三方ヶ原の戦い
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二俣城の陥落により、家康のいる浜松城と掛川、高天神城が分断された。家康が落城を知る直前に、佐久間信盛率いる援軍(第一陣)三千が到着する。
「殿(信長)のご命令により、佐久間以下三千、加勢に参った」
「援軍かたじけない」
家康は彼らを歓迎する。さらに後ろから北畠軍も来ていると知り、ますます元気になった。早速、軍議が開かれ、今後の方針を話し合われる。
そこでまず議論になったのは、武田軍の動向だった。家康としては、二俣城の救援は不可能だと考えている。そうなると最前線はここ浜松城となり、当然、そこを目指してやってくることが予想された。
「城に籠もるしかないでしょう」
「仕方ない、か……」
だが、数でも質(強さ)でも上回る武田軍に対して、とれる行動は多くない。結果、籠城という普通の結論に落ち着く。幸い、浜松城は堅城であり、二倍の兵力に囲まれても容易くは落ちない。後ろからやってくる北畠軍が後詰めとなることも期待できた。
さらに、時間は徳川家の味方である。三万近い兵力は、武田家が動員できる最大兵力。つまり、他はがら空きということだ。雪が溶ければ、越後と信濃の道が通る。そうなれば上杉軍が南下して北信濃をたちまち陥れるだろう。信玄もそれはわかっているはず。だからこそ、春には撤兵するはずだ。そこまで耐えられるかの勝負である。
籠城戦になると見越して、家康たちはその準備に勤しんだ。しかし、武田軍は予想外の動きを見せる。浜松城を包囲するかと思いきや、これを素通りして三河方面を目指して進んだのだ。当然、家康に報告が上がる。
「殿! このまま素通りさせたのでは、遠江や三河の者に示しがつきませぬ!」
「武田軍など何するものぞ!」
「どうか、どうか雪辱を晴らす機会を!」
主戦派の家臣と、何より二俣城を守りきれなかった中根正照が武田軍の追撃を進言した。
「そうだな」
家康も領国支配が揺らぐことを恐れて出陣を決断した。正照の心中を慮ったという側面もある。
「殿……」
「皆まで言うな」
微妙な表情をする家臣はそう言って抑えた。気持ちはわかるが、武田軍を素通りさせるという選択肢はない。戦術的には正しくとも、それでは周辺の国人たちが離反しかねないのだ。
決戦をすることに決めた家康は、援軍の大将である佐久間信盛の許を訪れた。そして、自ら決戦を挑むことを告げる。
「そうですか……」
「ついては加勢願いたい」
このように依頼するのは、戦うことが戦術的に間違っているからだ。浜松城に籠もり、武田軍の後方を脅かすことが戦術的な正解だ。家康の決断はそこから外れ、無用な損害を出させるものだ。援軍なんだから、と無理に付き合わせることは憚られた。だから「依頼」をして、信盛たちに最終判断を委ねたのである。
「承知いたした」
話を聞かされた信盛は驚いた様子だったが、すぐに頷いた。決戦など無謀だと思ったが、彼にも戦わなければならない理由があった。それは、織田家中の序列争いである。
信長が尾張を統一したばかりのころ、織田家の序列は、
一位 林秀貞
二位 佐久間信盛
三位 柴田勝家
というものだった。このうちトップの林秀貞は文官であり、戦は不得手。戦国時代には戦いが上手くなければならず、実質的には信盛が家臣団の頂点にあった。しかし、現在は状況が変わってきている。
まず、美濃を統一したことで有力家臣に西美濃三人衆(安藤守就、稲葉良通、氏家直元)が加わった。上洛戦からは柴田勝家も加わり、着実に功績を挙げている。そして、
丹羽長秀、滝川一益、木下秀吉、明智光秀
この面子が台頭してきたことも信盛に危機感を抱かせていた。特に長秀と勝家は一国の支配を任されている。他のライバルも、信盛とそれほど変わらない領地を与えられていた。ここにきて、彼の地位は相対的に低下していたのである。何とかしなければならない。どうやって? 彼らに負けない戦功を挙げて、信長にアピールするのだ。
そんな下心もあり、信盛は家康に加勢する。配下の平手汎秀も従った。しかし、もうひとりの武将・水野信元はあくまでも籠城を主張。彼の兵は浜松城の留守を守ることとなった。
「勝ってもそなたの手柄はないぞ」
「無論だ」
最終的には喧嘩別れのようになる。信元は武田軍を相手に野戦では絶対に勝てない、という持論を曲げなかった。
もちろん、家康も勝機がないとは思っていない。武田軍は大軍である。それは強大な戦力を発揮する一方で小回りが利かない。家康は小勢ゆえの機動力を活かし、武田軍を背後から急襲。損害を与え、反撃を受ける前に撤退するという一撃離脱戦法を考えていた。「勝つ」といっても桶狭間のような圧倒的な勝利でなくてもいい。損害の大小によって決めるのだ。
「武田に目にもの見せてくれん!」
「「「応ッ!」」」
「出陣!」
彼らが出陣したのは日が傾きかけてからだった。武田軍が浜松城を素通りしようとしている、との報告を受けたのが午前中。それから出陣の用意をしなければならず、時間が遅くなったのだ。
「武田に一撃を与える。その後は各々、撤退に入れ!」
徳川軍は三方ヶ原に差しかかった武田軍を捕捉。これに攻撃を加える。徳川軍は中央に家康、右翼に織田軍、左翼には石川数正などの重臣を配置する鶴翼の陣を敷く。数が多いように見せかけ、敵の動揺を誘う狙いだ。
突然の事態にさしもの武田軍も慌てふためくと思いきや、そのアテは外れた。情報マニアの信玄が浜松城を見張らせていないはずがない。徳川軍の動きはバッチリ掴まれ、迎撃態勢を整えていた。魚鱗の陣を敷き、中央突破ーーつまり家康を狙う。
「しまった!」
家康は背後からの奇襲が不発に終わったことに気づく。だがもう遅い。車は急に止まれない、というが、軍も急には止まらないのである。このまま突っ込むしかなかった。
しかし、徳川軍はただえさえ数が少ない上、鶴翼の陣を敷いたことで徒に戦闘正面を拡大していた。これは数が多く、魚鱗の陣を敷いて戦闘正面を絞った武田軍に対して、圧倒的に不利な状況で交戦することとなった。その結果はすぐに現れる。
「最左翼、石川(数正)隊、破られました」
「最右翼の平手(汎秀)様、討死なされました!」
家康のところには、次々と悪い知らせが舞い込んでくる。戦闘開始からそれほど経っていないにもかかわらず、その優劣は明らかだった。
「戦とは、いかに自分に有利な状況を作るかが鍵よ」
本陣で信玄は独白する。彼からすれば、有利な状況を創出するのに必要なのが情報である。だから諜報組織の整備に余念がなかった。そうすれば自ずと勝てるのである。
「殿! お逃げください!」
「このままおめおめと逃げられるか!」
家臣が家康に撤退を進言するが、応じない。もはや引くに引けない状況となっていたからだ。中根正照など徳川軍の武将が討たれており、このまま逃げたのでは面子が立たないからだ。
当初考えていた一撃離脱戦法は、魚鱗の陣を敷く武田軍にガッツリと陣形に食い込まれたことで失敗に終わっている。逃げられず、戦力を削られていく。武将が次々と討たれ部隊が潰乱していることも、これに拍車をかけていた。今は本多忠勝や榊原康政といった武将の奮戦でなんとか保っている状態だ。それもいつまで耐えられるかわからない。
「殿!」
「次郎左衛門(夏目吉信)?」
家康に声をかけたのは、浜松城にいるはずの夏目吉信だった。なぜここにいるのかと訊ねると、敗色濃厚なので救援に来たと言う。そして逃げるように諭した。しかし、やはり家康は応じない。
これに困った顔になる吉信。家臣の敵討ちをしたいという家康の気持ちはわかるが、家臣たちは彼に何とか生き残ってもらいたい。ここで討死されると困るのだ。
「「「……」」」
吉信は周りにいた家臣たちとアイコンタクトを交わす。わかってるな? と目で語りかけるともちろん、とばかりに頷く。
「ご免!」
そう言うや、吉信は家康の馬首を浜松城へと繋がる道へ向け、背を刀の峰で打った。馬は驚き、一目散に駆ける。
「何を!?」
「殿は生き延びてくだされ! ここは我らがお引き受けします!」
馬が走るままに離れていく家康。戻ろうとしたが、後ろからついてくる家臣がおり、引き返せない。結局、浜松城に落ち延びることとなった。
一方、その場に残った吉信たちは部隊を整えると、武田軍へ猛然と向かっていった。その途中、本多忠勝の部隊とすれ違う。吉信は忠勝に近寄った。
「本多殿」
「これは、夏目殿。浜松城の留守居役では? 貴殿がなぜここに?」
「殿をお助けするためだ。殿は既に落ちられた。ここは我らが引き受ける。そなたも退け」
「いや、しかしーー」
「行け」
「……承知した」
忠勝は吉信たちだけではとても支えきれないでしょう、と言いかけるが、強い口調に押し黙った。そしてひと言、お頼み申すと言って引き上げて行った。
残った吉信は目前に迫る武田軍に向かって吼える。
「我こそは徳川三河守(家康)! ここは通さぬ!」
そして、わずか三十人ほどの手勢とともに全滅するまで戦い続けた。その死体は、誰ひとりとして後ろを向いていなかった。
「見事なものよ……」
信玄は、徳川家臣の忠義に感じ入る。しかし、これは戦。情と実際の行動は違っていた。徳川軍を撃破したので、浜松城の兵力は減っている。追撃していた山県昌景に、落とせそうなら攻めろ、と命じていた。昌景は出くわす徳川兵を討ち取りながら、浜松城へと近づく。
「何だ……?」
もはや日が暮れようとする時間。昌景は浜松城の門が開け放たれ、篝火が煌々と焚かれている風景に異様なものを感じた。普通、敵が近づけば閉めておくものだ。
(空城の計か。今なら容易く奪えるはず……)
そう思ったが、道中の徳川兵の必死の抵抗を見て、連れてきている手勢では少し心許ないという結論に達した。信玄からは絶対に攻め落とせ、とはいわれていないので、ここは見逃すことにする。
その判断は正解だった。浜松城側に備えがあったわけではない。異常があったのは信玄の本隊に、であった。
「ご注進! ご注進!」
「何事か!?」
「お館様(信玄)率いる本隊が、北畠軍の急襲を受けました!」
「何だと!?」
飛び込んできた使者によって、昌景は本隊が奇襲を受けたことを知る。浜松城に構っている場合ではない、と慌てて舞い戻るのであった。
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「姉川以来、この漁夫の利が多い気がする……」
武田軍を背後から急襲した具房は指揮をとりながらそんなことを口にした。たしかに姉川の戦いや河内、和泉救援など、敵の隙を突くような戦いが多い。だが、それが悪いことなのかというと、戦争なのだから卑怯も何もなかった。勝てばいいのである。たとえ原爆を落とそうとも、勝てば問題にならないのだから。
「馬鹿な……」
一方、奇襲を受けた信玄は衝撃を受けていた。直前まで徳川軍と合戦していたため、武田軍の陣形は乱れていた。圧倒したことによる気の緩みもあった。理由はいくらか思い浮かぶ。だが、どれも奇襲を許す理由にはならなかった。
情報マニアの信玄はもちろん、周辺の情報収集を怠ってはいない。「三ツ者」を放ち、情報収集に努めていた。いつもなら、北畠軍の接近が通報されているはず。しかし、現実は通報はなかった。なぜそうなったのかがわからない。
その答えは北畠軍の進軍方法にある。信玄同様、具房も奇襲を恐れていた。そこで周囲に花部隊に所属する忍が展開している。彼らには敵情偵察と敵の斥候を抹殺するという任務が与えられており、本隊の周辺に一種の結界を張っていた。これが防諜網としての役割を果たし、武田方の忍が情報を持ち帰れなかったのだ。
当初、忍部隊として発足した花部隊は、雑賀衆の加入などによって、技能者集団と化した。その影に隠れて目立たなくなったが、忍たちはきっちり仕事をしていたのである。
こうして感づかれずに接近することができた北畠軍は完全な奇襲に成功したのだ。先鋒を務める猪三は大暴れしている。それに負けじと柳生宗厳たち柳生一門、宝蔵院胤栄なども奮戦していた。
そんな名だたるメンバーにも引けをとらない活躍を見せる若武者がひとりいた。名を可児吉長といい、胤栄の弟子である。笹の指物を背に槍を操って戦い、精強な武田兵を次々と倒していった。
「お館様を守れ!」
武田軍は押し込まれるが、真田兄弟(信綱、昌輝)の部隊がなんとか食い止める。しかしじりじりと押され、突破されるのも時間の問題だった。
「父上を助けるぞ!」
ようやく方向転換した武田勝頼隊が北畠軍に迫る。世に名高い武田の騎馬隊だ。これに具房は騎兵隊をぶつける。馬上で鉄砲を撃ちながら突撃する北畠騎兵隊に、武田軍は苦戦を強いられた。とはいえ数が違う。時間が経つにつれて武田軍が優勢になった。
「……そろそろか」
潮時と見た具房は撤退を命じた。それを受けて歩兵部隊が擲弾筒で煙幕弾を発射。煙幕を戦場一帯に展開して離脱を図る。
「逃すか!」
武田軍はこれを追った。奇襲でそれなりの被害を出したため、戦意は高い。だが、今度は徳川軍のようなワンサイドゲームにはならなかった。北畠騎兵隊による遅滞戦術にはまってしまったからだ。
彼らは馬上で射撃し、武田軍の追撃の足を鈍らせる。なかには下馬して擲弾筒を撃ち込む者もいた。こうしてじわりじわりと出血を強いられる武田軍。そのなかには当然、武将も含まれていた。武田勝頼、真田信綱、真田昌輝といった武将も銃弾を受けて負傷する。
「深追いは無用だ」
三人の後ろから追撃に参加していた春日虎綱は、そう言って追撃を打ち切った。戦果の割に被害が大きい(割に合わない)と判断したのだ。大将が負傷して多少の混乱を見せる部隊を落ち着けつつ、信玄の許へ帰還した。
「中納言(具房)、見事なり」
自軍の被害を集計しつつ、信玄は具房の用兵を褒めた。
【三方ヶ原の戦い】
参加勢力:武田、徳川(織田、北畠)
結果:武田軍の勝利
損害:武田…兵士三千。武田勝頼、真田信綱、真田昌輝ら負傷
徳川…兵士二千。中根正照、夏目吉信ら討死
織田…兵士千。平手汎秀討死
北畠…兵士五百