岐阜の宴
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村井貞勝が帰り、具房は完全に元の生活に戻った。そんななかで慶事が起こる。
蒔、懐妊。
体調が悪い蒔を診察した医者はそう告げた。
「御所様……」
「よかったな」
感極まって涙する蒔。そんな彼女を、具房はそっと抱きしめた。己の子を宿してくれた彼女を労るように。
話を聞きつけたお市たちもやってきて、夜はお祝いになった。妊婦にアルコールはNGなので、蒔は飲まない。お市も葵も飲まなかった。曰く、いつ身籠るかわからないのにお酒は飲めない、とのこと。具房が妊婦にお酒を飲ませると、子どもに悪影響が出る(と明の書物に書いてあった)と言ったところ、妻たちはお酒を飲まなくなったのだ。
(避妊できるわけでもないしな……)
コンドームやピルなど、避妊する手段はない戦国時代。いつ妊娠してもおかしくはない。その点からいえば彼女たちの選択は正しいのだが、お酒を飲めなくさせたのは申し訳ないとも思う具房だった。
知らせを受けた服部半蔵(保長)が、嫡男の正成を連れてやってきた。二人はまず、蒔を見舞う。妊娠に伴い、くノ一業務を休止した(秘書としての業務はそのまま)。
「よくやったな、蒔」
「おめでとう」
二人は蒔を褒め、祝った。彼女も微笑を浮かべて応える。しばらく話をした後、具房と二人は別室に行き、会談した。その場で、半蔵から意外な申し出があった。
「殿。某は隠居しようと思います」
「……随分と急だな」
「申し訳ありません」
「いや、責めているわけではないのだ」
とはいえ、理由を聞かせてほしいと具房。これに対して半蔵は自分が老いてきたことを理由に挙げた。
「弥太郎(服部正成)も棟梁として十分になりました。若い衆も育ってきております。老いぼれはここが引き際かと」
「そうか……」
具房は引き留めるわけにはいかないな、と半蔵の「引退」を認めることにした。しかし、「隠居」は許さない、と言った。
「それは、どういう……?」
「我らはこれから忙しくなってくる。そうなれば老いも若いも、男も女も関係なく、働いてもらうことになるからな」
半蔵には、伊勢で忍の取りまとめをやってもらう、と言った。現在、北畠家が擁する忍は系統が複雑に分かれている。
半蔵たち、具房に直接仕える伊賀者。
信虎(伊賀代官)を介して仕える伊賀者(百地丹波など)。
六角家との縁故で仕える甲賀者(鵜飼孫六など)。
具房は忍を合理的に運用するため、これらの統合を考えていた。しかし、この時代のムラ意識は凄まじいものがあり、急激な統合を進めれば反発は必至である。そこで、通婚などを通して緩やかな(自然な)統合を考えていた。
とはいえ、ある程度柔軟に運用しなければ対応できない。特に今後は信長と共同して包囲網と戦うことになる。情報は命だ。それを集める諜報部隊を運用するにあたり、具房は統括する司令部を創ることにした。そしてその司令官に半蔵を、流派別に総隊長を置くことを考えている。活動範囲の拡大から、人手不足が予想された。少しでも状況を改善するため、老若男女を問わずに何らかの形で活躍してもらう。
「承知いたしました」
ということで、服部家の当主が名乗る「半蔵」の名前は息子の正成に引き継がれることとなった。
「励めよ」
「ははっ!」
具房の激励に「新」服部半蔵(正成)は元気よく答えた。
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そんなある日。信長から書状が届いた。貞勝の学校見学についてのお礼かな? と思って手紙を読む。内容を要約すると、
『貞勝を手厚くもてなしてくれてありがとう。ところで、北畠家では「体育」なるものをやっているようだが、相撲はやらないのか?』
というものだった。紙面の割合的には前者が二割、後者が八割ほどだ。
(どれだけ好きなんだよ、相撲……)
具房は呆れてしまう。
「ごめん……」
お市も申し訳ないと思っているらしく、謝ってきた。彼女が謝ることでもないのだが。
具房はやってますよ、と返事をした。相撲は主に軍学校で行われている。格闘技に入ってはいるが、礼儀作法などの精神修養が主な目的だ。
すると、信長から合同で相撲大会を開催したいと申し出てきた。彼は相撲が大好きで、学校という公の場で相撲を取り入れている具房を相撲好きの同志だと考えたらしい。具房は慌ててルールを確認する。というのも、この時代の相撲はルールが整備されておらず、総合格闘技のように「何でもアリ」だった。突く、殴る、蹴るは当たり前。さすがにこれは……ということで、具房が現代のスポーツとしての相撲を導入。北畠領内では突っ張りを除く殴る、蹴るという行為は禁止とした。
仮に信長と大会を合同開催するとしても、ローカルルールの違いが発生して難儀してしまう。そこで具房は大会の開催に同意しつつ、共通ルールの作成に動くこととした。
「……となると岐阜に行くしかないか」
信長も京から岐阜に戻り、領国経営に注力している。尾張、美濃、南近江、和泉と広大な領土を治める信長と、伊勢、伊賀、紀伊の一部を治める具房。どちらが忙しいかはいうまでもない。日程を調整して、岐阜に向かうことになった。
「すまない。また空けることになってしまった……」
「気にしないで」
「天下のために働かれているのです。私は誇りに思います」
「気をつけて……うっ!」
妻たちが見送る。蒔は悪阻で辛そうだ。もちろん、子どもたちもいる。
「がんばってください」
宝を筆頭に、子どもたちも元気よく送り出してくれた。
「うう〜」
ただ、ひとり納得できない娘がいる。雪だ。具房がこのところ構ってくれない! とご立腹なのである。何を言っても聞かない。具房は仕方なく、彼女に提案した。
「今回は我慢してくれ。今度、父上のところ(京)へ行こう」
「…………わかった」
小旅行の提案である。女性を連れ出すことはあまり好まれないが、親と会うという目的ならば問題にされない。雪も仕方がないとわかっているのか、少し不満そうではあるが、納得してくれた。
「ありがとう。さすが首席だな」
「えへへ」
具房が褒めれば嬉しそうに笑う。そう。学校に通っていた雪は、そこを首席で卒業したのだ。首席卒業者に具房から与えられる真珠があしらわれたバッジを、彼女は宝物のように身につけていた。また、そのことを誇りに思っており、褒めてやればこうして嬉しそうにする。とりあえず雪の機嫌を直すことには成功した。
「じゃあ、行ってくる」
「「「いってらっしゃい!」」」
家族に見送られ、具房は街道を北上した。
「よく参られた!」
岐阜に到着すると信長に上機嫌で出迎えられる。彼がとても興奮していることはわかった。同好の士ができて嬉しいようだ。具房はそれほど好きというわけではないのだが。
(扱いが難しそうだなぁ……)
上機嫌な信長とは対照的に、気分が重くなる具房。相撲に対する温度差を気取らせないことはもちろんだが、話が拗れないようにしなければならないからだ。
そして予想通り、具房は神経をすり減らすことになった。ルール決めの話しあいになったのだが、具房はなるべく穏当な現代風の相撲にしようとするのに対して、信長は過激な相撲にしようとする。
「義弟殿はわかっておらんな」
と言って過激な相撲がいかに面白いかを説く信長。たしかに過激である方が面白い。しかし、死人が出ることを容認してまで面白さを求める気にはならなかった。もっとも、それを面と向かって言うことはできない。そこで情に訴える作戦に出た。
「実は大会に猪三が出たいと申しておりまして……。ですが、彼にはもうすぐ子どもが産まれるのです。上の子もまだ幼く、また娘であるため跡取りがいません。戦で命を落とすは武士の性。しかし、このような余興で命を落とすのは、あまりにも……」
「む、そうだな……」
そう言われて、信長は考え込む。幼い子どもを残して親が死んだ家は悲惨だ。それは盟友・徳川家康を見ていればわかる。
信長は具房の意見に従って、命の危険がある過激な相撲は取り止めにした。しかし、どこか不満そうだった。命がかかっていない相撲を見て、自分は楽しめるのかと。
また、具房も危惧を抱いていた。平穏な相撲を見て、信長は楽しめるのかと。彼が考えた最悪の想定は、物足りなくなった信長の気が変わってルール無用の相撲を始めることだ。
(それを止めるためには、別の楽しみを用意しないと……)
そこでふと思いつく。信長は身内に甘い。また、子どもに対しては放任気味だが、嫡男の奇妙丸は別で、とても可愛がっていた。これを利用する。
「ちびっ子相撲……」
「ん? 何だ、義弟殿?」
口からアイデアが漏れる。それを信長は聞き逃さなかった。聞かれたなら仕方がない、と具房はアイデアを話す。
「子どもに相撲をさせるのです。成長ぶりがわかるでしょう」
「ふむ。奇妙もそろそろ元服だが、その前に面通しするのもありか……。しかし、それでは手を抜く輩が出るのではないか?」
「ご懸念はもっともですが、防ぐ手立てはありますよ」
「それは?」
「神事として行うのです」
神社ではお祭りのひとつとして相撲が行われている。その多くは秋(七月)以降に行われるが、信長が相撲大会を主催して春に開催するのだ。理由は、一年の五穀豊穣を祈るとか何とか、適当にこじつける。
「しかし、神事相撲は決着をつけるわけにはいかんぞ」
信長の言う通り、神事相撲は五穀豊穣や大漁などを祈念して行われる。そのため、どちらか一方が勝つような明確な決着はつけられない。しかし、ものは考えようだ。
「決着をつけられないーーつまり、どんな取組みも必ず一勝一敗にしなければならないなら、どちらが先に勝っても問題はありません」
「あ……」
ここまで言われて、信長も気づいたようだ。そう。結果は変わらない。それがわかっているなら、人間は意外と柵を忘れられる生き物だ。大会では二回取組みをさせる。一回目は真剣勝負。二回目は、勝った側が勝ちを譲る八百長。こうして外見上は丸く収めつつ、一度目の真剣勝負を楽しむのだ。
「それでいこう!」
方針は決まった。後は詳細を詰めていくのだが、こちらはとんとん拍子で決まる。具房と信長が、それぞれ京で政治工作を行って会場を整備。三月ごろに各地から有志を募って相撲大会を開くことになった。
その夜。上機嫌な信長は岐阜で宴を開いた。前回のように即興の簡素なものではない。入念に準備された大宴会だ。美濃で獲れた山菜や川魚を中心に、豪華な料理が並ぶ。
「このような宴を開いていただき、感激です」
「約束だったからな」
「でしたら、相撲大会の折には北畠邸にご招待いたします」
「吉兵衛(村井貞勝)から聞いているぞ。料理が美味いらしいな」
「お楽しみに」
ちなみにその村井貞勝は、京で政務をとっていた。優秀な内政官である彼は、学校事業と並行して通常の政務もこなしている。わりとブラックな織田家であった。
岐阜に詰めていた家臣たちはどんちゃん騒ぎしていた。彼らの場合、気になるのは領地のことくらいで、難しい政治の話はどうでもよかった。バカ騒ぎできるのはそれが理由だ。彼らにとって宴会とはタダ酒が飲め、タダ飯が食えるイベントにすぎない。
そんな彼らを尻目に、具房と信長は大名らしく難しい政治の話をしていた。具房は敵対勢力と国境を接していない。そんな彼が話題に選んだのは松永久秀が治める大和だった。
「大和は先日、ようやく平定されたみたいです」
「筒井が意外と頑張ったな」
居城の筒井城を落とされても大和国人の支持を背景に粘り強く抵抗した筒井順慶。しかし、三好三人衆と和睦し、朝倉軍は具房によって越前へと追い返されたため、手空きになった織田軍の援軍を受けた久秀に敗れた。
これは信長にとって喜ばしい出来事だ。今は講和して戦いはないが、三好三人衆とはいずれ決着をつけなければならない。そのときに優れた武将である松永久秀が全力を出せるのは頼もしい。
だが、具房はそう考えていなかった。久秀は後世において梟雄と呼ばれている。普段は気さくなおじさんではあるのだが、いくつかの仮面を使い分けるのが戦国武将だ。油断はできない。
一方、信長は武田の動きを気にしているようだ。
「今川は北条が必死に支えているが、もはや風前の灯。そのうち滅ぶであろう。問題は、その後よ」
「武田の目が北条や上杉に向くならよし。ただ……」
「西に向かないとも限りませんね」
それが信長が危惧することだ。武田家とは良好な関係を築こうと、格別の配慮をしていた。当初は武田勝頼に娘(養女)を嫁がせて婚姻同盟を締結。その娘が死ぬと、今度は信玄の娘と嫡男・奇妙丸との婚約をまとめている。しかし、婚姻同盟は決して盤石ではない。現に武田信玄は妹が嫁いでいた諏訪家を攻め滅ぼしている。前科一犯。信長が危惧するのも無理はない。そしてこの状況判断はとても難しかった。
少し重たい話題に、二人の会話が途切れる。そのタイミングで、ひとりの青年が具房に声をかけてきた。
「お久しぶりです、義叔父上様」
「ん? おお、奇妙殿か」
それは信長の嫡男・奇妙丸だった。具房が上洛時に会ったときの信長を若くしたらこうなるのだな、と思うほど父親に似ている。前に会ったときはまだまだ子どもだったので、凄まじい成長ぶりだ。
「奇妙。お主は来年に元服じゃ。義弟殿、愚息の烏帽子親になってはくれぬか?」
「えっ?」
随分と急な話で具房は驚く。言葉は悪いが、他の息子の元服はさほど重要ではない。二つ返事で引き受けただろう。しかし、嫡男の元服となれば話は別だ。婚姻と並んで、今後の家のあり方を示す重要イベントだ。少なくとも、酒の席で話していいことではない。
だが、もしかするとこの話は以前から検討していたのかもしれない。奇妙丸は驚くより、
「是非お願いいたします!」
と乗り気だ。名君と名高い具房が烏帽子親になってくれるのは、この上ない名誉だと。そんな風に無邪気に喜ばれると具房も悪い気はせず、
「わかりました」
と答えてしまう。雰囲気に流されたのだ。やってしまった、と後悔しても後の祭り。取り消しなどできるはずもなく、具房は奇妙丸の烏帽子親となることが確定してしまった。