手にしなかった。二人はひとりずつ護衛(具房は柳生宗厳、信玄は春日昌信)を連れて浜名湖の湖畔を歩く。
「父上(信虎)はご壮健か?」
「ええ。先達として色々と助けていただいています」
リップサービスという側面もないわけではないが、八割がた本心であった。信虎から学ぶべきことは多い。
「そうか。孫六(信廉)たちから聞いた話だが、儂に弟ができたそうだな」
「ああ、徳次郎のことですか」
信虎の娘(養女)を娶り、武田信隆を名乗っている徳次郎。文句を言われるかと思っていたが、信玄は意外にも何も言わなかった。ただ、少し嬉しそうに顔を綻ばせる。家族が増えるのはいいことだ、と喜んでいた。
信頼していた弟・信繁が川中島の戦いで討死してから信玄は心を病んでいた。親しい家臣(武田四天王)は各地を守備するために散っており、常に側にいるのは実弟・信廉くらいのものだ。他の家臣や一門は仲が悪いものが多く、信玄の心は荒むばかりだ。そんな彼にとって、喧嘩をしなくて済む身内、というのは貴重な存在である。信虎とは半ば義絶しているが、先代当主が身内にした人間を認めないほど狭量ではない。
「そうか。弟は徳次郎と言うのか」
うんうんと頷くと、信玄は手紙を差し出した。曰く、弟に渡してくれとのこと。一族ならば、本家の当主に季節の挨拶くらいはしろと言う。仰る通りなので、具房も必ず渡しておくと確約した。
それから特に目的もなく湖畔を歩きつつ、他愛もない話をする。具房は何が目的なのかと首を傾げる。まさか、徳次郎宛の手紙を渡すためだけに時間をとったわけではないはずだ。
具房の考えは当たっていた。不意に足を止めた信玄が振り返る。そして、家族はいいな、と呟いた後に、
「そなたも儂の息子になるか?」
と言った。丁度、婚約が破談となった娘がいるという。その名前は松。誰あろう、奇妙丸の婚約者である。つまり事実上の裏切りの催促だった。
「いやいやいや」
そんなことをすれば、具房に対しては比較的寛容な信長も黙ってはいない。全力で遠慮した。信玄も受け入れるとは思っていなかったようで、そうかと笑う。しかし、その姿は心なしか残念そうである。受け入れられるとは思っていなかったが、本気ではあったらしい。
具房を裏切らせることが信玄の目論見だった。しかし即答されたことで、すんなりと諦める。無理だと悟ったのだ。
裏切り話で少し空気が悪くなる。それを変えるために具房は何ができるかを考えた。そのとき目に入ったのが浜名湖。それを見て、ある方法を閃く。
(信虎もそうだった……。これならいける)
そう踏んで、具房は信玄に声をかけた。
「和睦が成ったことを祝って宴会にしましょう」
かくして、具房の思いつきで和睦成立を祝う宴会が開かれることになった。準備があるため、宴は二日後に行われる。兵士部門と武将部門に分かれての開催だ。数万の人間が食事をするためメニューは共通。ただ、武将部門にはスペシャルメニューが用意されていた。
「こちらをどうぞ」
出されたのは清酒の入った徳利とお猪口、そして新香が載せられた小皿。これを食べるの? と一同怪訝な表情だ。
「我らを愚弄するか!」
短気な勝頼などは怒りを露わにした。しかし具房は意に介さず、会場の側に設けられた調理スペースを見ている。
「それは野暮というものですよ、四郎殿(勝頼)」
とだけ答えた。しかし、それでは不信感を増すだけなので、スペシャルメニューの食材を明かすことにする。具房は立ち上がり、洗い場にある籠から、食材を掴んで武将たちに見せた。それは、黒くニョロニョロと動く細長い生物。
「「「ウナギ?」」」
「そうです。今回はこれを食していただきます」
浜名湖はウナギで有名だ。しかも、秋から冬にかけて美味しくなる。戦国時代ならば天然ウナギは豊富に獲れるはずだと、具房はウナギを出すことにしたのだ。
では、と具房は料理人に目配せする。それを受けて料理人は頷き、ウナギをまな板の上に載せる。ウナギは濡れてさえいれば皮膚呼吸ができるため、元気にニョロニョロと動く。料理人はエラに千枚通しを差し込み、ウナギをまな板に固定。中骨に沿って包丁を通し、見事な開き(背開き)にして見せた。
「「「おおっ!」」」
鮮やかな手並みに、武将たちは感嘆の声を上げる。その後、中骨や肝を取り除き、身を洗って血を取り除く(ウナギの血は毒になるため。加熱すれば問題はない)。そして身を串に刺し、炭火で焼いた。それを今度は蒸籠で蒸し、タレにつけて再び焼くーー相手が武士なので、関東風の調理法だ。
最初は焼いて蒸してまた焼くという手順を不思議そうに見ていた武将たち。だが、タレをつけて焼き始めるとすぐにその意味を理解する。
「何と芳しい香りだ……」
「否が応にも期待が高まる!」
タレが焼ける香りが辺りに充満し、武将たちの嗅覚を刺激した。匂いは食事にとって重要なエッセンス。鼻を摘んで食べると味がしないことからも、いかに匂いが大切かわかる。
料理人は蒲焼を鰻重にして出した。タレによって「照り」が生まれ、食欲をそそる。また、ウナギの下には白米が敷かれており、タレが染み込んでいた。これも食欲を刺激する。
「これは美味い!」
「素晴らしい!」
まず箸をつけた信玄と家康が美味いと絶賛した。ウナギの脂とタレの甘辛さが口の中を席巻する。それを受け止める白米の優しく仄かな甘み。日本人の胃袋を掴んで離さないウナギの美味しさだ。
それを見た諸将も我先にと口にし、その味に驚嘆する。ウナギは滋養があるんですよ、という具房の声は歓喜の声にかき消されて聞こえない。まあ、喜んでもらえたなら何よりだ。
「弥八郎(本多正信)、ウナギは美味いな。そなたはいつもこんな料理を食しているのか?」
「は、はい。伊勢様は料理もお上手で。本当によくしていただいております」
「そうか。よかったではないか」
はっはっは、と陽気に笑う家康。彼は正信と再び会うことができて上機嫌になっていた。三方ヶ原での敗戦は痛かったが、それはそれ。今は昔なじみと再会できた喜びに浸っているのだ。大名が料理をするという奇行も、信長で慣れているので気にならない。家康も自ら薬を調合するなど、奇行をしている。
しかし、そんな彼とは対照的に、正信は心にもやもやしたものを抱えていた。
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宴会が終わってしばらく経ったある日のこと。武田軍は甲斐へと撤退していった。
「ウナギは美味であった。この礼は必ず」
そう言って信玄は去っていく。春日昌信や真田兄弟からも別れの言葉をかけられた。誰もがあの日の宴会で仲を深めた相手である。そんな彼らと敵になるのだから、具房は少し心が痛んだ。
なお、武田勝頼からはなぜか嫌われたようで、帰り際も睨まれていた。負傷させたことが原因かな? と思ったが、真田兄弟は戦でのことだからと許してくれた。単に勝頼が狭量なだけかもしれない。
猪三や本多忠勝は、山県昌景と別れを惜しんでいる。彼らも宴会で仲良くなった。酒の飲み比べをして、互いの力を認めあったのだ。酒が強くて何になる? という突っ込みはなしである。
武田軍がいなくなった以上、具房がここにいる必要はない。その日のうちに、伊勢へ帰還すると家康に予告した。北畠軍も撤退の準備を始める。そんななかで、正信は具房の許を訪れていた。
「どうした、弥八郎?」
「殿。本日はお願いがあって参上いたしました」
正信は姿勢を正し、改まった態度で具房に声をかけた。どうした? と訊ねられると、正信は暇乞いをする。
「殿は流浪の身であった某にお声をかけてくださり、新参者に目をかけてくださいました。この御恩は忘れたことがございませぬ。しかしながら、やはり某は三河者。この度の窮状を見て、動かないということはできませぬ。ゆえに、暇乞いに参りました。恩を仇で返すようなお願いでございますが、何卒お聞き届けください」
深々と頭を下げる正信。もはや土下座状態だ。具房はそうか、と言って瞑目する。そのまましばらく時間が流れた。正信はただ返答を待つ。もし断られても出奔する気であった。しかし、話は策士である彼さえ予期しない方向に向かう。
「ーーだそうですよ、三河守殿」
具房がそう言うと、襖が開いて家康が出てきた。
「えっ?」
正信は困惑する。誰がこの場に家康がいると予測できただろうか。
実は具房、このことは予め予測していた。策士で陰湿なイメージがある正信だが、彼はなんだかんだありつつも家康の許に戻ってきて、豊臣氏が天下をとっても家康に従い続けたさりげない忠臣である。具房はもしかすると正信が帰参を願い出るかもしれない、と思って家康には会った日に話を通していた。
話を受けた家康はまさかそんな、と半信半疑。宴会の席で伊勢での暮らしを訊ねると、美食を食べたりと重用されている様子だ。経済規模からしても、伊勢の方が三河よりも格段に高い。わざわざ田舎に戻ってくるような物好きはいないだろ、と思っていた。賭けてもいい、と家康は具房と賭けをしていた。だが、結果はこの通り。
「参りました。中納言様の仰る通りでしたな」
家康は正信に向き直り、
「弥八郎。家の立て直しにはそなたの力が必要だ。帰参を嬉しく思うぞ」
と声をかけた。そして具房も、
「そういうわけで、わたしからは何も言うことはない。だが、このまま暇を出したのでは北畠家の名に傷がつく」
何かペナルティーを課されるのかと身構える正信。しかし、こんないい雰囲気をぶち壊すことを具房はしない。
「本多弥八郎。此度の援軍にあたり、円滑な行軍が行えたのはそなたの働きがあってこそである。よってこれを賞し、感状と金一封を与える」
渡したのは褒美に託けた餞別だった。感状は仕官する際に重要なもので、これの有無で待遇が変わる。今回は既に話がついているのであまり必要はないのだが、真面目に働いてきた家臣に感状も与えないのでは北畠家の家名に傷がつくために発給した。それらを与えた後、正信の職を剥いで暇を出す。
「ありがとうございます。この御恩は決して忘れませぬ」
「はて、何のことかな?」
わたしはただ暇を出しただけなのに感謝されるいわれはないぞ、とすっとぼける具房。そんな彼に対して正信、そして家康は深く頭を下げた。